~'22

大事なおしらせ
 全年齢で公開してしまっていますが、若干、性的なほのめかしが入ります。あまりひどいものではありませんが、うーん、たぶんR15くらいかなあ。でも、苦手なかたは読まないでくださいね。



でこぴん

「千尋さん、起きちゃいました?」
 うっすらと瞼を開けた千尋の視界に入りこんできたのは、小さな電球光とそれにつつまれた新崎《にいざき》迅人《はやと》の整った顔だった。
「おはよう……」
 |千尋《ちひろ》崇彦《たかひこ》は、まだ完全に回りきっていない頭で、ぼんやりと彼を見上げる。すると、嬉しそうに彼は笑った。
「はい、おはようございます、千尋さん。今日も可愛いですね」
「……うん」
「まだ眠たいですか? すみません、起こしちゃって」
「今日も撮影?」
「そうなんです。ごめんなさい。朝方のシーンを野外で撮ったあと、スタジオ入りして……って、あ、あの、その」
 腕時計に視線を落とした後、あせりはじめた新崎に、千尋はふっと軽く笑った。
「いいよ。いっておいで」
「千尋さん……」
 普段から、朝はいつも千尋が作ってくれる。それなのに、自分が何もできないことに対して焦りを感じているらしい新崎は口ごもった。
「いいから。頑張ってね」
 睡魔が襲ってきて、千尋は、ゆっくりを横向きになった。もぞもぞと動くたびに、掛け布団の擦れる音がする。
「……はい!」
 新崎がようやくいつものあの満開の笑顔に戻った。うとうとしている千尋を抱きしめると、そのまま首筋にキスを落として、満足げに彼は部屋を出て行った。


「お疲れさまです」
 舞台セットの上で新崎は、ぺこりと腰を折った。本日のドラマの撮影はここまでだ。
「お疲れさま〜。良かったよ、ふたりとも! 午前の撮影はばっちり! この調子で午後もよろしく頼むよ!」
 監督がにこにこと笑顔をもらす。となりにいる共演俳優である新田まりなが、嬉しそうにセットから降りてきた。
「ありがとうございます! 新崎さんとの共演、初めてで緊張したけど……すごく楽しかったです!」
「楽しかった、じゃなくて、まだまだ続くんですよ、撮影」
 ふふと、軽やかに笑いながら新崎も舞台を降りてきた。
「そうですね! また午後もよろしくお願いします……!」
「はい! こちらこそ!」
 先に相手に腰を折られて、新崎も慌ててお辞儀をした。
 新田まりな。
 十七のときに雑誌のモデルとしてデビューし、気がついたら演技の世界でも縦横無尽に活躍している女性タレントである。
 みずみずしく可憐な容姿とは裏腹に、彼女の緻密に計算されつくした演技を前にして、新崎も飲み込まれてたまるかと、張り合いがある。かといえば、収録最中に見せる屈託ない優しい雰囲気は、ギスギスしがちな真剣勝負の場をゆるめてくれ、まだ会っていくばくも経たないというのに、新崎自身も彼女には気さくに触れ合うようになった。
「でも、すごいですよね、新崎さん」
「え?」
 通り過ぎていく撮影スタッフに頭を下げながら、控室に向かう最中、彼女が新崎に話しかけてきた。
「もともとは舞台をメインにやっていたんでしょう?」
「え、ええ、まあ……」
「撮影のとき、ものすごくカメラを気にしていて、絵としてどう映るか、どう切り取られるのか考えていますよね」
「あっ、は、はい」
 新崎はドキリと心臓を弾ませた。そんなところを気付かれるとは思っていなかった。
「すごく、やりやすかったです。相手が新崎さんで良かった〜ってなるくらい!」
 天使のような微笑みを浮かべて、新田が新崎を見上げる。
「それは、俺もです! 何回かフォローしていただいたのもあって……」
「あら、それはお互いさまですよ~。また次の撮影が楽しみです。よろしくね」
「こちらこそ」
「あ、よかったら、このあと、ご飯、一緒に行きませんか?」
「え?」
「あ、いえ、失礼でしたか……」
「ああ、いや。控室でお弁当いただこうかと思っていたので」
「えー、どうせなら、外、いきましょうよ。ずっとスタジオのなかだと腐っちゃいそう!」
 あはは、と笑いながら新崎も考える。
 早朝から野外で撮影が終わったあと、そのままスタジオ入りしていた。軽くゼリー飲料を口にしただけだ。時間が押している現場だからこそ、なのだが。
「大変なときこそ、息抜きって大事だと思うので。もしお弁当が気になるようなら、スタッフさんに言って、夕ご飯にお持ち帰りしちゃえばいいじゃないですか~」
 まあ、そうか。
 新崎は微笑みながら、うなづいた。



