夏の熱さをおそれているか
.Ⅲ
その日の夕方、千尋はなぜか、ぼーっとしてしまった。
緑道なんか寄らずに昔のようにF社から最寄りの駅に向かう足を止めたのは、花荻からの緊急の連絡だった。
尾張|初子《はじめこ》先生が急に倒れて入院した。そう告げられて、千尋は急いで本社に戻った。まだ花荻が編集部に残っていた。
「千尋さん!」
デスクに座っていた花荻は、駆けつけてきた千尋の顔を見て、立ち上がった。
「先生、先生が!」
「わかっています。でも、気持を切り替えて」
わかっている。そんなにすぐに切り替えできる話じゃないことくらい。でも、それでも切り替えなけば、雑誌に穴があいてしまう。
とにかく出せればいい、ただ出せばいいだけじゃない、面白いものをつっこまなくては!
ここで問題だ、と千尋は思うのだ。
この小さなギリギリ自転車操業状態の編集部に、いま現在、面白い代原はない。
仕事の隙間にどういう作品をストックしているのか確認したくて、代用原稿に使おうと編集部にある原稿を全部読んでいるからわかる。商業レベルには達しているが、ただそれだけの原稿しかない。あるとしたら過去話をぶちこむ、くらいか。でも、それでは――。
「編集長が明日、代原どうするか会議をするって」
「明日_!?_ って、うわ、先生からだ! すみません、出ます」
なんどこの展開になるんだ、と千尋は思いながら、音を出し震える機械をなだめてから、耳にあてた。そこから、松葉ゆうの気の抜けた声がした。
「ちーちゃん、やっほー」
「やっほーじゃないです、先生。進捗どうですか?」
「え、シンチョクって何それ美味しいの? スッキリしに行って来たんだけど? 相手あんま相性よくなくてそのあと馴染みのやつと三発かましてきたわ」
お盛んなことで。
「それどころじゃないですって! 原稿、どこまでできました?」
「は? 今日はやってないよーん。ずっとズッコンバッコン」
「ふざけないでください! 尾張先生落として大変なんですから、あなたまで落とされたら!」
「え? 尾張初子落ちるの? なんで?」
しまった。と思ったが遅かった。つい、口にしてしまったことをもとには戻せない。
「すみません、いまのはわすれてください。いいから、松葉先生はそのまま締切を守って」
と、慌てる千尋に冷静な松葉の声がささった。
「あれ、嘘でしょ」
「へ?」
「ちーちゃん、俺がよくぶっちぎるから、あえて早めに締切教えているよね? ね? だから、あれ、嘘。つまりまだ余裕いっぱい」
何をいっているのか。余裕なんて。
「ねえ、代原のあて、あるの? ないんでしょ。ちーちゃんが焦ってるってことはサァ」
「松葉先生、いいからあなたは早く仕事をすませてください」
「ああ、オッケー、締切には間に合わせるから、さ。で、お願いだけど、今すぐ受付に連絡いれて俺のこと通してよ」
「え?」
何を言っているのだろうか。ぎょっとして立ちすくんだ。まさか、ここ――このビルの下まで来ているのか?
「やっぱさ、ヒーローってのは、遅れてやってくるもんだよね」
慌てる千尋と反対に松葉は、始終まったりしていた。
松宮侑汰の襲来に花荻は真っ青な顔になった。
とりあえず、編集部内に松葉をいれるわけにはいかないし、自由にできる机があったほうがいいので、持ち込みや来客用に使うスペースに案内した松宮は始終その可愛い顔をニヤニヤと下卑た笑みで満たしていたが、ふたりを前に単刀直入に用件を切り出した。
「俺が二本、まんがを描く」
何を言っているのだ? 頭がいかれているに違いない、とこのときばかりは――いやもともと彼の頭はおかしいとは思っていたが、とにかく、すぽんと何かがとびだしていく勢いで、千尋も花荻も目をひんむいた。
「代原決める会議、明日の何時?」
「朝です、十時から」
花荻が答えると、けらけらと松葉が笑い出す。
「おけおけおっけー、はいはい、余裕じゃん」
「いや、あと十二時間しかないのに_!?_」
ぎょっとして止めようとする花荻に松葉がにっこりと悪魔の微笑みをむけた。そして彼は花荻にふっと息をかける。それだけで、花荻は小さく飛び跳ね、悲鳴をあげて、ぶるぶると震えだした。
「あいからず、いいチ×ポ持ってそうな顔してんなぁ、花荻くぅん」
「松葉先生、やめてください。怖がっています。……あなた、花荻に何をしたんですか?」
松葉は千尋のいうことは無視して千尋を見た。松葉は続けた。
「とりあえず最低でも十時までにネームまでしあげる。すごい面白い作品だったらきっとGOサインが出るだろうしさ」
「いや、そんなに甘くない。失敗したら、穴があきますから」
「ちーちゃん、それなら、代原の代原を用意させればいい。まあ、俺は落とさないから大丈夫。でもお尻の穴はガバガバなんだなぁこれが」
本気なのかおふざけがしたいのか、よくわからない。彼のこういうところがあまり好きではない。千尋は彼を睨みながら尋ねた。
「あなたの下半身はどうでもいいです。書く話は出来ているんですか?」
「いんやぁ? ないわー」
松葉の気の抜けた返事に、千尋より早く花荻が声を荒げた。
「ほら、できないですよ、もうそんなやつ帰して俺たちも帰りましょう、千尋さん!」
「やぁだぁ、置いていかないでぇ~」
「こいつと一緒にいると、ずっと鳥肌たってたまんないですよ、帰りましょう、千尋さん」
「わあお、作家にたいして、こいつ呼ばわりとか、超うけるー」
「うけてないで、あなたが花荻になにかしでかしたんでしょう」
「ちーちゃん、どっちの味方なのさあ!」
どっちの味方って?
「まあ、いいや」
松宮の声音が変わった。低く、よくとおる声だった。声音ではない。大きな瞳に熱がこもりだした。松葉は千尋を見た。千尋も松葉を見ていた。
「千尋、お前、いますぐ、筆をとれ」
しんとその場が静まり返った。松葉は続けた。
「いますぐにだ。あと二時間与える。やれ」
「ちょ、ちょっと、先生!?」
千尋は驚いて松葉を二度見た。しかし彼の眼は真剣に冴えていた。
「お前なら、ネタがなくても書けるだろう。やれ」
「ま、まさか、ぼくに、プロットを書けと?」
「そうだよ、誰がいるんだよ。やれ。ダサいやつ書くなよ。やれよ。もう五分すぎたぞ」
秒針の音が聞こえる。違う。これは心臓の音だ。
「な、何いってるんですか! 千尋さんはただの編集者で、プロットなんて!」
助け船をだそうとしてくれたのかもしれない。そんな花荻に松宮は一喝した。
「部外者は黙ってろ!」
花荻は小さくなった。千尋の目の前でぐるぐると事態は起きる。自分のまわりで、うずをまくように。
だが――部外者? 本当に?
そんなことはない。だって、彼だって一緒に同じ雑誌をつくりつづけているひとだ。それに花荻はこんな静かすぎる自分に対して話しかけてくれるし――カッと何か全身に電流が走ったような気がした。そして千尋も一喝した。
「彼は部外者じゃない!」
千尋が大きな声をだしたのに、花荻はぎょっとした。
「彼はメンバーだ。一緒に雑誌を作っている。部外者なんかじゃない」
むしろ悪いことをしているのは自分のほうだ。いつも、気にかけてくれて、声をかけてくれるのに。あたえられたことばに、まるでマニュアル通りにしか答えられない。気持ちをのせてかえすことができない、自分が、いる。
「ぎゃはは! ウケるぅ! 何それ、なかまぁ? うはっ、キモッ!」
まぶたを開けたとき、松宮の汚い笑い声が響き渡っていた。違うと言いたいのに、急に息が苦しくなってことばに詰まった。なんでメンバーだなんて言ったのだろう。むこうはそうとは思っていないかもしれないのに。わからない。ただ花荻が急に声をあらげた千尋をぼうぜんとまるで幽霊でもみるように眺めていた。
「ちょっと外出てきてもいいですか?」
千尋はうつむいたまま言った。
「まさかぁ、俺に逃げるなって言い続けてるあんたが逃亡するつもり?」
松葉がのほほんと答えた。そんなこと、あるわけない。千尋は「時間をください」とだけ返して、建物を出た。外は小雨が降っていた。それでも、外の空気を吸ったとたん、心臓が跳ねた。思わず走り出していた。
そう、走っている。走っているせいだ。酸素が足りないからだ。ずっと耳もとで彼の声が続いている。どうして!
――先生! 先生の書かれた『議会討論戦記』、面白かったです!
