~'22




 最悪な気分だ。
 千尋は道を急ぎながら、腕時計をチェックした。
 本当はさっとやるべきことを終えて、さっさと家に帰ろうと思っていたのに、想像以上に白熱してしまい、終電を逃した。
 家には新崎が――それもただの新崎ではない、弱っている新崎がいたというのに。
「いったい、なんなんだ、ぼくは! 彼の一体、何だ!」
 関係を持っている。
 そういうひとが、弱っているというのに、なんで、こんな――。
 そうだ、休みをとってしまえばよかったんだ。自分も。
 そう気が付いて、千尋は愕然とした。
 だめだ。
 打ち合わせを延期していたら、企画の進行自体も遅れる。そうしたら、しわよせは作家に行く。作家が疲弊すれば、それだけ作品の質に影響する。読者の眼はごまかせない。すすこしでも劣化したと感じさせたら、だめだ。自分の仕事は、読者をよろこばせることになる。売れればいいだけじゃない。
 それに、自分はサラリーマン。雇われの身だが、作家はフリーランス。誰かに雇われているわけでもない、将来を保証してくれるものはなにひとつない。
 編集はそういうひとたちの人生を決める要因でもある。
 連載会議も新人賞も、選んだ編集者の選択で彼ら作家の人生に影響をあたえるのだ。
 自分勝手なふるまいで、担当している作家の足をひっぱるわけにはいかない。
 それに自分だって作家なのだ。本当なら、昨日には、新しい脚本の大筋を決めておくべきだった。
 しまった。
 完全に狂っている。
 ペースの乱れはいけない。
 淡々と、していかなくてはならない。冷静でいなくてはならない。
 大丈夫、大丈夫だ。
 まだ、なんとかなる、はずだ、から。
 だが、仕事はそれでいいかもしれない。けれど、新崎はどうだ?
 こんな、仕事中心の男のそばにいて、何が楽しいんだ。
 自分の隣に並び立つ男になりたい、そう言わせて、彼を追い詰めているのは、まぎれもない千尋自身だ。そして、肝心なときにそばにいてくれない身勝手な恋人も千尋自身。
「くそ、どうしろっていうんだ……!!」
 足の遅いひとびとの群れを追い越して、千尋は駅へ向かって走った。





――俺、出かけてきます。千尋さん、仕事納め、お疲れさまでした。今年もたくさんお世話になっちゃって、俺、はやく千尋さんに会いたいです。――

 スマホに送られていたメッセージを確認した朝、新崎の姿は室内になかった。事務所に用があるらしく、出かけていったあとだった。
 止めればよかった。病み上がりなんだから、と。だけど、それすらできなかった。顔を合わせていない。全て、メッセージ上で確認する。事後確認。
 はやく会いたい。
 文面からにじみでてくる新崎の気持に、千尋は吐きそうになった。
 もっと、そばにいたい。そばにいてほしい。
 彼がそう思っているのが、ひしひしと伝わってくる。なのに、彼にこたえることができていない自分が、どんどん鮮明化されていく。
 千尋の仕事に遠慮して、また無理をさせている。このままじゃ、また新崎は倒れる。彼はいい子すぎるのだ。もっと、わがままをいってほしい――!!
 新崎のいない室内をうろうろしながら、千尋はなんとか仕事モードへ切り替えようとした。
 大丈夫。
 新崎なら帰ってくる。この場所に帰ってくるはずだから。
 いま、自分がしなくてはならないことは、自分の仕事だ。
 依頼された脚本をすすめなくては、舞台の幕が上がらない。やらなくてはならないことをするだけ。それだけを考えなくては。
「……だめだ」
 千尋は、キッチンへと向かった。コーヒーメーカーをオンにして、茶色い液体をマグに注ぐ。
 ヘミングウェイに憧れて、執筆前にはコーヒーを飲むようにしていた。ただ飲みすぎもいけないから、ほどほどにしなくてはならない。カフェインに気を遣いはじめたけれど、もうそんなことは気にしていられない。
 けれど、ひとくち、液体を口に含んでも、一向に気分ははれなかった。
 だめだ、外に出よう。
 PCをさっとケースにしまうと、コートとマフラーを身に着けた。いきつけの喫茶店に、場所は決めている。そこで落ち着かなかったら――ああ、いい、もう、どうでもいい。どうでもいいから、自分は、しなければならないことを、しなくてはならないんだ。
 でも、それは一体――?



