~'22

✿『それでもチョコレート』の続編です。

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追いつく先に追いついて

1.
 ぱんぱんと足取りは軽やかに弾む。
 今日は久しぶりのオフの日だった。前から約束していた千尋に朝いちばんに連絡が来ていて、期待に胸をふくらましたまま携帯の画面をみたら、そこにあったのは、急用の二文字。

――ごめん。昨日までに終わる予定だった脚本が終わりそうにありません。今日の午前中までには絶対、終わらす。それが終わったら、一緒に食事しよう。千尋

 二度読み込んだが文言は変わらない。ショックで肩を落とすも、言葉の端々に千尋を感じて、しゃあないと元気をだす。せっかくだから、気になっていたチョコレート専門店にでも寄ってから行こう。きっと千尋さんは疲れていると思うから一緒に食事した帰りに渡せばいい。
 ランチの時間まであと四時間半。十分すぎておつりがくる。
 そう思って、訪れたチョコレートショップで店員の女性に協力してもらい購入を決めた菓子の包みがその手にはぶらぶらさがっている。まるでバレンタインみたいな浮かれようだ。まだ春は遠いのに。
 夏を過ぎたばかりの季節が香る夕暮れの道を急ぐ。千尋が住んでいるアパートはすぐ近くだ。何度も足を運んだその場所へ向かう。きっと、原稿を終えた千尋が帰ってきているだろう。まっすぐに甘えてもいいだろうか。いや、その前に少しでもお疲れの先生になるべく休んでもらわなくては。そうだ。そのために甘いものを買ってきたのだ。
 携帯を取り出して千尋の番号をプッシュする。二、三回コール音が続き、千尋が出た。
「先生、今、先生のとこ、向かっています。お仕事は……」
「ああ、うん、終わった。待ち合わせ、駅前でいい?」
「本当ですか! じゃ、俺、行きますんで!」
「わかったよ」
「今、つきました」
「え、今!」
「はい、家の前にいます」
「あ、え、きみ、ちょっと待ってね! はい、開いた!」
 扉の内側からガチャリという音がした。
 叫びながらドアノブを掴んだ。だが、扉は開くことなく、途中で立て止まった。開いた空間に鎖が見える。
「先生、ドア!」
 千尋の手がわたわたと動き、ドアチェーンを外した。
「ちゃんとつけるようになったんですね」
 以前、千尋がドアチェーンを使っていなかったことを思い出して新崎が笑った。
「あ、うん。一応ね。それにしてもまるで不審者だね」
 千尋のひとことに新崎はショックを受けたようだった。
「え! まじすか!」
「サングラスにマスクって圧倒的に不審者」
「そ、そんなぁ」
「でも顔見られると大変なんでしょ。テレビで毎週見れる顔だから。タツミくん」
 ドラマで演じた役の名前で呼ばれて新崎は微笑んだ。コメディテイストの作品で、タツミは二枚目風の三枚目。自分で自分をハンサムだと思っているが実態はただのドジっこで空気の読めない男である。
「どうも、俺を呼んだかな、ハニー」
「わ、本当にタツミくんだ」
 新崎が役の口調で言葉を返せば無邪気に喜んでくれる。目元が細くなって皺がよる。そういう笑い方を新崎は可愛いと思う。
「で、あれ? それは?」
 千尋が新崎の手に持っていた荷物に気が付いた。
「あ、これは……千尋さんに」
「え?」
「これ、冷蔵庫に置いといてもいいですか」
 彼は包みを持ったまま室内にあがる。千尋は片付いていない部屋を見られるのが嫌で止めようと思ったが彼のほうが早かった。彼は何も言わないまま冷蔵庫へと直進し、中に持っていた包みを入れた。
「あとで召し上がってください。あ、もう、それより早くいきましょう」
 新崎は自身の左腕を指差した。そこにはシルバーの腕時計がある。
「ああ、うん」
「先生、早く。あ、ちゃんと鍵かけてくださいね」
「はいはい」

