夏の熱さをおそれているか

.Ⅰ


「それ、とりあえず千尋《ちひろ》さんに聞いてみたら? 彼、そういうの得意だし」
「千尋さ~ん、お電話です」
「すみません、千尋さん、次の先生のネームで悩んでいて、少々相談にのってもらえませんか?」
「次の企画? それ、千尋さんに先にまわしといて! あ、いた、千尋さん!」
 編集部内で自分を呼ぶ声がぐるぐると聞こえてくる。一日で何度名前を呼ばれていたのだろうかと、ふと千尋崇彦《たかひこ》は思った。ひとは一日にいったいどのくらい自分の名前を呼ばれるのだろう。数えてみよう!と明るく頭の中に住んでいる小学生が叫んだが、「いや、そんなの無理だから、それどころじゃないんだ」とやんわりお断りすることにした。
 名前は千尋崇彦。性別は男。
 小さな出版社の女性向け少女まんがを扱うレーベル・ランデブー編集部にて編集者をしている。大学卒業後、新卒で入社した出版社でまんが編集をしていたのだが、|体を壊して《・・・・・》退職してしまった。その後、このF社に拾われてまた編集者をしている。
「千尋さん、松葉先生が~!」
 デスクから受話器を持った|花荻《はなおぎ》が泣きそうになりながら叫ぶ。
 また松葉ゆうか。月刊ランデブーの看板作家でありながら要注意人物だ。作風は恋愛ものであればゴージャスにしてロマンチック、繊細に揺れるドラマと何を書かせても要求にこたえてくるオールラウンダー。それでいて、ひとめで松葉ゆうのまんがだと思わせる個性を持っている。
 固定のファンもいて雑誌を支えてくれる大事な作家ではあるのだが、傍若無人かつ自己中心的で周囲のひとを振り回すとんでもない性格の持ち主で、おまけに松葉ゆう――否、本名・|松宮《まつみや》|侑汰《ゆうた》先生を知るひとは彼のことを「淫乱」と称するくらいの、問題児だ。もし売れなくなったらすぐに契約を打ち切られることだろう。
 あんな人間と仕事が出来る人間は千尋ぐらいだろうと編集部のみなが思っている。売れている実績だけで首の皮をつないでいるような作家、つまり千尋にまわってくる面倒ごと、だ。
 花荻は早くかわってくれと千尋に受話器を押し付ける。苦笑しながら千尋が受け取ると、花荻は解放されて、ほっと胸をなでおろした。
「怖かった~、ほんと怖い」
「そんなにおっかない先生なんですか? 私、先生のチョコホも青リバめっちゃ好きなんですけど」
 入って来たばかりの新人が、松葉の名前に惹かれてやってきた。チョコホ、青リバ――正式名称は「チョコレートホリック」と「青空リバイバル」。
 チョコレートホリックは他社で連載を終えたばかりの松葉ゆうの出世作。青空リバイバルは現在ランデブーで連載が始まったばかりの松葉ゆうの新作少女まんがだ。花荻がぐったりとしながらこたえる。
「きみ、何もしらないから! あんな化け物を担当できるのは千尋さんだけだからね! にしても千尋さんも化け物だよなぁ」
「確かに。松葉先生連れてきてくれてありがたいんですけど、なんか距離感じちゃって話しかけにくいっていうか」
「な〜。打ち上げに顔出したこと一回もないし。なのに、松葉先生を使いこなしてるし、仕事は速すぎるし、一体何人いるんだろう。一人じゃあれだけの量、こなせるわけないって。化け物同士気があうのかな?」
 聞こえているっちゅーの。いくら小言で離されていても、耳まで届いてしまう。だが、これが自分の編集部内での立ち位置なのだ。受話器に押し当てていたほうの耳に、気の抜けた男の声がした。
「もしもーし、ちーちゃん、ちわーす、たまにはセックスでもしない?」
 これで驚いていては身がもたない。ひどいときはもっと下ネタや汚言にまみれたことしか言わないのが、松葉ゆうの偉大なる特徴だ。
「しません。他をお探しください」
「そんなこと言っちゃってぇ、俺とダーリンがもっともぉーっとラッブラブになったら、漫画なんて描けなくなっちゃうよ、四六時中|史《ふみ》ちゃんと一緒なんだから」
 打ち合わせのときもその話ばかりだ。今年の春、先生は数年前から目をつけていた男とついに合体を果たせたと喜びながら報告してきた。