「ああ、もう、クリスマスから、何日過ぎたんだろ。俺って情けねえっての」
 事務所に顔をだした。レッスンルームを借りて、基礎練習をしようかと思ったら、伊東に見つかってこっぴどく怒られた。そのまま、街をゆくひとの群れのなかに混ざる。
 恋人つなぎをした男女が目の前をとおりすぎていった。ああ、いいなあ、好きなひとと一緒にいられて。そんなことを想いながら、新崎は、なんとなく気のむくままに街を歩いた。
 寒い。
 けれど、なんとなく、すぐに千尋の家にも自宅にも戻りたくない気分だった。
 クリスマスに向けて、千尋へのプレゼントの準備をしなくては、と思っていたら、いつの間にかクリスマスを過ぎていたのだ。こんなになさけないことはない。いまからでも、何か贈り物をさがそうかと街をゆくが、だんだんと気分がのらなくなってくる。
「ああ……もう、俺も年なんだな」
 疲れてきて、新崎は立ち止まった。
 あ、そういえば。
 そう思って、新崎は周囲を見渡した。
 この近くに、千尋がよく行く喫茶店があったはずだ。せっかくだから寄って、ひといきいれてから、また、考えよう。
 いままでオフの日はめったになかったし、休日にはずっと千尋といた。だから、千尋のいる家に戻りたくない今、何をしていいのかわからない。たちよるにはちょうどいい。
「えっと……あった、なぜか入口前に暖簾のれんがある喫茶店!」
 純喫茶風のレトロな外装なのに、なぜかドア前に「フクロウ」とかかれた暖簾が垂れている。ちょっと奇妙なこの喫茶店のブレンドが千尋の大好物だ。彼の担当している作家からこの店のことを教えてもらったらしい。新崎も千尋に連れてこられて、よくここに足を運んだ。最近みたいに、忙しくなかったころの話だが。
 ドアノブをにぎりしめて、開く。カランと鈴の音がした。
 店内の照明はしぼってあって、気分のよい明るさだ。マスクをしていても、ふわっと香る店独特の匂いに、新崎はほっと息をはいた。
「って、いうかさ! だから、ここは、こうなの! 右と左、逆にしたら、だめでしょうが!!」
 ん? 聞き覚えのある声が店内から聞こえてきた。それは、落ち着いた雰囲気のお店とは三百六十度真反対の大声、いや叫びのようなもので。
「だから聞いています? 読者は一般人! あなたみたいな、まんが廃人じゃない! わかるひとにわからせるように書くんじゃなくて、わからないひともわかるように書く! わかった? 先生のまんがはこだわり強いけど、こだわりのせいで、わかりにくくなるのなら、そんなこだわり、どぶに捨ててしまえ!」
 こっちの声は、もう、すぐに聞いただけでわかる。千尋だ。
「も、もしかして……打ち合わせ……のときに、おじゃましてしまったのか?」
 どっと冷や汗がでてきた。
 でも、確か昨日で出版の仕事は仕事納めじゃなかったのか? いや、でも、あの人のことだ。作品のためなら、休日返上してでも対応するだろう。けれど――。
 自分がいるのに?
 いや、そんな、変なことを考えるな。慌てて、新崎は、首をふって、浮かんできた弱々しい思いを打ち消した。
「いらっしゃいませ。……すみません、ちょっといま、お店のなか、騒がしくて」
 オリーブ色のエプロンを着た店員が、現れる。新崎は微笑んだ。ここでバイトしているこの青年は、前に来た時も会っている。そっくりというわけではないが、俳優小金井こがねい義則よしのりになんとなく似ていて、謎の親近感があった。
「いえ……、あそこの席、借りてもいいですか?」
 店内には幸いなことに、窓側を占領している千尋と作家――ああ、そうだ、彼は松葉ゆうだ――それ以外、誰もいなかった。
 松葉とは、宮崎にロケしに行った際、偶然旅行中の彼と遭遇している。あの可愛いベビーフェイスは一度みたら忘れられない。というより、怒涛な人格は強烈すぎて忘れられない。
 なるべく、彼らから遠く、彼らに気づかれない場所を選んで、新崎は座った。大丈夫。ここからなら、観賞植物が邪魔をして、千尋には気付かれないはずだ。
