夏の熱さをおそれているか
.Ⅱ
――にしても、やはり、この青年は変人だったらしい。千尋はため息をついた。
日が長くなってきたせいか夕方でもまだ昼間のよう。F社近くの緑道で待ち合わせをしていた千尋の姿を確認すると、満開の笑顔で手を振って、それからアスファルトを足で蹴るように小走りで千尋のもとへと駆け寄ってきた。
「せんせぇ~! お待たせしましたぁ~!」
待たせたのはこちらなのに、と思いつつも、千尋はとりあえず営業用の薄い笑顔を浮かべた。すると、遠目からでもわかるくらいわかりやすくボッと火がついたように、青年の頬が赤くなった。苦笑しながら千尋は続ける。
「こちらこそ遅くなりました」
「そんなこと むしろ、その、今回はこのようなことに付き合ってくださり、本当にありがとうございます。先生、大事なお仕事で忙しいのに、俺、先生と外出できることが嬉しくて! 何千年でも、俺、待ちますから」
大事な仕事というかほとんど無邪気に人を振り回すような作家の尻ぬぐいだのお手伝いだの雑用だのの割合が増えてきているような気がする日々なのだが、主に松葉のせいで。何千年待つと言われてもその間にきっと彼を構成する肉体は滅びているのではないかなと思ったが、口には出さないでおいた。
「そうか、それはどうも。ところで、これからどこに行くつもりなの?」
「そ・れ・は、もちろん!」
えっへんと若者は胸を張っていった。
「決めてません! そこらへんぶらぶらしましょうよ!」
――と、いう出来事に巻き込まれたのは、あの日、千尋が新崎を殴ってしまったあとのこと。
あの瞬間は、自分でも何をしてしまったのかわからずしばらく茫然としていたが、手に残る感触に現実が迫って来た。千尋は慌てて青年に謝った。その場は守谷のフォローもあってそのままお開きになった。
その後、ことは起こる。
帰宅している途中で着信があった。松宮のアシスタントをしている古賀|沙保里《さおり》からだった。松宮と話ができないとき頼らざるを得ない重要人物だ。彼女は比較的常識がわかるひとだ。電話に出てすぐに、ため息をついた。要件はなんとなくわかっていた。
「また脱走したんですね」
「すみません。ゆうくんのセフレにも連絡いれて、彼が行きそうなところを探し回ったんですが、見つからなくて」
「そういえば、先生と前に打ち合わせしたとき、新しくお気に入りのホテルを見つけたとおっしゃっていました。新宿の――」
と、なぜ自分はラブホテルの話をしているのだろう。
「ああ、そこは盲点でした。ゆうくんだったら、絶対男連れ込んでやってそう」
「いま逃げられてしまうと、作業はどうなりますか?」
「間に合わないですね、確実に。ゆうくんが逃亡先で原稿をしあげていてくれたらいいのですが……百パーありえないですね。しあげているのはナニでしょうし」
話している内容を字ズラにしたら、とんでもない気持になるだろうな、と頭の片隅で思いながら、作家の蒸発に頭を回す。
「ネームが仕上がってからすぐこれですから。とりあえず古賀さんはネームをもとにすすめられそうな部分だけ進めておいてください。先生はぼくも探してみます」
「はい、本当に、いつもすみません」
ああ、これで今日も帰れなくなる。もう自分の部屋があるアパートの前まできているのに。千尋は肩を落とした。けれど、落ち込んでいる暇はない。Uターンして駅まで戻ろうとしたら、目の前にひとがいた。
「っ! きみ!」
新崎――あの夜、殴ってしまった青年。それが、なぜか目の前に立っている。と思ったら、急にいなくなった。いや、視界の下に突然移動したのだ。
「すみませんでした!」
ずしゃあと膝が地面に擦れる音が小さく鳴った。彼は膝を折り、千尋の足元で土下座していた。
「――は?」
「すみません、本当に俺、どうしようもない人間でした! 申し訳ありません!」
新崎の額が地面に擦れる。いや、まってくれ、何が起こっている? どうして土下座なんかされているのだ?
