~'22


1
「今年のクリスマスは、あいつの顔、見れないんだな」
 劇場の裏出口近くの自販機で、ブラックのコーヒー缶のボタンを押した。缶が落ちる音がして、千尋ちひろ崇彦たかひこは取り出し口に手を伸ばすため、しゃがみこんだ。そんな千尋の背中にむけて、守谷もりや勝世かつよが、あくびをかみころしながらそう言った。
 二〇二二年一二月二五日。午前七時。クリスマス当日である。
 この日は守谷が座長を務める劇団マッドスピリッツのクリスマス公演が行われる日だ。
 一年に一度、マドスピは普段からド派手な演出をしているが、この日はよりド派手に、劇場の中を暴れ回る。脚本を手掛けるのは、高校時代からの悪友で出版社勤務の傍ら兼業脚本家をしている千尋だ。
 その縁で、千尋は今年もこの劇場に呼ばれていた。
「なんだよ、その目は」
 缶コーヒー片手に立ち上がった千尋は、守谷の妙な視線を手で払いのけるような仕草をした。
「だって、センセーの大好きながいないから、センセーさみしいかなって、モリヤン、思っちゃうのね」
「きみねえ……」
 千尋はあえて大きくため息をついた。
「確かに新崎にいざきくんはいい役者だけど、いつまでもこんな小さな劇団に縛り付けられるような小さな器じゃないからね」
「わあお、情熱的」
「そうやって、からかうな」
 音を立ててプルタブを指で押した。ふわっとコーヒーの匂いがかすかにする。ごくりと、ひとくち千尋はその液体を胃のながに流し込んだ。
「……千尋、無理してないか?」
 急に守谷の声音が変わった。芯の通る声。からかうような口調は消え、守谷の瞳には心配の色が浮かんでいる。
「なにが?」
「だから、新崎。あいつ、夏のオーディション、落ちたんだろ」
 オーディション。それは七月にあった。それは千尋が脚本を務めるドラマの配役を巡って行われたものだった。
 このオーディションで選ばれれば、憧れの千尋の書いた脚本を演じることができる。新崎ははりきって準備をすすめてきた。準備万端、それ以上に。
 だが、役者の世界は実力と運と、そして縁だ。新崎は最終選考まで残ることができたが、彼とは別の若手俳優に役は決まった。
「まあね、あれ以来、ちょっと気持ち悪いくらい走り回っているよ」
 千尋は何事もないかのように淡々とした口調で答えた。けれど、その胸のうちでは、どろどろとした、気持の悪いものが暴れだしてしまいそうで、それを必死に抑えこむように、彼は空いている片手で自分の身体を抱きしめた。
「仕事ばかり入れる。それに仕事がなくても、営業に行く。やっととった休日かと思ったら、その日はぼくの家にくる。この間なんて切れた電球を見て、『俺、取り替えて来ます』……だってさ。ふらふらのまま家電量販店まで行った」
「うーわ、愛されてるねえ」
 モリヤンが、抑揚ない棒読みのような声を出した。ぶっと音を立てて、缶の縁に唇をつけたまま千尋が吹きだした。
「うわ! ちーちゃん、きったねえ!」
「モリヤン、きみのせいだろ!!」
 幸いなことに、大災害にはならなくて済んだが、千尋は守谷を睨みつける。
「まあ、仕事が生きがいみたいな職業だし、仕方ない仕方ない」
「どこがだ」
「まあ、ほら、元気出せ。お前まで壊れたら、しょーもねえぞ」
 ぽんぽんと、千尋の肩を守谷が叩く。
「ああ、んもお、守谷……お前」
「はいはい、それじゃ、俺はこれから公演準備にまい進しますんで、あんたは、客席、特等席で、めいいっぱい楽しみな。あんたの書いた物語だ」
 にやにやと笑みを浮かべながら、守谷はゆっくりと劇場の中へと吸い込まれていく。その背中を千尋はじっと見ていた。
 めんどうな、悪友だな。
 そう思って、ふっと、少し肩が軽くなった。だが。
――まあ、ほら、元気出せ。お前まで壊れたら、しょーもねえぞ――
 守谷に言われたことばが頭の中に何度も蘇る。お前まで壊れたら、か。そうか、と千尋は小さくつぶやいた。
 壊れたら。
 守谷から見て、今の新崎は、もう壊れている・・・・・のか――。
 千尋はため息を吐いた。その息は白く濁って空気の中に混ざって消えた。ふと、ポケットに入れていたスマートフォンが鳴った。
「ん?」
 おもむろに取り出したその画面をみて、千尋の表情は凍り付いた。






 ふと、音がした。
 何故かその音の響きに、なつかしさを覚えて、一体それがなんの音なのか、新崎はぼんやりと考えようとした。
 体が、重い。
 空気の重さが何十倍にもなって、自分の上にのしかかってくるかのような変な気分だ。指先を動かすことすら、おっくうになってくる。
 また聞こえた。
 ああ、これは、声だ。音は音でも、人間の喉が発する、声。何故だろうか、耳にすごく、心地がいい。
 この声の主は何をそんなに伝えようとしているのだろうか。彼はなんと言おうとしているのだろうか。
 聞き取ってみようと思い、新崎は、真剣に音に向き合った。
 もう一度、声がした。