2.
 予約していたイタリアンをいただいて、満足げに街を歩く。その隣に千尋がいる。それだけで、毎日見慣れた世界が美しく鮮やかに感じられるのが不思議だ。
 けれど、そんな夢のような時間も永遠ではない。
 今日のこの後の予定は、千尋を自宅まで送ったのち、翌日の仕事のために移動が待ち受けている。タイムリミットは午後三時。それまでしか一緒にいられない。でもこの微かな時間だからこそ、大切にしたいという気持ちも出てくる。また会える時間をつくるために懸命に働きたいという気持ちも。
「千尋さん?」
 彼が道の途中で足を止めた。
「あ、いや、ちょっと気になっている場所があってね」
 彼の視線の先にあったのは――。
「え、あ、え。えええ、あ」
「どうしたの」
「いえ、あ、いえ。あの、気になるなら寄りますか?」
 彼が気になるといってるのが、今朝、立ち寄った洋菓子店だった。それなのに、千尋が嬉しそうにうなづいたのを見て、しまったという思いが膨れ上がる。
 帰宅後、あなたのお宅に俺の買ったあそこの店のチョコレート、置いてあります。なんて言えやしない。
「新しくできたでしょ。一度は訪れてみたかったんだよねぇ」
 シックな内装に驚いたように小さく声を上げた千尋に「そうですねぇ」と気の抜けた返事を返す。
「いらっしゃいませ」
 声をかけた店員がこちらを見て一瞬目を丸くした。それもそうだろう。今朝がた来た人間が再び来た、それも年上の男性を連れて――。
 けれど、何も言わずに彼女はにこにこと笑顔をたやさない。助かった。いや、なんで俺はこんな小さなことに安堵しているんだ。もう、だめだ。千尋さん。何度も心の中で彼の名前を呼ぶ新崎。
「わ、見て。新崎くん。これ、綺麗だねぇ」
 ショーケースに立ち並ぶ甘味たちのパレードにテンションのあがる千尋。
「千尋さん、もしかして甘いの、お好きなんですか」
「それりゃあ、それなりに」
 ああー、可愛い。うっすらとほほ笑む千尋の柔らかな雰囲気に癒される。先ほど原稿を一本仕上げ終えたばかりだというのに、なんだこの天使は。新崎は自分が逆に癒されてしまって、なんだかしょうもなくなってくる。
「これなんてどうだろう。なんだかおいしそうだ」
「あっ、それは……」
「新崎くん、こういうのは苦手?」
「ああ、いえ。あの……」
「このなかで、きみが一番好きなものは?」
「え、ええっと」
 千尋に問われて思わず見てしまったのは、千尋に買って行ったあのチョコレートだ。
「これ?」
「え、あ!」
 千尋は新崎の視線を鋭く追う。
「すみません。これ、ひと箱」
「はい、かしこまりました」
「かかか、買うんですか⁉」
「どうして?」
「い、い、いや……」
 始終にこにこしながら買い物を終えた千尋とその様を冷や汗だらだらで見ていた新崎は、帰路につく。
 これで帰宅したのち、彼があのチョコに気が付いたらどうなるんだ。新崎の心拍数は、千尋の部屋に近づくたびに高まっていった。

3.
「そ、それじゃあ、俺はこれで」
 千尋の住んでいるアパートの前で、新崎は足を止めた。本当はギリのギリギリまで一緒にいたかったのだが、部屋の前まで送ったら帰りたくなくなってしまう。
「そうか。それじゃあ」
 千尋は引き止めもせず、ただその手にぶら下げていた包みを新崎のほうへ差し出した。
「へ?」
「どうぞ」
「どうぞって、俺に」
「うん。なんのためのチョコだと思ったの。今夜移動するんでしょ。疲れには甘いものって相場は決まってるから」
「ちょっ……!」
 その発想からして自分とかぶっていることに、少し驚いてその次に面白くなって新崎は笑った。
「ちょっと、きみ。なにかへん?」
「へんっていうか、その……嬉しいです」
 新崎の笑顔に千尋が安堵したように胸を撫でおろした。
「やっぱりだめだね。若い子と一緒に歩けるからってちょっと張り切っちゃったけど。慣れないことはしないほうがいいかな」
「い、いや、本当に」
「それじゃ、頑張って。新崎くん」
「はい、絶対。日本一の役者になって、千尋さんを奪いとりにきます」
 まっすぐに見つめてくる青年の瞳に千尋がまぶしそうに眼を細めた。
「人気は、既にたっぷりあるみたいだけれど」
「いえ、実力派になりたいので」
 今現在自分が売れているのは、若いためだ。ルックスを売りにしていては千尋には届かない。アイドル俳優までとはいわないが、自分の支持者が若い女性中心だというのはやはり顔なのではないかと思ってしまう。
 そこを逆転したい。新崎はそう思っている。あくまで演技で魅せたい。魅せられる存在になりたい。
 それなのに何かのツボに入ったらしく、千尋は声を上げて笑った。
「な、なにか、へんですか?」
「いいや。それでいいよ、安心した。ずっと待ってるよ」
「はい!」
「それから……新崎くん、きみも待っていて」
「え?」
「きみはぼくがきみよりも先に行っているように勘違いしているみたいだけれど、ぼくがきみより先に行っているのは年齢だけだ」
「そ、そんなことは……」
「脚本家っていったて、それだけで飯食っているわけじゃないからね」
「でも、おれは」
「はいはい。わかっています。だから、きみはぼくに追いつけるように走れ。ぼくも走る。きみに追いつけるように」
 新崎は、そのとき初めて、千尋に触れたような気がした。
 ずっと距離があった。それは遠く、遠く。手を伸ばしても絶対触れることはできそうにないような。
 それが一瞬だけ、自分と千尋の存在が交差して触れた。そんな気がした。
「はい、千尋さん!」

(了)

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✿2020.09.20
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