「ちょ、ちょっとまって、えっと、きみ、落ち着いて」
「本当に申し訳ないです! 死んでおわびしたいところですが、さすがに今は死ねません!」
そう叫ぶと新崎は、顔をあげた。凛と、瞳が光った。それは冷たい光でなく、真夏のように燃えていた。
「あなたの書いた物語の、主演をするまで、死ねないんです!」
ザッと木々が鳴った。風だった。風がふいて、さっと通り過ぎて行った。どこか生ぬるくて、ああ、そうか、もう梅雨があけていたんだった。これから暑くなるばかりだ。そんなことを思った。
「そういうことされると、周りの目が気になるんだけど」
青年は、ぎょっとして、慌てて立ち上がったあと、ぺこぺこと腰を何度も折った。なんだ、こいつ。調子が狂う。
「すみません、本当にすみません」
「いや、その、ほっぺ大丈夫? 思い切りなぐっちゃったよね」
「俺のほっぺなんてどうでもいいです。それよりも、俺、千尋先生のこと全然しらなくて、いやしらなくても、やってはならないことでしたよね、執筆中にお邪魔してしまうなんて」
「いや、よくないから!」
おかしい。どうしてこんなにも腹の底から声がでるのだろうか。叫んでから、慌てて口元を覆った。目を丸くしている新崎に気がついて、慌てて、つけくわえた。
「よくないよ。役者になるんだろう? 顔は大事だ」
そのひとことを吐いたのち、何か伝わった感触が空気を通して伝わってきた。新崎は理解したのだろう、千尋は思わずぎゅっと下唇を噛んだ。それでもなお、新崎は謝り続けた。
「そうですね、すみませんでした。千尋先生は何も悪くないじゃないですか」
「いや、ぼくはきみの武器のひとつに傷をつけたんだよ」
「武器じゃないです! 俺の武器は、なにもなくて……。ただ、今回のことは、明らかに俺が悪い。千尋先生を怒らせてしまったのは、俺が無遠慮に」
「ぼくが手を出したんだよ! ぼくだって悪いです!」
「そんなことありません! 先生が悪いわけないじゃないですか!」
「あります! あるったら、あるんです!」
――と、会話の応酬がヒートアップしすぎて、ふたりは息継ぎのために、小休止した。そのタイミングがぴったりとあった。互いに息を吸っている状態がなんだか、おかしくて、つい笑ってしまった。
「なんですか、本当に先生って、不思議なかたなんですね」
「いや、きみが絶対おかしいんだよ。あんなふうに土下座するひと、初めて見た」
「え? 深く陳謝するにはあれが適当かと」
「いや、絶対違うよ! それから、その千尋|先生《・・》っていうのはどうかと」
「だめですか? 千尋先生は俺にとっては神様のようなかたで」
「いや、ただのしがないサラリーマンだから」
「そんなこと! 八百万のうちのひとつと聞いてもおかしくないくらい千尋先生は神々しいです!」
「いや、怖いわ」
気がついたら笑いながら手をさし伸ばしていた。仲直りの握手をしようだなんて、どちらから切り出したんだか。若くて熱い掌を握りしめた時、なぜか胸がぎゅっとなった変な気がした。
「って、ごめん、それどころじゃないんだ。これから、逃亡した作家を探しにいかないといけなくて!」
新崎がきょとんと目を丸くした。
「ああ、実はぼく出版社勤めで少女まんが雑誌の編集をしていて、担当している作家が逃亡したから捕まえて缶詰にしなくちゃいけなくて、めちゃくちゃやりたくないけれど、やらないと、あとで嫌な目にあうから、やらないと!」
「いや、あのどういう状況なんですか、それ」
「そりゃ、ぼくのほうが聞きたいよ」
「社会人って大変なんですね。わかりました! 俺も探します! っていっても、俺、先生の作家さん、知らないんですが」
「ああ、うん、気持ちだけでありがたいよ」
立ち去ろうとした千尋を新崎の手が掴んだ。
「あの! もし見つかったら、俺とデートしてくれませんか!」
脈絡が全く読めない。千尋は自分の耳を疑った。
「ここで待ってます! また明日!」
――と、本当に待っているなんて思いもよらなかった、の、だが。
現れた青年に、そこらへんぶらぶらしましょうと言われても、それ、何が楽しいのだろうかと思う他なにもない。
けれど、こちらには非があるわけだし、と千尋は内心複雑ながら、表だけには営業用の薄ら笑いを浮かべてうなづくだけうなづいてみた。
相手が舞い上がっているのが、伝わってくる。本当に変な生き物だ。でも一番不思議なのは自分かもしれない。こんなにおかしい人間を前にして警戒心があまりわいてこない。りあえず緑道の一番最後の角まで歩いくことにした。緑道の執着地付近に駅があるので、それで帰ればいいや。そう思えてしまう。
歩き始めて千尋はあることに気がついた。
とても、歩きやすいのだ。自然に車道側に回るのは慣れているからだろう。新崎は頑張って世間話をしようよして守谷が居候しているアサイ食堂の定食の話をしだしたり、舞台の話や、バイトの話など、必死にことばをつむいでいる。その際、千尋は足を緩めたりはやめたり、あえてしてみて理由がわかった。歩く速度、歩幅までこちらにあわせながら新崎は隣を歩くのだ。
自分に呼吸、心拍、体が放つ生存のリズムまでも合わせるようにそこにあおうとしている。かといって、千尋にすべてを集中させているわけではない。
「それで見つかったんですか、先生は?」
「ああ、うん、見つけた」
どこで、と聞かれてきたが、これには答えないほうが絶対いい。秘密の場所だよ、とはぐらかしておいたら、何か勘違いをさせたようで、青年は目を輝かせていた。
「編集者ってすごいんですね! どんな場所にいても探し当ててしまうなんて! ハンターじゃないですか!」
松葉のせいでだんだんと違う職業に近づいてきてしまっているような気がする。今月脱稿したら締めあげようと思いながら歩けば、景色がゆっくりと後ろに流れていく。それにしても目の前の変人確定の彼もどうしてこんなおじさんと並んで話しながら歩いているだけでこんなにも楽しそうなのだろうか、不思議だ。ああ、そういえば前にファンだと言っていたような。――何の?