 だが、ぼんやりと音の輪郭がぼやけて、意味は読み取れない。
 もう一度、その声は叫んだ。
 ああ、なんとなく見えて来た。ごにょごにょとした音が次第にクリアになってくる。
 声はやまない。
 何度も、何度も、まるで何かに対して呼びかけるように、続いていく。
 この声は――。
 そのとき、新崎は火花に打たれた。彼の全身の細胞が記憶していたある思いが、彼の胸にぶり返してきて、彼は、目を醒ました。
「新崎くん!」
 彼は――千尋崇彦は、自分を、誰でもない、新崎迅人本人に向かって、彼の名前を呼び続けていたのだった。
「あ、新崎くん! おきた?」
 うっすらと瞼をあけた新崎の顔を千尋がのぞきこむ。
 変なにおいがする場所だ。どこだろう。嗅いだことのない空気。そして、視界のなかに千尋顔。
「千尋、さん……」
「あ、ああ、こら、起き上がらなくていい。そのままで」
 千尋の腕が伸びてくる。やさしく肩に触れられて、新崎はそのまま、枕に沈んだ。
「千尋さん、なんか、今日もすごく可愛いですね」
「なっ、ちょ、そういうことは、いま、言わなくていいから」
 むう、そうなのか。それでは、一体、いつになったら、そういうことを言ってもいいのだろう。新崎は、千尋を見つめた。
 千尋は、少し待っていて、と声をかけると、すっと視界の外へいなくなってしまう。心臓が音を立て始める。彼がいないと不安だ。
「新崎さん!」
 女性の声がして、千尋が消えていった先から、マネージャーの伊東いとう真美まみが千尋に呼ばれて現れた。
「すみませんでした!」
 伊東は、勢いよく横になっている新崎の前に出ると、その目の前で深く頭をさげた。
「私がもっと、ちゃんとしっかりしていれば、こんな目には……!」
 激しい声。
 その傍らで、千尋が彼女の細い肩に手を置いた。
「……な、え? お、俺……」
 新崎は、唇を震わせた。乾いた声しか出て来なかった。状況が把握できない。
「ここは病院だ」
 千尋がやけに落ち着いた声で諭すように新崎に説明した。
「きみは倒れたんだ。それも撮影中に」
 たお、れた?
「その場にいた酒田さんから連絡がぼくに来た。突然、カメラが回っている前で、きみが倒れた。すぐに意識が戻らなくて、あわてて救急車を呼んだそうだ。そして、ここに運ばれた」
 そんな!
 新崎は、慌てて起き上がろうとした。そして、自分の腕から伸びるチューブに気が付いて、はっと身体を硬直させた。
「いま、な、何時ですか?」
 千尋が腕時計に目を落とした。だが、彼は何も言わなかった。
「どうしよう、俺、スタッフのかたたちに、迷惑を……」
 動揺する新崎の前で、伊東の携帯が震え上がった。
「……すみません、先ほど、新崎さんが目を醒ましたと聞いて、話の途中で切ってしまったので……」
「でて、ください」
 新崎がこたえると、伊東は再びお辞儀をしてから小走りで部屋を出て行った。
「過労だそうだ」
 千尋が固い口調で告げた。
「念のため、一日入院、とのことだ」
「え!?」
「詳しい話は、いま、医者がくるから彼から聞いてくれ」
「ちょ、ちょっと待って! そしたら、撮影は!? まだ撮っている最中でしょう!? スケジュールだって……」
「だから、彼女がああして必死に動いている」
「あ……」
 目の前が真っ暗になるような、おかしい、全身から力が抜けていくかのような、気分だ。
「ち、千尋さん……」
「ぼくは、ここにいられるだけ、ここにいる。だけど、ぼくにだって、やらなければならないことがある」
「は、はい……ありがとうございます」
 ぎゅっと心臓がいたんだ。急に、今、そばにいるこの千尋が、自分の知っている彼とは違う存在のように思えてくる。
 いや、違う。
 この千尋は、千尋を知る前・・・の千尋だ。千尋と付き合うようになる前の千尋だ。
 体中が震える。
 自分のしでかしてしまった大失態を、一番見られたくないひとに見られた。死んでしまいたいとすら思う。
「新崎くん、落ちついて」
 ぱらぱらと廊下から足音が聞こえてくる。その間、千尋が言った。
「きみはとても疲れている。だから、休むんだ」
 扉が開いて、白衣の男が入って来た。彼は、いまの新崎の身体のことを、説明しだしたが、そのことばは右から左へと流れていった。 





 帰って来たマンションの自分の部屋が、今日はやけに広く冷たく感じる。千尋は、ぼんやりと、湯舟にお湯を張り始めた。とりあえず、シャワー浴びて、風呂に入って、寝る。明日は、仕事に行って、帰ってきたら、依頼されていた脚本の大筋を固める。
 スマホが鳴って、反射的に千尋は通話ボタンを押した。
「おいおい、聞いたぜ。千尋、お前大丈夫かよ」
 機械を通して守谷の声が耳元に響く。ああ、守谷か。ああ、うん、平気。千尋がそう答えると、守谷の声が少し遠くなったような気がした。
「あまり、気にするな。誰だって、超人にはなれないだろうが、まあ、うん、お前も人間だろうからな……」
 話が伝わるのが早い。さすが情報通の守谷なだけある。