なんなんだよ、これ! いらだって地面を蹴れば、ぱしゃりと水たまりが跳ねて足が濡れる。
傘をさすまばらな人々。雨を遮るものさえ持たない千尋はただ走って、息が上がって、立ち止まった。どこに向かって走っているのか、わからない。いつもそうだ。
何がしたいのか、わからない。どうしてこうなってしまったのだろう。なんでこんなことしているのだろう。毎日仕事に行って仕事して帰って寝るだけ。そこにむりやり守谷の頼み事をねじ込んで、何が変わった? 何もない。
「違うよ」
と|誰か《・・》の声がした。ぎょっとして顔をあげる。雨に打たれて頬の肉がぎゅっと冷えた。それでも瞼をあげた。指先でおそるおそる自分の唇を探し当てる。そう、ここからさきほどの声が洩れて出してきていた。――どうして?
「千尋先生!」
ふと雨が止んだ。違う。何故か傘が咲いた。頭上に。透明な天幕が闇を透かして千尋の上に開いていた。
「何しているんですか! 風邪ひいてしまいますよ!」
ぎょっとして、振り返ろうとした。首をまわしただけで視界にあの青年の姿が入ってきた。黒い瞳が、やけに濡れていて、こちらを見下ろしていた。
「あ、えと……きみ?」
彼の名前が口元から出て来ない。それで必死になって見上げていると新崎からはあまりにも場違いなことばが返ってきた。
「千尋さん、もしかしてイギリス人ですか?」
ん? と千尋は首をかしげた。新崎は自分がさしてきた傘を千尋に傾けながら続けた。
「イギリスのかたは、雨が降っても傘を差さないと先輩が言ってました!」
んんんん?
「いや、あ、あの、日本人です」
「そうなんですか! てっきり外国のかたかと!」
「いや、どうして? どうみたってぼく日本人顔だよ?」
「はい、千尋さんの顔好きです。でも、なんか千尋さんて存在感がありすぎて異次元のひとみたいで、とても、同じ国に暮らしているような存在には思えないというか」
なんだか調子が狂う。
「同じ国に暮らしていなけりゃ出会えてないと思うよ」
「そうですよね! 俺、千尋さんと同じ国にうまれてこれてよかったです!」
嬉しそうに新崎がウキウキと目を輝かせている。意味がわからない。
「きみ、もうここには来ないんじゃなかった?」
「あ、はい。そうです」
「なんでここにいるの?」
「え~、なんででしょう。暇ができたから、ランニングついでにきちゃいました」
「雨の日なのに?」
「傘さしてます。役者は体ひとつで生きていくものだと守谷さんからご教授いただいたので!」
見れば新崎のスニーカーはどろだらけだった。
「こんな時間にあぶないと思うけれど」
「それは千尋さんのほうがあぶないと思います。俺だってドキドキでしたよ。もしかしたら俺が千尋さんのことを好きすぎて幻覚みちゃったかもとか、夜だから幽霊だったとか」
緑道に電灯が設置されているとはいえ、ほのぐらい道だ。千尋はすまないと謝罪を入れた。
「いや、その、千尋先生は謝ること、ないですって! 俺、もう帰ろうと思っていたので、先生も帰りませんか?」
にこにこと微笑む新崎に何故か飛びつきたくなった。このまま彼と帰りたい。変だ。でも、それ以上に、帰りたくない。
「仕事があるんだ」
千尋は言った。
「え、こんな夜に?」
千尋はうつむいた。新崎は、うーんと首を傾げている。もう帰宅していてもおかしくない時間なのに。だが、新崎はふっと短く息を吐いて笑った。
「それっていいことですね」
新崎の声に千尋は顔をあげた。
「仕事があるということは先生は誰かに必要とされているってことでしょう? すごくいいことですね!」
ぱっと何かが光った。星だ。星が光っている。違う、ただのひとりの青年。彼が、そこにいた。
「星、見れないな」
千尋はつぶやいた。
「え? 星ですか? まあ、こういう天気ですし。それにここらへんは地上が明るすぎて星だって負けちゃいますしね。俺の地元とはまるきり違う場所」
「どうして上京してきたの? 違う環境に飛び込むのって怖くなかった?」
「そんなことないですよ!」
新崎は笑った。千尋もつられて笑った。雨が細くなりはじめていた。ぱらぱらと音がずっと響いている。そのなかに閉じ込められたように二つの心臓の音が鳴っていた。命の秒針がふたつ、共鳴するようになっていた。
帰るなら傘を持って行ってくださいという新崎からもぎとるように傘をもらった。新崎は嬉しそうにしていた。それで、千尋も楽しくなってきた。
「コンビニ寄って傘を買ってね」
ポケットから財布を出して一枚紙幣を新崎に渡そうとしたが新崎は受け取らない。むかついて、彼の尻のポケットに濡れたそれをつっこんでやると千尋は勝ち誇ったように笑った。
「年上を甘く見るんじゃありません!」
「あ、甘くないです! 先生は高嶺の花すぎます!」
「ぼくは戻る! いいかい、コンビニで傘買って帰るんだからね! 風邪なんかひいてみろ、代役につぶされるぞ!」
「はい! 絶対に風邪にあらがってみせます」
新崎と別れて千尋は走った。靴のなかはぐちゃぐちゃになっていた。だけど、代わりに心は決まっていた。笑える。きっと彼なら大丈夫だ。ばかなら風邪をひきはしない。
来客用のフロアに、きゅっきゅと濡れた靴の音が響き渡る。待っていたと立ち上がった松葉の胸の前に、千尋は濡れたまま手を伸ばした。
「松葉ゆう。紙を」
きっと彼を睨めば、松宮の顔が変化した。だらしなかった顔つきがきりっと引き締まった。相変わらず口調はだらしないが。
「オーケイ、さ、やれよ、先生」
挑発するように、松宮が背負って来たリュックのなかから白い紙をどさっと机の上に、載せた。それを一枚もぎとると、千尋はワイシャツの胸ポケットのなかで眠っていたボールペンをノックした。花荻があわてた。
「え、ちょっ。千尋さんずぶ濡れじゃないですか!」
「花荻、黙って。黙らないなら俺とチューだから」
千尋の様子に慌てる花荻を松宮が制止させた。千尋は何かにとりつかれたように、紙にペンを走らせはじめた。
わかっている。みっともないよな。この年になって。でも、しかたがない。まだ生きているのだから。
紙に向かい合う。白い雪原。ここを自由にあるいてくださいと、てすりもガイドもなにもついていない。
まずは歩く道を見つけなくては。わかっていることから整理し始めるしかない。松宮が提示したタイムリミットは二時間、外出している間に何分が立ってしまっただろうか。それが終わって松宮がネームを切り出す。もし会議で代原の座を得れたとしても、作画をする松宮はひとりでふたつの、この原稿と自分の連載分の原稿をしなければならない。
どうしたらいい? ただ面白いだけではなく、雑誌に載せる――期日までにふたつの原稿を抱えた松宮が描ききることができなくてはならない。
そして、穴埋めである。ハードでロマンチックな作風で連載している松宮と違って尾張先生のはどちらかというとゆったりとした優しい雰囲気だ。松宮にあわせるのなら、彼の得意なゴージャスなロマンスを選択するべきか。いや、違う、それは違う。それじゃないのだと、わからない、わからないけれど、それは違う。きっと、違う。
松宮にあわせて書いたところで、松宮にはきっと見透かされてしまう。真剣に挑むひとには真剣で挑まねばならない。負担のことも考えながら、それでも、面白く、極上の物語を、そして需要のことも生産のことも考えて、そのうえで――、ああ、わかる、大丈夫、どうしてだろう、ひとつじゃない問題が沢山ならんだとき、それが目の前に張り出してきて、圧迫して苦しくなる。はやく水面に抜け出る道を見つけないと、溺れて死んでしまうかもしれない。水の底から天空を見つめる。空から降り注ぐ光はどこから差し込む? それさえわかれば、その方向に泳いでいけたら!
