2019

一人銭湯にて

 男は湯をため込んで重たくなったケロリン桶を頭上に掲げた。それを傾ければ、流れ落ちる湯の勢いに負けて彼の身体を覆っていた泡が剥がれ落ちていく。誰とも知れない人間の身体が湯けむりの中にぼんやりと影に見える。排水溝にまで流れていく泡と水を目線で追いながら、莉也は湯に浸かっていた。
 先日、居候先である椋下豹午郎の風呂に出入り禁止になってしまった。全ての原因は豹午郎の異常潔癖な性格のせいだと莉也は頬を膨らませる。
 莉也が入浴しながら食べていたクッキーの滓を豹午郎が発見した。それを発端に口喧嘩となり、さらに発展して莉也の風呂場禁止令という流れだ。
 豹午郎は、莉也を文字通り拾ってくれた人だ。以前は都市の滓のような路上生活を行っていたが、彼の登場により雨風をしのげる場所を得ることができた。莉也の家事労働と引き換えに、食費の支払いなしで三食食える。破格の幸せが舞い込んできたと莉也は思っていたのだが、今現在は些細な喧嘩のせいで一人見知らぬ銭湯の片隅にいる。
 ただ水の流れを目で追っていもつまらない。床に何枚タイルが敷かれているのかしらと、目でタイルの数を数え始めてみた。こんな時、傍に退屈を紛らわしてくれるような存在がいればいいのに。
もう帰ってしまおうかとも思ったが、居候先から一時間もかけて来て、銭を支払って入浴しているのだ。もう少し浸っていかなければ勿体ない気がする。莉也はそのまま肩まで湯に浸かった。
「あっ」
 ふと眩暈のようなふらつく感覚が莉也を襲った。だめだ、しっかりしなければ。力を入れようとしたが、身体は言うことを聞かない。
「おい、お兄さん、大丈夫かい!」
 二の腕を知らない誰かに掴まれたような感覚を最後にして、莉也は意識を失った。

 長い夢でも見ていたような気分だ。
 莉也は重たい瞼をゆくっりと開いてみた。自分は一体何をしていたのだろう。
「お、気が付いたな」
 その視界が真っ先に捉えたのは、莉也表情を窺っている豹午朗の眉間に皺の酔った顔だった。
「あれ? 今何時? ていうか、ここは……?」
 莉也の問いに答える前に豹午郎がペットボトルの天然水を莉也の頬に押し付けた。
「ひやっ」
「これでも飲んどけ。頭を冷やしてな」
 ぼんやりとしていた莉也も、今自分がいる場所が銭湯の待合だと気が付くと一気に理性が追い付いてきた。
「ひょ、豹午郎!」
「ああ、俺だが?」
「なんでここにいるんだよ」
「門限を守らないやつがいたからだ。まさか、湯に溺れていたとは知らなかったが」
 彼の言葉に莉也は耳まで赤く染まっていく。
「あ、そ、それは……」
 何も言い返せなくなり、餌を求める金魚のように口をぱくぱくと動かした。
「とりあえず帰るぞ」
「え、あ……」
「なんだ? もう俺の家は飽きたのか?」
「い、いや、帰ります!」
 ペットボトルから水を食道に流し込んだ。冷たい感覚が気持ちよく全身に広がっていく。
「こういうこともあるから、お前みたいな馬鹿は外には出せん。しばらく銭湯禁止令だな」
 豹午郎がつぶやくような小声で言った言葉を莉也は聞き逃さなかった。
 そそくさと自宅に向かって歩きだした豹午郎を追って、莉也も歩き出す。ふらつくと、豹午郎がすぐ傍にまで来て支えた。
 仲直りと莉也の風呂場禁止令が解かれるまであと一時間。


お題「銭湯」/一人銭湯にて
2019.05.25 30min-over
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