「いや、どうだろうねぇ」
と答えたとき、新崎が千尋の腕を引いた。勝手に触られてぎょっとしてふりはらおうとした千尋だったが、すぐ近くに突き出た木の枝があったことに気がついて、振り上げた手を下ろした。
「ごめん、気がつかなかった」
「危ないですよね、こういうの。公共の場所なのでもうちょっと管理してもらいたいですね」
フォローしてもらいながら、またとっさに暴力的手段にでようとしていた自分に千尋は肩を縮めた。そんな千尋に向けて新崎はまだ微笑みを浮かべている。
「千尋さんに何事もなくてよかったです」
それを見上げて、ふと思った。これは無防備な笑みだ。ぎょっとした。余計に、彼のことがわからなくなった。
「そんなにぼくの書いている脚本って楽しいの?」
尋ねたとき、声が震えていた。けれど、新崎は気がついたのかそれとも気がつかなかったのか、明るく何事もなく超えた。
「そりゃあもう!」
ぴょんと新崎が跳ねた。なぜ跳ねるのか、小学生か。
「筆舌に出来ないくらいに! いま一番なのは稽古入った『議会討論戦記』なんですけど、その前の『マーメイド・ロワイヤル』、『ウミガメ宅急便』、『ドス濃!』それから」
「ああ、うん、わかった、わかったから!」
千尋は慌てて彼をストップさせた。『ドス濃!』の前に書いたのは『ブルーモーニング』。しかもこれは、高校時代、映画部に入部していた際、学園祭で公開するために千尋が書いた脚本を、守谷が「これ、やりたいんだよねぇ」というので舞台用に書きかえたものだった。
「朝が来たらきっと後悔してしまうだろう、そうおもいながら、俺は目の前のチキンラーメンに」
急に声音を変えて話始めた新崎に、千尋は頬を赤く染めた。
「って、ストップ! ストップ! 待って! 台詞まで覚えてるの_!?_」
えへっと新崎が笑った。いたずらっ子が誇らしげに胸を張るような笑い方だった。
「次、『ブルーモーニング』の公演があるなら、どの役でも台詞覚えているので、ひとりで何役も兼ねられますよ!」
「ファンというのは本当なのか」
「疑っていたんですか! 本気です!」
新崎がむっとしてこちらを見つめて来る。千尋はわけがわからないのに、それがなんだか愉快で、思わず吹き出して笑った。新崎が困惑して、きょろきょろしだす。何か変なこと言いましたかと不安げに尋ねてきた。いいや違う。きみ、存在自体がおかしすぎるだろうに!
――と腰のものがまた鳴り出した。新崎に断りをいれてから、着信をオンにしたとたんアシスタントの古賀から悲鳴に近い声が聞こえて来た。
「先生が、先生がまたっ!」
ああ、始まった。千尋は肩を落とした。
何がそんなにフラストレーションを抱えているのだろう。私生活に何か問題が? 彼曰く、新しいダーリンを見つけたとあんなにはしゃいでいたのに。それとも仕事のせいか?
