2019

香りの記憶

 鼻孔をくすぐったのは、ヤニ臭さだった。
 懐かしさが胸をせりあがってきて、なんだがせつなくなる。――あの人の匂いだからだ。
「先輩、ぼーっとして、どうしたんです?」
 後輩の飯村に声をかけられた長谷場は、はっと我に返った。
「すまない、色々と考えごとを」
「……そうですか」
 すれ違った人の香りから、昔の恋人を回想していただなんて恥ずかしくて誰にも言えない。
 別れてから三年も経っているのに。
「あ、先輩、ここですよ」
 飯村の声で足を止めた。
「ここの店、めっちゃうまいんですから。先輩も元気出ますよ。さ、行きましょう」
 自分は元気のない人間に見られていたのだろうか。癖で小首を傾げていたことに気が付き、顔を引き締める。
 元気よくイタリアン・レストランの扉を開けた飯村に続いた。店は昼時とあって混雑している。
「じゃあ、ズワイガニとトマトのクリームパスタ、二つで」
 おいおい、お前が俺の分まで決めるのかよ。呆れ顔が出てこないように、顔の筋肉に集中した。
「あはは、先輩、自分で決めたかったんですか」
「当たり前だ」
 分かっているのなら先に注文するなよ。そう言いながら、グラスの水をあおった。
 飯村は優秀な部下だ。卒業してから間もない二十三歳。コロコロと変わる表情や、大きな瞳が彼の活発さや人の良さをにじみだしている。
 馬は合う方だ。むしろ、飯村が合わせてくれているんじゃないのかと思うくらい。
「先輩、またタバコですか」
 肩が飛び跳ねた。周囲を見渡していた長谷場の視線が飯村に釘づけになる。
「突然、なんだよ」
「いや、先輩、街中を歩いているとき、いつもタバコ臭させている人がいると振り向いちゃうでしょ」
 心臓がバクバクとうるさい。握りしめたこぶしが汗ばんでくる。
 それがどうした。それが何なんだ。いや、何故、何故ばれた。
「……よく、見ているな」
「はい、俺、先輩が好きなので」
 一瞬の間が出来た。込み合った店内に響くのは他の客の会話だ。周囲の雑音がひどくて彼の言葉が聞き取れなかった。
「今、なんて?」
 不安。だから、長谷場は聞き返した。
「はい。だから、先輩が好きなんです」
 昔の人なんて、忘れさせてあげますよ。耳元でそうつぶやかれ、心臓が締め付けられる。
 彼からは、タバコの臭いはしない。
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