「次の筋だが、納期、遅らせたっていいんだぜ?」
 そこまで気を遣うのか、お前は。
「何言ってんだ。ちゃんと仕上げるよ。それより、今日は悪かったな。お前の過剰な舞台演出を堪能できなくて」
「過剰な、は余計だ」
 ころころと守谷の笑い声が聞こえてくる。
「それよりいいのか? ぼくにかまっている暇ないだろう? 大晦日の爆竹公演と年初の暴れ馬公演が控えているんじゃないか?」
「そうなんだよなぁ。それに、半年後の企画も練ってて、実際に今、花火手配しているんだけど、ちょっとなあ」
「いや、花火って、何するつもりだよ。劇場の中じゃできないだろう?」
「うん、だから、野外でやるつもりだわ」
 何をだよ。
「まあ、とりあえず、お前はお前で絶対、ペースを崩すなよ。特に、お前の場合、お前が倒れたら、俺の劇団が死活問題以上に、お前の担当している作家にも出版社にも迷惑がかかるんだからな」
「はいはい、わかってる。つか、べつにぼく以外の脚本家に頼んだっていいんじゃないの? ぼくに頼るから劇団が死活問題になるんじゃない?」
「はは、こっちは貧乏劇団なんだよ」
「過剰な演出に金をかけるからだろうに」
「過剰、外連味、大爆破。それが俺のモットーなんでね」
 どうしてこんなにおかしな悪友をつくってしまったのだろうか。おかしくなって、千尋は軽く笑った。
「ありがとう、守谷」
「おう。新崎の様子は?」
「一日入院。そのためにマネージャーさんがものすごい必死でスケジュール変更してくれたみたい」
「そうか。よかったな、入院は一日だけで済んで」
 入院は・・・、か。
 千尋は苦笑した。
「そうだね。だから、これからが、彼にとっては地獄だ」
「……それを青春と、呼ぶ」
「変なこと言うなって」
「だから千尋、お前は絶対に飲み込まれるな。地獄にお前まで落ちたら、誰があいつに手を差し伸べられる?」
「はいはい、もう切るから」
 守谷の声が聞こえなくなった室内は、しんとしずまり返っていて、少し不気味に感じた。
 風呂が沸くまで、と千尋は机の上で閉じられていたノートPCを開いた。それまでスリープ状態になっていたPC画面が点灯する。そこにうつっていたのは、新崎迅人の笑顔だった。
 朝、昨日、クリスマスドラマの脇役として新崎が出演しているドラマが配信されていたのだ。それを眺めながら昨夜、千尋は寝た。
 ジングルベルの音が流れてくる。やけにその軽妙な音楽が遠い。自分から遥か遠い場所にある。
 そう、退院して終わりにはならない。
 制作陣に迷惑をかけた、というだけで、今回のこれが終わるわけではない。
 それ以上に、千尋にとって重く思えたものは、新崎が疲弊していたことだ。
 いや、そのことぐらい、いつもそばにいなくてもわかっていた。だが、そのフォローがあまかったのだ。できていなかった。
 新崎の表向きのあの華やかさにだまされていたのだ。
「……ちくしょう」
 肚の奥から、あふれてくるのは、後悔だ。こうなる前に、もっと打てる手はあったはずなのに。
 ここでつぶれるような新崎じゃない、はずだ。そう思う。けれど、一度、坂道をコケて転んだあと、もう一度きつい傾斜に向き合うのは、かなり、つらい。
 映像を見ていること自体、つらくなって、千尋はPCを閉じた。






 翌日。午前中のうちに退院手続きを終えて、新崎は街中にいた。なりだしたスマートフォンを耳元にあてている。
「療養してください」
 片耳から聞こえてくる伊東の声音は固かった。
「せっかく私が掴んだ休日ですよ。休んでください。撮影のほうは、新崎さんなしで撮れる絵から撮るようにスケジュールを変更していただいたので、ドラマのほうは問題ありません。どうしようもない仕事はこちらでキャンセルいたしました」
「な、なんで!?」
 新崎はキャンセルのことばに動揺した。それはなにか恐ろしいもののように思える。
「それはご自身が一番わかっているんじゃないですか」
 そうだ、理由は自分自身が倒れたからだ。それ以外になにがある。
「できないことをできると言ってそのまま進めて、当日ドタキャンするほうが、信用を失います。このひとに頼めば大丈夫。そう思われるような役者になってください」
 ぐうの音も出ない。新崎は苦笑いした。
「せっかく退院したのに」
「ご自宅へお帰りください。……千尋さんのお宅へ帰られても問題ありませんよ」
 今年の夏、とある事情から、新崎が千尋のマンションへ入り浸っていることを知っている伊東が、ちくちくと小言をいうような口調で言った。
「む、無理です」
 新崎は苦しげに答えた。
「え?」
「千尋さんは無理。どのつら下げて、彼に会えばいいんですか? 最悪じゃないですか、俺。何か挽回できるような大きな仕事を……」
 伊東の大きなため息が聞こえる。
「あなた、ばかですね」
「へ?」
「新崎さんってばかなんですね」
「え、あ……」