「あの、俺は平気なので、彼らはそのままにしておいてください」
「でも……」
 青年は新崎が千尋の連れでよく来ていたことを知っている。挨拶しなくてもいいのか、と彼の顔が言っていた。
「しー。俺は今日、ここにいないことにしてください」
 にっこりと微笑みながら、人差し指を立てた。青年は、わかりました、と言って、オーダーを聞き、さっと姿を消した。
「って、いうかさ!! なんで、俺たち、ここでこんなこと、やっているわけ!? 本当なら、ダーリンといまごろ、だらだらセッ……」
「うわああ、言うな、先生! そのワードをここでいうな!」
「んぐっ。んだよぉ、ちーちゃん、俺、窒息するじゃんか」
 ちらりと、あちらに目をやれば、千尋が作家の口元を全力でおさえつけていた。
「な、仲がいいんだな……」
 と、いうか、距離が近い、というか。
「だいたい、なんで、ここにちーちゃんくるんだよ。俺さ、あんたみたいに暇じゃないわけ。必死こかないと、仕事終わらないほど、いそがしいんだってば」
 千尋は暇じゃない。
 新崎はプチンと頭にきて、立ち上がりかけたが、はっと我に返って、着席した。
「ぼくだって、一応、作る側なんだから、その苦労はしぬほどわかる」
「まじか。煮詰まり?」
「んー、まあ、そんな、感じ?」
「へーえ。きっも」
 何をいうか。千尋にきもいところなど、どこもない。なんなんだ、この作家は。
「まあ、悩んだぶんだけ、強くなれるよ~ってさ、それじゃね? うん、それだわ」
 踊るように身体を左右に揺らしながら、松葉ゆうが語る。これが、売れっ子作家でなければ、許せない発言と態度だ。
「まあ、どこで煮詰まっているのか、話してみんさい。超爆売れ看板作家、松葉さまが、お悩み相談してやろうぞ」
「いや、結構です。先生は描くのは最高でも、きっとそういう編集サイドのことは何もできないと思うので」
 いいぞ、もっといってやれ、千尋さん! 新崎はガッツポーズを小さくとった。
「まあ、そこはそう言わず……あ、そうだ、なんか甘いもの食いてえ。ねえ、タカちゃん! ケーキ追加で、ベリータルトのやつ!」
「はい!」
 松葉の声にバイトの青年が返事を返した。松葉は千尋に向き直る。
「つかさ、千尋ちゃんよぉ。ちーちゃんてケーキとか食うの?」
「食べます」
「え、じゃあ、頼む?」
「いいえ。コーヒーだけで十分、幸せです」
「クリスマスもコーヒーだけだったん?」
「いや、クリスマスは……」
 千尋は間を置いてから答えた。
「今年はなかった、かな」
 新崎の心臓がどくりと弾けた。
「へ、へえ?」
「例年、守谷からクリスマス公演に誘われるんだけど……今年はそれどころじゃなかったですね」
「ああ、マドスピのか。あの劇団、あたまぶっこわれてっからなあ」
 何をいうか。
「まあ、座長がものすごい個性的だからね。でも実力ならちゃんとある。でっかい役者だって輩出しているし」
「にーざきくん、とか?」
 新崎は、聞き耳を立てながら、思わず、うっと叫びたくなった。まさか、ここで自分が話題にでてくるなんて。
「ふふ、まあね」
「でも、にーざきくん、大丈夫かなあ」
「へ?」
「あの子、顔で売ってるフシあるじゃんか。まあ、俺が好きなのは、ダーリン以外ありえないんだけど」
「顔って……まあ、確かに顔はいいけど、彼の演技は本物だよ」
「ちげーよ。顔がいいと、売るほうが、売りやすいじゃんか。一応、金にならないと生き残れない業界だし。次々に新しい芽がでてくるからさ。なるのは簡単かもしれないが、なり続けるのは大変だろう」
「なるのも大変だと思うけどね」
「あ、ごめ、怒った? ちーちゃん、怒りモード?」
「いや、別に?」
「ただ、あーいうのは、大変だぞ。自己主張できなくちゃ、つぶれる。いい子するのが得意なのは、弱点だ」
「先生は、もう少し、いい子してくれないと、大きな弱点になりますけど?」
「うわ、千尋崇彦が怒ったわ」
 けらけらと笑う声が響き渡る。
 いい子?
