憧れが恋に変わったそのあとに

「千尋さんって舞台やドラマの脚本は書くけれど、小説って書かないですよね?」
 そう言いながら、新崎迅人は、ゆっくりと居間まで歩いていった。下は下着の上にゆるい黒のジャージを履いているが、上は肩にタオルをかけただけで、鍛えあげた肉体をそのままさらしている。俳優業。魅せるための肉体だ。
「まあね。……って、新崎くん」
 千尋は、リビングのソファに足を組みながら沈んでいた。その視線も手元のペーパーパックに落ちていたが、本の向こう側に彼の素足が見えたので、顔を上げ、ため息をついた。
「ちゃんと拭きなさい」
 ため息まじりのその発言に、新崎は、にやりと笑った。彼が接近してくる。
「千尋さんが拭いてくれるかなぁと思って」
 上から千尋を覗き込むようにして、新崎が低い声でささやいた。悪い子の顔だ。最近は、こういう妙な色気のある顔をするようになった。千尋は、さっと視線を逸らした。顔も体も、どこを見ていいのかわからない。
「新崎くん……ちょっと……」
 どきどきと心臓を弾ませながら、千尋はそっと彼の胸に触れた。その皮膚の下に、脈動を感じて、指先が溶けてしまいそうになる。
「んもお、ごめんなさい~!」
 すると、新崎は、さっと千尋から距離をとった。
「ちゃんと、自分で出来ることは自分でやりますってばぁ」
 あの色気ある表情から一変、仔犬に変わった。肩にかけていたタオルでごしごしと髪を拭きだす。ぷはっと顔をのぞかせれば、新崎はむっとした子どものような顔つきになっていた。
「……でも、千尋さんが濡れちゃったとき、俺は拭き拭きしますからね」
 これにはまいった。千尋は、吹き出して笑い、新崎はきょとんと目を丸くした。
「ええ!? 俺、何かおかしいこと言いました?」
「はいはい、ぼくが濡れ濡れしたら拭き拭きしてくださいね」
 腹をかかえながら、千尋は閉じた本を近くのテーブルに置いて、立ち上がった。
「お風呂、いただきます」
「はい、どうぞ」
「……って、新崎くん。なんでついてくるんですか」
 自分の後ろにぴったりとついて歩く新崎に千尋は足を止めた。
「なんでって、お背中、お流ししますよ」
「まったく。ぼくがシャワー浴びている間くらい『待て』ができないんですか?」
「ええ~、『待て』ですか? 『おかわり』ください」
「まだ『お手』すらあげていない気がしますが?」
 くすくす笑いながら、浴室に向かった千尋を見送りながら、新崎は彼がさきほどまで座っていたソファに腰を沈めた。
 千尋の家に入り浸り始めてからどのくらい経つだろうか。最初は同棲、という形だったが、今現在は完全に、ここが新崎の第二の家のような状態だ。むしろ、この身に馴染みすぎていてちょっと怖いくらいに。
 ふたりの関係もずいぶん変わった。ただの役者見習いと日曜脚本家から、恋人に。それから、一対一の人間同士の関係に。――そう思うのだが、実際、関係性の名称だなんて、もうどうでもいい。
「千尋さん……」
 新崎は、彼の名前をつぶやいた。彼の手にしていた本をとって、眺めてみる。タイトルを見て、ちょっと戸惑った。読んだことのないタイトル。それも、日本語ではない。洋書だった。
 近づけば近づくほど、彼のことがわかるようになると思っていた。だけど、こういう些細な瞬間に彼と自分が大きく違うことに気が付く。
「うう……英語は苦手なんだよなぁ」
 でも、千尋の眺めている世界を知れるなら、ちょっと冒険してみようか。新崎はページをめくった。
 ここは、小さな世界。
 まるで箱庭。
 ここの中にいる間は、役者でも脚本家でもなく、ただのひとりの人間と人間――。(了)
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