「ああ、もういいです。この話はおしまいにしましょう。新崎さんは、おやすみください。これ以上、ばかにはつきあっていられません」
「そんな……!」
 ばか。そう言われた。
 確かに自分でもばかであるとは思う。頭がまわらなくて配慮ない行動ばかりとってしまったり、変な失敗ばかりしたり。
「ちなみに今日は十二月二十六日ですけど?」
「へ? あ、はい、そうですね」
「ああー、もう、そうですねじゃないでしょ。あなた、千尋さんにプレゼント渡すのどうしようって言ってたくせに。年に一度の……」
「あ、はい。二十六日……あっ! もう、終わってる……」
 さー、と、新崎の全身から、血の気が引いていった。
「新崎さん、聞いてます? ねぇ、新崎さん」
 しばらく呆然と立ちすくんでしまった新崎は、歩道のまんなかに立ち尽くしていた。
「あ、はい……伊東さん、俺、最低ですね」
「はあ? 今に始まったことではないですよ?」
 グサグサと心に棘がささる。
「まあ、とにかく、頑張ってください。そう、これからですよ、あなたの戦いは」
「はい……」
「詳しいスケジュールは、メールでお送りします、じゃあこれで」
「はい、ありがとうございます」
 ぷつりと切れた電話の余韻におののいていると、再び着信音がした。
「もしもし……」
 なにか言い忘れたことがあったのだろうか。伊東だと思って出た電話先の相手に新崎の心臓がどきりと激しく高鳴った。
「新崎くん、今どこ?」
「ち、ちちちちちちち、千尋さん!?」
「ああ、うん。もう退院したんだろう? 病院まできたら、きみはもういなかった」
「そ、そんな! わざわざ来てくれたんですね!?」
「いや、まあ……出社するのは午後からだし」
 少女まんが雑誌の編集を生業としているサラリーマン千尋の仕事始めはたいてい午後からだ。これは担当している作家の時間に合わせている。
「でも、そのぶんだと元気そうだな」
 くすり、と千尋が微笑むのが電話を通してでもわかる。新崎はどきどきしながら、スマホをより自分の耳に押し当てた。
「はい、元気です……! 千尋さんは?」
「ぼく? ぼくはいつも通り元気ですよ」
「ああ、よかった! 千尋さんが元気なら、俺も元気です……!」
 千尋の口調がわずかにくもる。
「ああ、そうか……そうなんだね」
「はい、千尋さんの元気が俺の元気です」
「はいはい。で、今どこなの?」
「へ? えっと、大通り、歩いています」
「どこに向かって?」
「え、いや、てきとーに散歩、みたいな感じで」
「帰ってこないの?」
「ん……え、あ、い、家にですか!?」
「そう、ぼく、今、ジャストきみんの前」
「ええ!?」
「まさか、ぼくんに行こうとしてた?」
「い、いやいやいや……!」
「そう? じゃあ、ここで待てば……って、あ、ごめん。もう時間ないや」
「あ、は、はい……! すみません、千尋さんは、出勤してください……!」
「うん、そうする。もし、ぼくのに帰ってきたら、ちゃんと暖房入れてね、寒いから」
「は、はい……!」
「じゃ、切るね」
「はい! 千尋さん、頑張ってくださいね」
「はいはい、それじゃあね」
 切れたあとも、通話の余韻が胸に残る。好きだ、やっぱり好きだ。
 普段と変わらぬ彼の声に、不安が飛び去っていく。
 大丈夫だ。自分は、大丈夫なのだ。そんな気がする。だけど――、どことなく違和感もある。
「……千尋さん……?」
 ぽつりとつぶやいた彼の名前は雑踏の雑音のなかに消えていった。
 でも、帰ってもいいのだ。千尋のもとに。そう思えるだけで、からだじゅうが溶けてきえてしまいそうな心地だ。
 ぎゅっと、新崎は、彼の家の合鍵を握りしめた。その金属製の質感が彼にとっての現実感だった。






 喫茶店フクロウ。
 千尋に、ここを待ち合わせ場所に指定してくるのは担当作家である松葉まつばゆうだ。
 本が売れない時代にありながらも、少女まんがジャンルでヒット作を連発。ドラマCD化、アニメ化、舞台化、テレビドラマ化などメディアミックスの勢いもあり、雑誌の華々しい看板作家である。
 そんな大先生であるこの松葉は、あえて、表舞台に顔を出さないようにしている。その理由は彼自身に問題があった。
「無理。年末年始はダーリンと一緒っていうのが俺の生きがいなのね」
 メロンソーダをちびちびとすすりながら、泣き言のように延々と「恋人」といかに過ごしたいのかという話題ばかりを繰り返す三十路の男が千尋の目の前にいた。
「だから、こうやって、今も、編集と打ち合わせしなくちゃとか、俺もう、心が痛い、ハートが泣き叫んでいる。本当なら、ダーリンといまごろ、デートしながら、大晦日どうする? え? ダーリンの実家に挨拶にいく? んもぉ、ダーリンったらぁ、みたいな話しているわけ。でも、そうならない、なぜなら、仕事、仕事、仕事、仕事って誰かさんがいってくるから」
「それが、ぼくの仕事です」
「ひどい! ちひろっち、いじわるだ! どうしていつも、俺の恋路を邪魔してばかりいるのかなあ」
