2019

お揃いのコップ

「暑い。もう、だめかも……」
 照り付ける陽光はアスファルトの舗装路を燃え盛る鉄板に変化させる。滝のように流れてきた汗が瞳に入ってきた。北沢はその痛みに顔をしかめた。
 ふらつく足取りでどうにか歩いているといった具合だ。突然、強烈な眩暈に襲われて、住宅街の真ん中で倒れた。

 北沢は目を覚ました。肌を揺さぶる爽やかな風が心地よい。
「ここは……」
 ぼんやりと覚醒しつつある理性をかき集めて、倒れた後のことを思いだそうとしたが、「俺の家です」
 声の主に思考は中断された。
「道端で倒れていたので救急車呼ぼうかと思ったんですけれど、うわ言のように、駄目だ駄目だとおっしゃっていましたので」
 声の主は明るい笑顔を北沢に見せる。爽やかで明るい青年に北沢の心臓が飛び上がった。
「はい、これ。水分補給してください」
 渡された麦茶をあおる。ガラス製のコップに水滴が付き、手を濡らした。
「ふう。ありがとうございます」
 こんなに見知らぬ人によくしてもらっていいのだろうか。恐縮しながら北沢は頭を下げた。「いいって」と笑う彼の笑顔がまぶしい。
「あれ?」
 北沢の視線はコップに注がれた。
「これって、もしかしてB&Rの……」
「知っているんですか! B&R!」
 北沢の言葉に青年が嬉しそうな声をあげた。
 B&Rとは、北沢が高校二年の時に解散してしまった音楽グループだった。最後のライブをよく覚えている。
 東京まで片道二時間半。ライブの為に上京した。圧倒的な熱量。全てが終わった。涙と興奮を胸の中に閉じ込め、帰宅の途につく前に物販に並んぶ。
目当ては会場限定アイテム。特にグラス製のタンブラー。赤で印刷されたものと緑色で印刷されたものの二つでワンセットで販売されるものだ。
『ラスト一個じゃないか!』
 数が足りなかったのだろう。北沢がギリギリでそのコップを手にすることができた。けれど。
『あ……。もう終わっちゃったのか……』
 思わず声が漏れてしまったのだろう。自分の後ろに並んでいた少年が悲しそうな目で北沢を見ていた。
 その様子を見ていて、なんだが胸がもやもやしてくる。
最後の最後までB&Rは全力で観客を楽しませた。正真正銘のエンターテイナーだった。
 自分もB&Rの一ファンとして、エンターテイナーにはなれないかもしれないけれど、誰かの笑顔の為に行動したい。北沢は勇気を出して少年に声をかけた。
『なあ、君! 俺と半分こ、しない?』
『えっ』
『ほら、二個で一つだろ。だから、俺の買ったこれ、半分あげるよ』
そう言って涙目の少年に片方を渡して――。
「懐かしいな」
 あの日の回想から戻ってきた北沢はぽつりとつぶやいた。「ええ」と青年がうなずく。
「こういう柄だったんだよな」
「え?」
「あ、俺もこのグラスコップ持っているんですけれど、片方は会場で知り合った子にあげちゃって、緑のしか持ってないんです」
 今、北沢の手の中にあるのは赤柄。つまり彼の持っていないもう片方だった。
「あっ、もうこんな時間。やばい、まだ外回り終わっていないのに!」
 腕時計を確認した北沢が慌てて立ち上がる。自分が寝かされていた布団は彼のものだろう。彼の親切に感謝を述べて立ち去ろうとした時、彼がそれを制止した。
「待って。貴方、もしかして……」
 何かを言いかけて、彼は口をつぐむ。しかし、何か決心をしたように、瞳に真剣な光が灯った。まっすぐに見つめられて、北沢の動悸が早くなる。
「実は……俺も、俺もなんです。俺も、片方しか持っていなくて」
 彼の発現に驚いて目を見開いた北沢だったが、北沢の顔に笑顔がゆっくりと浮かんできた。
「それなら、今度、うちに来ませんか?」
「えっ」
「何か冷たいものでも、飲みましょう。一緒に」

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