「へぇ、良かったねぇ」
 千尋がにこやかにつぶやいた。
 ここはマンションの一室ではあるが、新崎の部屋ではない。出版社勤務のかたわら脚本業をいとなんでいる千尋が借りて住んでいる部屋だ。
 いつからか、新崎がそこに入り浸るような形で、忙しくてオフのあわない不思議な同棲生活が始まっていた。
「きみの口からなかなか共演者のお話を聞けないので、なんか今日は新鮮だ」
「え? そうですか?」
 食卓に乗ったサバ味噌に箸をつけながら、新崎が千尋を見上げた。今日の晩ご飯も千尋お手製のものだ。ちょっぴり甘口なせいか、疲れた身体にやさしく味噌の味がひろがっていくようだ。
「そうだよ。いつも、きみ、『千尋さん、今日はなにをなされていたんですか?』『千尋さん、お仕事たいへんでしたね』『千尋さん、次はどんな話を書かれるんですか?』とかでしょう」
 顔を合わせて食事を出来ることが嬉しくて、ついつい、そう口走っていた。千尋に普段の自分の口調を真似されて、新崎はかっと頬を赤くした。
「す、すみません。そうですよね。いままで、その、千尋さんを質問責めにしていました……」
「いや、謝らなくてもいいけど。ぼくにもようやくきみのことが聞けるようになって嬉しいです。それにお弁当持参で帰って来たのも初めてで新鮮でした」
「……すみません」
 新崎はぺこりと頭を垂れる。
 食卓に並んでいるのは、千尋の手料理だけではない。昼間に食べなかったお弁当のおかずも一緒に並んでいた。
 世間では、二枚目クールな上っ面を通し、たまにバラエティで抜けているところを垣間見せている人気若手俳優が、千尋を目の前にすると、まるで小さな仔犬がしょげているかのようになる。
「いや、だから、怒ってないよ、ぼく。それより、もっときみの話、聞きたい。新田さんが、すごいやりやすい俳優さんだったって話だけじゃなくて」
「わ、ほんとですか! いや、どうしよう。俺、あんまり面白い話とかできないけど……あ、監督がカメ飼っているって話とかどうですか?」
 千尋が笑った。
「カメ? え、ミドリガメとか?」
「ミシシッピアカミミガメだそうです」
「へ、へえ」
 千尋は肩をすくめた。ミシシッピアカミミガメのことをミドリガメと言ったりする。両者は同じ生物のことを指しているのだと彼は知らないらしい。
「ミシシッピアカミミガメって言ってました。なんかお祭りで貰ったらしくて、それを育てていたら、とても巨大化したらしいんですよね」
「どのくらい」
「このくらいって言ってました」
 新崎が手をぐるりと回して大きさを伝えた。
「でか。そりゃ大きいねえ」
「でしょう。で、監督、手を焼いているらしいんです。捨てたいけど可愛くて捨てられないって」
「あらあら。危険じゃないの?」
「どうなんだろう。咬まれそうで怖いなとは思うけど、本人、楽しそうに話していたので、もう家族なんでしょうね。なんか、犬みたいに人間について歩くこともあるそうですよ」
 千尋はてくてくと己のあとをついて歩くカメの姿を想像して、思わずほっこりとした。不器用に甲羅を左右に振ってのったり歩いているのは可愛らしい。
「いいなあ、カメが家族」
「ですよねえ。でも、大きすぎるのはちょっとつらいです」
 そこで可愛い想像上のカメが巨大化して、室内を圧迫しているさまを想像してしまった。
「だねえ」
 千尋は、まったりとお茶を飲みながら、うなづいた。大きいのには手がかかる。そりゃ大変だ。