千尋は新崎に笑いかけた。
「また逃亡したみたいなんだ」
新崎がきゅるっと仔犬のような目をした。
発見した場所はやはりあまりいい場所ではなかったが、ともかく、見つけることができた。
逃亡した松葉を羽交い絞めにして仕事場に放り込んで「今度は軟禁します」と脅してから編集部に戻って他の仕事も進めて気がついたら、また夕方。どうしてこんなに時間の進むのははやいのか。先生の逃げ足にも負けていない。
それから松葉は、ニ、三日と、いうことを聞いてちゃんと自宅兼仕事場で仕事をしている。彼に関して進捗はこと細かく把握しておかないと、締切に響くので、松葉に毎日メールを、その返信がなかった日は古賀へ連絡を入れている。
今日のタスクもある程度終わって、帰り支度をしていたら、スマホが震えた。古賀からメールの着信がきたので、さっと目を通した。進捗状況は良くもなく悪くもない。安心はできないけれど焦る必要もないだろう。
建物の外に出て、外の空気を吸った。すこし湿った空気。雨が干上がったあとみたいだ。雨の残り香のような、それとも水で洗い流されてすこしはましになった豊かな空気に街の雑踏の雑多な臭いと行きかう排気ガスが混じって、ゆっくりと日がのろく落ちようとしている。
ああ、どうして。千尋は一瞬立ち止まって、すぐに歩き出した。驚いている自分に気がついた。あっという間に過ぎていく時間の中を生きていたのに。それなのに。こんな微かなことに気がつくなんて。これが今日の夕暮れの匂いなんだ。
あれから、彼もまた毎日自分を待っていてくれている。
約束したわけでもないのに、F社から彼の待つ緑道へ行き、そこを通って駅前でさよならする。今日も待っているのかもしれない。いや待っているだろうと思うといままで何も感じなかった時間の経過になんだか変な感じがして、心がもぞもぞする。
案の定、ハチ公はそこにいた。
「せんせー!」
千尋の姿を確認すると彼はすぐに手をあげて大きく振った。ふと千尋は自分も小さく手を振っていることに気がついて、また驚いた。
「えっと、きみ、来たんだね」
新崎は「はい!」と答えてその声で夕暮れのメランコリックをすべて吹き消した。
彼は自分のことをぺらぺら話す。不用心だなと思っていたのだが、なんだかんだでその彼のくだらない話を耳に流しながら散歩する気分はいい。
量販店でバイトしながら、守谷と一緒にアサイ食堂の二階で暮らしているのだそう。そろそろ出て行くという話をしていて、だが稽古が始まってそれどころじゃなくなってしまったとも。始まったばかりの稽古ではあるが、ヒートアップしてきて大変だとも聞く。
だが、それでも千尋の目の前の彼はウキウキと心を弾ませている。大変なのに、よくお散歩仲間をずっと続けている。不思議だ。そんな千尋に、彼は楽しそうに返事をした。
「はい! 千尋さんに会いたくて」
にこにこと微笑む新崎の隣で、歩き出せば、千尋の歩幅と速度にあわせて新崎も歩き出した。また新崎が勝手にいろんなことを話しだす。
今朝、アサイ食堂の裏手で野良猫を見つけたことから、守谷の寝相がとても悪くて、腹を蹴られて痛かったことなど。そういえば、高校時代から守谷の寝相は天下一品だった。修学旅行のとき同じ部屋になって後悔したのだった。守谷は部屋の端から端を寝ながら横断していたから。
「あいかわらず、きみの身の回りには面白いことばかり起きるんだね」
「そうですか? 先生のほうが、すごい毎日を送っていそうですが」
ははは、と笑ってみて、千尋は口を閉じた。そうじゃない。すべてが、自分の体を通り過ぎていく風のようだ。あとには何も残らない。
「担当作家さんはどうなんですか? 脱走するやつとか」
「ああ、えっと脱走先生はちゃんと仕事してくれています。本当にありがたいです」
「そうですか、よかった! すこしでも千尋先生が千尋先生の本来の仕事に邁進できるようになるといいです!」
――え? 本来の仕事? あ、ああ、そうか。そうだった。自分は編集者だった。何故いま一瞬、それではないものが頭のなかに浮かんでしまったのだろう。
「それで、千尋先生は――」
と新崎は口を閉ざした。いつの間にか左右に生えていた並木の木が消えていた。駅前の広場に出ていた。
「あの、実はその、すみません」
新崎が突然あたまを下げた。
「俺、先生と一緒にいるのが楽しくてしかたがないのですが」
「ど、どうしたの?」
「その、もう、明日からは来られないんです」
大きく頭を下げた新崎のうなじがくるりと渦を巻いていた。千尋は、息を吐いた。
「そろそろ稽古がきつくなってきて、俺、置いていかれるかもしれない。それは嫌だから、ご、ごめんなさい」
ふっと何かが千尋の体をつきぬけていった。風だ。一陣だけふっと吹いて、すぐに消えていった。