「なんなんですか、あのひとは」
花荻は千尋が風邪をひかないかとどきどきしながら、松葉に尋ねた。あんなに寒そうなのに千尋の周りには変な熱気がうづまいていて近寄りがたかった。
「ん~、ただの人間じゃないの?」
「いや、化け物でしょう。これ、絶対、化け物だと思いますよ」
千尋が書き始めたので、松宮も描き始めることにした。自分が連載しているまんがの原稿だ。主要人物のペン入れをし始めた松葉と、ものすごい勢いで何かを書き始めた千尋。その間にただ立っているだけの花荻。
目は紙へ。手は動かしながら。それでも話しかけてきた花荻のことばに松宮は返した。
「人間だよ、血の通った、ひとりの出来損ないの人間だ」
「いや、あ常人じゃないでしょ。あのひと、一体いくつ仕事かけもちしていると思います? あのひとに頼めば絶対だから、俺以外のひとも、みんなあのひとに仕事頼ってて」
「それしながらも、自分の作品書いてるんだよ、あいつ」
「え? 作品?」
「知らないの? あのひと、こっそり劇団の脚本書いてるの」
花荻に伝わっていないことを察知して松葉は千尋の隠れた副業について説明した。
「はあ_!?_ 人間やめてんの_!?_」
わははと松葉が楽し気に笑い出した。
「劇団マッドスピリッツ。めっちゃ手作り劇団なんだけど、とにかくぶっとんでんの。ああいう面白さは理屈じゃなくて情熱だよねぇ」
余計に化け物じみてきた。松葉ゆうのような色情狂作家も化け物だが、千尋崇彦という編集者も何かおかしい。
「ちーちゃんはね、とにかく、人間やめるのがうまいんだよ」
「いや、さっき、千尋さん人間だって言ってなかったすか?」
本当によくこんなやつと会話ができるよな、と花荻は千尋を眺める。その千尋の手はとまらずに動き回っている。遠目からみても鬼気迫るようなものすごい気迫だった。
「たぶん、俺と同じで人間やめてたんだと思う。そのまま、ここまで来ちゃったけど、ちーちゃんは周りのことよく見てる、すごいよ。だから俯瞰で見れるんだよ。次の段取りとかどうしたら自分の持って行きたい状況に持って行けるのか、とか」
けらけらと笑う松宮に花荻はぎょっとした。もしかして、このひとたち、松宮と千尋は互いに互いを利用しあっているのか。
「最初俺、まんが始めた理由は、好きな男の好きな男をぶんなぐりたいからだった、本当にそれだけだった。だけどね、そんな薄っぺらじゃ、本気の男の前には無力だった」
いや、好きな男って、本当にお前はそれしかないんだな、と花荻は松葉を見た。その瞳は冴えた夜空のように澄んでいた。本気のやつと戦うために本気にならざるを得なかったけれど、まだその本気がわからないと松葉の形のよい唇は伝えてきた。彼の言おうとしていることは何一つわからないままだったが、ふと何かに気がついた花荻は背筋を伸ばした。
「松葉先生、本当は書けますよね。千尋さんにプロット頼まなくても、もう一本書けるんですよね?」
「おや、ばれた?」
嬉しそうに松宮がにやりと笑った。「おらおら~、千尋には言うなよぉ~」と、笑いながら花荻を指先でつつき始めた松葉に、花荻は黙り込んだ。ぎゅっと奥歯を噛み締めた。なんだか悔しかった。
「いやぁ、それにしても、しゃぶらないであげてるんだから、感謝しなよ」
何故か松葉が下品なジェスチャーをしてニヤリと笑った。とたんに、花荻の体温が一気にさがった。あ、だめだ。このひと、やっぱり苦手だ。ぞっと背筋が凍る。
身構えた花荻に「いやだなぁ、今しゃぶってあげてもいいんだよぉ、それとも俺の穴にぶちこむぅ?」と松宮の呑気な声が襲ってくる。声のトーンは呑気でも、目がマジだった。花荻は泣きたくなった。彼を救ったのは時の流れだった。
何かを察知したのか、松宮が席を立った。と、同時に、千尋の手が止まった。もう約束の時間だった。
松宮は無言で、千尋が書いていた紙を全て集めて手の中でそれを読み始めた。千尋は、ぐたっと机に伏す。手がかじかんで震えていた。室内はクーラーが効いていて雨に濡れた千尋の手はかじかんで震えていた。
「大丈夫ですか? 自販機でコーヒー買ってきました」
花荻がそっと温かい缶を千尋の目の前に置く。
「あれ、花荻くん、帰ってなかったの?」
「いや、もう帰ろうと思ったんですけど」
松宮と話しているうちに、自分だけ帰るのはなんだか、すごく嫌な気がした。
「花荻、千尋にコーヒー渡すな。ココア買って来て、冷たいやつ」
松葉が紙面に目線を落としたまま言う。震えているひとに冷たいもの飲ませるなんて鬼畜だと花荻は思ったが口にすると松葉に言い寄られてしまうそうだったのでやめた。
「このひと、毎日カフェインまみれだろうし、たぶんカフェインで死ぬと思うから、ココアにしてやれ、もう、千尋の出番は終わったから」
「いや、せっかくだし、このコーヒーをいただきます。ありがとう、花荻さん」
タオルでさっと拭いたとはいえ湿り気に膚に衣類が張り付いて気持ち悪い。掌から伝わる缶コーヒーのあたたかさに、ほっとするのだ。松葉はそんな千尋を見て、花荻に命令した。
「花荻、買ってこい」
「先生、その言い方はないんじゃないかな」
「うるさい。こっちに集中しているから、千尋、お前、とっとと仮眠しろ。三時間で終わるから、そこらへんで寝てろ」
さ、三時間? 千尋は思わず笑い転げた。松葉はむっとした。
「なんだよ、いけるって~。面白いな。これ、今すぐネームを切るから邪魔するなよ」
松宮は椅子に腰掛けると、千尋のために机に置いた白紙から数枚手元にぶんどった。
「花荻くん、こっち」
千尋はぼけっと立っている花荻と共にそっとブースを出た。
「え? ちょっと、先生あのままにするんですか?」
「するよ。大丈夫。三時間あれば、ネームができてる」
「うっそ、だからって、あのひと、今までずっと原稿してたんですよ」
「平気だって。うちの作家、甘く見ないでほしいな」
再び目をあけたとき、太陽はもう昇っていた。着信音とバイブレーションに揺り動かされた千尋は、慌てて飛び上がった。と、同時に、休憩室のドアが乱暴に開かれた。
「千尋さん! やりました!」
飛び出して来たのは花荻だった。興奮に頬がほのかに赤く染まっている。
「代原で、松葉先生のネーム、通りました!」
「そうか!」
「代原の代原もついでに決まりましたよ! 松葉先生には先に連絡入れています。もう作画にすぐに入ってもらえるよう!」
「って、え、あ、ごめん」
千尋は慌てて着信をオンにした。
「ちーちゃん、おそよう!」
「先生、すみません。あのあと、寝てしまったみたいで」
「平気、平気。出来たネーム、花荻に見せて見てもらったからだいぶブラッシュアップできた。ちーちゃん、メールで送っといたからあとで見て。編集部の机の上に、コピーも」
「それなら、ここに」
花荻が千尋にさっとネームのコピーを押しつけた。すぐにスイッチが切り替わる。さっと流して読んでみて、つまづくところもなく、スムーズに読める。なによりあのプロットから千尋の意図をよく読んでくれた。いや、読んだうえでだいぶ修正を加えてある。
「クライマックス、ちーちゃんのプロットだと上がり方が急すぎてとってつけた感じがするから、随所に伏せる伏線を増やした」
ケータイから松宮の声がする。
「ああ、わかります。それ以外にも、決めのコマ、いいですね。これ、ぼくが書いたものにはなかった」
「でっしょ~! 花荻に見せたときに『先生、なんか地味』って言われちゃって、これはこうだなぁと」
花荻が苦笑した。松宮が書き上げたネームを見せたとき、花荻のちょっとした感想から、その原因がどこにあるのか、想像して、松宮は何度も直しを加えた。なんだかその姿が、少しのことばでそれがなにをあらわしているのかいつの間にか先回りして仕事をしている千尋の姿と重なって、花荻はなんともいえない気持ちになった。
千尋も松宮も、本気だった。どちらかというとエンジン全開に突き進むのが松宮だ。自分以外のことなんて目にいれずに邁進する強さがある。たいして、千尋が周囲の状況や外部の要因を見て、松宮のまんがのバランスをとる指示をしていたのだろう。このふたりは、まるで両輪のように、回る。やっぱり化け物じゃないか。
会議に提出したネームはネームというよりも下描きにほぼ近く、ネームを読み馴れていない者でも簡単によめるように書き込みがなされていた。これも松宮の作戦だった。これをそのまま原稿用紙にトレースすれば下描きの時間が削れるし、なにより、完成原稿の状態を編集部により強くイメージさせられる。この作品は絶対期日までに完成できるのだと、大声で紙の上で叫ぶために、やったのだ。
「……ふたりとも、どうして起こしてくれなかったのさ」
千尋は、むっとなって、花荻を睨んだ。
「そりゃ、まあ、その、ぐっすりしすぎていて」
「すっごい腹立つ。でも、ネームはこのままできっと大丈夫だ。やれるね」
いける、と小さく拳を握りしめた千尋に、松宮が大きな声で叫んだ。
「まあね! できれば増員が欲しいかもね!トーンと背景できるやつ手配して!」
千尋は苦笑した。ほしいかもと彼がいってくるときは、めちゃくちゃ欲しいということだ。素直ではないがとても素直でわかりやすい。
「ああ、わかった。呼び掛けてみる。それじゃ先生、何かあったら、また連絡します」
「ほいさ」と気の抜けた返事のあと、通話が切れた。
「花荻くん、ぼけっとしてらんないね」
「はい! ……っていう話のあとで割るのですが、千尋さん、編集長が割とその、お叱りでいらして」
「えっ」
千尋は目を丸くした。それから腹を抱えて笑い始めた。