 翌日。
 撮影の前に迎えにきたマネージャーの表情から何か深刻なことが起こったと察知して、新崎は身構えた。
「新崎くん、ちょっといい?」
「はい、伊東《いとう》さん」
「実はね……新田まりなとランチしている写真がネットで出回っているんです」
「あ……!」
 それは昨日のことだ。あの日、午前の撮影の後、マネージャーにひとことだけ告げて、彼女と外出していた。マネージャーだって新崎ひとりにとりかかれるほど大きな事務所でもないし、その日は、別のタレントのつきそいの予定が入っていて午後からは新崎と別行動だった。
「軽率でしたね」
 マネージャーのことばがずしんと重くのしかかる。
「新崎さんは、アイドル的な魅力だってあるんですよ。演技を見て支持してくれいるかたも大勢いるかと思いますが……」
「わかっています」
 自分が演技だけ、技術だけで、選ばれたわけではないことを知っている。顔だ。この顔だって俳優新崎迅人の武器のひとつとして売りになるものだった。
「ファンのかたからみたら……と思うと。申し訳ありません」
「わたしに謝ってもどうにもなりません。まだ燃え広がっているわけではないので、そう硬くならないで。一応、伝えなくてはならないことなので、伝えました」
「はい」
「ちゃんと受け止めて。それから、落ち込まないで。あなたがやるべきことは、『役者』ですから」
「はい……!」
「本日も撮影があります」
「はい! よろしくお願いします」
 今はやれることしかできない。できることをやるまでだった。



 火消は新田サイドとの協力もあり、出回っていた写真の件は無事鎮火の方向へ向いた。
 しかし、この件以来、共演している新田との関係がどこかぎこちなくなってしまい、監督から何度もリテイクの声が飛んできた。
「どうしちゃったの? あれだけ昨日は調子良かったのに……!」
「す、すみません。もう一度いいですか!?」
「いや、もうよそう。今日は終わり」
「でも……っ!」
 スケジュールはぎりぎりの進行をしている。そんななか、撮影がストップしてしまったら、ドラマ放送日まで間に合わないのではないだろうか。
「監督! ごめんなさい! わたし、次はきめます! お願いします! もう一度!」
 新田が去ろうとした監督の背中に向かって叫んだ。監督は、足を止めた。振り返って、新崎と新田ふたりを見た。
「いったん、休もう」
 まっすぐな視線に射抜かれて、ふたりは動けなくなった。
 いまあせっても、結果はついてこない。
 このひとは、本気でいい絵をとりたいのだ。いいドラマをつくりたいのだ。それを真摯に感じた。
 悔しい。
 新崎はぎゅっと拳を握りしめた。たったこれだけの些細なことが胸の奥につきささって、それだけで、波に乗り切れないでいる自分がとても未熟で恥ずかしかった。
「新崎さん……」
 新田が、声をかけようとしたが、つづかなくて、ふたりは黙り込んだ。
 その日は、それでおひらきになった。



 こういう日は、あの部屋にはかえりたくない。なのに、つい、毎日通うようになった千尋のマンションの前に立っていた。
 弱ったとき、彼の前にいたくない。消えてしまいたい。まだ解約していない自分のアパートへ戻ろうと思ってくびすを返したとき、声を掛けられた。
「新崎くん、いま帰り? 一緒だね」
「あ……」
 スーツ姿で、帰宅中だった千尋が立っていた。
「ごめんね。まだご飯できていないんだ……って、新崎くん?」
 嫌なタイミングだ。
 こんなときに。
「どうしたの? 調子悪い?」
「い、いや、そんなことはないですよ」
 千尋の目の前を逃げられるわけはなくて、そのまま、彼の部屋のなかに新崎は飲み込まれていった。