「ああ、うんそうだね。別に気にしてないから。きみ、頑張ってね」
新崎は顔をあげた。千尋はいつものように微笑んでいた。
「あ……あ、は、はい!」
何かに戸惑うように瞳を揺らしていた新崎だったが、いつもの元気のいい声で返事が返ってきた。それから、千尋に何か言いかけたところで、千尋は早口に言った。
「あ、じゃあ、それじゃあね。ぼくは帰ります」
さっと身をひるがえすようにして、駅舎のなかに飛び込んだ。ちょうどホームに電車が入ってきたので、千尋は開いたドアから車内に飛び乗った。家とは反対方面に向かう電車だった。
入り口近くにもたれて、ふっと息を吐く。ばくばくと心臓が鳴っている。どうしたのだろうと自問してみる。よくわからないが、なんとなくショックを受けている自分がいるのだ。
――にしても、やはり、この青年は変人だったらしい。千尋はため息をついた。
日が長くなってきたせいか夕方でもまだ昼間のよう。F社近くの緑道で待ち合わせをしていた千尋の姿を確認すると、満開の笑顔で手を振って、それからアスファルトを足で蹴るように小走りで千尋のもとへと駆け寄ってきた。
「せんせぇ~! お待たせしましたぁ~!」
待たせたのはこちらなのに、と思いつつも、千尋はとりあえず営業用の薄い笑顔を浮かべた。すると、遠目からでもわかるくらいわかりやすくボッと火がついたように、青年の頬が赤くなった。苦笑しながら千尋は続ける。
「こちらこそ遅くなりました」
「そんなこと むしろ、その、今回はこのようなことに付き合ってくださり、本当にありがとうございます。先生、大事なお仕事で忙しいのに、俺、先生と外出できることが嬉しくて! 何千年でも、俺、待ちますから」
大事な仕事というかほとんど無邪気に人を振り回すような作家の尻ぬぐいだのお手伝いだの雑用だのの割合が増えてきているような気がする日々なのだが、主に松葉のせいで。何千年待つと言われてもその間にきっと彼を構成する肉体は滅びているのではないかなと思ったが、口には出さないでおいた。
「そうか、それはどうも。ところで、これからどこに行くつもりなの?」
「そ・れ・は、もちろん!」
えっへんと若者は胸を張っていった。
「決めてません! そこらへんぶらぶらしましょうよ!」
――と、いう出来事に巻き込まれたのは、あの日、千尋が新崎を殴ってしまったあとのこと。
あの瞬間は、自分でも何をしてしまったのかわからずしばらく茫然としていたが、手に残る感触に現実が迫って来た。千尋は慌てて青年に謝った。その場は守谷のフォローもあってそのままお開きになった。
その後、ことは起こる。
帰宅している途中で着信があった。松宮のアシスタントをしている古賀|沙保里《さおり》からだった。松宮と話ができないとき頼らざるを得ない重要人物だ。彼女は比較的常識がわかるひとだ。電話に出てすぐに、ため息をついた。要件はなんとなくわかっていた。
「また脱走したんですね」
「すみません。ゆうくんのセフレにも連絡いれて、彼が行きそうなところを探し回ったんですが、見つからなくて」
「そういえば、先生と前に打ち合わせしたとき、新しくお気に入りのホテルを見つけたとおっしゃっていました。新宿の――」
と、なぜ自分はラブホテルの話をしているのだろう。
「ああ、そこは盲点でした。ゆうくんだったら、絶対男連れ込んでやってそう」
「いま逃げられてしまうと、作業はどうなりますか?」
「間に合わないですね、確実に。ゆうくんが逃亡先で原稿をしあげていてくれたらいいのですが……百パーありえないですね。しあげているのはナニでしょうし」
話している内容を字ズラにしたら、とんでもない気持になるだろうな、と頭の片隅で思いながら、作家の蒸発に頭を回す。
「ネームが仕上がってからすぐこれですから。とりあえず古賀さんはネームをもとにすすめられそうな部分だけ進めておいてください。先生はぼくも探してみます」
「はい、本当に、いつもすみません」
ああ、これで今日も帰れなくなる。もう自分の部屋があるアパートの前まできているのに。千尋は肩を落とした。けれど、落ち込んでいる暇はない。Uターンして駅まで戻ろうとしたら、目の前にひとがいた。
「っ! きみ!」
新崎――あの夜、殴ってしまった青年。それが、なぜか目の前に立っている。と思ったら、急にいなくなった。いや、視界の下に突然移動したのだ。
「すみませんでした!」
ずしゃあと膝が地面に擦れる音が小さく鳴った。彼は膝を折り、千尋の足元で土下座していた。
「――は?」
「すみません、本当に俺、どうしようもない人間でした! 申し訳ありません!」
新崎の額が地面に擦れる。いや、まってくれ、何が起こっている? どうして土下座なんかされているのだ?