「そりゃそうだろうなぁ! まあクビになったら次の仕事を探せばいい! なんか、こう、ぼくもバカになって上京したい気分になっちゃったよ!」
「え? 上京? もういるじゃないですか、東京」
「そうだね、そうなんだけど、そりゃそうなんだけど」
ああ、そうか、わかった、と千尋は立ち上がった。そうだったんだ。なぜ、|彼《・》だったのか。あんなにもまるだし変質者なのに、なぜあんなに居心地がよかったのか。違うのだ。彼が自分を見てくれていたからだけじゃない。自分も彼を見ていたからだ。彼が歩幅をあわせてくれていたのではない。自分も合わせていた。
「知りたかったんだ、ぼくは」
知りたい、人間が、ひとが知りたい。
子どものころからずっと、周囲にいる人間は本当に人間なのか不安だった。表面上のコミュニケーションしかとれなかった。たまにかぼちゃやトマトみたいに野菜に見えたり、宇宙人みたいに自分とは違う得体のしれないものにしか思えなかった。でも、そうじゃないことくらいもうわかっている。
知りたいんだ、人間のことが。
そうか、そうだよな。だからこの仕事だったのだ。誰かが描いた物語を誰かに届ける仕事。ひとの思いの交差点をつくるような仕事を。
関わって生きていきたいんだ。自分は、ひとと関わって生きていきたいんだ。千尋は笑った。
帰り道がこんなに懐かしく思える日がくるなんて、不思議だ。千尋は伸びをしたくなった。右手でスマホを耳に当てたまま、鞄を手にしている左手を鞄ごと、うんと上に伸ばせば体がパキと音を立てる。腕をさげてから千尋はこたえた。
「そっか、それじゃ、ちゃんと尾張先生のフォローはいれられたんだね。よかった」
「はい、次号からガンガンにとばしていって、アンケートでトップとります」
いきまく花荻に千尋は、笑みをこぼした。それから、少し間をおいた。
「今回はその――、花荻さんを巻き込んですみませんでした」
「え、ああ、はい」
「その、いつも、申し訳ないな、とは思っていたんですけれど。ほら、ぼくって結構、性格キツいじゃないですか」
「ああ、え~、はい」
「いつも花荻さんや他のかたも、声かけてくださるのに、いつも、マニュアルどおりっていうか、上澄みみたいな感じの返事しかできなくて」
「ああ、いや、それは」
「ひとと、うまく、生きていけないんです、ぼく、なんかその、そういう、人間関係ってところがあんまりよくわからなくて。だから、その、今回の件で、花荻さんにすごい助けられてばかりで」
「それは、こっちもですよ。と、いうか千尋さんはマニュアル通りっていうよりマニュアル破りじゃないですか?」
「それに、なんだか久しぶりにわくわくしました。編集長にくってかかるなんて」
「い、いや、だって! あれは!」
「面白いですね、千尋さんて。一緒に仕事できてよかったです。絶対、かなえましょうね」
「うう……はい! ありがとうございます」
花荻からの電話を切ると、千尋はゆっくりと遠回りすることにした。無事、来月号の入稿ができた。これで雑誌は出る。
編集長からはお叱りをみっちりされてしまたが、大丈夫だ、結果はいつか必ず数字になってきっと返ってくる、と思う。ただ問題は、さきほど花荻も言っていたように、編集長とガチでやりあってしまったことか。平穏だったはずの編集部内に波風を思い切りたててしまった。
今回のことで編集長に言及された際に、千尋がいままで思っていた不満を全部ぶちまけてしまったからだ。それだけではない。現状、編集部内の低迷として考えられることもその根拠も、自分なりに考えた解決方法までぶちまけて、しまった。
あのとき、編集部内の空気が変わった。ぎょっとみな、たちすくんでいるだけだった。
――この編集部を、いや、F社全体を立て直したい!
そう豪語しては、失笑しか、わかない。自分でも、中途でちょこっと入ってきたおじさんが何を言っているのだろうかと笑ってしまった。けれど、笑えない。ビジョンがある。こちらへ迎えばいいのだと、常に千尋の頭上を光の筋が照らしているのだ。まだ千尋にしか見えてない道を、すこしでも誰かと共有出来たら、と思う。
千尋と編集長のドンパチの最中、花荻が飛び出してきてくれなかったら、そうは思わなかったかもしれない。千尋の話も聞いてくださいと頭をさげてくれた花荻に、千尋も少しずつ、変わっていけそうな――いや、変わっていかなくてはならないんだ。
千尋はスマホをポケットに突っ込んだ。歩きながら両手を上に伸ばしてみた。またパキと骨のなる音がした。このまま少し遠回りをして帰ろうと、普段よりはやいリズムで足音を立てる。目的の場所にたどり着く前に、寄りたい人に遭遇した。
「ち、千尋先生!?」
自分が声をかけるまえに駆け寄って来た青年に、本当にこれでいいのかなと不安になりながら、片手をあげた。挨拶のつもり。千尋は笑いかけた。
「先生、こんにちは。あ、こんばんはかな、時間的に」
「これから稽古?」
「いえ、もう終わりました。これからバイトです。千尋さんはお仕事、終わったんですね」
「今日のところは、ね」
「お疲れ様です」
「全然、疲れてないんだよ、それが」
ほえ、と新崎が目を丸くした。そんなことより言いたいことがあるのだ。千尋は、ぎゅっと拳を握りしめた。ここで、引くわけにはいかない。
「きみと! ともだち、みたいな感じに、いや、そこまではいかなくても、いいけれど、その、本当に、ありがとう!」
自分が何を言おうとしているのか、次に出てくるはずのことばが喉でつっかえて、なんだか苦しい。対して青年も、ぎょっとして小さく飛び跳ねてそれから、恐れ多いと顔を手で覆い、ぺこぺこと頭を下げ始めた。
「いや、え、俺、何もしていないのにお礼なんて」
「そんなことはない。ぼくの書いた脚本を好きになってくれてありがとう。その気持ちを伝えに来てくれてありがとう。だから、その、もっと」
もっと、ちゃんと真剣に、自分のままで、書きたいと思えた。語尾が滲む。だけど伝わった。彼の眼つきが変わった。きらりと輝く一番星に。
「もっと、書いてくれるんですか! 劇の脚本!」
目の前でパチリと火花が飛び散るように、まばゆく、新崎の笑顔がはじけ飛んだ。
「本当ですか! やった~! これからも、たくさん、脚本を書いてくれるんですよね、ね! 嬉しいな。千尋先生の書く話が好きなんですよ、俺!」
「あ、うん、知ってる。最初あったときにも言われた」
「ですよね、ですよね、嬉しいなぁ。ねえ、先生が脚本書こうと思ったきっかけってなんですか?」
「え、ええ?」
「いつもどうやって書いているんですか? あ、企業秘密ってやつですよね! それとも、俺みたいなチンプンカンには一生わからない魔法でも使って――」
「いや、あの、新崎くん?」
「うわぁ、どうしよう。千尋先生って魔法使いだったんだぁ」
「いや、ないからないから」
「あ、そうえいば、先生、知っていました? 三十になっても何かがあると魔法使いになるんだとか、守谷さんが、あ、あれ? 千尋さん?」
あまりにもバズーカだった。だめだ、異世界の人間すぎる。しゃがみこんで腹をかかえた千尋を新崎が覗き込む。
「あのぉ、すみません、大丈夫ですか?」
「ごめん、そりゃぼくなんて魔法を使えないわけだな、ギブ」
「え! いや絶対千尋先生は魔法使っていそうですよ!」
「いやそんなことあるわけないでしょうが」
そう言いながら、どこからこんなにもおかしい気持ちがわいてくるのか、どうしてこんなにも、おかしくて、愉快なのか、本当に――困った。
「あー、なんていうか、どうしてぼくの周りにはこうも、おかしなひとたちばかりが集まってくるんだろう」
「え、そうなんですか?」
「きみが一番だね」
そういって、千尋は笑いすぎて痛む腹に力を入れて立ち上がった。
「きみ、頑張れ。なるんだろう、主役に」
千尋は、新崎の目を見て言った。彼に届くように。
「でも、小さな劇団だけでおさまるようじゃ、ぼくの脚本をきみにはやれない。もっと、おもしろいものを見せてよ。ぼくも頑張るから、きみも、がんばれ」
新崎の連絡先を聞いた。久しぶりに仕事以外の番号をスマホに登録した。この数桁の先に彼がいるのだと思うと電話帳の番号がなんだか特別な呪文のように思えた。これがなんだかいつの日にか何かに化けるような変なそわそわするような予感。
ひさしぶりに作ろうと思えた友だち。うまくできるかわからないけれど、仕事も脚本も友だちつくりも、やりたいこと、なんでもやってみたいと思うのだ。
そう、これからが挑戦だ。ほら、夏が近い。急に晴れて、青空が広がった。狭いなあなんて新崎がつぶやく。地元の空は広くて、ここは狭いような気がするんです、とさみしそうに笑ってから、星はつぶやいた。
それでも、この場所で輝いてみせるのだと。そう笑って向日葵が咲き始めた。まけないように、千尋も笑った。悪いけど、年上を甘くみないでほしいのだ。
(了)
その日の夕方、千尋はなぜか、ぼーっとしてしまった。
緑道なんか寄らずに昔のようにF社から最寄りの駅に向かう足を止めたのは、花荻からの緊急の連絡だった。
尾張|初子《はじめこ》先生が急に倒れて入院した。そう告げられて、千尋は急いで本社に戻った。まだ花荻が編集部に残っていた。
「千尋さん!」
デスクに座っていた花荻は、駆けつけてきた千尋の顔を見て、立ち上がった。
「先生、先生が!」
「わかっています。でも、気持を切り替えて」
わかっている。そんなにすぐに切り替えできる話じゃないことくらい。でも、それでも切り替えなけば、雑誌に穴があいてしまう。
とにかく出せればいい、ただ出せばいいだけじゃない、面白いものをつっこまなくては!