 先生はずっと史ちゃんだのダーリンだのと新しい玩具に随分と夢中になっている。今までの経験上、先生が男と関係を持ってうまくいくのは長くても一年、短くて三日、だ。体だけの関係の男とはそれなりに長く付き合っているらしいのだが、その関係に気持ちが入ったとたんすぐに破局している。だから今回も似たようなものなのだろうと思うのだが、どうも、松葉の浮かれかたを見ていると、どこか自分の身がさみしいような気がしてくる。そういうふうに誰かと関係を持つことに一喜一憂したことがないから。
 して、どうしてこんなしょうもない担当作家の下半身事情まで知っているかというと、一方的に向こうから話してくるせいだ。彼の言うことのどこまでが本当なのか真偽まではわからないので、その史ちゃんというダーリンが本当に存在しているのかも実は謎ではある。けれどこの浮かれっぷりからして、実在の可能性のほうが高いだろうと千尋は思うのだった。
「そうですか、先に|退職《・・》の話でもしましょうか?」
 もちろん、おふざけにすぎない。まんが家に退職なんてない。ただ、契約を打ち切られるだけだ。
「いやぁん、ちーちゃんまで俺と一緒にコトブキハッピー退社するわけぇ?」
「しません、早く仕事をしてください」
「してるしてるぅしてるんだってぇ、さっきから一向に紙が真っ白なだけでぇ」
 千尋は、大きくため息をついた。本当に仕事になっているのだろうか。
「で、編集部にわざわざ電話しに来た要件はなんですか? ぼくのケータイの番号、教えているでしょうに」
 何かあれば編集部ではなく、千尋の携帯のほうに連絡を入れるように言ってあるはずなのだが、と千尋は松葉にそう言いたいのだ。対して松葉の返答はしごく短く簡潔でわかりやすいものだった。
「い・や・が・ら・せ」
 ――だと思った。千尋はため息をついた。もちろん、松葉に聞こえるように。
「まじ俺、今日ラッキーなの。さっき花荻くんが出たもん、わ~い、若いオス、若いオス、若いオス!」
「うちのに変なことしないでくださいね」
「ベッドの中にお持ち帰りしちゃうとか?」
「そういうことは控えてください」
「あはは、前にあったもんね。前の……だっけ? 俺がすこ~し、しゃぶろうとしただけで」
「退職しました。それ、犯罪ですからね」
「その一歩手前ですぅ。同意がない子を誘ったりはしませんの~」
「あなたがいつもそういう態度だから、いつまでたっても、ぼくがあなたの担当をしていなければならないんですよ」
「あ~、そういえば、そうだねぇ。ベテランとか大御所には新人育成かねて若い編集つかせるもんねぇ」
 松宮はデビューしてから数年。年月だけでいえば新人から中堅くらいだろうが、この編集部はほぼ松宮のまんがに食わせてもらっているといえるような状態だ。他の編集者の勉強にならないかと担当編集を千尋と交換したことがあるのだが、長く持って一ヶ月、最速は一日でギブアップしていった。
「それができないんですよ、あなたの場合。すぐに編集者をつぶす」
「あは。俺、ちーちゃんがいい!」
「勝手にいっていてください」
「それじゃあ、ほかの出版社にいこうかなぁ」
 ――何を言っているのか。他社でチョコホの連載を終えたばかりの人間が。
「とがめはしませんが、それでこちらの締切を守れないというのなら」
「お尻ぺんぺんでもする? あ、いや、ちーちゃんのほうがしてほしい側だっけ?」
 頭にきたので、わざと音を立てて乱暴に受話器を置いた。少しの沈黙。千尋の立てたガチャンのあと、部屋のなかが静まりかえり、編集部内に重たい空気が流れていた。
「あの……千尋さん……?」
 不安げに花荻が話しかけてきた。ちょうどそのとき、また電話が鳴った。
「はい、ランデブー編集部、ち……あ、あなたですね」
「そぉでーす。なんでガチャ切りするの、まじで怒った? あは、怒った?」
「こちらは大変忙しいのです。時間がないので要件は手短にお願いします」
「ええーケチケチけちぃ! じゃ、十秒カウントしてください」
「いいでしょう、十、九」
