憧れが恋に変わったそのあとに
「ねがいごと」
平凡といえば平凡なのかもしれないが、幸福な家庭。平日は仕事に精を出す父の休日は家の水槽の掃除。趣味は編み物、普段は家事の合間を縫ってレジ打ちのバイトをしている母。
ぽちゃっとしていて同級生にそれをからかわれることはあるけれど、その分、勉強の成績は良かったし、何ひとつ不満もない、そんな人生だった。
向かうべきさきは、常に示されていて、行くべき高校に入学できたし、それなりに友だちもいた。ごく平均的な高校生らしく、学業と、部活に打ち込めた。
このまま、行くべき場所として決めた大学に入学して、そのままそこを卒業して、どこかに就職して、付き合っている彼女にいつかプロポーズして、そして、結婚して、平凡な家庭を築いて、そのまま、一生、平らかに安らかに過ごすのだ。
そう思っていたのに。
実家から持ってきた目覚まし時計が鳴った。午前五時半。新崎迅人は、まだ寝足りない身体を必死にゆりうごかして、布団の中から這い上がった。
だが目が開かない。それに頭が真っ白で、起動できない。足元に置いた二つ目の目覚まし時計が鳴った。こちらは、百円均一で買ったものだ。
さらに、机の上に置いてあるスマホのアラームまでなり出した。こうなったらお手上げだ。ひとつひとつ解除して回るしかない。
「新崎! うっせえ!」
すぐ近くベッドの中で寝ている先輩が叫んだ。新崎は慌てて、目覚まし時計のスイッチを切った。
役者になりたい。反対する家族に向かってそう叫んで家を飛び出した。あれから、もう半年になる。上京してからは、稽古と同時にバイトをしている。時給千十円で出来ることは限られていて、同じ志を持った男と安アパートに同居という形で落ち着いた。
「す、すみません……」
六時から、配達のバイト。それが終わったあと、劇団の稽古が入る。そして、夕方からは量販店のレジ打ち。
太り気味だった体形はみるみる間に痩せてきて、やわらかな脂肪の肉が、硬く引き締まった筋肉になってきた。
同居人に頭を下げて、彼はさっと朝支度をした。ゼリー飲料を口に咥えながら、着替える。スニーカーに足を通した。靴はこの一側しかない。
「いってきます」
彼を起こさないように、新崎は小声でそう言うと、さっと玄関のドアを閉めた。
外はまだ寒い。夜の気配の残した薄暗い景色、コンクリートで出来た灰色の世界。
つい、こたつのあるあたたかな実家の部屋を思い出す。父と母と、囲む鍋。ああ、いいなあ。
もう三月だというのに、三寒四温で安定しない気候。慣れない街。ひとが多すぎるせいだ。小さな面積に一気に人口が集中しているせいか、近くに人がいることが当たり前になっている。だから、この街の人間はすりきれている、と新崎は思う。
死んだような目で電車に乗っている壮年たち。買い物袋を重たそうに抱える疲れ切った主婦。学業に追われる学生。
最新が詰まった都会に少し憧れがあったのだが、ここは、地元にくらべて、何かがさびれている。
帰りたいと、たまには思う。けれど、前に進んでしまった足が、後ろに向くことはない。新崎は息を弾ませながら、朝のバイト先へと向かった。
「お、新崎ちゃん」
「へ?」
声をかけられて、新崎はどきりと心臓をはずませた。ふりかえると、そこに見慣れた人影があった。
「ぼ……、ボス」
守谷勝世。彼はこう見えて演出家兼芝居も出来る役者で、さらにいうと、とある小さな劇団の|座長《ボス》をしている。新崎は彼に拾われたからこそ、この街に出てくることが出来たのだ。
「何? 朝から走り込み? やるじゃん」
走り込みになってしまっているのは、タクシー代なんてもっての他、貯金がたまらなくて自転車すら買えないからだ。
「まあ、そんなところです。ボスもまだ早いですね」
「いや、逆。遅いんだわ。ちーちゃんと、朝まで生激論、飛ばしていたからさぁ。おっさんになると駄目だわ、こりゃ」
ぼりぼりと、後頭部をむしるように掻く守谷のことばに新崎は瞳を輝かせた。
「ち、ちーちゃんって、あの脚本のひとですよね!?」
「え? ああ。うん」
新崎の変化に、守谷がちょっとたじろいだ。
「ちーちゃんって……千尋崇彦先生! え、あの、も、もしかして、先生のご自宅はこのあたりなんですか!?」
「いんや? ……てかさ、若いのはいいねえ、朝から元気で」
「え、あ。す、すみません」
肩を落とした新崎に、守谷がぽんと手を添えた。この肩の上には今は何も乗っかっていない。だからこそ、上に向かって伸びようとしている。