ここで問題だ、と千尋は思うのだ。
この小さなギリギリ自転車操業状態の編集部に、いま現在、面白い代原はない。
仕事の隙間にどういう作品をストックしているのか確認したくて、代用原稿に使おうと編集部にある原稿を全部読んでいるからわかる。商業レベルには達しているが、ただそれだけの原稿しかない。あるとしたら過去話をぶちこむ、くらいか。でも、それでは――。
「編集長が明日、代原どうするか会議をするって」
「明日_!?_ って、うわ、先生からだ! すみません、出ます」
なんどこの展開になるんだ、と千尋は思いながら、音を出し震える機械をなだめてから、耳にあてた。そこから、松葉ゆうの気の抜けた声がした。
「ちーちゃん、やっほー」
「やっほーじゃないです、先生。進捗どうですか?」
「え、シンチョクって何それ美味しいの? スッキリしに行って来たんだけど? 相手あんま相性よくなくてそのあと馴染みのやつと三発かましてきたわ」
お盛んなことで。
「それどころじゃないですって! 原稿、どこまでできました?」
「は? 今日はやってないよーん。ずっとズッコンバッコン」
「ふざけないでください! 尾張先生落として大変なんですから、あなたまで落とされたら!」
「え? 尾張初子落ちるの? なんで?」
しまった。と思ったが遅かった。つい、口にしてしまったことをもとには戻せない。
「すみません、いまのはわすれてください。いいから、松葉先生はそのまま締切を守って」
と、慌てる千尋に冷静な松葉の声がささった。
「あれ、嘘でしょ」
「へ?」
「ちーちゃん、俺がよくぶっちぎるから、あえて早めに締切教えているよね? ね? だから、あれ、嘘。つまりまだ余裕いっぱい」
何をいっているのか。余裕なんて。
「ねえ、代原のあて、あるの? ないんでしょ。ちーちゃんが焦ってるってことはサァ」
「松葉先生、いいからあなたは早く仕事をすませてください」
「ああ、オッケー、締切には間に合わせるから、さ。で、お願いだけど、今すぐ受付に連絡いれて俺のこと通してよ」
「え?」
何を言っているのだろうか。ぎょっとして立ちすくんだ。まさか、ここ――このビルの下まで来ているのか?
「やっぱさ、ヒーローってのは、遅れてやってくるもんだよね」
慌てる千尋と反対に松葉は、始終まったりしていた。
松宮侑汰の襲来に花荻は真っ青な顔になった。
とりあえず、編集部内に松葉をいれるわけにはいかないし、自由にできる机があったほうがいいので、持ち込みや来客用に使うスペースに案内した松宮は始終その可愛い顔をニヤニヤと下卑た笑みで満たしていたが、ふたりを前に単刀直入に用件を切り出した。
「俺が二本、まんがを描く」
何を言っているのだ? 頭がいかれているに違いない、とこのときばかりは――いやもともと彼の頭はおかしいとは思っていたが、とにかく、すぽんと何かがとびだしていく勢いで、千尋も花荻も目をひんむいた。
「代原決める会議、明日の何時?」
「朝です、十時から」
花荻が答えると、けらけらと松葉が笑い出す。
「おけおけおっけー、はいはい、余裕じゃん」
「いや、あと十二時間しかないのに_!?_」
ぎょっとして止めようとする花荻に松葉がにっこりと悪魔の微笑みをむけた。そして彼は花荻にふっと息をかける。それだけで、花荻は小さく飛び跳ね、悲鳴をあげて、ぶるぶると震えだした。
「あいからず、いいチ×ポ持ってそうな顔してんなぁ、花荻くぅん」
「松葉先生、やめてください。怖がっています。……あなた、花荻に何をしたんですか?」
松葉は千尋のいうことは無視して千尋を見た。松葉は続けた。
「とりあえず最低でも十時までにネームまでしあげる。すごい面白い作品だったらきっとGOサインが出るだろうしさ」
「いや、そんなに甘くない。失敗したら、穴があきますから」
「ちーちゃん、それなら、代原の代原を用意させればいい。まあ、俺は落とさないから大丈夫。でもお尻の穴はガバガバなんだなぁこれが」
本気なのかおふざけがしたいのか、よくわからない。彼のこういうところがあまり好きではない。千尋は彼を睨みながら尋ねた。
「あなたの下半身はどうでもいいです。書く話は出来ているんですか?」
「いんやぁ? ないわー」
松葉の気の抜けた返事に、千尋より早く花荻が声を荒げた。
「ほら、できないですよ、もうそんなやつ帰して俺たちも帰りましょう、千尋さん!」
「やぁだぁ、置いていかないでぇ~」
「こいつと一緒にいると、ずっと鳥肌たってたまんないですよ、帰りましょう、千尋さん」
「わあお、作家にたいして、こいつ呼ばわりとか、超うけるー」
「うけてないで、あなたが花荻になにかしでかしたんでしょう」
「ちーちゃん、どっちの味方なのさあ!」
どっちの味方って?
「まあ、いいや」
松宮の声音が変わった。低く、よくとおる声だった。声音ではない。大きな瞳に熱がこもりだした。松葉は千尋を見た。千尋も松葉を見ていた。
「千尋、お前、いますぐ、筆をとれ」
しんとその場が静まり返った。松葉は続けた。
「いますぐにだ。あと二時間与える。やれ」
「ちょ、ちょっと、先生!?」
千尋は驚いて松葉を二度見た。しかし彼の眼は真剣に冴えていた。
「お前なら、ネタがなくても書けるだろう。やれ」
「ま、まさか、ぼくに、プロットを書けと?」
「そうだよ、誰がいるんだよ。やれ。ダサいやつ書くなよ。やれよ。もう五分すぎたぞ」
秒針の音が聞こえる。違う。これは心臓の音だ。
「な、何いってるんですか! 千尋さんはただの編集者で、プロットなんて!」
助け船をだそうとしてくれたのかもしれない。そんな花荻に松宮は一喝した。
「部外者は黙ってろ!」
花荻は小さくなった。千尋の目の前でぐるぐると事態は起きる。自分のまわりで、うずをまくように。
だが――部外者? 本当に?
そんなことはない。だって、彼だって一緒に同じ雑誌をつくりつづけているひとだ。それに花荻はこんな静かすぎる自分に対して話しかけてくれるし――カッと何か全身に電流が走ったような気がした。そして千尋も一喝した。
「彼は部外者じゃない!」
千尋が大きな声をだしたのに、花荻はぎょっとした。
「彼はメンバーだ。一緒に雑誌を作っている。部外者なんかじゃない」
むしろ悪いことをしているのは自分のほうだ。いつも、気にかけてくれて、声をかけてくれるのに。あたえられたことばに、まるでマニュアル通りにしか答えられない。気持ちをのせてかえすことができない、自分が、いる。
「ぎゃはは! ウケるぅ! 何それ、なかまぁ? うはっ、キモッ!」
まぶたを開けたとき、松宮の汚い笑い声が響き渡っていた。違うと言いたいのに、急に息が苦しくなってことばに詰まった。なんでメンバーだなんて言ったのだろう。むこうはそうとは思っていないかもしれないのに。わからない。ただ花荻が急に声をあらげた千尋をぼうぜんとまるで幽霊でもみるように眺めていた。
「ちょっと外出てきてもいいですか?」
千尋はうつむいたまま言った。
「まさかぁ、俺に逃げるなって言い続けてるあんたが逃亡するつもり?」
松葉がのほほんと答えた。そんなこと、あるわけない。千尋は「時間をください」とだけ返して、建物を出た。外は小雨が降っていた。それでも、外の空気を吸ったとたん、心臓が跳ねた。思わず走り出していた。
そう、走っている。走っているせいだ。酸素が足りないからだ。ずっと耳もとで彼の声が続いている。どうして!
――先生! 先生の書かれた『議会討論戦記』、面白かったです!
