2019

洗濯日和の夕暮れに

 燦々と輝く太陽。絶好の洗濯日和だった。夕日が沈んでからも天気が良い日は気分がいい。鼻歌まじりなら、家事も楽しいものだ。
 莉也にとって今が人生の中で一番の幸せ絶頂期なのかもしれない。
 家事の負担だけでいい。三匹の名前のない猫にふかふかのお布団、食事の材料代も光熱費も家賃も負担なし。最高の物件に居候しているからだ。
 しかし、一つだけ問題がある。家主の椋下豹午郎との関係である。
 やれトイレの淵が汚いだの、風呂場の排水溝の水垢が嫌だの、タオルの畳み方だのと、気難しく事細かい性格の彼からの小言は、しょっちゅうだ。
 今日こそは小言を減らそうと思い、丁寧に洗濯物を畳むと急に眠くなってしまった。
 一息入れようと、キッチンに向かう。コーヒーでも飲んでから、畳んだ洗濯物を収納して、風呂を沸かして、家主の帰宅を見計らって夕食を温めておこう。
 一杯の至福を楽しんだ後、リビングに戻ってきた莉也は驚いて声をあげた。
「え、嘘だろッ!」
 あんなに頑張って畳んだはずの洗濯物が瓦礫の山と化している。四隅をそろえて丁寧に畳んだはずだったのに、その努力は無に帰ってしまった。
「おい、何やっているんだ?」
 帰宅したばかりの豹午郎が玄関先から疲れた吐息を吐きながらリビングにあがってくる。
 まずい。この不手際を見られたら、絶交されるかもしれない。そうしたらこの家にもいれなくなってしまう。
 証拠隠滅する方法を考えに考えたが妙案は浮かばない。豹午郎の足音はだんだんに近づいてくる。
ええい、ままだ!
 莉也は自分の身体で、荒れ狂う洗濯物を隠してしまおうとリビングの床にダイヴした。勢い余って額を強く打つ。痛みとともにゴンという鈍い音が恥ずかしい。
「……おい、莉也」
 扉をあけて入ってきた豹午郎が唖然として彼の奇行を見おろしている。彼の視界には、散乱した洗濯物の上に背中を見せて倒れている莉也の身体が一つ写っている。
「莉也! 何しているんだよ!」
 呆れてものが言えなかったショックから立ち直った豹午郎の筋張った手が横たわっている莉也の頬に触れた。
 ひんやりと冷えた指先がどこかだるげに頬を撫でる。彼の独特の体臭に彼の汗の臭いと酒とたばこの臭いがかすかに混じっている。これが務め人の一日の戦いの痕跡なのだろう。そう思った途端、苦しくなるくらい愛おしい気持ちが胸から這い上がってくる。
「すすす、すんません! いやはや、これはですね!」
 これ以上、頬に触れさせてはおけなくて、莉也は勢いよく上体を起こした。だが、それは失敗だったと後悔する。
 疲労によって豹午郎の凛とした瞳の鋭さが妙に冴え切っている。まっすぐに見つめられて、莉也の体温が緩やかに上昇し始めてしまう。
「あ、起きたのね」と言って、豹午郎が微笑を見せた。だるくやる気のない動作には妙な色気さえ感じてしまう。
「すんませんでした!」
 一刻でも早くこの場を去らなくては、という一点に莉也の全神経は集中した。
「こいつらだろ?」
「へ?」
 豹午郎は傍にすり寄ってきた猫を一匹、そっと抱き上げると、頭を撫でた。猫は嬉しそうにゴロゴロと喉を鳴らす。
「洗濯物、散乱してる」
「はい」
「いい玩具おもちゃなんだよ。畳んだらすぐにしまえよな」
「……はい?」
 てっきり怒られるかと思っていた莉也は豹午郎の態度に小首をかしげた。その様子を見た豹午郎は、ぷっと吹き出して笑った。
「それより早く風呂、つけてくれ」
「は、はい!」
「早く汗流して、良い事しような」
「え、は、はぇっ!?」
「ははは、冗談だ。早くつけてこい」
「了解しました!」
 莉也のあわただしい足音が浴室に消えた後、豹午郎はポツリと言葉をこぼした。
「あいつ、それなりに頑張っているじゃんな」
 その言葉が莉也の耳に入ることはなかった。
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