「確か、えっと千尋目当て、だったよな、動機。とんでもない話がある」
「え?」
「俺っち、やったぞ。仕事で忙しいってクマ作っているあいつを口説き落として、新作の筋作ってもらうことになった」
「ええ……!?」
新崎の表情がまたほの明るくなった。新作の予感に彼の頬が興奮に薔薇色と化す。
「お前も名前のついた役とれるようになると、いいけどなあ……さあ、どうする?」
意地悪く目を光らせた守谷に、新崎の回答は、決まっていた。
「やります! どんな役でも、もぎとります!」
カッと守谷が、笑った。男の笑い方はすがすがしかった。
「ああ~、たまんねえ。最近の若者は~って言う前に、こういう頭いっちゃってるやつ、探したほうがいいだよな、ホントに。最高! んじゃ、ボスは家帰って、寝てから顔出すんで。先輩にしっかりしごいてもらいな」
「はい!」
ひらひらと手を泳がせるように振る守谷の背中を見送りながら、新崎は小さく拳を握りしめた。
どうして、こんなことをしているのだろう。そう思う。けれど、ただ思うだけだ。
今頃、きっと大学生になっていて、キャンパスライフを満喫していたかもしれない。高校時代に出来た彼女とも別れなくて済んだかもしれない。父と母と、半ば喧嘩別れのような、旅立ちをしなくて済んだかもしれない。
けれど、そんなことより、肌寒い今のほうが、実感がある。
なんでかわからない。
みじめなのは、みじめだ。
それなのに、新崎は思う。こちらのほうが、断然、良い。
「千尋先生の新作、かぁ……。どうくるかなあ」
それを考えただけで、胸が熱くなる。
平凡な、今までの自分の人生をすべて、打ち壊してしまったもの。自分を作り変えてしまったもの。
もう、ありきたりのものじゃ満足できない。
この世にそれを生み出せるひとがいるのだから、そのひとのようになりたい。いや、そのひと自身になりたい。
小さな恋のような憧れだけが、彼の胸にある。彼のつくる物語の中に、行きたいのだ。そんな幼くちいさな願いごとが、新崎の心臓をどくどくと動かしている。
ふっと、小さく息を吐いて、新崎は、行った。シフトの時間に遅れてしまう。まだまだ、道は遠い。だから、スニーカーが大きく走り出した。(了)
平凡といえば平凡なのかもしれないが、幸福な家庭。平日は仕事に精を出す父の休日は家の水槽の掃除。趣味は編み物、普段は家事の合間を縫ってレジ打ちのバイトをしている母。
ぽちゃっとしていて同級生にそれをからかわれることはあるけれど、その分、勉強の成績は良かったし、何ひとつ不満もない、そんな人生だった。
向かうべきさきは、常に示されていて、行くべき高校に入学できたし、それなりに友だちもいた。ごく平均的な高校生らしく、学業と、部活に打ち込めた。
このまま、行くべき場所として決めた大学に入学して、そのままそこを卒業して、どこかに就職して、付き合っている彼女にいつかプロポーズして、そして、結婚して、平凡な家庭を築いて、そのまま、一生、平らかに安らかに過ごすのだ。
そう思っていたのに。
実家から持ってきた目覚まし時計が鳴った。午前五時半。新崎迅人は、まだ寝足りない身体を必死にゆりうごかして、布団の中から這い上がった。
だが目が開かない。それに頭が真っ白で、起動できない。足元に置いた二つ目の目覚まし時計が鳴った。こちらは、百円均一で買ったものだ。
さらに、机の上に置いてあるスマホのアラームまでなり出した。こうなったらお手上げだ。ひとつひとつ解除して回るしかない。
「新崎! うっせえ!」
すぐ近くベッドの中で寝ている先輩が叫んだ。新崎は慌てて、目覚まし時計のスイッチを切った。
役者になりたい。反対する家族に向かってそう叫んで家を飛び出した。あれから、もう半年になる。上京してからは、稽古と同時にバイトをしている。時給千十円で出来ることは限られていて、同じ志を持った男と安アパートに同居という形で落ち着いた。
「す、すみません……」
六時から、配達のバイト。それが終わったあと、劇団の稽古が入る。そして、夕方からは量販店のレジ打ち。
太り気味だった体形はみるみる間に痩せてきて、やわらかな脂肪の肉が、硬く引き締まった筋肉になってきた。
同居人に頭を下げて、彼はさっと朝支度をした。ゼリー飲料を口に咥えながら、着替える。スニーカーに足を通した。靴はこの一側しかない。
「いってきます」
彼を起こさないように、新崎は小声でそう言うと、さっと玄関のドアを閉めた。