なんなんだよ、これ! いらだって地面を蹴れば、ぱしゃりと水たまりが跳ねて足が濡れる。
傘をさすまばらな人々。雨を遮るものさえ持たない千尋はただ走って、息が上がって、立ち止まった。どこに向かって走っているのか、わからない。いつもそうだ。
何がしたいのか、わからない。どうしてこうなってしまったのだろう。なんでこんなことしているのだろう。毎日仕事に行って仕事して帰って寝るだけ。そこにむりやり守谷の頼み事をねじ込んで、何が変わった? 何もない。
「違うよ」
と|誰か《・・》の声がした。ぎょっとして顔をあげる。雨に打たれて頬の肉がぎゅっと冷えた。それでも瞼をあげた。指先でおそるおそる自分の唇を探し当てる。そう、ここからさきほどの声が洩れて出してきていた。――どうして?
「千尋先生!」
ふと雨が止んだ。違う。何故か傘が咲いた。頭上に。透明な天幕が闇を透かして千尋の上に開いていた。
「何しているんですか! 風邪ひいてしまいますよ!」
ぎょっとして、振り返ろうとした。首をまわしただけで視界にあの青年の姿が入ってきた。黒い瞳が、やけに濡れていて、こちらを見下ろしていた。
「あ、えと……きみ?」
彼の名前が口元から出て来ない。それで必死になって見上げていると新崎からはあまりにも場違いなことばが返ってきた。
「千尋さん、もしかしてイギリス人ですか?」
ん? と千尋は首をかしげた。新崎は自分がさしてきた傘を千尋に傾けながら続けた。
「イギリスのかたは、雨が降っても傘を差さないと先輩が言ってました!」
んんんん?
「いや、あ、あの、日本人です」
「そうなんですか! てっきり外国のかたかと!」
「いや、どうして? どうみたってぼく日本人顔だよ?」
「はい、千尋さんの顔好きです。でも、なんか千尋さんて存在感がありすぎて異次元のひとみたいで、とても、同じ国に暮らしているような存在には思えないというか」
なんだか調子が狂う。
「同じ国に暮らしていなけりゃ出会えてないと思うよ」
「そうですよね! 俺、千尋さんと同じ国にうまれてこれてよかったです!」
嬉しそうに新崎がウキウキと目を輝かせている。意味がわからない。
「きみ、もうここには来ないんじゃなかった?」
「あ、はい。そうです」
「なんでここにいるの?」
「え~、なんででしょう。暇ができたから、ランニングついでにきちゃいました」
「雨の日なのに?」
「傘さしてます。役者は体ひとつで生きていくものだと守谷さんからご教授いただいたので!」
見れば新崎のスニーカーはどろだらけだった。
「こんな時間にあぶないと思うけれど」
「それは千尋さんのほうがあぶないと思います。俺だってドキドキでしたよ。もしかしたら俺が千尋さんのことを好きすぎて幻覚みちゃったかもとか、夜だから幽霊だったとか」
緑道に電灯が設置されているとはいえ、ほのぐらい道だ。千尋はすまないと謝罪を入れた。
「いや、その、千尋先生は謝ること、ないですって! 俺、もう帰ろうと思っていたので、先生も帰りませんか?」
にこにこと微笑む新崎に何故か飛びつきたくなった。このまま彼と帰りたい。変だ。でも、それ以上に、帰りたくない。
「仕事があるんだ」
千尋は言った。
「え、こんな夜に?」
千尋はうつむいた。新崎は、うーんと首を傾げている。もう帰宅していてもおかしくない時間なのに。だが、新崎はふっと短く息を吐いて笑った。
「それっていいことですね」
新崎の声に千尋は顔をあげた。
「仕事があるということは先生は誰かに必要とされているってことでしょう? すごくいいことですね!」
ぱっと何かが光った。星だ。星が光っている。違う、ただのひとりの青年。彼が、そこにいた。
「星、見れないな」
千尋はつぶやいた。
「え? 星ですか? まあ、こういう天気ですし。それにここらへんは地上が明るすぎて星だって負けちゃいますしね。俺の地元とはまるきり違う場所」
「どうして上京してきたの? 違う環境に飛び込むのって怖くなかった?」
「そんなことないですよ!」
新崎は笑った。千尋もつられて笑った。雨が細くなりはじめていた。ぱらぱらと音がずっと響いている。そのなかに閉じ込められたように二つの心臓の音が鳴っていた。命の秒針がふたつ、共鳴するようになっていた。
帰るなら傘を持って行ってくださいという新崎からもぎとるように傘をもらった。新崎は嬉しそうにしていた。それで、千尋も楽しくなってきた。
「コンビニ寄って傘を買ってね」
ポケットから財布を出して一枚紙幣を新崎に渡そうとしたが新崎は受け取らない。むかついて、彼の尻のポケットに濡れたそれをつっこんでやると千尋は勝ち誇ったように笑った。
「年上を甘く見るんじゃありません!」
「あ、甘くないです! 先生は高嶺の花すぎます!」
「ぼくは戻る! いいかい、コンビニで傘買って帰るんだからね! 風邪なんかひいてみろ、代役につぶされるぞ!」
「はい! 絶対に風邪にあらがってみせます」
新崎と別れて千尋は走った。靴のなかはぐちゃぐちゃになっていた。だけど、代わりに心は決まっていた。笑える。きっと彼なら大丈夫だ。ばかなら風邪をひきはしない。
来客用のフロアに、きゅっきゅと濡れた靴の音が響き渡る。待っていたと立ち上がった松葉の胸の前に、千尋は濡れたまま手を伸ばした。
「松葉ゆう。紙を」
きっと彼を睨めば、松宮の顔が変化した。だらしなかった顔つきがきりっと引き締まった。相変わらず口調はだらしないが。
「オーケイ、さ、やれよ、先生」
挑発するように、松宮が背負って来たリュックのなかから白い紙をどさっと机の上に、載せた。それを一枚もぎとると、千尋はワイシャツの胸ポケットのなかで眠っていたボールペンをノックした。花荻があわてた。
「え、ちょっ。千尋さんずぶ濡れじゃないですか!」
「花荻、黙って。黙らないなら俺とチューだから」
千尋の様子に慌てる花荻を松宮が制止させた。千尋は何かにとりつかれたように、紙にペンを走らせはじめた。
わかっている。みっともないよな。この年になって。でも、しかたがない。まだ生きているのだから。
紙に向かい合う。白い雪原。ここを自由にあるいてくださいと、てすりもガイドもなにもついていない。
まずは歩く道を見つけなくては。わかっていることから整理し始めるしかない。松宮が提示したタイムリミットは二時間、外出している間に何分が立ってしまっただろうか。それが終わって松宮がネームを切り出す。もし会議で代原の座を得れたとしても、作画をする松宮はひとりでふたつの、この原稿と自分の連載分の原稿をしなければならない。
どうしたらいい? ただ面白いだけではなく、雑誌に載せる――期日までにふたつの原稿を抱えた松宮が描ききることができなくてはならない。
そして、穴埋めである。ハードでロマンチックな作風で連載している松宮と違って尾張先生のはどちらかというとゆったりとした優しい雰囲気だ。松宮にあわせるのなら、彼の得意なゴージャスなロマンスを選択するべきか。いや、違う、それは違う。それじゃないのだと、わからない、わからないけれど、それは違う。きっと、違う。
松宮にあわせて書いたところで、松宮にはきっと見透かされてしまう。真剣に挑むひとには真剣で挑まねばならない。負担のことも考えながら、それでも、面白く、極上の物語を、そして需要のことも生産のことも考えて、そのうえで――、ああ、わかる、大丈夫、どうしてだろう、ひとつじゃない問題が沢山ならんだとき、それが目の前に張り出してきて、圧迫して苦しくなる。はやく水面に抜け出る道を見つけないと、溺れて死んでしまうかもしれない。水の底から天空を見つめる。空から降り注ぐ光はどこから差し込む? それさえわかれば、その方向に泳いでいけたら!