 どういう意味だろうか。
 確かに、「顔」で売っているという認識は新崎にもある。ターゲットを若い女性に絞って演技以外でも活動の場を広げようとしているのも、持って生まれた容姿を使えるからだ。
 けれど、最近は、かっこいい新崎迅人を演じるのではなく、少し自分自身を出すことも増えた。増やしている。
「おまたせしました」
 千尋と松葉が話に夢中になっている最中に、ブレンドが到着した。新崎は唇に人差し指をあてながら、カップを受け取った。
「ねえ、タカちゃん! ケーキ、まだぁ!」
「あ、はいはい、すぐに」
 バイトの青年がばたばたと奥へ消えていく。
「なんかさあ、あの役者、必死なんだよなあ。いや演技はいいけど、たまにバラエティで見ると、うーわ、きっつ! って思うし。って、ちーちゃん、顔、顔、こわっ! なに? ちーちゃん、ファンなわけ? ん? そういや、前、宮崎行ったときさあ」
 う、やばい。
 その話が出た。
「新崎迅人、まじもんかしらないけど、新崎迅人に俺、会ったわ。マジで」
「ああ、その話なら、聞いた」
「あいつ、まじ真剣になって、原稿やってください! ってあたま下げてたわ。うける」
「どうぞ勝手にうけてください。それより、ネーム、直してください」
「だから、そこは、直せないんだって! さっきもいったろ? ここはこのままがベストなカタチじゃんか」
「どこが。ここ、順序を変えるだけで、大分よくなると思いますが」
「はいはい~。っていうか、なんでそこにこだわるかなあ~。まんがは音楽だ。一部がおかしいとおもったら、別に原因があると思う。ここだけ直したって、またどっかにひずみがいく。根本的にどこがおかしいのか、考えないとだめだろ。あ、ケーキ、早く」
「ぼくにケーキをねだっても、出せません」
「じゃ、何をだしてくれるわけ? ネームにケチつける以外に」
「情熱」
「うーわ、あおくさ。んなもん、ねーよ」
「なかったら、こんなに真剣にまんがかけますか?」
「かける、かける。だってこれ、俺の道だからさぁ。ま、読者に要らないって言われて、数学とれなくなったら、退散して、スーパーでレジ打ちしながら暮らすけど」
「あなたを採用するスーパーはないとおもいますが」
「なに? 今日はやけにさえてるなあ、千尋っちどうした?」
「……別に。先生は、ダーリンと仕事、どうやって両立しているんですか?」
「え? 両立してないけど?」
「は?」
「だって、俺、仕事よりダーリンのほうが大事だから。ダーリン優先。それ以外に、何もないけど? てか、ちーちゃん、彼氏いんの?」
「なっ!」
 新崎は、コーヒーどころではない。なんて話題にうつった。
「ちょ、先生、なんでいきなり『彼氏』なんですか!?」
「いや、だって……あ、多くのひとは異性と付き合う傾向があるんだっけ?」
「まって、まって、そういう話じゃない! もう、先生!」
「あらま、こりゃ図星だな。何? 俺と恋バナする?」
「できるわけない! 仕事ばかりで、全然! ……って、あ」
「おうわ、自ら吐いたわ。千尋っち、彼氏を放置プレイしているわけかよ」
「ちがっ……!!」
「うーわ、さいてー」
 な、なんだ、こいつは。
 千尋にむかって、なんという口の利き方、というのは、置いておいても、千尋は自分と違って忙しいひとなのだ。それなのに、必死ななか、自分のことを痛いほど気を遣ってくれる。たまに自分が千尋のお荷物になっているんじゃないかと心配するくらいに。
 それなのに、放置プレイ? んなばかな。
「や~ん、千尋っち、か~わいい~! 編集なんかやめて、専業シュフになっちまえよ! そうしたら、こんなハードルあげてくる編集ほかにいないから、仕事が楽だぜ!」
 は?
 仕事が楽?
 ぎりぎりまでクオリティを高めることの何が悪い? そもそも、千尋がどれだけ、真摯に作品と向き合っている編集者だと思っているんだ?
「何言って……もう、先生!」
「それなら、不倫とかしちゃう? たまには羽目はずしたら、結構、考えとか変わるんじゃね? ね、いいじゃんか」
 ――は?
 松葉が立ち上がった。向かい合っている千尋にむかって、上体を寄せる。
 まずい。
 新崎の身体を流れる血が沸騰しだした。千尋の顔と松葉の顔がどんどん距離を詰めていく。
 いてもたってもいられなくなって、新崎はたちあがり、声をふりあげた。
「ふざけんな!」
 無我夢中で彼らのもとへとかけつけると、松葉の手首を捕まえた。
「その汚い手で、千尋さんに触れるな」
 突然現れた新崎に、ふたりは驚愕の表情を浮かべた。
「……新崎、くん?」
 千尋が唖然とするなか、けらけらと松葉が笑い声を立てた。
「うーわ、またでた、新崎迅人! よぉ!」
「なにがよぉだ! このセクハラ魔人!」