「何が原因かな?」
 シャワーを浴びたあと、ベッドの上に腰かけて待っていた千尋が言った。
「絶対、何かあるよね、新崎くん」
「べ、別に何も……」
 まだ雫がしたたる髪をタオルで押さえながら、新崎は視線をおよがす。
「きみねえ……守秘義務があるなら、言えなくてもいいけど、ぼくは部外者だし、何言ったっていいんだよ」
「千尋さん」
 新崎は、さっと、彼の肩をつかんで、そのままベッドに押し倒した。
「今日、したいんですか? 俺、疲れてて、使い物にならないかもですが……したいなら、しますか?」
「は、はあ!?」
 耳元に新崎の吐息がかかる。千尋は、あわてて身を起こそうとしたが、新崎のほうが強かった。
「逃げないで。よくしてあげます」
「いや、する気ないから! って、こら!」
「いいですよ。俺、千尋さんの匂い、好きだからこのままで。千尋さんがシャワー浴びてくるまで待っていられない……」
「違う違う! 盛るな! ああ、もう! いい加減にしてくれ!」
 どんと、必死に千尋は新崎の胸板を叩く。びくともしないが、それでもかまわない。
「盛るな! うやむやにするな! きみ、それじゃしていること、負け犬と同じだぞ!」
 負け犬。
 はっと、新崎が身体を離した。
「あ……お、俺……」
 ベッドに倒れこんでいる千尋が目に入った。
「ご、ごめんなさいっ。俺、その……」
「いいから」
「千尋さんっ」
「ほら、いいから。いったん、落ち着いて」
 起き上がった千尋が、腕を広げて新崎を待っている。
 甘えてもいいのだろうか。逡巡したが、千尋のまなざしに胸を打たれて、新崎はそっと大きな体を千尋に預けた。
「よしよし、いい子だ」
「……千尋さん」
 まるで小さな子どもをあやすような手つきに羞恥心がおこったが、それでも居心地がいいので、嫌だとは言い出せない。新崎は、なされるがままにされていたいような気分にさえなってくる。
「何があった?」
 落ち着いたころを見計らって、千尋が尋ねてきた。
「いや、別に」
「悪い子だなあ。そんなふうに、ぼくはきみを育てたつもりはないけど」
「千尋さんは、俺のお母さんですか?」
「そうなってほしいなら、お母さんになってやろうか?」
 これはやられた。新崎は苦笑する。
「結構です。千尋さんは千尋さんだ」
「でしょう? 意地の悪い子は嫌いですよ」
「好きになってもらいたいです」
「素直でよろしい」
 新崎に、うっと込み上げるものがあった。なんだか知らないが、このひとを相手にしていると敵わないものがる。
「千尋さん、俺、女の子とランチデートしていたら、どう思います?」
 つい、聞いてしまって新崎は、後悔した。
「あ、もしかして、新田まりなさんのこと?」
「――っ!」
 知っていた。
 ぎゅっと胃が締め付けられ、どん底に落とされたような気分になる。
「あの、俺、新田さんは仕事仲間で、その、そういう意味でのことは全くなにもなくて!」
「ああ、わかっているって。落ち着いて、落ち着いて」
 とんとんと、背中をさすられて、新崎は口をつぐんだ。
「大丈夫。きみはぼくしか見てないのは充分承知。ね? これで安心?」
「……はい」
「大丈夫。こういうものは一過性だから。また別の刺激が出てきたら、そっちに飛びついて、このことなんてすぐに忘れちゃうから」
「はい」
 だけど――。
「ゆっくり深呼吸なさい。いま、きみがしなくちゃならないことはなに? ぼくを抱くこと?」
「え、あ……」
「ぼくはする気ないって言ったよね。それでもするの?」
「い、いえ……」
「明日の予定は?」
「……撮影です」
「よろしい。では、今夜はぐっすり休息をとること、ね?」
「はい」
「そして、何かがつかえているのなら、いま、ここで吐きだして、何もないまっさらにしておくこと」
「あ……はい」
「きみはねえ、必死すぎると思うんだ」
 千尋の腕が、ぎゅっと首筋まで登ってきて
 そのまま新崎の肩を抱きしめた。
「なにをあせっているのか知らないけど、誰もどこかにぴょんと飛んでいったりはしないからね」
「……うん」
 新崎も、つられて、千尋の身体に腕をのばす。そっと触れて、その背中を抱きしめる。
「きみが頑張りたいっていうの、ぼくはすごく好きだけど、転んだときに前に進もうとするのは好きじゃない。まず立ち上がってからにしてください」
「……はい」
「不満があるなら、不安があるなら、それを吐いてもいいひとがいるんだから、とことん利用すること」
「り、利用だなんて」
「あら、きみ、なめくさってない? ただ純粋に徒歩でてっぺん目指すつもりなら、甘くみすぎだよ。中にはロープウェーで頂点近くまで移動できるひともいるんだから」
「……千尋さんはロープウェーではないです」
「そうです。千尋さんは、どちらかというと、道の半ばできみを応援している雪だるまのような存在です」
「あ、そこはちゃんと雪山っている設定なんですね」
「だけど、むかついたときは、巨大な雪玉になってきみを引きずり落とすことに決めています」
「なんと、厄介な……」
 ちょっと、このひとのことが怖くなった。
「まあ、そんなわけで、話せることがあるのなら、話しておいたほうが得です。お買い得は好きでしょう」
「すみません、一人暮らし長いので、主婦みたいな節約好きで」
「ケチといは言っていません。ぼくよりきみのほうがお買い物が得意なの、逆に助かってるからね」
「千尋さん~」
「よしよし、なんだい」
 絶対、このひとにはかなわない。だからこそ、このひとと並んだとき、色あせない自分でいたい。だけど――いまは、まだ一人で胸を張る前に、彼に抱き着いていても、いいのかもしれないと、新崎はほんのすこしだけ思った。