「なんなんですか、あのひとは」
花荻は千尋が風邪をひかないかとどきどきしながら、松葉に尋ねた。あんなに寒そうなのに千尋の周りには変な熱気がうづまいていて近寄りがたかった。
「ん~、ただの人間じゃないの?」
「いや、化け物でしょう。これ、絶対、化け物だと思いますよ」
千尋が書き始めたので、松宮も描き始めることにした。自分が連載しているまんがの原稿だ。主要人物のペン入れをし始めた松葉と、ものすごい勢いで何かを書き始めた千尋。その間にただ立っているだけの花荻。
目は紙へ。手は動かしながら。それでも話しかけてきた花荻のことばに松宮は返した。
「人間だよ、血の通った、ひとりの出来損ないの人間だ」
「いや、あ常人じゃないでしょ。あのひと、一体いくつ仕事かけもちしていると思います? あのひとに頼めば絶対だから、俺以外のひとも、みんなあのひとに仕事頼ってて」
「それしながらも、自分の作品書いてるんだよ、あいつ」
「え? 作品?」
「知らないの? あのひと、こっそり劇団の脚本書いてるの」
花荻に伝わっていないことを察知して松葉は千尋の隠れた副業について説明した。
「はあ_!?_ 人間やめてんの_!?_」
わははと松葉が楽し気に笑い出した。
「劇団マッドスピリッツ。めっちゃ手作り劇団なんだけど、とにかくぶっとんでんの。ああいう面白さは理屈じゃなくて情熱だよねぇ」
余計に化け物じみてきた。松葉ゆうのような色情狂作家も化け物だが、千尋崇彦という編集者も何かおかしい。
「ちーちゃんはね、とにかく、人間やめるのがうまいんだよ」
「いや、さっき、千尋さん人間だって言ってなかったすか?」
本当によくこんなやつと会話ができるよな、と花荻は千尋を眺める。その千尋の手はとまらずに動き回っている。遠目からみても鬼気迫るようなものすごい気迫だった。
「たぶん、俺と同じで人間やめてたんだと思う。そのまま、ここまで来ちゃったけど、ちーちゃんは周りのことよく見てる、すごいよ。だから俯瞰で見れるんだよ。次の段取りとかどうしたら自分の持って行きたい状況に持って行けるのか、とか」
けらけらと笑う松宮に花荻はぎょっとした。もしかして、このひとたち、松宮と千尋は互いに互いを利用しあっているのか。
「最初俺、まんが始めた理由は、好きな男の好きな男をぶんなぐりたいからだった、本当にそれだけだった。だけどね、そんな薄っぺらじゃ、本気の男の前には無力だった」
いや、好きな男って、本当にお前はそれしかないんだな、と花荻は松葉を見た。その瞳は冴えた夜空のように澄んでいた。本気のやつと戦うために本気にならざるを得なかったけれど、まだその本気がわからないと松葉の形のよい唇は伝えてきた。彼の言おうとしていることは何一つわからないままだったが、ふと何かに気がついた花荻は背筋を伸ばした。
「松葉先生、本当は書けますよね。千尋さんにプロット頼まなくても、もう一本書けるんですよね?」
「おや、ばれた?」
嬉しそうに松宮がにやりと笑った。「おらおら~、千尋には言うなよぉ~」と、笑いながら花荻を指先でつつき始めた松葉に、花荻は黙り込んだ。ぎゅっと奥歯を噛み締めた。なんだか悔しかった。
「いやぁ、それにしても、しゃぶらないであげてるんだから、感謝しなよ」
何故か松葉が下品なジェスチャーをしてニヤリと笑った。とたんに、花荻の体温が一気にさがった。あ、だめだ。このひと、やっぱり苦手だ。ぞっと背筋が凍る。
身構えた花荻に「いやだなぁ、今しゃぶってあげてもいいんだよぉ、それとも俺の穴にぶちこむぅ?」と松宮の呑気な声が襲ってくる。声のトーンは呑気でも、目がマジだった。花荻は泣きたくなった。彼を救ったのは時の流れだった。
何かを察知したのか、松宮が席を立った。と、同時に、千尋の手が止まった。もう約束の時間だった。
松宮は無言で、千尋が書いていた紙を全て集めて手の中でそれを読み始めた。千尋は、ぐたっと机に伏す。手がかじかんで震えていた。室内はクーラーが効いていて雨に濡れた千尋の手はかじかんで震えていた。
「大丈夫ですか? 自販機でコーヒー買ってきました」
花荻がそっと温かい缶を千尋の目の前に置く。
「あれ、花荻くん、帰ってなかったの?」
「いや、もう帰ろうと思ったんですけど」
松宮と話しているうちに、自分だけ帰るのはなんだか、すごく嫌な気がした。
「花荻、千尋にコーヒー渡すな。ココア買って来て、冷たいやつ」
松葉が紙面に目線を落としたまま言う。震えているひとに冷たいもの飲ませるなんて鬼畜だと花荻は思ったが口にすると松葉に言い寄られてしまうそうだったのでやめた。
「このひと、毎日カフェインまみれだろうし、たぶんカフェインで死ぬと思うから、ココアにしてやれ、もう、千尋の出番は終わったから」
「いや、せっかくだし、このコーヒーをいただきます。ありがとう、花荻さん」
タオルでさっと拭いたとはいえ湿り気に膚に衣類が張り付いて気持ち悪い。掌から伝わる缶コーヒーのあたたかさに、ほっとするのだ。松葉はそんな千尋を見て、花荻に命令した。
「花荻、買ってこい」
「先生、その言い方はないんじゃないかな」
「うるさい。こっちに集中しているから、千尋、お前、とっとと仮眠しろ。三時間で終わるから、そこらへんで寝てろ」
さ、三時間? 千尋は思わず笑い転げた。松葉はむっとした。
「なんだよ、いけるって~。面白いな。これ、今すぐネームを切るから邪魔するなよ」
松宮は椅子に腰掛けると、千尋のために机に置いた白紙から数枚手元にぶんどった。
「花荻くん、こっち」
千尋はぼけっと立っている花荻と共にそっとブースを出た。
「え? ちょっと、先生あのままにするんですか?」
「するよ。大丈夫。三時間あれば、ネームができてる」
「うっそ、だからって、あのひと、今までずっと原稿してたんですよ」
「平気だって。うちの作家、甘く見ないでほしいな」
再び目をあけたとき、太陽はもう昇っていた。着信音とバイブレーションに揺り動かされた千尋は、慌てて飛び上がった。と、同時に、休憩室のドアが乱暴に開かれた。
「千尋さん! やりました!」
飛び出して来たのは花荻だった。興奮に頬がほのかに赤く染まっている。
「代原で、松葉先生のネーム、通りました!」
「そうか!」
「代原の代原もついでに決まりましたよ! 松葉先生には先に連絡入れています。もう作画にすぐに入ってもらえるよう!」
「って、え、あ、ごめん」
千尋は慌てて着信をオンにした。
「ちーちゃん、おそよう!」
「先生、すみません。あのあと、寝てしまったみたいで」
「平気、平気。出来たネーム、花荻に見せて見てもらったからだいぶブラッシュアップできた。ちーちゃん、メールで送っといたからあとで見て。編集部の机の上に、コピーも」
「それなら、ここに」
花荻が千尋にさっとネームのコピーを押しつけた。すぐにスイッチが切り替わる。さっと流して読んでみて、つまづくところもなく、スムーズに読める。なによりあのプロットから千尋の意図をよく読んでくれた。いや、読んだうえでだいぶ修正を加えてある。
「クライマックス、ちーちゃんのプロットだと上がり方が急すぎてとってつけた感じがするから、随所に伏せる伏線を増やした」
ケータイから松宮の声がする。
「ああ、わかります。それ以外にも、決めのコマ、いいですね。これ、ぼくが書いたものにはなかった」
「でっしょ~! 花荻に見せたときに『先生、なんか地味』って言われちゃって、これはこうだなぁと」
花荻が苦笑した。松宮が書き上げたネームを見せたとき、花荻のちょっとした感想から、その原因がどこにあるのか、想像して、松宮は何度も直しを加えた。なんだかその姿が、少しのことばでそれがなにをあらわしているのかいつの間にか先回りして仕事をしている千尋の姿と重なって、花荻はなんともいえない気持ちになった。
千尋も松宮も、本気だった。どちらかというとエンジン全開に突き進むのが松宮だ。自分以外のことなんて目にいれずに邁進する強さがある。たいして、千尋が周囲の状況や外部の要因を見て、松宮のまんがのバランスをとる指示をしていたのだろう。このふたりは、まるで両輪のように、回る。やっぱり化け物じゃないか。
会議に提出したネームはネームというよりも下描きにほぼ近く、ネームを読み馴れていない者でも簡単によめるように書き込みがなされていた。これも松宮の作戦だった。これをそのまま原稿用紙にトレースすれば下描きの時間が削れるし、なにより、完成原稿の状態を編集部により強くイメージさせられる。この作品は絶対期日までに完成できるのだと、大声で紙の上で叫ぶために、やったのだ。
「……ふたりとも、どうして起こしてくれなかったのさ」
千尋は、むっとなって、花荻を睨んだ。
「そりゃ、まあ、その、ぐっすりしすぎていて」
「すっごい腹立つ。でも、ネームはこのままできっと大丈夫だ。やれるね」
いける、と小さく拳を握りしめた千尋に、松宮が大きな声で叫んだ。
「まあね! できれば増員が欲しいかもね!トーンと背景できるやつ手配して!」
千尋は苦笑した。ほしいかもと彼がいってくるときは、めちゃくちゃ欲しいということだ。素直ではないがとても素直でわかりやすい。
「ああ、わかった。呼び掛けてみる。それじゃ先生、何かあったら、また連絡します」