「セクハラ? 担当編集となかよくお茶するのがセクハラか? ん? それとも、不倫されると思ったのが、怖い? おーわ、まじかよ。それって、自分に自信がないだけだろ?」
 うっとことばにつまる。そうだ。たしかに自信なんてない。千尋がずっと自分を選んでくれるかなんて、わからない。
「確かに! 俺くそみたいな人間だけど、でも、お前なんかよりはずっといいぞ!」
「あー、虚しいな、負け犬の遠吠えだ」
「なに?」
「ちょ、ちょっと、先生、ストップ。新崎くんも。冷静に、ね?」
「冷静? 冷静でいられると思いますか? ひとのもの、ぶんどろうとするやつに」
「あはは、ひとのもの。ひとのものねえ。なにそれ、すっごく面白い。千尋ってものなわけ?」
「うっさいな、ひっこんでろ!」
「ちょっと、新崎くん、やめて」
「うるさい! 千尋さんも、千尋さんだ! なんで、休日なのに、こんなところにいるんだよ! こんなやつといるんだよ!」
「新崎くん!」
 千尋が叫んだ。
 めったに出さない千尋の大声に、新崎は、我にかえって、手を引っ込めた。
「彼はぼくの担当作家だ。こんなやつ? ふざけるな」
 しずまり返った店内に、千尋の声が響き渡る。
「きみ、もう自分の家に帰りなさい。ぼくがどうこういうことじゃないが、倒れるくらいなら、役者だってやめればいい。売れる役者にならなきゃ、ぼくの隣にいられないっていうのなら、ぼくの隣にいなくていい」
「ち、千尋さん……?」
「だいたい、きみ、かなり、うざいよ。勝手に、忙しくして、貴重な休日はいつもぼくんとこ来て。それで、揚げ句の果てに、ぶったおれて、はあ? 過労? ふざけんなって感じだ」
「え……」
「もういいから、帰りなさい。返して」
 千尋が腕を伸ばして来る。何を、とひりついた喉で伝えた。
「合鍵。本当はそんなもの、きみには必要ないものだったんだ。ぼくはそう思う」



 何、しているんだろうか。自分は。
 新崎は自分の借りているアパートの部屋で、目を醒ました。
 昨日はどうやって、ここまで帰って来たのか、わからない。それに――。ズキリと頭痛がして、新崎は考えることをやめた。
 あの千尋の言動もよくわからない。
 確かにあの場でかっとなって行動にでてしまったのは新崎だ。自分が悪い。だけど、どうしてああも冷たく言い返されなければならなかったんだろう。あんな口の悪い変な作家の肩を持つなんて――。
 いや、いいんだ、考えるのは、もう。やめよう。やめなくちゃ。いましなくてはならないことは、年末番組の出演のこと。明日は、現地へ行くために移動しなくてはならないし、身体を本調子に戻すことを……。
 どっと、身体が重い。
 目はさめているのに、ベッドから起きることができない。
 地球の重力が、二倍三倍にまでなってしまったかのようだ。
 ああ、疲れているのだ。そうだ、疲れている。自分は疲れているのだ。そのことにようやく、ひとりになって、気が付いた。けれど、どうしたらいい? 寝れば、直る?
 そもそも、今日も休日だ。千尋のいない休日。一体、何をしたらいいんだろうか?
 上体だけ、起き上がって、新崎はあたりを眺めた。
 あまり帰ってこないがここが自分の部屋だ。なんだか変な気がする。家といえば、まっさきに千尋のマンションの一室のことを思い浮かべてしまう。
「千尋さん……、に、俺、振られたのか……」
 もう、彼の部屋の鍵はない。千尋に返してしまった。
 千尋の家にもう二度と行くことができない……のだろうか。怖い。自分がどうにかなってしまいそうだ。
 いや、よさないと。
 新崎は壁にかけてあったそれと目が合った。
「やべえ、まだカレンダー、十一月だ」
 めくるのを忘れていて、先月のままの壁掛けカレンダーに気が付いて、新崎はけだるい身体を引きずっていった。さっと、紙をめくると十二月の絵が出てくる。クリスマスの赤と緑。
「あはは、そうえいば、千尋さん……、ハロウィンのとき、サンタの恰好をしてたな」
 今年の十月、千尋の家にお邪魔したら、いきなりサンタに仮想した千尋から「トリックオアトリート!」だもんな。
 思い出して、新崎は微かに笑った。
 あのときの千尋さんはおかしかった。必死に自分のことを楽しませてくれようとしていたのはわかる。だけど、いくらなんでも、季節を先取りしすぎだろうに。
「ああ、だめだ。どうしても、好きだ」
 ぽろぽろと涙があふれてくる。
 好き、そう思っていても、いつも迷惑をかけてばかりだ。忙しいなか、フォローさせておいて、いつも家にお邪魔させてもらって、大好きだと言って彼のペースも考えずにひっついて、揚げ句の果てに担当作家に牙をむいて。
「それに仕事だって、あのひとみたいに極められない。どうしても取りたかった役だって取れなかった。ほんと、俺……」
 何をしている?
 こんなさみしい場所でひとり。
 どうして、こんなことを――?