外はまだ寒い。夜の気配の残した薄暗い景色、コンクリートで出来た灰色の世界。
つい、こたつのあるあたたかな実家の部屋を思い出す。父と母と、囲む鍋。ああ、いいなあ。
もう三月だというのに、三寒四温で安定しない気候。慣れない街。ひとが多すぎるせいだ。小さな面積に一気に人口が集中しているせいか、近くに人がいることが当たり前になっている。だから、この街の人間はすりきれている、と新崎は思う。
死んだような目で電車に乗っている壮年たち。買い物袋を重たそうに抱える疲れ切った主婦。学業に追われる学生。
最新が詰まった都会に少し憧れがあったのだが、ここは、地元にくらべて、何かがさびれている。
帰りたいと、たまには思う。けれど、前に進んでしまった足が、後ろに向くことはない。新崎は息を弾ませながら、朝のバイト先へと向かった。
「お、新崎ちゃん」
「へ?」
声をかけられて、新崎はどきりと心臓をはずませた。ふりかえると、そこに見慣れた人影があった。
「ぼ……、ボス」
守谷勝世。彼はこう見えて演出家兼芝居も出来る役者で、さらにいうと、とある小さな劇団の|座長《ボス》をしている。新崎は彼に拾われたからこそ、この街に出てくることが出来たのだ。
「何? 朝から走り込み? やるじゃん」
走り込みになってしまっているのは、タクシー代なんてもっての他、貯金がたまらなくて自転車すら買えないからだ。
「まあ、そんなところです。ボスもまだ早いですね」
「いや、逆。遅いんだわ。ちーちゃんと、朝まで生激論、飛ばしていたからさぁ。おっさんになると駄目だわ、こりゃ」
ぼりぼりと、後頭部をむしるように掻く守谷のことばに新崎は瞳を輝かせた。
「ち、ちーちゃんって、あの脚本のひとですよね!?」
「え? ああ。うん」
新崎の変化に、守谷がちょっとたじろいだ。
「ちーちゃんって……千尋崇彦先生! え、あの、も、もしかして、先生のご自宅はこのあたりなんですか!?」
「いんや? ……てかさ、若いのはいいねえ、朝から元気で」
「え、あ。す、すみません」
肩を落とした新崎に、守谷がぽんと手を添えた。この肩の上には今は何も乗っかっていない。だからこそ、上に向かって伸びようとしている。
「確か、えっと千尋目当て、だったよな、動機。とんでもない話がある」
「え?」
「俺っち、やったぞ。仕事で忙しいってクマ作っているあいつを口説き落として、新作の筋作ってもらうことになった」
「ええ……!?」
新崎の表情がまたほの明るくなった。新作の予感に彼の頬が興奮に薔薇色と化す。
「お前も名前のついた役とれるようになると、いいけどなあ……さあ、どうする?」
意地悪く目を光らせた守谷に、新崎の回答は、決まっていた。
「やります! どんな役でも、もぎとります!」
カッと守谷が、笑った。男の笑い方はすがすがしかった。
「ああ~、たまんねえ。最近の若者は~って言う前に、こういう頭いっちゃってるやつ、探したほうがいいだよな、ホントに。最高! んじゃ、ボスは家帰って、寝てから顔出すんで。先輩にしっかりしごいてもらいな」
「はい!」
ひらひらと手を泳がせるように振る守谷の背中を見送りながら、新崎は小さく拳を握りしめた。
どうして、こんなことをしているのだろう。そう思う。けれど、ただ思うだけだ。
今頃、きっと大学生になっていて、キャンパスライフを満喫していたかもしれない。高校時代に出来た彼女とも別れなくて済んだかもしれない。父と母と、半ば喧嘩別れのような、旅立ちをしなくて済んだかもしれない。
けれど、そんなことより、肌寒い今のほうが、実感がある。
なんでかわからない。
みじめなのは、みじめだ。
それなのに、新崎は思う。こちらのほうが、断然、良い。
「千尋先生の新作、かぁ……。どうくるかなあ」
それを考えただけで、胸が熱くなる。
平凡な、今までの自分の人生をすべて、打ち壊してしまったもの。自分を作り変えてしまったもの。
もう、ありきたりのものじゃ満足できない。
この世にそれを生み出せるひとがいるのだから、そのひとのようになりたい。いや、そのひと自身になりたい。
小さな恋のような憧れだけが、彼の胸にある。彼のつくる物語の中に、行きたいのだ。そんな幼くちいさな願いごとが、新崎の心臓をどくどくと動かしている。
ふっと、小さく息を吐いて、新崎は、行った。シフトの時間に遅れてしまう。まだまだ、道は遠い。だから、スニーカーが大きく走り出した。(了)