「ちょ、ちょっとまって、えっと、きみ、落ち着いて」
「本当に申し訳ないです! 死んでおわびしたいところですが、さすがに今は死ねません!」
そう叫ぶと新崎は、顔をあげた。凛と、瞳が光った。それは冷たい光でなく、真夏のように燃えていた。
「あなたの書いた物語の、主演をするまで、死ねないんです!」
ザッと木々が鳴った。風だった。風がふいて、さっと通り過ぎて行った。どこか生ぬるくて、ああ、そうか、もう梅雨があけていたんだった。これから暑くなるばかりだ。そんなことを思った。
「そういうことされると、周りの目が気になるんだけど」
青年は、ぎょっとして、慌てて立ち上がったあと、ぺこぺこと腰を何度も折った。なんだ、こいつ。調子が狂う。
「すみません、本当にすみません」
「いや、その、ほっぺ大丈夫? 思い切りなぐっちゃったよね」
「俺のほっぺなんてどうでもいいです。それよりも、俺、千尋先生のこと全然しらなくて、いやしらなくても、やってはならないことでしたよね、執筆中にお邪魔してしまうなんて」
「いや、よくないから!」
おかしい。どうしてこんなにも腹の底から声がでるのだろうか。叫んでから、慌てて口元を覆った。目を丸くしている新崎に気がついて、慌てて、つけくわえた。
「よくないよ。役者になるんだろう? 顔は大事だ」
そのひとことを吐いたのち、何か伝わった感触が空気を通して伝わってきた。新崎は理解したのだろう、千尋は思わずぎゅっと下唇を噛んだ。それでもなお、新崎は謝り続けた。
「そうですね、すみませんでした。千尋先生は何も悪くないじゃないですか」
「いや、ぼくはきみの武器のひとつに傷をつけたんだよ」
「武器じゃないです! 俺の武器は、なにもなくて……。ただ、今回のことは、明らかに俺が悪い。千尋先生を怒らせてしまったのは、俺が無遠慮に」
「ぼくが手を出したんだよ! ぼくだって悪いです!」
「そんなことありません! 先生が悪いわけないじゃないですか!」
「あります! あるったら、あるんです!」
――と、会話の応酬がヒートアップしすぎて、ふたりは息継ぎのために、小休止した。そのタイミングがぴったりとあった。互いに息を吸っている状態がなんだか、おかしくて、つい笑ってしまった。
「なんですか、本当に先生って、不思議なかたなんですね」
「いや、きみが絶対おかしいんだよ。あんなふうに土下座するひと、初めて見た」
「え? 深く陳謝するにはあれが適当かと」
「いや、絶対違うよ! それから、その千尋|先生《・・》っていうのはどうかと」
「だめですか? 千尋先生は俺にとっては神様のようなかたで」
「いや、ただのしがないサラリーマンだから」
「そんなこと! 八百万のうちのひとつと聞いてもおかしくないくらい千尋先生は神々しいです!」
「いや、怖いわ」
気がついたら笑いながら手をさし伸ばしていた。仲直りの握手をしようだなんて、どちらから切り出したんだか。若くて熱い掌を握りしめた時、なぜか胸がぎゅっとなった変な気がした。
「って、ごめん、それどころじゃないんだ。これから、逃亡した作家を探しにいかないといけなくて!」
新崎がきょとんと目を丸くした。
「ああ、実はぼく出版社勤めで少女まんが雑誌の編集をしていて、担当している作家が逃亡したから捕まえて缶詰にしなくちゃいけなくて、めちゃくちゃやりたくないけれど、やらないと、あとで嫌な目にあうから、やらないと!」
「いや、あのどういう状況なんですか、それ」
「そりゃ、ぼくのほうが聞きたいよ」
「社会人って大変なんですね。わかりました! 俺も探します! っていっても、俺、先生の作家さん、知らないんですが」
「ああ、うん、気持ちだけでありがたいよ」
立ち去ろうとした千尋を新崎の手が掴んだ。
「あの! もし見つかったら、俺とデートしてくれませんか!」
脈絡が全く読めない。千尋は自分の耳を疑った。
「ここで待ってます! また明日!」
――と、本当に待っているなんて思いもよらなかった、の、だが。
現れた青年に、そこらへんぶらぶらしましょうと言われても、それ、何が楽しいのだろうかと思う他なにもない。
けれど、こちらには非があるわけだし、と千尋は内心複雑ながら、表だけには営業用の薄ら笑いを浮かべてうなづくだけうなづいてみた。
相手が舞い上がっているのが、伝わってくる。本当に変な生き物だ。でも一番不思議なのは自分かもしれない。こんなにおかしい人間を前にして警戒心があまりわいてこない。りあえず緑道の一番最後の角まで歩いくことにした。緑道の執着地付近に駅があるので、それで帰ればいいや。そう思えてしまう。
歩き始めて千尋はあることに気がついた。
とても、歩きやすいのだ。自然に車道側に回るのは慣れているからだろう。新崎は頑張って世間話をしようよして守谷が居候しているアサイ食堂の定食の話をしだしたり、舞台の話や、バイトの話など、必死にことばをつむいでいる。その際、千尋は足を緩めたりはやめたり、あえてしてみて理由がわかった。歩く速度、歩幅までこちらにあわせながら新崎は隣を歩くのだ。
自分に呼吸、心拍、体が放つ生存のリズムまでも合わせるようにそこにあおうとしている。かといって、千尋にすべてを集中させているわけではない。
「それで見つかったんですか、先生は?」
「ああ、うん、見つけた」
どこで、と聞かれてきたが、これには答えないほうが絶対いい。秘密の場所だよ、とはぐらかしておいたら、何か勘違いをさせたようで、青年は目を輝かせていた。
「編集者ってすごいんですね! どんな場所にいても探し当ててしまうなんて! ハンターじゃないですか!」
松葉のせいでだんだんと違う職業に近づいてきてしまっているような気がする。今月脱稿したら締めあげようと思いながら歩けば、景色がゆっくりと後ろに流れていく。それにしても目の前の変人確定の彼もどうしてこんなおじさんと並んで話しながら歩いているだけでこんなにも楽しそうなのだろうか、不思議だ。ああ、そういえば前にファンだと言っていたような。――何の?