 カウントを始めると松葉は勢いよく要件を叫んだ。
「小劇団に取材を申し込みたい!」
「え?」
「青リバで役者目指してる子が出てくるだろ? このまま人気あがって連載続くようなら、そういうのも話ふくらませるのにいいかなと思って先に情報頭ん中入れておきたいの」
「ああ、はい」
「それで、知り合いのいる演劇集団に取材申し込んじゃったから、千尋っち一緒に行こうぜ。待ち合わせ場所は××駅の前で。日時はねぇ、明日!」
 と、自分の言いたいことだけ言いまくったあと、ぷつっと通信が途絶えた。しかし小劇団とはいったいどこのことだろうか。フットワークが軽いというか、動きまくらないと死んでしまうマグロのようにやりだしたらとまらないのが松葉だ。だが彼が向かおうとしている場所がいまいちよくわからない。あとで問いただせばいいか。
 しかし明日! 急すぎやしないだろうか。千尋は自分のスケジュールを頭のなかで確認する。静かになった受話器を千尋は海の底に落とすように静かにもとの場所に戻した。
「だ、大丈夫ですか?」
 花荻が震える千尋に声をかける。千尋は慌てて背筋を伸ばした。花荻を振り返るときにはいつもの表情に戻っていた。
「ああ、平気だよ。それより、花荻くん、悩んでいるっていってた次号の尾張先生のネーム見せてもらったけど……」


 午前八時。××駅の前。
 いつもは昼前に起きているという松葉ゆうのテンションの高さに驚きながら彼と合流した千尋は、先頭たって歩き始めた彼を追いかけた。
 実は今日、もともと高校時代の腐れ縁モリヤンこと|守谷《もりや》|勝世《かつよ》と約束があった。
 彼は大学を卒業したあと自分の趣味の塊のような舞台をするべく、いつの間にか仲間を集め劇団マッドスピリッツという名の小さな王国を築いていた。
 こういう演劇をやりたいと千尋に熱く語ったあと、脚本を書いてくれと頼まれて、仕事の合間に脚本を書き彼に渡している。まだ新作は出来ていないのだが、ある程度、次の話をまとめて用意できたから、それをたたき台にどうするか相談する予定が入っていた。だが松葉に暴走されたら何が起こるかわからない。松葉の付き添いを優先した。
 仕事で急遽いけなくなった旨を守谷には連絡したが、松葉の付き添いが早く終わったら守谷のもとを訪れることができるように、鞄の中に用意はしてきてある。
 松宮の背中を追う千尋を襲ってきたのはなんだか嫌な予感だ。××駅からのこの通り、まるで向かう先が――。
「ここ! ここ!」
 ある建物に連れてこられたとき、千尋は自分の予感が当たったのに気がついた。「たのもー!」と場違いはなはだしい子どものような叫び声をあげて、建物に入って行った松葉に、慌てて千尋も室内に入った。
「おっと、来たな、|松宮《まつみや》! って、お、千尋_!?_」
 顔を出したのは、会おうと思っていた相手、守谷だった。すぐに駆け寄ってきた守谷は、マドスピのロゴ入りTシャツにジーパンとラフな格好をしている。同じ年のはずなのに、いつも彼だけまるで学生時代で時間がとまっているような、不思議な力強い若さを感じる。千尋は自分だけ老けていくような、ちいさなかなしさを胸に、微笑んだ。
「おはよう、守谷。こちらぼくが担当している作家の松葉先生。今日はどうぞよろしくお願いいたします」
「うわ、嘘だろぉ~!」
 守谷はうづくまって頭を抱えた。
「松宮の言ってた担当編集って千尋、お前のことだったのかよ、うわ~!」
「そういえば、松葉先生、お知り合いがいるとおっしゃってましたねぇ」
「そうだよ、こいつ、松宮|侑汰《ゆうた》は俺の大学時代の――」
 と守谷が言いかけたところを松葉が横入りした。
「大学時代のアイドル侑くんでした」
「いや、アイドルっていうか、問題児って感じだったような気が」
「ええ~、じゃあ、ちーちゃんに俺とモリヤンがエッチな関係だったって話しちゃう?」
 守谷が慌てて叫んだ。
「いや、お前とは本当に何もしてないだろうに!」
「若かったころは本当に良かったよねぇ~! あ~んなことや、こ~んなことまで!」
