2019

彼の髪を切り終えたら

「あ、麻生さん」
 村岡の声が震えている。彼の緊張が固くなった肩やその声で痛いほどに伝わってくる。
「村岡くん、少しリラックスして。君に痛い思いをさせようってわけじゃないんだから」
 麻生と村岡が出会ったのは、麻生の元・妻が経営していた美容院だった。最初はただの常連の客だったが、当時荒みきっていた夫婦関係や家庭に疲れ切っていた麻生の心をいやしてくれていたのが村岡だった。
 ただ彼の髪をカットしていただけなのに、その間になされる会話や、村岡の一挙一動がなんだか愛らしいものに思えて、妻との関係が破局した後、気が付いたら何歳も年の離れたこの青年の隣にいた。
「思い出すな。こうやって、よく美容院で君の髪を切っていたね」
「は、恥ずかしいから、やめてください」
 わざと吐息が村岡の耳にかかるように、顔を近づけて言葉を吐く。村岡の真っ赤に染まった耳たぶに今すぐにでもかぶりついてやりたいのだけれど、その前にしなければならないことがある。
 村岡が、器用にハサミを動かしていく麻生を洗面台の鏡越しに見ている。時折目が合うと、恥ずかしそうに視線をそらそうとする村岡が可愛くて仕方がない。
「はい、できた」
 麻生はハサミを洗面台に置くと、村岡の肩に手を触れた。
「あっ、麻生さん!?」
「キレイになったね。村岡くん。……ね? もういいでしょう?」
 かすんだ声が彼の恋情を思わせる。麻生は村岡に思い切り、かぶりついた。(584文字)
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