「ねえ、何があったの?」
 カットを切ったあと、監督がぽつりと漏らした。
「ど、どうですか!?」
 昨日、中止になったシーンの撮影中、新崎が監督に向かって叫んだ。新田が、息を殺して、反応を待っている。
「いや、その、すごい、いいです……けど……」
「けど?」
 新崎は、ごくりと生唾を飲んだ。
「けど、その、急に変わりすぎて、驚いた。……オーケイ! 次のシーンにいこう! ふたりともこのまま頼むね!」
「はい!」
 新崎は新田と顔を見合わせた。ふたりで、笑いあう。
 いける。
 感覚は戻ったのだ。
 スタッフが、小走りで、新崎のもとへと走り寄ってきた。別のスタッフがセットの切り替えに急ぐ。メイクを直してもらって、彼は再び舞台の上にあがった。
 セットの下では、監督が彼らの見違えるような変化に舌を巻いていた。
「いやあ、しかし、いったい、ふたりに何があったんだよ。撮影の最初のとき、ものすごい、良い絵が撮れてただろ? で、その後、急に悪化して、で、今日はまた良くなった。それが、前に良かったとき以上に、心揺さぶる演技をしている。と、なると最初に撮ったシーンも取り直したい気が……」
「監督、それはだめです」
 スタッフが彼をたしなめた。
「時間がないですから」
「ああ、いや、それはわかっているんだがなあ」
 ぼりぼりと監督が頭をかく。
 なんだかわからないけれど、いい風が吹いている。



