憧れが恋に変わったそのあとに

星に願いを

 あとはもう寝るだけだ。そのまえに一服したい。自宅のリビングでテレビにうつった「七夕」の文字で、今日がその日なのだということに気が付いて、千尋は口を開けた。
 毎日が忙しい。多忙さにかまけて、日付の感覚が狂っていた。もう梅雨開けて夏になっていたというのに、まだ梅雨明け前の気分でいた。この年になって、「お星さまにお願い」は流石にしないが、季節の感覚がずれるのはよろしくない。ソファに沈みながら、ノンカフェインのコーヒーの入ったマグに口をつけたとき、ドアベルが鳴った。
「あ、新崎くん」
 姿を現した彼の手には、緑色の物体が握られていた。
「千尋さん、願い事は決まりましたか?」
 そういいながら、大股で室内に入って来た新崎迅人は、手にしていた緑色の物体を部屋のあちこちに持って行っては「ここは駄目か」「ここならどうだ?」と飾る場所を探し始めた。
「に、新崎くん?」
 そんな彼の背中におずおずと千尋が声をかけた。
「あ、すみません。遅くなってしまって。もう十一時ですね」
 時計に目をやりながら、新崎が苦笑した。
「夜にバタバタしてしまって申し訳ないです。でも、俺、今日も稽古が入っていて、どうしても」
「いや、それは知ってる、けど。何で笹なんて持ってるの?」
「え? 今日は七月七日ですよ」
「いや、それはわかるけど」
「せっかくなので、俺、千尋さんと一緒に七夕したくて!」
 キラキラと瞳を輝かせて、新崎が笑う。どこで準備してきたのか全く想像できない笹。芝居の稽古で忙しいはずなのに、どうやって準備してきたのか?
「ここに設置していいですか?」
 千尋がうなづくと、嬉々として新崎が笹を立てる。
「飾り物まで手が回らなくて、質素で申し訳ないですけど、短冊なら用意してきました」
 新崎の手のなかに、オレンジ色の紙がにぎられていた。
 ――舞台が成功しますように――
「ちょ。何ですか? 千尋さん」
 吹き出して笑った千尋に、新崎が恥ずかしそうに肩をすくめた。
「いいじゃないか、悪くないね」
 ド直球を投げた新崎の願い事に、千尋は腹を抱えた。
 相変わらず、不思議な子だ。仔犬のように自分に付きまとう可愛い姿からは想像できないが、ものすごいエネルギーを秘めている。まさかこんな夜中に七夕を、それもこんな小学生がやるような感覚で、行うなんて。
「千尋さんの願い事はなんですか?」
 笹の一番上に、背伸びした新崎が自分の短冊を飾った。――あ。短冊が翻る。裏面に書かれた文字に、千尋は、またもや吹き出した。(了)
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