一 消失
【五日目】
「味がしない……ですか」
カルテを眺めながら『のろいのないかい』トリースは呟いた。
ふたりきりの診察室は静かで、空気が少しひんやりとしている。壁の棚には薬瓶や小さな器具が整然と並び、天井の蛍光灯は室内を白く照らしていた。消毒液と乾いた紙の香りだけが鮮明に鼻を掠め、レオナールは膝で軽く握った手に視線を落とす。
机上に置いたカルテをペン先で軽く弾くと、トリースは医師の面持ちでスッとこちらに視線を向けた。
「いつから?」
「昨日……、いや、それより前かも」
「症状、具体的には?」
「ここしばらく、味が薄く感じていて……その、気づいたら今はもう、何も分からなくて」
「嗅覚は?」
「そっちはたぶん……、大丈夫、かな?」
「食欲はどう?」
「あまり」
「食べる量が減った?」
「……味がしないので」
「発熱、倦怠感、頭痛は?」
「どれもないです」
「口の中に違和感は?」
「特には」
「香りの感じ方は?」
「変わってない……と、思う」
「睡眠や疲れやすさは?」
「それも変わらず」
「変なもの食べた?」
「いや、思い当たらない……です」
「前に同じようなことはあった?」
「いいえ」
「姫は可愛い?」
「はい──……え、ぁ? い、いいえ! あ、違っ、はぃ!? え、なっ、なんで!?」
「『趣味嗜好、正常』と……」
淡々と結果を記録していくトリースに、レオナールは「先生!?」と声を荒げた。トリースはマスクをずらし「冗談」と悪戯に笑う。
「ちょ、君……!! わ、私は真剣に……っ」
「知ってるよ。まあ、少し緊張をほぐそうと思って」
握った手のひらには汗を感じ、どこからか沸いた熱は、じわりと頬へ昇った。悪趣味だと言葉をこぼすレオナールに対し、トリースは「どっちが」と突き返す。顎を引き、マスクを掛け直すと、彼は再び手元に視線を戻した。
「神経系か、内科系か、それとも魔法的な影響か……原因を特定するにはちゃんとした検査が必要そうだけど……」
「……」
トリースは立ち上がり、俯いていたレオナールの顎をおもむろに掴んだ。視界が強引に引き上げられ、間近の顔に息を呑む。
「口を開けてください」
「はひ(い)」
無機質な冷たい器具が舌の上に乗る。そのまま反対の手で舌先を軽く引っ張られたり押されたりと、ただの診察の一環とは理解しつつも、顔見知りに口内を弄られる感覚は、どうにもいたたまれない気持ちになった。視線は宙を彷徨い、気まずさが薄い汗となって頬を伝う。
「痛みは」
「ありまへ(せ)ん」
「違和感は」
レオナールは小さく首を振った。トリースは舌から手を離すと小型のライトに持ち替え、角度を変えながら喉の奥を覗き込む。
「喉も腫れてない」
椅子に腰を下ろし、器具をカシャンと置く。医療用手袋を外し、今度は手首を取られた。袖を捲られ、腕を軽く押さえられる。指先がなぞるように滑り、魔力の流れを確かめられているのが分かった。ひと通り確かめて手を離すと、彼は再びカルテにペンを走らせる。
「舌、魔力、呪い、問題なし」
サラサラと書き込む音だけが耳朶に響く。記入を終えると、彼はペンを転がし、据えた目でこちらに視線をよこした。
「パッと見は全部、正常です」
レオナールは口元に残された湿りを拭い、口を結んだ。トリースは悩ましげに顎に手を当て思案する。しばらくの間をおいて、レオナールのカルテを閉じた。
「少なくとも一般的な味覚障害とは異なるけど……。身体は正直だから、自分でも気づいていないストレスが原因かもしれない」
──……まあ、すぐにどうこうなる状態ではないでしょう。
感情を乗せない声音は、安心とも呆れともつかない響きだ。
「明日、もう一度来て」
そう言いながら、魔王城において人一倍忙しい彼は立ち上がり、白衣を脱ぐ。自分自身も、問題が見当たらない以上、他に何かを聞く気にもなれなかった。レオナールは頭を下げ礼をひと言添えてから、医務室を後にした。
解決はしなかったものの、誰かに相談できた事実に少しばかり気持ちが楽になった。しかし、問題はこれからどこまで平静を装えるかだ。正直なところ、今後どのような形で日常に支障が出るのか想像できずにいる。魔物には食べなくても平気な者は一定数いるが、他で補う術のない自分はそうにもいかない。何より他に知れて無用な心配をかけたくなかった。
「彼にも、悪いことしたな……」
トリースも、医師とはいえ部下である。いざと言う時は自分が頼られる立場にあるというのに、不甲斐ない。深い溜息が足元に落ちた。
そろそろ姫にも食べ物を作る頃合いだ。さて、どうやって誤魔化すか……。考え込みながら部屋へ戻る途中、でびあくまがふわふわと目の前を横切る。
「ねぇ、君。ちょっと付き合ってくれないかな?」
「む?」
可愛らしく振り返ったでびあくまを抱き抱え、レオナールはそのまま部屋へと戻った。
「味がしない……ですか」