「いや、どうだろうねぇ」
と答えたとき、新崎が千尋の腕を引いた。勝手に触られてぎょっとしてふりはらおうとした千尋だったが、すぐ近くに突き出た木の枝があったことに気がついて、振り上げた手を下ろした。
「ごめん、気がつかなかった」
「危ないですよね、こういうの。公共の場所なのでもうちょっと管理してもらいたいですね」
フォローしてもらいながら、またとっさに暴力的手段にでようとしていた自分に千尋は肩を縮めた。そんな千尋に向けて新崎はまだ微笑みを浮かべている。
「千尋さんに何事もなくてよかったです」
それを見上げて、ふと思った。これは無防備な笑みだ。ぎょっとした。余計に、彼のことがわからなくなった。
「そんなにぼくの書いている脚本って楽しいの?」
尋ねたとき、声が震えていた。けれど、新崎は気がついたのかそれとも気がつかなかったのか、明るく何事もなく超えた。
「そりゃあもう!」
ぴょんと新崎が跳ねた。なぜ跳ねるのか、小学生か。
「筆舌に出来ないくらいに! いま一番なのは稽古入った『議会討論戦記』なんですけど、その前の『マーメイド・ロワイヤル』、『ウミガメ宅急便』、『ドス濃!』それから」
「ああ、うん、わかった、わかったから!」
千尋は慌てて彼をストップさせた。『ドス濃!』の前に書いたのは『ブルーモーニング』。しかもこれは、高校時代、映画部に入部していた際、学園祭で公開するために千尋が書いた脚本を、守谷が「これ、やりたいんだよねぇ」というので舞台用に書きかえたものだった。
「朝が来たらきっと後悔してしまうだろう、そうおもいながら、俺は目の前のチキンラーメンに」
急に声音を変えて話始めた新崎に、千尋は頬を赤く染めた。
「って、ストップ! ストップ! 待って! 台詞まで覚えてるの_!?_」
えへっと新崎が笑った。いたずらっ子が誇らしげに胸を張るような笑い方だった。
「次、『ブルーモーニング』の公演があるなら、どの役でも台詞覚えているので、ひとりで何役も兼ねられますよ!」
「ファンというのは本当なのか」
「疑っていたんですか! 本気です!」
新崎がむっとしてこちらを見つめて来る。千尋はわけがわからないのに、それがなんだか愉快で、思わず吹き出して笑った。新崎が困惑して、きょろきょろしだす。何か変なこと言いましたかと不安げに尋ねてきた。いいや違う。きみ、存在自体がおかしすぎるだろうに!
――と腰のものがまた鳴り出した。新崎に断りをいれてから、着信をオンにしたとたんアシスタントの古賀から悲鳴に近い声が聞こえて来た。
「先生が、先生がまたっ!」
ああ、始まった。千尋は肩を落とした。
何がそんなにフラストレーションを抱えているのだろう。私生活に何か問題が? 彼曰く、新しいダーリンを見つけたとあんなにはしゃいでいたのに。それとも仕事のせいか?