「してないからな_!?_」
 じゃれあいだした担当作家と腐れ縁を眺め、その輪に入って行けない千尋は改めてくるりとあたりを見回した。松葉は我に返って、本来の目的の話を始めた。
「あ、そうそう、それじゃとっとと練習始めてよ。俺、みたいんだけど」
「ああ、そうね、そうだったね。見学のために来ていたんだったな」
「そーだよ!」と松葉が胸を張る。
「いや、しかし、まさかお前の担当が千尋って」
 松葉は「まだ言うのか!」と笑いながら、フロアに足を踏み入れた。千尋もあとを追う。
 板べっこの床。一面鏡張りの壁。そこには既に配役が決まった演者たちがそろっていた。次回公演予定の「議会討論戦記」の台詞が聞こえてくる。この脚本も千尋が手掛けたものだ。
 松葉の「わぁい、あのひとイケメン~」と黄色く呑気な声が耳に入ってくる。なぜか、男性ウォッチングを始めている松葉に千尋はあきれながら、彼と一緒に室内の端に座らせてもらった。
「ほいじゃ、第一幕、一回通しでやってみっか!」
 入室して来た守谷の声に、ピリリと空気が変わった。各々動きやすいラフな格好の演者たちだったが、一度スイッチが入ると別人のようだった。殺風景なフロアを舞台に、登場人物が動き出す。まだ稽古を始めて日が浅いせいか、台詞を忘れてたとどまる者も、間違ってしまう者もいたが、さすがあのモリヤンの下にいるひとたちだ。本物の舞台のようにミスをカバーしようとするアドリブが必ず入った。
 面白いな。
 まだ噛み合っていない部分もあり熟してはいないのだが、それでも、ここに来てよかった。千尋は鞄から次の脚本にと準備してきた原稿を取り出した。プリントアウトしてきたそれを何枚もめくると該当箇所に、練習風景を見ていて思った気付きをいれていった。もしかしたら、もっと、面白いことができるかもしれない。
「いったん、休憩!」
 守谷の発した声に、また場の空気が変わった。あの張り詰めたような緊張が氷解し、現実の世界が戻って来た。松葉は「わー」と奇妙な声をあげながら、ぱちぱちと拍手をしている。 ――と、そのとき。
「あの、すみません! ち、千尋崇彦さんですよね!」
 よくとおる声が聞こえた。声の持ち主は、汗をぬぐって二人のもとに走り寄ってきた。
「先生! 先生の書かれた『議会討論戦記』、面白かったです!」
 現れるやいなや、彼はがばっと床に額がつくくらい深くお辞儀をした。
 守谷があとから、彼の名前を呼んで駆け寄ってきた。
「お前なあ。いくらファンだからって、はしゃぐなよ」
「あ! 守谷さん! す、すみません」
 彼が頭をあげた。守谷がどこからスカウトしてきたのか。いつの間にか入って来た期待のホープ、新人の――名前は確か……。研ぎ澄まされたような怜悧な顔つきをした青年は美貌を台無しにするかのような低姿勢、それもばかみたいな低姿勢で、守谷に何度もぺこぺこと頭をさげた。
「すまんな一番の新入りなんだが、なんかちょっとこいつ頭バカなんだよ。顔はいいけど」
「だよねぇ、なんかバカが目立ってんなって思ったもん」
 青年は一瞬、松葉にキッと鋭い視線を向けたが、すぐに緩んだ。松葉がニヤニヤと奇妙な笑みを浮かべている。
「こんな感じで稽古しているんだが、その、少しでも役に立てばいいと思います」
 松葉は白い歯を見せてガッツポーズを守谷にみせた。
「よかった。で、実はな。ちょっと俺、千尋に用があって、このあとも稽古は続くんで気がすむまで見ていていいんだが、ほんの少しだけ、千尋を貸してくれないか?」
「え? ちーちゃんを? どうぞ、どうぞ」
 そう言ってから、松葉は守谷の耳元で周りに聞こえないような小声でささやいた。
「密室でセックスするの?」
 守谷がぶっと吹き出した。顔を真っ赤にしながら、叫ぶ。
「するかそんなこと!」
 松葉のふわふわな茶髪にごりごりと守谷の拳が押し当てられる。ちからいっぱいやっているわけではない。ただのじゃれ合いだ。「きゃー」と楽し気に松葉が声をあげる。まるで小学生のようだと千尋はふたりを眺めながら思った。こんなにも仲がいいひとがいるなんてふたりはいいな、と。
