一 消失
【三日目】
火にかけた小豆はすでに柔らかかった。砂糖を加え、底をなぞるように混ぜ続ける。甘い匂いを含んだ湯気がふわりと立ちのぼり、それをひと口放り込んで、舌の上で潰す。もはや味覚は霞程度だった。香りだけが鼻から抜け、続いて溜息が落ちる。
砂糖の量はいつも通りだ。手順も違えていない。それなのに……。
姫の言葉が、ふと頭をよぎる。
──今日はちょっと、塩気が多かったね。
あの時は、自分が味を誤ったのだと思った。だが今、目の前で感じている違和感は、昨晩と同じ方向を向いている。レオナールは確かめるように軽く喉を鳴らした。
「風邪、かな」
ぽつりと呟く。
体は重くない。熱もない。頭も冴えている。だが、まだ症状が出ていないだけで、これから具合が悪くなるのかもしれない。今は季節の変わり目だ。城の中でも、体調を崩す者は珍しくなかった。
レオナールは鍋を火からおろした。餡を冷ましている間に、餅米の準備をする。蒸し上がった米をすり鉢へ移し、軽く潰す。こちらは粒が少し残るくらいがちょうどいい。いわゆる、半殺しである。
これを作るとき、必ず思い出すのは幼き日の彼の笑顔だ。足元でエプロンの裾を引っ張り、はやくはやくと急かす姿が微笑ましく愛おしかった。自分もやりたいと差し出す小さな手に、温かな米をのせて一緒に丸めた。冷めた餡でそれを包み、指先で形を整えると、手のひらのサイズと同じ、とても小さな丸いおはぎがひとつ、ころんと出来上がる。小さなおはぎを手渡され、かわりにこちらの大きなおはぎを渡せば、彼は両手で持って嬉しそうに顔をほころばせていた。そうして何年、何十年と作ってきたのだから、これ以上甘味を加えてしまえばどうなるのか、容易に想像がついた。レオナールは餡をもう一度だけ口に入れるが、やはり、分からない。砂糖を入れたのかさえ疑わしいくらいだった。しばらく鍋を見つめていたが、やがて袖を捲りなおし、口を結んだ。
「魔王様、おやつですよー」
ノックをして扉を開ければ、魔王タソガレは資料の山に埋もれるように突っ伏していた。見るからに糖分を必要としている。レオナールの声に、ペンを握ったままの手がぴくりと動く。皿を近付けると、タソガレは鼻をくんと鳴らし、両手を上げて勢いよく身体を起こした。
「おはぎなのだぁ!」
「そうですね。さぁさぁ、こちらへ」
「おっはぎ♪ おっはぎ♪」
「ふふっ」
子どものような、仔犬のような反応。大の大人。もとい魔王が、レオナールの後を追うようについてくる。もしここに自分と……愛犬以外の何者かがいれば、彼はここまで浮き足立った姿を晒していないだろう。普段は半ば休憩室と化している執務室のテーブルに、おはぎと紅茶を二人分並べ、タソガレとレオナールは向かい合わせにソファーへと腰を下ろした。
「いただきまーす!」
「いただきます」
ぱくり。今にも音が聞こえてきそうな食べっぷりだった。口の端に餡をつけ、タソガレは「うまい!」と、あの頃と変わらぬ笑顔を浮かべている。レオナールは胸に手をあて、安堵した。
分量は覚えていたものだ。火加減も、砂糖の頃合いも。これまで何度も作ってきた。舌が頼りにならないなら、手元の感覚にすべてを預けた方がましだと、腹を括ったのだ。それでも自分の口の中では、ほとんど無味に近いおはぎだった。相変わらず舌は使い物にならないが、とりあえずは及第点と言っていいだろう。
コクもなく、香りだけが残る茶色い白湯のような紅茶。それを飲み干す頃、タソガレが口を開いた。
「あくましゅうどうし、今日のおはぎも美味しかったのだ」
「それは良かったです」
微笑むレオナールに、彼はにかりと歯を見せて笑う。
「疲れている時は今日くらいの甘さがちょうど良いな」
「……!」
おそらく、他意はないのだろう。しかし、不意を突かれたようなその一言に、レオナールは言葉を失った。甘すぎたのか、それとも甘さが足りなかったのか。聞き返す勇気が、今のレオナールにはなかった。
いっそのこと、早く熱でもなんでも表に出てきて欲しいと願う。とりあえず用意してみた軽い晩飯も、喉が通らずまだ卓の上にあった。盆の上には、湯気の消えたままの椀と皿が並んでいる。どうにも、箸を取る気になれない。椀を少しだけ持ち上げて匂いを確かめるが、温め直した煮物のやわらかな香りが立っていた。悪くない。むしろ、よく出来ている方だ。奇妙なのは鼻だけ通っていることだ。本来であれば鼻詰まりなどの症状があって味覚がなくなるはずなのに、一向にその予兆すら感じられない。
レオナールは腕を組み、しばらく卓を見つめていた。やがて盆ごと持ち上げ、流しへ運ぶ。食さないまま片付けることなど滅多にないが、今はそれで構わない気がした。残飯を捨てる罪悪感よりも、別の感情が浅黒く胸の奥にわだかまりを成しつつある。これ以上の追い討ちは必要ないというのに、その日の夜はついに歯磨き粉の味さえ分からなくなっていた。
