2019
置き忘れパニック
足元で一人しかいない兄弟が育てている朝顔の葉が風に揺さぶられていた。まるで僕の失態を笑うかのように。僕が忘れものに気が付いたのは玄関前に着いてからだったった。
「あら、早いじゃないか」
あまりのショックに立ち尽くしていると背後から声をかけられた。
「何驚いてんの」
何というタイミングの悪さだろう。一応の姉である。その人は目を細くして僕を見ていた。姉は「鍵でも忘れたの?」と言って、硬直している僕の脇で鍵を取り出すとドアノブを握った。
「早く入って。蚊が入るから」
その一言で僕の理性は目が覚めた。
「悪ぃ! 忘れ物!」
慌てて来た道を引き返す。早歩きは徐々にスピードを上げて小走りになる。それはビートを上げていく心拍数と共に全力疾走に変わった。肩に揺れる学生かばんが僕の背中をせかせるように叩く。
人に見られてはいけないものなのだ。
僕は校内でたびたび目にする女子の塊の中にとある人間を発見するたびになんだか胸がもやもやするのだ。その人間が猛々しいスポーツマンタイプの人間の群れの中にいても苦しい胸の内は晴れない。
時折、その窮屈な心の中を吐き出したくなって、純白の封筒の中に思いを綴ってしまう。本格的に宛名まで書く。後でシュレッダーにかけて人知れず処分するのだから、問題なかった。
だが、うっかり教室に置き忘れるだなんて、自分の行動が信じられない。それは届かないはずの手紙なのだから、誰かに拾われでもしたら、切腹以外に道が見えてこない。絶望だ。
「あれ、庄司じゃん」
信号機が赤になって、地団駄を踏んでいると、同じ学ランの生徒が声をかけてきた。同級生の高橋だ。
「ちょうど良かった。お前に報告しときたいことがあってさ」
高橋は、高身長にスポーツマンらしき爽やかな風袋で真っ白い歯を見せて僕に近づいてくる。
「えっ、何の用?」
「お前、手紙置き忘れていただろ?」
がつんと凶器で後頭部を強打されたような感覚に陥る。実際にその言葉に少しよろめいてしまった。
「俺、先輩とは同じ部活でさ、放課後に軽いミーティングがあったから渡しておいてきてやったぜ」
親切心からくる笑顔はまぶしい。だが、その事実は僕の心を粉砕した。
「ウソだろッ!」
僕はまたしても来た道を戻る。肌をかすめる初夏の風がこびりついた汗を後方に洗い流していく。
渾身の全力疾走だった。
「アキラ!」
僕は一応の姉の名を叫びながら玄関を勢いよく突破した。謎の緑色の液体に氷を浮かべたグラスを片手にリビングのソファでくつろぐ当人がいた。視線は、なんていうことだろう、僕の書いた手紙に落とされている。
「待たれぃぃいい」
悲鳴に近い声を叫びながら僕は恥ずかしさをばねに彼に体当たりした。もみくちゃになって彼から紙片を奪い取る。姉の純白のセーラー服に緑色のドロドロが散った。
「何してくれてんじゃ!」
姉の一撃チョップを脳天に食らった。
「あーあ。クリーニング出したら明日何を着ていんだよ」
落胆ぶりは痛々しいくらいだった。女装は彼のアイデンティティを構成する重要な要素でもあるからだ。
「ごめんって兄ちゃん」
と口を滑らせて彼の激怒の瞳に睨まれる。
「は? スカート履いているときは『お姉さま』だろ?」
――といった具合に並々ならない情熱をセーラー服に彼は注いでいるのだ。
彼は肩を落としながら洗面所に歩いていく。びしょ濡れのセーラーを荒々しく脱ぎ捨てると、筋肉に彩られた逞しい肉体が現れる。なんだかいけないものを見ているような気分になって僕は目をそらした。
「ところで、お前、その手紙返せよ」
「えっ」
「誰だか知らないが、初めてもらったラブレターなんだ」
そらした視線を戻すと、赤く染まる兄貴の頬が視界に入った。
取り返しのつかないことをしてしまった。僕のこの失態は一体どのようにして取り戻したらいいのだろうか――。
置き忘れパニック 本文:1546文字
2019.07.13 お題:手紙 1h @BL_ONEhour