 それをいうなら、どうして、彼はこんなにも、自分の仕事を邪魔してばかりいるのだろうか。
「F社は休みないの? 年末年始まで仕事している気?」
「冬休みくらいあります。務めているのが出版社ってだけで、ぼくはただのサラリーマンです。ただ、原稿があがらなければ休日返上してでも原稿をとらなくてはならない、というだけです。一応、今年中のものは全て脱稿していますが、来年スタート時に脱稿できなさそうなので、こうして打ち合わせに来ているわけです」
「鬼だ」
 どっちがだ。
「それじゃ、この企画展用のネームの直しだけど」
 印刷会社や出版にかかわる会社が年末の休みに入るなか、特に今月は年末進行といって、かなりハードなスケジュールで作家に原稿依頼をしていた。その毎月の仕事をようやく終えてくれたのだが、人気作家が抱える仕事は毎月の連載だけではない。
 来年の四月には松葉の原稿の展覧会の企画が立っている。そのために特別読み切りを展覧会のためだけに書き上げるという……鬼の所業が待っている。企画展にあわせて読み切りを書いたらおもしろいんじゃないの?と、言い出しっぺはこの男なのだが。
「直しはいらない」
 唇を尖らせて、松葉は言った。
「いります。これじゃ誰に見せれる?」
「いらない。ガチで自分で五十回くらい直している」
 確かに、担当に見せるネームの熟度は、他の担当作家と比べても松葉は異常に練り上げてくる。だが、と千尋は思う。
 確かにいいネームだ。だが、企画展で展示する状態と、雑誌掲載を念頭においた状態とは、別だ。
「もう少し、コマを大きくとってほしい」
「なんで? この話はうまく流れるように、コマ配置してあるの。これ以上、ひとつひとつのコマを大きくしたら、バランスが悪くなる」
「そうかもしれないが、きみが言い出したんだろう。新作読み切りを展示するって。雑誌の乗るのと違って、読者が直接、ナマの原稿を見に来るんだ。せっかくなら、もっと、『絵』の良さを出したい」
「まんがは絵画じゃない。音楽だ」
「本だったら、もっとぺらぺらと流すように読んでもらえるかもしれない。だが、展示だ。一ページに目をむける滞在時間が長くなるはずだ」
「だから、それは作画でカバーする」
「そうじゃなくて……ああ、いい、この話はあとにしよう。それ以外にも、気になっている点がいくつかある」
「いくつ?」
「四つ」
「げえ。いつも俺、最高のネーム出してるのに、いちいち変なつっこみいれるかなあ」
 千尋は苦笑した。
 確かに彼のネームは最高だ。ただそのまま読むのであれば、何もいうことはない。手放しで絶賛したいくらいだ。
 だが、仕事で、まんがを書いているのだ。仕事となると、必然的に相手がいる。読者がいることになる。
 千尋の仕事はその読者の視点と、それを出版する側の視点。どうすれば、この作品がもっと読者に受け入れられるか、どうすれば、もっとこの作品が広く受け入れられるか、どうすれば数字がとれるか、どうすれば、みんなに、もっと大勢のひとに、このまんがで喜んでもらえるか、それを考えることにある。
 だから、ただ面白いだけでは不十分なのだ。
 売り出しかた、発表のされかたに最適なカタチであるかどうか。発表される時期、状態も考慮するし、それを売り込む世間やターゲット層の状態なども、あたまのなかにいれておかなくてはならない。
 その視点が、この作家には欠け過ぎている。いや、欠けていていいのだ。売れるかどうかを気にしすぎてつぶれる作家よりこういう一点突破の才能を持った才能のほうが、ありがたい。
 確かに彼は天才だ。おもしろすぎる、いい作品を生み出すことができる。
 だけど、それだけで、食っていけるかどうかといえば、それは、微妙だ。
 その点をカバーするのが、自分の仕事だ、と千尋は考えている。だから、口をすっぱくして、彼に要求をつきつけるのだ。その要求を乗り越えようと直していく間に、彼の作品はより強烈に光を放ち始める。彼のもつ一点突破のエネルギーが、千尋の指摘により鮮明に読者の心に響くかたちにブラッシュアップされていく。
 ひとりじゃないと書けない作家ではない。誰かの指摘も受け入れて自分のなかで消化できる。だから、彼は大作家なのだ。
 だからこそ担当できてぎりぎり良かったとも思えるのだが、問題は彼を担当できる作家が、自分以外にいないということだ。ある程度、力を持った作家は新米の編集者が担当することになっているのだが、この松葉を担当した新米は疲弊して仕事どころじゃなくなる。その圧倒的パワーと自己中心的な性格に振り回されてしまうらしい。ということで、結果として、何度も松葉の担当をして、担当を新米に譲り、そしてまた松葉の担当へ戻り、ということを千尋は繰り返している。
 正直、誰か別の者が担当になっても大丈夫なように、この男を教育しなおしたい気分だ。
「で、どこなわけ? ちーちゃんが、ケチつけたい部分は?」
「ここだ」
 千尋は、山場の前のシーンを指さして言った。