「千尋さーん! ただい……って、鍵かかっている」
 千尋のマンションの部屋の前で新崎は合鍵を使って、玄関を突破した。まだ彼は帰ってきていない。壁に掛けてあるカレンダーには、作家との打ち合わせと書いてある。
「忙しいのかな……」
 するりと、台所に立つ。彼自体かなり忙しいひとであるのに、いつもここで、ご飯をつくって待っていてくれている千尋に対して、新崎はいますぐに抱きしめたい感情に駆られrる。
「そうだ、今日は俺が……」
 そう思って、冷蔵庫をあけた。



「遅くなってしまったな」
 いつものファミレスで、担当作家の松葉ゆうと来月号に向けたネームの打ち合わせをしてきた。読者の目からみて、複雑な部分をできるだけ平坦にしたい千尋であったが、作家のこだわりが強く議論になった。
 結局、作家から、次号以降に発展させるサイドエピソードにからめてくる部分だったために、一部分のみ、簡略化したかたちでの決着をつけたはいいが、もう夕暮れを通り越して夜の気配が強くなっていた。
 自宅の玄関を通る際、見慣れた彼の靴を発見して、千尋は思わず破顔した。そして、いけないいけないと、緩んだ頬を必死で制御しようとした。
 あのあと、どうしただろうか。
 調子の悪かった彼が、泣き言のように、つべつべと思いを吐露したのは昨夜のことだ。
 初めて彼を認識したのは、千尋の高校時代の学友が始めた劇団で、千尋の書いた脚本がすごいと駆け寄ってきたのが最初だったと記憶している。
 あれから彼はものすごい伸びた。
 演技の幅を伸ばして、演劇の世界だけではなく、ドラマの世界にも手を伸ばした。貪欲のかたまりのように、来るオファーをこばまず、こなし、そのたびに成長してきている。
 だが、一見して鋼の鎧を着ているかのような突撃っぷりに見えるが、その実、中身はまだ柔らかく繊細で――危うい。
 どうしてあんな年下の、どうしようもない男を選んでしまったのだろうか。後悔しているわけではないけれど、自分でも千尋は不思議に思う。むしろ、彼じゃないとだめだ。
 けれど。
 昨夜、彼に押さえつけられた肩が震えた。普段は仔犬のように慕ってくる可愛い男ではあるが、その実、あまりにも大きくなりすぎた。
「あ、千尋さん、おかえりなさ~い!」
 居間のほうから彼の声。そして。
「え? なにこの匂い!」
 千尋は思わず鼻をつまんだ。
「あ、ご、ご、ごめんなさいっ! つい、その……」
 慌てて台所に走れば、まっくろになった底の鍋が、流しのなかで千尋を待っていた。
「うあ、あ、あの! 大丈夫、綺麗に洗います!」
「新崎くん!? 何したの!?」
「た、たまには、俺が、ご飯つくるぞってして、ぼけーってしてたら、その……」
「焦がしたんだね!? 怪我は!? 火傷とかはしていない!?」
「は、はい! そりゃもう俺は。火傷したのは鍋です!」
「鍋は焦げ付き! 火傷より質《タチ》が悪いです!」
「は、はい! ごめんなさい!」
 ぺこぺこと必死に謝るこの男に、画面の向こう側にいる二枚目クールな若手俳優の面影は全くない。
「もう、しっかりしてよね!」
「うう、ごめんなさい……」
 しっぽをぺたんと垂れてわびているかのような新崎に、思わず千尋は吹き出して笑ってしまった。
「え!? 千尋さん!?」
「うう、もう、本当にきみは、困った……こんなに大きくなったのに、こんなにまだ小さい」
「え?」
 千尋の言った意味がわからなくて、頭をひねっている新崎のおでこに向かって千尋は手を伸ばした。
「っ!」
 ぱちんと、おでこを弾かれて、新崎はとまどう。
「片付けよう。そして、それからご飯だ。ああ、もうぼく、今日は疲れちゃって、きみがぼくを癒す係りだからね」
 千尋が、見上げてくる。
 新崎は返事をした。
「はいっ!」

(了)
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