「ほいさ」と気の抜けた返事のあと、通話が切れた。
「花荻くん、ぼけっとしてらんないね」
「はい! ……っていう話のあとで割るのですが、千尋さん、編集長が割とその、お叱りでいらして」
「えっ」
千尋は目を丸くした。それから腹を抱えて笑い始めた。
「そりゃそうだろうなぁ! まあクビになったら次の仕事を探せばいい! なんか、こう、ぼくもバカになって上京したい気分になっちゃったよ!」
「え? 上京? もういるじゃないですか、東京」
「そうだね、そうなんだけど、そりゃそうなんだけど」
ああ、そうか、わかった、と千尋は立ち上がった。そうだったんだ。なぜ、|彼《・》だったのか。あんなにもまるだし変質者なのに、なぜあんなに居心地がよかったのか。違うのだ。彼が自分を見てくれていたからだけじゃない。自分も彼を見ていたからだ。彼が歩幅をあわせてくれていたのではない。自分も合わせていた。
「知りたかったんだ、ぼくは」
知りたい、人間が、ひとが知りたい。
子どものころからずっと、周囲にいる人間は本当に人間なのか不安だった。表面上のコミュニケーションしかとれなかった。たまにかぼちゃやトマトみたいに野菜に見えたり、宇宙人みたいに自分とは違う得体のしれないものにしか思えなかった。でも、そうじゃないことくらいもうわかっている。
知りたいんだ、人間のことが。
そうか、そうだよな。だからこの仕事だったのだ。誰かが描いた物語を誰かに届ける仕事。ひとの思いの交差点をつくるような仕事を。
関わって生きていきたいんだ。自分は、ひとと関わって生きていきたいんだ。千尋は笑った。
帰り道がこんなに懐かしく思える日がくるなんて、不思議だ。千尋は伸びをしたくなった。右手でスマホを耳に当てたまま、鞄を手にしている左手を鞄ごと、うんと上に伸ばせば体がパキと音を立てる。腕をさげてから千尋はこたえた。
「そっか、それじゃ、ちゃんと尾張先生のフォローはいれられたんだね。よかった」
「はい、次号からガンガンにとばしていって、アンケートでトップとります」
いきまく花荻に千尋は、笑みをこぼした。それから、少し間をおいた。
「今回はその――、花荻さんを巻き込んですみませんでした」
「え、ああ、はい」
「その、いつも、申し訳ないな、とは思っていたんですけれど。ほら、ぼくって結構、性格キツいじゃないですか」
「ああ、え~、はい」
「いつも花荻さんや他のかたも、声かけてくださるのに、いつも、マニュアルどおりっていうか、上澄みみたいな感じの返事しかできなくて」
「ああ、いや、それは」
「ひとと、うまく、生きていけないんです、ぼく、なんかその、そういう、人間関係ってところがあんまりよくわからなくて。だから、その、今回の件で、花荻さんにすごい助けられてばかりで」
「それは、こっちもですよ。と、いうか千尋さんはマニュアル通りっていうよりマニュアル破りじゃないですか?」
「それに、なんだか久しぶりにわくわくしました。編集長にくってかかるなんて」
「い、いや、だって! あれは!」
「面白いですね、千尋さんて。一緒に仕事できてよかったです。絶対、かなえましょうね」
「うう……はい! ありがとうございます」
花荻からの電話を切ると、千尋はゆっくりと遠回りすることにした。無事、来月号の入稿ができた。これで雑誌は出る。
編集長からはお叱りをみっちりされてしまたが、大丈夫だ、結果はいつか必ず数字になってきっと返ってくる、と思う。ただ問題は、さきほど花荻も言っていたように、編集長とガチでやりあってしまったことか。平穏だったはずの編集部内に波風を思い切りたててしまった。
今回のことで編集長に言及された際に、千尋がいままで思っていた不満を全部ぶちまけてしまったからだ。それだけではない。現状、編集部内の低迷として考えられることもその根拠も、自分なりに考えた解決方法までぶちまけて、しまった。
あのとき、編集部内の空気が変わった。ぎょっとみな、たちすくんでいるだけだった。
――この編集部を、いや、F社全体を立て直したい!
そう豪語しては、失笑しか、わかない。自分でも、中途でちょこっと入ってきたおじさんが何を言っているのだろうかと笑ってしまった。けれど、笑えない。ビジョンがある。こちらへ迎えばいいのだと、常に千尋の頭上を光の筋が照らしているのだ。まだ千尋にしか見えてない道を、すこしでも誰かと共有出来たら、と思う。
千尋と編集長のドンパチの最中、花荻が飛び出してきてくれなかったら、そうは思わなかったかもしれない。千尋の話も聞いてくださいと頭をさげてくれた花荻に、千尋も少しずつ、変わっていけそうな――いや、変わっていかなくてはならないんだ。
千尋はスマホをポケットに突っ込んだ。歩きながら両手を上に伸ばしてみた。またパキと骨のなる音がした。このまま少し遠回りをして帰ろうと、普段よりはやいリズムで足音を立てる。目的の場所にたどり着く前に、寄りたい人に遭遇した。
「ち、千尋先生!?」
自分が声をかけるまえに駆け寄って来た青年に、本当にこれでいいのかなと不安になりながら、片手をあげた。挨拶のつもり。千尋は笑いかけた。
「先生、こんにちは。あ、こんばんはかな、時間的に」
「これから稽古?」
「いえ、もう終わりました。これからバイトです。千尋さんはお仕事、終わったんですね」
「今日のところは、ね」
「お疲れ様です」
「全然、疲れてないんだよ、それが」
ほえ、と新崎が目を丸くした。そんなことより言いたいことがあるのだ。千尋は、ぎゅっと拳を握りしめた。ここで、引くわけにはいかない。
「きみと! ともだち、みたいな感じに、いや、そこまではいかなくても、いいけれど、その、本当に、ありがとう!」
自分が何を言おうとしているのか、次に出てくるはずのことばが喉でつっかえて、なんだか苦しい。対して青年も、ぎょっとして小さく飛び跳ねてそれから、恐れ多いと顔を手で覆い、ぺこぺこと頭を下げ始めた。
「いや、え、俺、何もしていないのにお礼なんて」
「そんなことはない。ぼくの書いた脚本を好きになってくれてありがとう。その気持ちを伝えに来てくれてありがとう。だから、その、もっと」
もっと、ちゃんと真剣に、自分のままで、書きたいと思えた。語尾が滲む。だけど伝わった。彼の眼つきが変わった。きらりと輝く一番星に。
「もっと、書いてくれるんですか! 劇の脚本!」
目の前でパチリと火花が飛び散るように、まばゆく、新崎の笑顔がはじけ飛んだ。
「本当ですか! やった~! これからも、たくさん、脚本を書いてくれるんですよね、ね! 嬉しいな。千尋先生の書く話が好きなんですよ、俺!」
「あ、うん、知ってる。最初あったときにも言われた」
「ですよね、ですよね、嬉しいなぁ。ねえ、先生が脚本書こうと思ったきっかけってなんですか?」
「え、ええ?」
「いつもどうやって書いているんですか? あ、企業秘密ってやつですよね! それとも、俺みたいなチンプンカンには一生わからない魔法でも使って――」
「いや、あの、新崎くん?」
「うわぁ、どうしよう。千尋先生って魔法使いだったんだぁ」
「いや、ないからないから」
「あ、そうえいば、先生、知っていました? 三十になっても何かがあると魔法使いになるんだとか、守谷さんが、あ、あれ? 千尋さん?」
あまりにもバズーカだった。だめだ、異世界の人間すぎる。しゃがみこんで腹をかかえた千尋を新崎が覗き込む。
「あのぉ、すみません、大丈夫ですか?」
「ごめん、そりゃぼくなんて魔法を使えないわけだな、ギブ」
「え! いや絶対千尋先生は魔法使っていそうですよ!」
「いやそんなことあるわけないでしょうが」
そう言いながら、どこからこんなにもおかしい気持ちがわいてくるのか、どうしてこんなにも、おかしくて、愉快なのか、本当に――困った。
「あー、なんていうか、どうしてぼくの周りにはこうも、おかしなひとたちばかりが集まってくるんだろう」
「え、そうなんですか?」
「きみが一番だね」
そういって、千尋は笑いすぎて痛む腹に力を入れて立ち上がった。
「きみ、頑張れ。なるんだろう、主役に」
千尋は、新崎の目を見て言った。彼に届くように。
「でも、小さな劇団だけでおさまるようじゃ、ぼくの脚本をきみにはやれない。もっと、おもしろいものを見せてよ。ぼくも頑張るから、きみも、がんばれ」
新崎の連絡先を聞いた。久しぶりに仕事以外の番号をスマホに登録した。この数桁の先に彼がいるのだと思うと電話帳の番号がなんだか特別な呪文のように思えた。これがなんだかいつの日にか何かに化けるような変なそわそわするような予感。
ひさしぶりに作ろうと思えた友だち。うまくできるかわからないけれど、仕事も脚本も友だちつくりも、やりたいこと、なんでもやってみたいと思うのだ。
そう、これからが挑戦だ。ほら、夏が近い。急に晴れて、青空が広がった。狭いなあなんて新崎がつぶやく。地元の空は広くて、ここは狭いような気がするんです、とさみしそうに笑ってから、星はつぶやいた。
それでも、この場所で輝いてみせるのだと。そう笑って向日葵が咲き始めた。まけないように、千尋も笑った。悪いけど、年上を甘くみないでほしいのだ。
(了)
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