「俺、だめだめじゃんか。もともと、自分がだめだめなのは知っていたけど……」
 もう、わけがわからない。世界のなかで自分だけが取り残されたような、そんな感じ。どこもかしこも自分がいない場所で回っている。
 もうやめてしまいたい。
 どうして役者なんて始めたんだろう。
 どうして、あのひとのことを好きになったんだろう。
 そうだ、このまま、やめてしまえばいい。俳優も、あのひとの隣を目指すことも。
 演技がなくたって、生きていける。
 これから何をしたっていいんだ。もう自分は自由だ!
 自由? 何からの自由? え――俺、何に縛られていたんだろう。
 ああ、もうだめだ、わけがわからない。自分自身でも、自分が何をしたいのか、わからない。
「疲れた……。そりゃそうだよ、俺、疲れてるんだよな。過労だって言われたし。よくそれでも、頑張ったよ。むしろ誰も、俺が疲れていること、気が付かなかったんじゃなないか? 最強だな、俺。カモフラージュ俺」
 いや、違う。
 確かに疲れてはいたけど、倒れる前にはまだそれがあった。心のなかに、なにか――。
「くそ……なんで、まだ涙、止まんないんだよ」
 目の奥がカーとあつくなって止まらない。立っていられなくなって、その場に崩れ落ちた。
 わからない。一体、どうしていたんだろう。
 数日間の間に、自分が得体のしれない別物になってしまったかのような感覚だ。
 一体、どうやって自分はあのハードなスケジュールをこなしていた? どうやって、生きていた? どうやって、どうやって――?
 答えはひとつだ。
 炎が燃えていた。
 この胸に。
 それは、自らをも焼き尽くすような勢いで、燃え続けていた。だから、どんなにつらくても、つらいとも思わなかった。炎に麻痺していた。
 頑張れば、いける。
 努力は報われるはずだ。
 こんなに頑張ればきっと、結果はでるし、愛されるに違いない。
 そういう思い込み――。
「はは……ばかだよな。努力したって……何になるんだ? 確かに結果を出せる確率はあがる。だが、努力なんてしなくたって、できるやつはいっぱいいる、そういうやつが、プロになるんだ」
 そうだ、努力にあまえていただけだ。
 頑張っている自分に酔っていただけだ。
 必死に走りつづけていれば、どうにかなるとさえ、勝手に思い込んでいただけだ。
 それは甘え以外のなにものでもない。
 自分は甘えた目で業界を見て、甘えた目で千尋を見ていた。
 いま、それに気が付いて笑いしか出て来ない。
 こんなクソみたいな男、いらないよな、千尋さん!
 笑った。腹のそこからあふれてくる爆笑の渦のなかで、新崎は笑った。そして、泣いた。



 大晦日は音楽番組の生中継に出ると言っていた。だから彼は今日、中継先の大阪まで移動のはずだ。
 そんなことを考えて、千尋はため息をついた。
「ぼく何してるんだ……」
 脚本の作業はいっこうに進まない。このままでは、納期に間に合わないかもしれない。
 必死に頭をめぐらせるが、それでも、自分が何を書きたいのか――いや、それを失ったのだ。
 いまの自分は何も書きたくない。
「……守谷に連絡いれるか」
 スマホを取り出した手が固まった。彼は、大晦日の爆竹公演の準備で忙しいはずだ。
「無理だな……」
 千尋はため息をつきながら、立ち上がった。
 キッチンにコーヒーを淹れに行く。今日はこれで五杯目だ。いくら飲んでも、自分の内側からは何も出て来ない。
 枯れた、のか――。
 まさか。
 書きたい、という欲求がうしなわれたとき、作家は作家ではなくなる。もう、自分も脚本業をやめたほうがいいのか?
「いや、まだだ……まだ……」
 そうだ、あったはずだ。まだ、ストーリーの上でやりたいことが。女主人公もの、これも一回は手をつけてみたい。時代劇、何度もやっているが、いくらやっても、満足いかない。まだまだ先がある。それから今回の依頼の、漂流もの。極限状態の人間を描く。やれる、やりたい、そう思うはずなのに。
「だめだ。休憩にしよう」
 本日何回目の休憩だろうか。
 いや、もう考えない。何も、考えない。考えてたまるか。
 何かを頭で考えるとき、ずっと新崎の顔が浮かんできて、つらい。
 どうして――どうして、あんなに、素直に彼はひきさがったのだろうか。
 例の喫茶店での出来事だ。
 松葉に食い掛った新崎を止めた後、ぽろぽろとかくしておかなくてはならないことをこぼしてしまった。
 合鍵を返せ。
 あんなこと、するつもりじゃなかったのに、本音以上に先走った感情が、暴走して、新崎にそう迫った。
 新崎は、悲しい顔をして、それから、いつものように、自分のことを「好き」だと言って、「返せない」と言って、優しく抱きしめてくれるとさえ、思っていた。
「甘い妄想だ」
 自分で自分のことがおかしくなってくる。
 一体、いつ、自分がそんなに愛されていい人間だと思った?