千尋は新崎に笑いかけた。
「また逃亡したみたいなんだ」
新崎がきゅるっと仔犬のような目をした。
発見した場所はやはりあまりいい場所ではなかったが、ともかく、見つけることができた。
逃亡した松葉を羽交い絞めにして仕事場に放り込んで「今度は軟禁します」と脅してから編集部に戻って他の仕事も進めて気がついたら、また夕方。どうしてこんなに時間の進むのははやいのか。先生の逃げ足にも負けていない。
それから松葉は、ニ、三日と、いうことを聞いてちゃんと自宅兼仕事場で仕事をしている。彼に関して進捗はこと細かく把握しておかないと、締切に響くので、松葉に毎日メールを、その返信がなかった日は古賀へ連絡を入れている。
今日のタスクもある程度終わって、帰り支度をしていたら、スマホが震えた。古賀からメールの着信がきたので、さっと目を通した。進捗状況は良くもなく悪くもない。安心はできないけれど焦る必要もないだろう。
建物の外に出て、外の空気を吸った。すこし湿った空気。雨が干上がったあとみたいだ。雨の残り香のような、それとも水で洗い流されてすこしはましになった豊かな空気に街の雑踏の雑多な臭いと行きかう排気ガスが混じって、ゆっくりと日がのろく落ちようとしている。
ああ、どうして。千尋は一瞬立ち止まって、すぐに歩き出した。驚いている自分に気がついた。あっという間に過ぎていく時間の中を生きていたのに。それなのに。こんな微かなことに気がつくなんて。これが今日の夕暮れの匂いなんだ。
あれから、彼もまた毎日自分を待っていてくれている。
約束したわけでもないのに、F社から彼の待つ緑道へ行き、そこを通って駅前でさよならする。今日も待っているのかもしれない。いや待っているだろうと思うといままで何も感じなかった時間の経過になんだか変な感じがして、心がもぞもぞする。
案の定、ハチ公はそこにいた。
「せんせー!」
千尋の姿を確認すると彼はすぐに手をあげて大きく振った。ふと千尋は自分も小さく手を振っていることに気がついて、また驚いた。
「えっと、きみ、来たんだね」
新崎は「はい!」と答えてその声で夕暮れのメランコリックをすべて吹き消した。
彼は自分のことをぺらぺら話す。不用心だなと思っていたのだが、なんだかんだでその彼のくだらない話を耳に流しながら散歩する気分はいい。
量販店でバイトしながら、守谷と一緒にアサイ食堂の二階で暮らしているのだそう。そろそろ出て行くという話をしていて、だが稽古が始まってそれどころじゃなくなってしまったとも。始まったばかりの稽古ではあるが、ヒートアップしてきて大変だとも聞く。
だが、それでも千尋の目の前の彼はウキウキと心を弾ませている。大変なのに、よくお散歩仲間をずっと続けている。不思議だ。そんな千尋に、彼は楽しそうに返事をした。
「はい! 千尋さんに会いたくて」
にこにこと微笑む新崎の隣で、歩き出せば、千尋の歩幅と速度にあわせて新崎も歩き出した。また新崎が勝手にいろんなことを話しだす。
今朝、アサイ食堂の裏手で野良猫を見つけたことから、守谷の寝相がとても悪くて、腹を蹴られて痛かったことなど。そういえば、高校時代から守谷の寝相は天下一品だった。修学旅行のとき同じ部屋になって後悔したのだった。守谷は部屋の端から端を寝ながら横断していたから。
「あいかわらず、きみの身の回りには面白いことばかり起きるんだね」
「そうですか? 先生のほうが、すごい毎日を送っていそうですが」
ははは、と笑ってみて、千尋は口を閉じた。そうじゃない。すべてが、自分の体を通り過ぎていく風のようだ。あとには何も残らない。
「担当作家さんはどうなんですか? 脱走するやつとか」
「ああ、えっと脱走先生はちゃんと仕事してくれています。本当にありがたいです」
「そうですか、よかった! すこしでも千尋先生が千尋先生の本来の仕事に邁進できるようになるといいです!」
――え? 本来の仕事? あ、ああ、そうか。そうだった。自分は編集者だった。何故いま一瞬、それではないものが頭のなかに浮かんでしまったのだろう。
「それで、千尋先生は――」
と新崎は口を閉ざした。いつの間にか左右に生えていた並木の木が消えていた。駅前の広場に出ていた。
「あの、実はその、すみません」
新崎が突然あたまを下げた。
「俺、先生と一緒にいるのが楽しくてしかたがないのですが」
「ど、どうしたの?」
「その、もう、明日からは来られないんです」
大きく頭を下げた新崎のうなじがくるりと渦を巻いていた。千尋は、息を吐いた。
「そろそろ稽古がきつくなってきて、俺、置いていかれるかもしれない。それは嫌だから、ご、ごめんなさい」
ふっと何かが千尋の体をつきぬけていった。風だ。一陣だけふっと吹いて、すぐに消えていった。
「ああ、うんそうだね。別に気にしてないから。きみ、頑張ってね」
新崎は顔をあげた。千尋はいつものように微笑んでいた。
「あ……あ、は、はい!」
何かに戸惑うように瞳を揺らしていた新崎だったが、いつもの元気のいい声で返事が返ってきた。それから、千尋に何か言いかけたところで、千尋は早口に言った。
「あ、じゃあ、それじゃあね。ぼくは帰ります」
さっと身をひるがえすようにして、駅舎のなかに飛び込んだ。ちょうどホームに電車が入ってきたので、千尋は開いたドアから車内に飛び乗った。家とは反対方面に向かう電車だった。
入り口近くにもたれて、ふっと息を吐く。ばくばくと心臓が鳴っている。どうしたのだろうと自問してみる。よくわからないが、なんとなくショックを受けている自分がいるのだ。