「あ、それ、新しい脚本ですか?」
 はっと千尋は我に返った。まさか自分が話しかけられると思わなかった。ぎょっとして、千尋は茶色い封筒――さきほどまで書き込みを入れていた脚本の束――を胸の前で抱きしめた。が、どうやら彼はこれのことを指しているらしい。
「ううん、まだこれは叩き台」
 ずいっと距離を詰めてくる青年に千尋はたじろぎながら答えた。
「わあっ! また千尋先生が新しい話、書き下ろしてくれるんですね!」
 あ、と声が洩れた。
 まるで太陽。目の前で花が咲いた。まるで、大輪の向日葵のようだった。はじける笑顔の青年に千尋はぎょっとして、それからじっと彼を見つめてしまった。春の舞台で台詞のないモブの役で壇上にあがった彼を見ている。
 凛とした佇まいとシャープに整った顔つき。この子が宿命を背負ったクールで熱い人物を|演《や》ったらどうなるのだろう。想像力をかきたてられて書き上げたのが今回の「議会討論戦記」だった。あいにく、彼に演じてもらいたくてつくった登場人物は別のもっと実力のある演者に配役されたのだが、別の冷徹だが芯の熱い人物に配役されていた。
 今日の練習でも演じ切っていた姿をこの目でみて、そう、それで、この叩き台に覚えたインスピレーションをつい書き込んでしまって――。
 が、しかし、いま目の前にいる彼は何者なのだろう。なんだか頼りないし、ふわふわしていてよくわからない。
「そ、そんなたいしたものじゃないけど……」
「何をおっしゃるんですか! 千尋先生、好きです! 俺、演劇やろうって思ったの、千尋先生がいてくれたからなんです! 先生は俺の憧れなんですから!」
「なっ、先生って呼ばれるようなもんじゃないし」
 と隣を見れば、さっきまで小学生に返ってじゃれあっていたふたりが何やらニヤつきながらこちらを見ていた。
「ちょ、も、守谷、この子、何_!?_」
 助けを求めたのに、守谷はにやにや笑うばかりで何もしてくれない。千尋が困っているのに青年が気がついてあわてて距離をとってくれた。
「あ、す、すみません、忙しいのに、俺、勝手に話しかけちゃって! あの、えっと……俺、先生の次回作も楽しみにしていますから!」
 さっと、また頭を深々とさげて、彼は走りさっていった。その後ろ姿を眺めながら、千尋はつぶやいた。変だ。絶対、あの子は変だ。自分がいままであったことのない変な人種だ。
「な、なんなの、あの子は……?」
「いいだろ? ああみえて情熱的なんだ」
 守谷が誇るように胸をはっていた。
「本当だぜ? ここにいる理由も大好きな千尋センセーの脚本を自分が演じたいから、だ。驚いたか?」

 
 守谷にたたき台を読んでもらい要望を聞いたのち、午後から会社に戻った千尋の行動はいつもどおりだった。先週持ち込みの電話を受けたので、約束の時間までデスクでタスクをこなしていく。いつもと変わらない日常がそこにあった。そんな千尋に花荻が話しかけてきた。
「千尋さん、今日、何かあったんですか?」
「いえ、いつもどおりですが?」
 質問の意図がわからない。きょとんと小首をかしげながら、千尋は返した。花荻は「そう、ならいいんですが」と簡潔に返した。
「花荻さんこそ、尾張先生、どうですか?」
「ああ、本当に助かりました! ネーム、よくなったので、そのまま先生に描いていただくことにしました。まんがのことは何でも千尋さんに聞けば間違いないですね」
 ガタンと音が立った。ぎょっとした千尋が机の角にからだをぶつけたのだ。
 何故かにこにこと微笑む花荻が、一瞬かぼちゃに見えた。千尋はもう一度彼を凝視した。いや、そんなことはない。目の前の男は、ただの人間の顔をしてこちらを見ている。
「千尋さん? どうかしましたか?」
「あ、いえ」
「やっぱり疲れているんじゃないですか? シュガ雨の単行本のあとですし」
 松葉ゆう「青空リバイバル」に、シュガ雨こと夢野牧「シュガーライフと雨宿り」。どちらも千尋が立てた連載だ。
 ちょうど一巻の発売が始まったばかり。作者夢野牧にとっては初めての単行本作業だったため、苦心していたが、なんとか出版までこぎつけることができた。