 確かに彼には何度も「好き」と言われている。「大好き」とも言われている。
 だが、もともと彼は、自分の書いた脚本はなしに惹かれて、自分にアプローチしてきた。最初はそれがきっかけだったはずだ。そう、もともと彼が好きなのは、自分の書く脚本、ただそれだけだ。
 それを、なんの勘違いかしらないが、自分本体まで好きと言い出して、若いエネルギーに負けて、それを受け入れた。
 本当は彼の将来のことを考えたら、自分は引くべきだった。目を醒ませと言ってやるべきだった。彼が好きだと勘違いしているものの正体を教えてやるべきだった。
 確かに脚本なら書ける。けれど、脚本なんてただのたたき台だ。
 演劇も、ドラマも、全て、演者がいて演出家がいて、監督がいて、撮影スタッフがいて、それで初めて観客にとどく「カタチ」になる。
 誰もいないただの筋書きになんの価値がある――?
 彼は勝手に自分のしていることに感動して暴走しているだけだ。でも、それは自分ひとりの力でなしたことではない。脚本は、表現してくれる誰かがいて初めて価値がうまれる。
 編集だってそうだ。売り物は「まんが」だ。まんがを書くひとがいて、初めて、仕事ができる。自分ひとりではなにひとつ生み出せない。
 いや、仕事の話ではない。自分のことの話だ。
 隣にいたいという彼の思いを受け入れたくせに、仕事ばかり優先して、彼の面倒をみれなかったから、彼は必死になりすぎて倒れた。倒れたのにも関わらず、彼のそばにいない自分にあきれただろう。
 それに、彼があんなにも必死になるのは自分のせいだ。
 本当はたいした仕事をしていないのに、勝手に彼が千尋崇彦はすごいひとだと勘違いして、自分のことを尊敬するから――勝手にハードルを高く設定するから。自分の隣にいれる男になりたいと、必要以上に走らせてしまった。
「くそ……ちくしょう……本当にぼくは……」
 なにをしている?
 どうして、こんなに、虚しいことばかり、している?
「あ……」
 キッチンから書斎に戻る際に、千尋はそれと目があった。ダイニングテーブルの真ん中に飾るように置いてある電球のスノードームだった。
 思わず、吹き出して笑う。
 本当に、あのときはおかしかった。
 仕事で疲れていてそれどころじゃないのに、新崎はのこにこと自分のもとにやってきて、切れてしまった電球を見て、俺が取り替えますと、言い出して――。
 ばかなやつだ。本当に、おかしい。
 どうして彼は、こんな自分なんかに、あんなに必死になれるのだろうか。あの情熱をもっと他のことに向ければいいのに。そうしたら彼も、もっと、いい暮らしができるはずだ。
「新崎くん、大丈夫かな」
 過労で倒れている。その上、あんな茶番めいて彼にストレスをかけるようなことを言ってしまった。
 そんな状態で、ここから遠い場所へ。
 乗り物に酔っていないといいけど。ちゃんと寝れているのかな。体調は? それから、それから。
「与えなくちゃと思っていたのに、ぼくはいつも与えられるほうだった。脚本だって、この登場人物は彼に……そんなふうに思って、人物を造形して……ああ、ばかだな、本当にぼくは」
 だけど、これでいい。
 彼はもう、戻ってこない。
 合鍵を返せという意味がわからないほど、頭の回らない男でもない。
 むしろ、これでいい。
 まだ彼は若い。だから、きっとこれから、千尋以上に彼にぴったりと寄り添えるひとと巡り会って、そのひとと人生を歩めばいい。
 自分じゃ、彼に、釣り合わない――?