カルテを眺めながら『のろいのないかい』トリースは呟いた。
ふたりきりの診察室は静かで、空気が少しひんやりとしている。壁の棚には薬瓶や小さな器具が整然と並び、天井の蛍光灯は室内を白く照らしていた。消毒液と乾いた紙の香りだけが鮮明に鼻を掠め、レオナールは膝で軽く握った手に視線を落とす。
机上に置いたカルテをペン先で軽く弾くと、トリースは医師の面持ちでスッとこちらに視線を向けた。
「いつから?」
「昨日……、いや、それより前かも」
「症状、具体的には?」
「ここしばらく、味が薄く感じていて……その、気づいたら今はもう、何も分からなくて」
「嗅覚は?」
「そっちはたぶん……、大丈夫、かな?」
「食欲はどう?」
「あまり」
「食べる量が減った?」
「……味がしないので」
「発熱、倦怠感、頭痛は?」
「どれもないです」
「口の中に違和感は?」
「特には」
「香りの感じ方は?」
「変わってない……と、思う」
「睡眠や疲れやすさは?」
「それも変わらず」
「変なもの食べた?」
「いや、思い当たらない……です」
「前に同じようなことはあった?」
「いいえ」
「姫は可愛い?」
「はい──……え、ぁ? い、いいえ! あ、違っ、はぃ!? え、なっ、なんで!?」
「『趣味嗜好、正常』と……」
淡々と結果を記録していくトリースに、レオナールは「先生!?」と声を荒げた。トリースはマスクをずらし「冗談」と悪戯に笑う。
「ちょ、君……!! わ、私は真剣に……っ」
「知ってるよ。まあ、少し緊張をほぐそうと思って」
握った手のひらには汗を感じ、どこからか沸いた熱は、じわりと頬へ昇った。悪趣味だと言葉をこぼすレオナールに対し、トリースは「どっちが」と突き返す。顎を引き、マスクを掛け直すと、彼は再び手元に視線を戻した。
「神経系か、内科系か、それとも魔法的な影響か……原因を特定するにはちゃんとした検査が必要そうだけど……」
「……」
トリースは立ち上がり、俯いていたレオナールの顎をおもむろに掴んだ。視界が強引に引き上げられ、間近の顔に息を呑む。
「口を開けてください」
「はひ(い)」
無機質な冷たい器具が舌の上に乗る。そのまま反対の手で舌先を軽く引っ張られたり押されたりと、ただの診察の一環とは理解しつつも、顔見知りに口内を弄られる感覚は、どうにもいたたまれない気持ちになった。視線は宙を彷徨い、気まずさが薄い汗となって頬を伝う。
「痛みは」
「ありまへ(せ)ん」
「違和感は」
レオナールは小さく首を振った。トリースは舌から手を離すと小型のライトに持ち替え、角度を変えながら喉の奥を覗き込む。
「喉も腫れてない」
椅子に腰を下ろし、器具をカシャンと置く。医療用手袋を外し、今度は手首を取られた。袖を捲られ、腕を軽く押さえられる。指先がなぞるように滑り、魔力の流れを確かめられているのが分かった。ひと通り確かめて手を離すと、彼は再びカルテにペンを走らせる。
「舌、魔力、呪い、問題なし」
サラサラと書き込む音だけが耳朶に響く。記入を終えると、彼はペンを転がし、据えた目でこちらに視線をよこした。
「パッと見は全部、正常です」
レオナールは口元に残された湿りを拭い、口を結んだ。トリースは悩ましげに顎に手を当て思案する。しばらくの間をおいて、レオナールのカルテを閉じた。
「少なくとも一般的な味覚障害とは異なるけど……。身体は正直だから、自分でも気づいていないストレスが原因かもしれない」
──……まあ、すぐにどうこうなる状態ではないでしょう。
感情を乗せない声音は、安心とも呆れともつかない響きだ。
「明日、もう一度来て」
そう言いながら、魔王城において人一倍忙しい彼は立ち上がり、白衣を脱ぐ。自分自身も、問題が見当たらない以上、他に何かを聞く気にもなれなかった。レオナールは頭を下げ礼をひと言添えてから、医務室を後にした。
解決はしなかったものの、誰かに相談できた事実に少しばかり気持ちが楽になった。しかし、問題はこれからどこまで平静を装えるかだ。正直なところ、今後どのような形で日常に支障が出るのか想像できずにいる。魔物には食べなくても平気な者は一定数いるが、他で補う術のない自分はそうにもいかない。何より他に知れて無用な心配をかけたくなかった。
「彼にも、悪いことしたな……」
トリースも、医師とはいえ部下である。いざと言う時は自分が頼られる立場にあるというのに、不甲斐ない。深い溜息が足元に落ちた。
そろそろ姫にも食べ物を作る頃合いだ。さて、どうやって誤魔化すか……。考え込みながら部屋へ戻る途中、でびあくまがふわふわと目の前を横切る。
「ねぇ、君。ちょっと付き合ってくれないかな?」
「む?」
可愛らしく振り返ったでびあくまを抱き抱え、レオナールはそのまま部屋へと戻った。
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