 千尋は、「そうですね」と口にしたが、本心ではそうではないのだ。別に疲れてなどいない。むしろ、担当作品の単行本発行が、千尋の活力にもなってくれているのに。
 それなのに、いつも勝手に口が開く。これは作られた動作だ。自分で作って来た動作なのだ。千尋は苦笑した。
 目の前に生身の人間がいるのに、なんと遠いことか。昔からそうだった。自分と周りの人間には目に見えない膜に隔てられているかのように、遠く、断絶を感じる。まるでゲームのCPUのように、千尋のまわりにやってきてはわたわたと動き、千尋は近くにいるはずなのに遠くからそれを見つめているような感覚で、千尋は現実に参加できず、ぽつんとそこにいるだけなのだ。
 違う、そんなことはない、とわかっていても、なぜか、職場のひとたち、会う作家や作家志望、すべての人間を、どうして――。
 と、胸のポケットが震えた。中にスマホを入れていた。花荻に断って千尋は慌てて通話をオンにした。
「ちーちゃんのばかぁ!」
 覚えのありすぎる声が言われる覚えのないことを真っ先に口走り始めたので、なるべく冷静になろうと深呼吸してから千尋は何があったのか尋ねた。どうせ、彼氏がどうのこうの、もしくは次のネームが思いつかない、もしくは――ああ、考えるだけで萎えてくる。
「――というのは冗談です」
 松葉の声にガクッと膝から崩れおちそうになった。千尋は、いやみでもくらえ、を発動した。
「でしょうね、先生はひとをばかにするのがお好きですからね」
「そーなのよ、そーなのよ、んで、別にいいや今はそんな話。それよりさ、俺、忘れ物しちまった」
「え?」
「いや、マドスピ見学行ったろ? スケッチブック一冊たんないんだわ」
「それ、メールで良かったのでは? わざわざ電話してきます?」
「俺ぇ、ちーちゃんの声が聞きたいのぉ~。取り行ってくんない? 守谷が確保してくれてる」
「ああ、いつから編集者は作家の雑用にまで落ちぶれたのでしょうね」
「何いってんの、今日は編集部に電話入れてないだけありがたいと思え」
 何を言っているのかとこちらが言いたい気分だったが、相手が松葉の場合、いったところで無駄だ。そういえば編集部内でも松葉のサイン会をやらないかという案がでていた。人気はあるが、彼は人前に出してはならない存在であるという認識は編集部内の共通認識にまでいたりより、その案は却下されたのだが、せっかくアナログで原画もたまってきているのだから、いつかは松葉の絵を展示するだとか、多少は何かできたらいいと思うのだが。ああ、でも、彼は人前に出せないな、と千尋はため息をついた。


 打ち合わせのあと、直帰できたため、千尋は少し遠回りして帰ることにした。守谷勝世が身をよせているアサイ食堂によるためだ。
 小さな大衆食堂で、守谷のおばが経営している。そこの二階の居住スペースを間借りしていたはずだ。松葉と知り合いなら、松葉も直接取りに行けばいいものを。いや、すこしでも松葉が原稿に専念し今月こそ余裕のある入稿を行ってくれるのなら、それに越したことはないので、ああ、いや、そうはいっても。それにしても、守谷に連絡をいれたが返信が返ってこない。取りに行くと連絡をいれたのだが。返信待たずに行って大丈夫だろうか。
 営業中と木の札がかけられた戸口の前に立った千尋は背中から聞こえてきた奇妙な声にくるりと振り返った。
「あ、せ、せせっせせ、せんせっせせ」
 ぱさりと音がしてその青年が手にしていた紙袋が地面に落ちた。顔を真っ赤にして目をひんむいて、まるで幽霊かお化けかそれとも宇宙人か、変なものを見たかのように目をまるくして、体を硬直させたまま、動かない。にしても、驚き方がオーバーすぎる気がする。
「やあ、こんにちは。守谷に用があって来たんだけど。……ねえ、きみ、大丈夫?」
「せんせせっせっせい、あ、えと、ボスは、いま、外出中で、あの、先生っ!」
 青年は大声で叫んだ。
「先生、好きです!」
 はあ、なるほど、そうですか……はい?
