一 消失

 【四日目】

 水だけは何も変わらない。最初からそうだと分かっているものは、かえって気が楽だった。何も感じないことに安堵を覚える。もっとも、こんな気休めひとつで他の食べ物の味まで戻るわけでもない。レオナールはコップを置き、シンクの縁に両手をついた。
 とりあえず、今日一日様子を見てみよう。やはり体調そのものは悪くない。相変わらず食欲は湧かないままだが、何も食べないのも身体によくないことくらい、心得ている。
 冷やしてあった牛乳。きつね色になったトースト。
 静かな部屋に、サクッと軽い音が鳴った。


 とはいえ、結局のところ昼食は抜いてしまった。
 空腹でないわけではない。時間が経てば胃は軽くなり、思考も鈍る。だが、食べたいという気持ちはどうしても湧かなかった。それに今の状態で食堂の飯を食べ切る自信もない。仕事中はいつも通り振る舞っていれば周囲に気づかれることはなく、余計な心配をかけるのは本意ではないので、それだけは救いだった。

 小休憩を終えて教会に戻るとすでに先客がいた。姫と睡魔だ。長椅子に二人並んで腰掛け、何やらのんびりと話している。姫は靴を脱いで膝を抱え、睡魔は背もたれに身体を預けて、半分ほど目を閉じかけていた。いつもながら距離の近さに少しばかり揺れる胸の内はありつつも、レオナールはひょっこりと顔を覗かせた。

「二人揃ってどうしたの?」

 声をかけると、姫はぱっとこちらを見上げた。長い髪がさらりと肩へ流れ落ちる。

「あ! レオくん、おかえり」

 続いて睡魔がひらりと手を上げた。

「じゃましてるぞ~」
「だから、邪魔するなら帰れよ」

 そう言って前屈みになった時だった。──ふわり。淡い匂いが鼻先をかすめる。レオナールは思わず動きを止めた。やわらかく甘い香りだった。食堂で漂う焦げた甘味の匂いとは違う、砂糖菓子のような甘い匂い……。レオナールはすんと鼻を鳴らした。確かめるように顔を寄せ、睡魔の顔を覗き込む。

「──……お前、香でもつけてるのか?」

 睡魔はうつろな瞼のまま二、三度、ゆっくりと瞬きをした。

「俺がそんなものをつけると思うか?」

 のんびりとした声が耳朶に落ちる。
 確かにその通りだ。香油だの香水だの、そういうものに気を遣う男ではない。

「姫じゃないかぁ?」
「え? つけてないよ」

 睡魔が指さした姫は首を振り、それから自分の袖をくんくんと嗅いだ。本当に、まるで身に覚えがないのだろう。

「でも、なんか……甘い……」

 自分で言いながら、レオナールは不思議に思う。匂いは確かにそこにある。けれど、どこから漂っているのかははっきりしない。そうこうしているうちに、姫がぽん、と手を打った。

「さっき鳥ボーイにデザートもらったからかな?」
「デザート?」
「試作のお菓子作ったって言うから味見してたの」

 なるほど、とレオナールは頷いた。意外とクリームの匂いなどは服にも染みやすい。その場にいたのであれば、そうなのかもしれない。

「新作デザート美味しかったよ。今度レオくんも一緒に食べよ」
「あ、……うん、そうだね」
「師匠も行こうね」
「あぁ。楽しみだな~」

 深く気にするほどのことではない。味覚がおかしい分、普段より嗅覚が鋭くなっているのかもしれない。レオナールは振り返って仕事の続きに取り掛かり、背後では姫と睡魔が変わらず談笑を続けていた。
 もう一度、そっと息を吸い込む。
 不快ではない。けれど、ほのかなはずなのに、妙に気を引く甘い匂いだった。
 

 あのまま三人で夕食の席にはついたものの、食事を口に入れることを思うとどうにも気が重かった。咀嚼したものは到底食べ物とは思えず、スープで無理やり流し込んでいた。
 舌に触れる温度は分かる。具材の柔らかさも分かる。辛いものを食べれば舌は痺れた。感覚があるのはマシなのだろうが、正直なところ、気持ち悪い。葉物は紙を、肉は粘土を噛んでいるようにも感じる。食事というものは、香り、味、食感。すべてが揃って初めて身体が喜ぶのだと、あらためて思い知らされた。

 ひとりで部屋に戻る頃には、城の中もすっかり静まり返っていた。風呂に入り、ベッドに身を預けていると、窓の外からはかすかな夜風の音だけが聞こえてくる。レオナールはしばらくぼんやりと天井を見つめていた。
 落ち着かない。
 身体の芯が疼いている。
 酒は口にしたが、量はそんなに飲んでいない。

「まいったな……」

 珍しくはなかった。ただの生理現象だ。そういえば、ここ暫くそういったこともしていない。この数日を思い返してみても、忙しく過ごしていれば身体の方が追いつかず、気づけばすぐに眠っていた。年のせいかもしれないが、都合はよかった。アレはあまり、好きではない。
 レオナールは目を閉じた。寝過ごしてしまえばこちらのものだ。風の音に意識を向け、呼吸を整える。……だが、無心になろうとすればするほど、思考は勝手に巡りはじめ、記憶の断片をかき集めていた。

 昼間の教会。
 長椅子に座っていた、後ろ姿。
 甘い匂い。

「…………」

 なぜ思い出すのか、自分でも分からない。別のことを……と、くだらない出来事を思い返そうとも、どこか、ざわめきが消えずにいた。
 レオナールは深く息を吐き、隠すように腕で目元を覆う。
 しばらくそうしていたが、やがて観念したように体を起こした。
 眠れない夜を長く過ごすより、さっさと片を付けてしまった方がいい。それに、意識は無理にでも手元に集中させた方がよさそうだ。いらないことを考えてはいけない。そう強く、自身に言い聞かせた。
 
 
 静かな夜に、寝台が一度だけ軋む。
 月に雲がかかり、暗闇が密やかな欲を呑み込む。
 くしゃりと握ったそれを屑入れに捨て、レオナールは枕に顔を深く押し付けた。堪えていた吐息がふっとこぼれ、閉じた目の端には生理的な涙が滲む。浅く乱れた呼吸。霞む意識の底に、翡翠がちらつく。
 理由も分からぬまま、体の熱はようやく収まり始めた。それでもその夜は、いつもより少しだけ長く感じた。
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