「もっと、ひきつけろ。なんで、いつもよりここを弱くした?」
「弱くしてねえっての! だって、ここはこれでいいんだよ」
「クライマックス前の盛り上がるシーンの前だ。ここで、読者をひきつけて焦らさなくては、山場のカタルシスが半減する。もっと、松葉先生なら、大きなカタルシスがつくれるはずじゃないですか?」
「だから、これはこれでいいんだよ。さっきも言ったろ! これは流れの物語なんだって。流れるようにさら~と通り過ぎてほしいわけ! いちいち、溜めたり、ここでテンポ変えたりしないで、さら~っと」
「だから、いっただろう、展覧会なんだってば! 一歩一歩、読者は原稿の前で立ち止まって鑑賞をする! いいか、鑑賞だ!」
「だからだよ、ばかが! 展覧会なんだよ! 読者は読まねえの、ページをめくらねぇ! だから、これは、スマホまんが的なのね!」
「へ?」
「ほら、スマホって、一ページしか出せねえじゃんか! 本だったら見開き二ページ一気に見れるけど! 展覧会も、壁にはっつけるんだから、そりゃ一枚一枚って意識になるわな。だから、スマホまんが読んで研究したけど、リズムは一枚ずつ。そうしたら、流れるようにストレスなくすらーとしたほうがいいわけ! それに!」
 松葉は、話の途中でメロンソーダをすすりあげてから、言った。
「それに、展覧会だぜ? 読者は歩くんだよ。てくてく歩きながら、原稿を見るわけ。つーことはさ、ゆっくり歩く速度にこっちが合わせねえとだめだろ。だから、これは、これでいいの! ゆっくり、読者に歩かせる。そのために、途中で溜めちゃだめ! ストレスなく流れるようにするわけさ!」
 ああ、なるほど。
 千尋はうめいた。
 いつの間にか、この男、発表形態の状態も考慮にいれてネームをかけるようになっていたのか、と、驚く。
 そうだ。才能だけで成り上がったわけではない。彼は彼なりに努力、いや、自分に足りないものをちゃんと自分のなかにとりいれようとする力のある作家だった。
 こうなると、余計に、編集者として、口をいいだしたくなる。
「楽しくなってきましたね、先生」
 千尋が笑うと、松葉がこたえた。
「俺は全然たのしかないんだけどな。仕事なんてしたくない。ダーリンに会いたい」
 すなおでよろしい。
 千尋は、改めて彼のネームにむきあった。彼のコンセプトとしては、鑑賞者の歩行によりそう作品らしいのだが、さて、どう料理するべきか。
 楽しい。全身の細胞が活性化して、脳が回転を始める。さて、どう仕掛ける?





 松葉との打ち合わせは予定の時間より二時間もオーバーしてしまった。だが、これでいい。作品の質が一番大事だ。ここで手を抜いてはいけない。だから、これでいい。
「千尋さん、おかえり」
 デスクに戻ると、同じ編集者の吉川が声をかけて来た。
「今年はどう? 仕事、おさめられそう?」
 一応、予定では明日から冬休みということになっている。今年中にださなくてはならない原稿は全て脱稿済みだが、来月の締め切りに間に合いそうにない作家のフォローや次の雑誌の企画の進行をまとめておかないと、来年がつらい。
「松葉先生の企画展のネームは? もうそろそろ固めておかないと、雑誌連載と並行して作業になるだろう?」
「ああ、うん、まだまとまってはいないが、方向性だけは見えた。先生が書き直したらメールするって」
「またリライトか。最近、多いよな」
「ええ、まあ。でも、修正しているからといってその原稿がダメってわけでもないんですが」
「まあ、そうなんだよなあ。今日このあとの予定は?」
「ひよっこからメールで送られてきているネームのチェック。そろそろ、デビューさせたい卵がひとりいて、その子のフォロー。それから、連載会議出したい企画ある漫画家がいるから、連絡密に取って、年明け一回目に爆弾をもっていきたい」
「出たよ、爆弾。でも、こっちの爆弾もかなりすごいもの用意している。今度の会議では千尋の爆弾に負けないからな」
「楽しみだな」
 千尋は時計を見た。自分の机に座ると、その上に積まれた書類にさっと目を通して、PCを立ち上げた。
 若手からメールでネームが届いている。それを印刷して、さっと目を通す。
「だめだな、これじゃ。まだ、雑誌に載るってことを意識していない」
 修正の旨をメールする。ただ、文書でこまいかいニュアンスを伝えられているかは微妙だ。受け取り手は千尋と違う意味でとらえてしまうかもしれない。ただ、電話するだけの余裕は今日はない。
 さっと、簡潔に修正箇所を指摘して、メールを送信した。まだ、やるべきことはたくさんある。
 ふと、新崎の顔がうかんだ。
 あの子も、この子たちみたいに、下積みの時代があったんだよなあ、と振り返る。
 千尋が彼のことを知ったのは、既に守谷の劇団で人気を獲得してからのことだ。期待の新人がいるといって守谷に紹介してもらったんだっけ? いや、その前に、自分のファンだといって、公演を見にいった際に、彼から声をかけられたんだっけ?