 見るつもりはなかった。けれど、たまたまつけたテレビの向こう側に、新崎の姿があった。
 時計の針は七時をさしていた。
「中継先の里中さん、新崎さん」
 司会が彼の名前を呼んだ。スタジオカメラが中継のものと切り替わって、画面に浮かび上がった。
「はい、どうも~! いま、ぼくたちは、大阪××に来ています。なんと、ここではあの有名アーティストがライブを行うということで……さっそく潜入させていただ……」
 新崎と一緒に共演する女優の里中が映り込んでいる。場所は舞台袖だろうか、新崎が突入しようとした瞬間、彼の真ん前に人影が現れた。
「新崎くん、里中さん、こんばんはー」
「え!? 満宮みつみや恒星こうせいさん!?」
 シンガーの満宮の登場に、わっとなる演出だろう。面白い、と千尋はぼんやりとながめる頭の片隅でそう思った。
「なんと、大物アーティストって、満宮さんのことだったのか!」
 スタジオの司会があっぱれな演技である。
「はい! 実は満宮さんは、来年放送のスペシャルドラマ『星影の舟』の主題歌を歌ってくれました! なんと今日はその楽曲をテレビ初披露していただきます!」
 新崎のあとにつづいて女優が続ける。
「それでは、ご準備のほどはいかがですか~!」
 満宮は満面の笑みを浮かべる。
「もちろん!」
「それでは、満宮恒星さんで、曲名は……」
 なんだよ、なかなか、うまい。
 千尋は中継を見ながら、純粋にそう思った。立ち位置も、ちょっとしたリアクションも、新崎は上手い。カメラでとられたとき、いい絵がとれるように、彼が配慮しているのがわかる。
 この能力は、ドラマ撮影のときにいかんなく発揮されるものだが、今回のような仕事でも、その長所が生きていた。
 周りをみて、自分のいるポジションを決められる。それが、新崎の強みだ。だから、共演相手だが誰なのか、誰と組まされるのだろうか、それがとても楽しみだ。演じる相手によって、新崎の演技は七変化を遂げる。
 ああ、彼の演じている姿が見たい。
 できれば、自分の書いた物語すじがきで――。
「あ……」
 千尋は、思わず絶句した。
 頭のなかで、何かがカチッと音を立てて、はまった気がする。
「そうだ、そうだよ……この感じ」
 体温が上がる。身体の奥のほうからそれは押し寄せてきて、千尋をじっとさせてくれなかった。
 歌が始まったばかりのテレビをオフにして、千尋は叫んだ。うわーと声をあげながら、彼は書斎へ向かった。暖房もつけずに、PCを立ち上げる。
 これだ。これなんだ。
 自分のやりたいことは。
 表現しようとしているひとの表現をもっと、何十倍にも何千倍にも何万倍にも何億倍にも膨らませてみたい……! そのひとじゃ届かないような遥かとおくまで、表現をとどけたい……!! これだ、これが、ぼくの、心の種だ!
 やれる。
 そうおもって、エディタを起動させる。
 キーボードに手を当てた。
 行ける。行ける。
 もう迷わない。
 どこまでも、行ける。
 途端、千尋の目の前に、ひろい大海原が広がりだした。
 主人公は無人島に漂流してしまった海賊。一緒に漂流したのは、海軍の兵士で――。



 しあがった。
 ほとんど放心状態で、千尋は机のうえにつっぷした。
 やらなくてはならないと思っていた、アウトラインどころか、初稿までかきあげていた。一体、いまは何時だろう。
 机の上に置いてある置時計に目を向けた。
「あっ!」
 午前零時七分。
 とっくに去年が終わっていた。
「あはは、除夜の鐘、聞き忘れた……」
 それ以上に、七時から今までずっと、ぶっとおしで集中していた自分がいることに笑える。
 長時間の過剰ともいえる集中のせいで、ふらふらする。指先が麻痺したかのような変な感覚だ。それに――。
「あー、だめだ。しんどい。もうぼくも歳だなあ」
 二千二十三から、千九百八十五を引き算しようとしたが、頭がまわらなかった。もういくつでもいい。いっそ、永遠の十七歳でもいいや。そんな気がする。
「楽しい、もう、楽しいんだ。こんなになっても」
 守谷に連絡してしまえ。
 千尋はスマホを手に取った。
「もしもし、あけましておめでとう!」
 電話口一番にそう伝える。守谷の声が聞こえて来た。
「千尋、あけおめ! つか、どうした? テンション高いな、酔っ払いか?」
「ああ、酔っている、今、ぼくは自分に酔っているよ!」
「そりゃよかった。モリヤンも自分に酔っている、爆竹公演は大成功だった! 次は暴れ馬公演だ!」
「ああ、ぼくも、ぼくも、最高だった、漂流ものは!」
「おっと、かけたのか?」
「いま、初稿があがった。このテンションだから、冷静じゃない。寝て頭を切り替えて推敲しないととてもひとには見せられない!」
「そりゃ最高だ! いっそ読ませてくれ!」
「だから、嫌だっていってるだろ!」
「千尋、おめでとう、あけましておめでとう」
「ああ、そうだね、おめでとう、あけまして、おめでとう!」
 電話を終えた。それでも、まだ千尋のなかで興奮が消えてくれない。
「だめだな、ぼくは、ほんとうにしょうもない……」
 いっそ苦しいくらいだ。楽しい、嬉しい、愉快。だけど、苦しい。
「この変な感覚、一番に伝えたいのは……」
 そう、彼だからだ。
 他の誰かでは、もう、代用できない。

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