火にかけた小豆はすでに柔らかかった。砂糖を加え、底をなぞるように混ぜ続ける。甘い匂いを含んだ湯気がふわりと立ちのぼり、それをひと口放り込んで、舌の上で潰す。もはや味覚は霞程度だった。香りだけが鼻から抜け、続いて溜息が落ちる。
砂糖の量はいつも通りだ。手順も違えていない。それなのに……。
姫の言葉が、ふと頭をよぎる。
──今日はちょっと、塩気が多かったね。
あの時は、自分が味を誤ったのだと思った。だが今、目の前で感じている違和感は、昨晩と同じ方向を向いている。レオナールは確かめるように軽く喉を鳴らした。
「風邪、かな」
ぽつりと呟く。
体は重くない。熱もない。頭も冴えている。だが、まだ症状が出ていないだけで、これから具合が悪くなるのかもしれない。今は季節の変わり目だ。城の中でも、体調を崩す者は珍しくなかった。
レオナールは鍋を火からおろした。餡を冷ましている間に、餅米の準備をする。蒸し上がった米をすり鉢へ移し、軽く潰す。こちらは粒が少し残るくらいがちょうどいい。いわゆる、半殺しである。
これを作るとき、必ず思い出すのは幼き日の彼の笑顔だ。足元でエプロンの裾を引っ張り、はやくはやくと急かす姿が微笑ましく愛おしかった。自分もやりたいと差し出す小さな手に、温かな米をのせて一緒に丸めた。冷めた餡でそれを包み、指先で形を整えると、手のひらのサイズと同じ、とても小さな丸いおはぎがひとつ、ころんと出来上がる。小さなおはぎを手渡され、かわりにこちらの大きなおはぎを渡せば、彼は両手で持って嬉しそうに顔をほころばせていた。そうして何年、何十年と作ってきたのだから、これ以上甘味を加えてしまえばどうなるのか、容易に想像がついた。レオナールは餡をもう一度だけ口に入れるが、やはり、分からない。砂糖を入れたのかさえ疑わしいくらいだった。しばらく鍋を見つめていたが、やがて袖を捲りなおし、口を結んだ。
「魔王様、おやつですよー」
ノックをして扉を開ければ、魔王タソガレは資料の山に埋もれるように突っ伏していた。見るからに糖分を必要としている。レオナールの声に、ペンを握ったままの手がぴくりと動く。皿を近付けると、タソガレは鼻をくんと鳴らし、両手を上げて勢いよく身体を起こした。
「おはぎなのだぁ!」
「そうですね。さぁさぁ、こちらへ」
「おっはぎ♪ おっはぎ♪」
「ふふっ」
子どものような、仔犬のような反応。大の大人。もとい魔王が、レオナールの後を追うようについてくる。もしここに自分と……愛犬以外の何者かがいれば、彼はここまで浮き足立った姿を晒していないだろう。普段は半ば休憩室と化している執務室のテーブルに、おはぎと紅茶を二人分並べ、タソガレとレオナールは向かい合わせにソファーへと腰を下ろした。
「いただきまーす!」
「いただきます」
ぱくり。今にも音が聞こえてきそうな食べっぷりだった。口の端に餡をつけ、タソガレは「うまい!」と、あの頃と変わらぬ笑顔を浮かべている。レオナールは胸に手をあて、安堵した。
分量は覚えていたものだ。火加減も、砂糖の頃合いも。これまで何度も作ってきた。舌が頼りにならないなら、手元の感覚にすべてを預けた方がましだと、腹を括ったのだ。それでも自分の口の中では、ほとんど無味に近いおはぎだった。相変わらず舌は使い物にならないが、とりあえずは及第点と言っていいだろう。
コクもなく、香りだけが残る茶色い白湯のような紅茶。それを飲み干す頃、タソガレが口を開いた。
「あくましゅうどうし、今日のおはぎも美味しかったのだ」
「それは良かったです」
微笑むレオナールに、彼はにかりと歯を見せて笑う。
「疲れている時は今日くらいの甘さがちょうど良いな」
「……!」
おそらく、他意はないのだろう。しかし、不意を突かれたようなその一言に、レオナールは言葉を失った。甘すぎたのか、それとも甘さが足りなかったのか。聞き返す勇気が、今のレオナールにはなかった。
いっそのこと、早く熱でもなんでも表に出てきて欲しいと願う。とりあえず用意してみた軽い晩飯も、喉が通らずまだ卓の上にあった。盆の上には、湯気の消えたままの椀と皿が並んでいる。どうにも、箸を取る気になれない。椀を少しだけ持ち上げて匂いを確かめるが、温め直した煮物のやわらかな香りが立っていた。悪くない。むしろ、よく出来ている方だ。奇妙なのは鼻だけ通っていることだ。本来であれば鼻詰まりなどの症状があって味覚がなくなるはずなのに、一向にその予兆すら感じられない。
レオナールは腕を組み、しばらく卓を見つめていた。やがて盆ごと持ち上げ、流しへ運ぶ。食さないまま片付けることなど滅多にないが、今はそれで構わない気がした。残飯を捨てる罪悪感よりも、別の感情が浅黒く胸の奥にわだかまりを成しつつある。これ以上の追い討ちは必要ないというのに、その日の夜はついに歯磨き粉の味さえ分からなくなっていた。