 あのころはすごくかわいかった。役者としては、クールな二枚目役ばかり彼にあわせて書いていたけれど、彼本体はとても可愛い好青年だ。なんというか、あの仔犬のような純情さは――。
 ぎゅっと、胸がしめつけられる。
 だからこそ、彼はだめなのだ。
 ただひたむきに頑張れば報われる。そんなあまい場所ではないというのに。
 体を崩して倒れた新崎のことを思う。
 なぜ、そこまでやる? 仕事が好きだからか? ただ、その仕事を貫きたいのなら、もっと、うまく立ち回れるはずだ。彼だって頭が悪いわけじゃない。それなら、何故、あそこまでガムシャラになった。自分の不調をあそこまで押し殺してまで――。
 重荷。
 ふと、そんな単語が浮かんだ。
 そうだ、重荷。
 何かが彼を追い詰めている。
 いや、何かなんて、あいまいなことばで表現しなくても、その何かが何なのか、千尋はわかっている。
「ぼくのせい、だな……」
 いつだってわかっていた。新崎の視線の先がどこに向いているのか、を。
「帰ってきたかな」
 そっと、スマホを取り出せば彼からのメッセージが届いていた。

――千尋さんとこ、います。おじゃましています。――

「ふふ、もう、きみの場所でもあるのに」
 思わず顔がゆるんだ。新崎が自分のアパートに帰ってきている。それだけで、微笑ましい気分だ。
 だが。
「でも、きっと……これがいけないんだろうな」
 千尋は、自分の頬を叩いた。
 まだ仕事が残っている。あまったれていては、だめだ。仕事にも、新崎にも。






 ゆっくりと目を開ける。ここは――、あたりを見渡して、見慣れた千尋のマンションだと、新崎は安堵した。
 だが、時計を見て、小さく悲鳴をあげた。まずい、遅刻だ。慌ててでかける準備をしている途中で、伊東が調整して今日を休日フリーにしていることに気が付いた。
 働かなくちゃ、という思いがある。だが、あの伊東がマネージャーだ。休日になったことは絶対に覆せない。
 だが、本当は今日、撮影納めの日だったのだ。それが、こんな中途半端な状態になっている。彼に残されているのは、年末の生中継の仕事だ。年初放送のドラマの番組宣伝も兼ねて、大晦日の音楽番組で中継する。とあるミュージシャンのライブを共演者とともにレポするというものだ。
「演技ではない……」
 もともと、演技さえできればそれでよかった。もっと売れるために、タレント的な仕事も断らずに受けるようにしているが、本当にしたいのは、舞台の上の仕事、カメラの前で演じること。演技、役になること。
「いけない、しょぼくれるな」
 新崎は洗面台の前に立って、自分の頬を叩いた。千尋と付き合ってから、この癖が千尋にも伝染したのを彼は知っている。頬をたたてすぐ、頬がたるんだ。
 好きだ。
 それ以上に、好きだ。
 千尋がいなければ、いまの新崎はいない。千尋によって、いまの自分自身がいる。そのくらい、千尋が好きだ。
 千尋はまだ寝ているのだろうか。寝室に千尋の姿はなかったし、おそらく千尋は書斎で睡眠をとっているのだろうと思う。彼のそこを覗きにいきたくなって、新崎はそれを必死に抑え込んだ。
 書斎には原則、立ち入り禁止だ。そこは、彼の二つ目の仕事場であり、彼の聖域だからだ。
 壁一面の本棚のなかには、創作関連の本だけではなく、医学、舞踏、数学、音楽、ありとあらゆるジャンルの本がぎっしりとつめこまれており、デスクの周りにも参考資料がまき散らされている。ぽんと、置かれたノートPCが彼の執筆道具だ。
 兼業脚本家の千尋の特別な場所。だから、無遠慮に入ってはいけない。
 わかってはいるが、千尋に会いたい。
 出版社の激務にさらされながら、脚本も書いていて、本当にすごいひとだと思う。彼のように自分は絶対になれないだろうと思うくらい。
 編集業でも、担当したまんがでヒットを連発しているし、脚本業でも舞台だけではなく、テレビドラマ業界にも進出して――。
「あ……」
 くらり、と小さくめまいがした。新崎は洗面台につかまった。
 変な感じだ。
 足先から倒れこみそうな、不安定な感じ。
「ちくしょう……、なんだよ、これ……」
 新崎は、ずるずると、床にゆっくりとしゃがみこんだ。
「なんで……」
 頭のなかに、ある光景が浮かぶ。あの日のオーディション会場、そのときの空気。
 やれることは、全力でやった。だから、後悔なんて、残っていないはずなのに。
 くるくると新崎の周囲で世界がまわりはじめる。面接からはじまり、台本読み、そして、実際に動いて、演技して、審査されて。
 監督、プロデューサー、制作陣の目の前で、やれるだけのことを全て披露したつもりなのに。
 いや、だから、それに届かなかったということは、自分はそれだけのことしかできないというだけなのだ。だから――。
「やばい、空気、かえなくちゃ」
 新崎はふらふらとリビングに戻ると、テレビのリモコンを探した。電源を突ける。黒い四角のなかに、映像が浮かんだ。
「いま、新たな才能にドキリ! 今回のゲストは、新進気鋭! 怒涛の勢いで進出中! 俳優の九条くじょう理人りひとくんです!」
 ぱっとカメラが切り替わって、整った優美な男の顔が浮かび上がった。
「あ……」
 心臓が変な音を立てる。ばきばきに自分が壊れてしまいそうな音。そうだ、怒り。怒りに自分は内部から食いつくされて壊れてしまいそうなんだ、と思う。
 新崎は、勢いよくテレビをオフにした。
 あいつだ。
 あいつのせいで。
 オーディション後に、彼の噂を聞いた。
 あの夏のオーディション、千尋が脚本で参加しているドラマの配役決め。その裏で、あの男は、プロデューサーに枕営業していたという噂を聞いた。
 細い身体、しなやかな肉体、可憐な容姿。それを活かして、よくもまあ。
 新崎は落ちて、あの男が受かった。それが現実だ。
「千尋さん……」
 彼を呼びに行こうとして、彼は硬直した。いまの状態の自分を見られたくない。洗面所に戻って、冷たい水で顔を洗った。
 大丈夫だ。
 そう自分を言い聞かす。
 玄関から物音がした。
「ただいま。……新崎くん?」
 千尋の声だ。玄関から入ってきた千尋は、洗面所にいた新崎を見つけて微笑んだ。
「ああ、ここにいたのか。おはよう」
「千尋、さん。……え? どういうこと……?」
 いまのいままで、どこにいたの? 仕事?