 もしかして、この青年、何かキメているのだろうか。それともそうとう奇天烈な|性《タチ》? どちらにせよ、千尋にとっては初めて会うような、変な人間であることには変わらない。
 彼は自分の口走ってしまったことばの意味を吐き出したあとできがついて、わたわたと慌ててその場で一回転した。ふわりと舞い上がる綺麗なバク転を見て、千尋は思わず小さく拍手した。すると彼は嬉しそうに照れながら笑った。
「要件は聞いています。その、スケッチブック、ですよね! 持ってきますので、あ、えと、中、どうぞ」
 引き戸を開ければ、数人しか客が入っていなかった。「待っていてください」と、青年は千尋をテーブル席に座らせたあと、何故かお冷を持ってきてから、バタバタを姿を消した。いただいたことだし、と水を口に含む。グラスの中で氷が音を立てた。本当に変なひとだ。慌てるのもいいが、あんな変な走り方、するか? ふと、今かかえている脚本でこの退場方法が使えるかもしれないと、アイディアが浮かんだ。メモしておこうと、鞄から古びたポメラを取り出した。
 自分で買ったわけではない。おそらく誰かにもらったものだろう。外出先での書き物はこれにずっと頼っている。こすれて文字がきえたキーの上で指を躍らせる。
 すっと、何かが流れてきた。ただ思い浮かんだことをメモするだけだったのに、それは一滴、一滴と千尋の上にしたたりおちて、いつの間にか大きな滝になり、轟音になってとどろいた。音楽が始まっていた。
 千尋はただ書き留めるだけの機械になって、指を動かした。キーボードをたたき始めれば、その音の間隔はだんだんと狭まっていく。文字が、頭のなかに流れ出す。違う、文字ではない。音楽だ。
 音の流れがまず響き始めてそれを追うように歌うようにことばを紡ぐ。その体内に宿した楽器が、ゆっくりと奏でられる。ひとつの楽器だけじゃつまらない。
 ふたつ、用意すれば、お互いの音色を引き立て合うように、重なり、また遠ざかり、そして重なって、歌い出す。それをことばに変換して、エディタにうちこんでいるだけだ。
 台詞は流れなくてはならない。終幕にゆっくりと流れ落ちていかなくてはならない。それは、コップのなかに注がれていく水のように、きっといつかはいっぱいになって、グラスの上をこぼれて、床の上へ、外へと流れだしていく。だが、まだその時ではない。遠くの世界を夢見て、いまは蓄えるとき、音に触れて、その音を積み上げるとき。
 ――ん? なんだろう。何か遠くから聞こえてくる。ああ、なんだ、邪魔だ。ノイズだ。演奏を邪魔するように何度も、何度も、何かがやってくる音、殻のように自分の周りに現れた幻想世界の表面を何度も何度もノックして、叩いて、砕く。
「先生! 先生!」
 誰? その声は誰を呼んでいるの? |私《・》じゃない。彼でもない。だって私は――。
「先生! あの、すみません!」
 がっと、何かが崩れ落ちた。殻が破られて、千尋が自分の世界を守るためにつくった結界の向こう側から無遠慮に差し込まれた腕は、千尋の肩に触れた。ひきはがされる。
「すみません、えと、集中しているところ申し訳ないのですが」
 はっとして見上げれば、そこには知らない――いや、違う、この男は誰だ、違う、それは物語の中で、そう、現実、ここは現実、目の前にあるものは現実。
 千尋は彼の名前を呼ぼうとして、喉がつかえて、あわてて空気を吸い込んだら、頭の奥がじんわりと重くなった。なぜだろう。ことばにできない変な違和感がある。誰だ、この男は――と、ここで完全に目が覚めた。千尋はかなでていたメロディの外側に放り出され、全身の金細胞がびりびりと電気を発した。
 入りこまれた! 勝手に!
 嫌悪感が先に走った。青年を振り払うと、手をあげた。
 乾いた音が響いた。なんで! なんで、|侵入《はい》ってきた!
 しばらくして沈黙――ただの白紙の音が聞こえた。それを破ったのは、腐れ縁の驚いた声。見上げれば、いつの間にか守谷がこちらを見ていた。
「おいおい、何やってるんだよ」
「おい、新崎、大丈夫か?」
 だが守谷は自分をみなかった。千尋を一瞬眺めたあと、すぐに別の方向に向かって手を刺し伸ばした。「すみません」と答えて立ち上がった青年の右頬が赤くなっていた。何が起きたのか、千尋はすぐに理解できなかった。自分の手がひりひりとした焦燥感とともにやけに熱くなっている。店の奥から守谷のおばさんが駆け寄ってきて、テーブルを付近で拭いている。ああ、コップが倒れたのか。中の水がこぼれたのか。どうしてこぼれたんだろう。
 はっとなって千尋は、短く息を吸い込んだ。
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