足元で一人しかいない兄弟が育てている朝顔の葉が風に揺さぶられていた。まるで僕の失態を笑うかのように。僕が忘れものに気が付いたのは玄関前に着いてからだったった。
「あら、早いじゃないか」
あまりのショックに立ち尽くしていると背後から声をかけられた。
「何驚いてんの」
何というタイミングの悪さだろう。一応の姉である。その人は目を細くして僕を見ていた。姉は「鍵でも忘れたの?」と言って、硬直している僕の脇で鍵を取り出すとドアノブを握った。
「早く入って。蚊が入るから」
その一言で僕の理性は目が覚めた。
「悪ぃ! 忘れ物!」
慌てて来た道を引き返す。早歩きは徐々にスピードを上げて小走りになる。それはビートを上げていく心拍数と共に全力疾走に変わった。肩に揺れる学生かばんが僕の背中をせかせるように叩く。
人に見られてはいけないものなのだ。
僕は校内でたびたび目にする女子の塊の中にとある人間を発見するたびになんだか胸がもやもやするのだ。その人間が猛々しいスポーツマンタイプの人間の群れの中にいても苦しい胸の内は晴れない。
時折、その窮屈な心の中を吐き出したくなって、純白の封筒の中に思いを綴ってしまう。本格的に宛名まで書く。後でシュレッダーにかけて人知れず処分するのだから、問題なかった。
だが、うっかり教室に置き忘れるだなんて、自分の行動が信じられない。それは届かないはずの手紙なのだから、誰かに拾われでもしたら、切腹以外に道が見えてこない。絶望だ。
「あれ、庄司じゃん」
信号機が赤になって、地団駄を踏んでいると、同じ学ランの生徒が声をかけてきた。同級生の高橋だ。
「ちょうど良かった。お前に報告しときたいことがあってさ」
高橋は、高身長にスポーツマンらしき爽やかな風袋で真っ白い歯を見せて僕に近づいてくる。
「えっ、何の用?」
「お前、手紙置き忘れていただろ?」
がつんと凶器で後頭部を強打されたような感覚に陥る。実際にその言葉に少しよろめいてしまった。
「俺、先輩とは同じ部活でさ、放課後に軽いミーティングがあったから渡しておいてきてやったぜ」
親切心からくる笑顔はまぶしい。だが、その事実は僕の心を粉砕した。
「ウソだろッ!」
僕はまたしても来た道を戻る。肌をかすめる初夏の風がこびりついた汗を後方に洗い流していく。
渾身の全力疾走だった。
「アキラ!」
僕は一応の姉の名を叫びながら玄関を勢いよく突破した。謎の緑色の液体に氷を浮かべたグラスを片手にリビングのソファでくつろぐ当人がいた。視線は、なんていうことだろう、僕の書いた手紙に落とされている。
「待たれぃぃいい」
悲鳴に近い声を叫びながら僕は恥ずかしさをばねに彼に体当たりした。もみくちゃになって彼から紙片を奪い取る。姉の純白のセーラー服に緑色のドロドロが散った。
「何してくれてんじゃ!」
姉の一撃チョップを脳天に食らった。
「あーあ。クリーニング出したら明日何を着ていんだよ」
落胆ぶりは痛々しいくらいだった。女装は彼のアイデンティティを構成する重要な要素でもあるからだ。
「ごめんって兄ちゃん」
と口を滑らせて彼の激怒の瞳に睨まれる。
「は? スカート履いているときは『お姉さま』だろ?」
――といった具合に並々ならない情熱をセーラー服に彼は注いでいるのだ。
彼は肩を落としながら洗面所に歩いていく。びしょ濡れのセーラーを荒々しく脱ぎ捨てると、筋肉に彩られた逞しい肉体が現れる。なんだかいけないものを見ているような気分になって僕は目をそらした。
「ところで、お前、その手紙返せよ」
「えっ」
「誰だか知らないが、初めてもらったラブレターなんだ」
そらした視線を戻すと、赤く染まる兄貴の頬が視界に入った。
取り返しのつかないことをしてしまった。僕のこの失態は一体どのようにして取り戻したらいいのだろうか――。
置き忘れパニック 本文:1546文字
2019.07.13 お題:手紙 1h @BL_ONEhour