 病院ではあまり寝れなくて、千尋のマンションに来て、爆睡かましてしまった新崎は、自分が寝ている間にとっくに千尋はもう帰っていると思っていた。いや、そもそも起きたとき、どうして、千尋のことを一番に確認しなかったのだろう。そうだ、今日も仕事だとばかりに、自分のことを――。
 いや、今日に始まったことではなかった。
 仕事で精いっぱいになっていて、千尋と顔をあわせる時間は減っていたし、だからこそ、オフがとれたら千尋へ会いに行って、必死にふたりの時間をとろうとしていたけれど――。
 いや、そうじゃない。
 一体、どうした、何を考えている、自分は。
 そうだ、千尋がこの部屋にいないことにすら気が付かなかった自分は――そういう自分が嫌なだけだ。何が、好きだ。何が、大好きだ。
「新崎くん?」
 固まったままの新崎に千尋がふあんげに声をかける。
「あ、いえ、ああ、ごめんなさい……、千尋さん、もしかして、朝まで仕事でしたか?」
「あ、そうだね。ごめん。昨日、ちょっとどうしても、昨日じゅうに終わらせたい仕事があって、集中していたら、終電逃しちゃって。そのまま、職場の休憩室で……って、連絡はいれたけど?」
「え!?」
 新崎は飛び跳ねるように走って、自身のスマホを確認した。確かに。夜中に千尋からメッセージが入っている。
「ああ……そうだよね、本当に、ごめん、新崎くん」
「い、いえ! なんで千尋さんが謝るんですか!? こっちが迷惑かけているのに……!!」
「……ああ、うん」
「それより千尋さん、お疲れですよね、今日は俺が朝ごはん……っていっても、もうお昼ですね」
「いいよ、つくらなくて」
「へ?」
「外で買って来ちゃったから。これ」
 そういうと千尋は手にさげていたレジ袋を新崎に差し出した。
「仕事でもお弁当ばかりだろうし、またお弁当っていうのも、悪いかなとか思ったんだけど……」
「い、いえ、これ、千尋さんが、俺のために買ってきてくれたんですよね、嬉しいです」
「……そう? ……いや、いいよ、無理しなくて。簡単なものなら、いまからぼくが作るから。でも……」
「でも?」
「まだ、今年じゅうに終わらせたいことが残っているから、またぼくは出なくちゃならない」
 千尋は、もごもごとそう伝えて来た。
「え!?」
 新崎はのけぞった。
 と、いうことは、このひとは、自分に食事をとらせるためにわざわざ、家まで帰って来たのか?
「なんか、本当に、ごめんね。このままずっと着替えナシだから、ぼく、臭いだろうし、あまり近くに来ないで」
 千尋は、さっと、電子レンジのなかに、買って来たお弁当をセットした。
「いま、あたためているから、あ、そうだ、お味噌汁……インスタントでもいい?」
「え、ええ、はい」
「て、いうか体調はどう? 新崎くん、ちゃんと眠れた?」
「ええ、まあ、元気です。というか、爆睡してました」
「……そう」
「千尋さん、一緒に食べていかないんですか?」
「いや、ぼくは平気。はい、箸」
 新崎をテーブルにつかせると、千尋はさっと温めた弁当を新崎の前に出した。
「一応、修羅場に備えて簡単に食べられるもの、冷凍庫とか引き出しの中にストックあるから、お腹すいたら勝手に食べていいからね」
「あの、千尋さん……?」
 千尋は壁掛けの時計に目をやった。
「ごめん、もうぼく出るから」
「えっ」
「新崎くん、ちゃんとゆっくりしているんだよ。わかった?」
 行かないで。
 つい、言いそうになって、新崎は自分をおさえつけた。
 そんなこと、このひとに言えるはずがない。あれだけの大きな仕事をしているひとに、死んでも口にできるわけがない。
「はい、いってらっしゃい」
 彼を応援しなくてはならない。だから、なるべく、涼しい笑顔でおくりださなくては。彼は笑った。
「うん……、それじゃ、任せたからね」
 何を任されたのだ? 自宅警備を? いや、ゆっくりしろという、そのことを?
「はい。千尋さん、気を付けて」
「うん、それじゃ」
 千尋は一回も席につかずに、玄関にリターンしていった。新崎と、無駄にあたたかいお弁当だけが残された。
「……なにしてるんだろう、俺は」
 おかしい。
 本当に、おかしい。
 そこかで自分を回している歯車が小さくずれていって、少しぎこちない自分がいる。
 なんなのだろう、これは。一体。


13/16ページ
スキ