一 消失
【二日目】
口に含んだ水を、レオナールはすぐに吐き出した。排水口へ流れていくそれが、わずかに赤く染まっている。舌先で口の中を探ると、触れたところにひりつく痛みがあった。どうやら眠っている間に噛んでいたらしい。疲れているときには、珍しくないことだ。――ただ、水を口に含むまで血の味に気づかなかったのは、初めてだった。レオナールはもう一度、ゆっくりと口の中をゆすぐ。吐き出した水は、もう赤くなかった。
冷蔵庫を開けると昨日作った晩飯の残りが並んでいる。タッパーに詰め込まれたそれらには、開けずとも分かるようシールでラベリングしてあった。もちろん、自分ひとりのためにそんなことをしているのではない。おそらく後に訪れるであろう姫のためだ。彼女は魔王城において人質という立場であるが、いつの間にやら姫には姫なりのルーティーンができていた。そしてなぜか、その行動範囲に自分の部屋が含まれている。レオナールの把握している限りでは、昨日も一昨日も昼間にここへ来た形跡はなかった。そこから察するに、今日はきっと来る。何かを期待しているわけではない。日がな一日、泣いて牢で過ごされるよりは、彼女らしく過ごしてくれた方が何倍も安心できるのだ。甘やかしているだけ、と言われればそれまでだが……。以前は部屋に侵入するだけだったのに、最近ではもっぱら家探しのようなこともする。そのうち冷蔵庫の中身まで普通に食べてしまうようになった。しかしそれすらも腹を空かせた子どものようで、どこか愛らしく思う。世話焼きの性分には敵わない部分もあり、自由に動き回る後ろ姿を想像して、微かな笑みがこぼれた。本当に開けて欲しくないところには釘を刺しているが、はたして彼女がそれを守っているのかどうかは確認のしようがない。……まあ、それも今さらだ。
今日の料理は、彼女の胃袋を満足させることができるだろうか。レオナールはもう一度冷蔵庫の中を眺めると、そっと扉を閉じた。
作ってしまえば、それで満足だった。姫が食べようが食べまいが、残り物は自分で片づければいい。昼も過ぎ、作り置きのことなど忘れた頃、姫が教会へやって来た。正確には、運び込まれてきた。普段どおり、墓の姿で。重たい墓石を魔物が二人がかりで担いでくるのを労いながら、こちらも棺桶を用意する。
「おはよう、レオくん」
「おはよう、姫」
姫は棺桶から身を起こすと、まるで布団から目覚めたときのように背伸びをした。続けて大きな欠伸をひとつ。まだ寝足りないとでも言うように、ぼんやりとした目をこする。レオナールは思わず苦笑した。すると姫は、ふと思い出したように目の前へ手を差し出す。三本の指。レオナールは首を傾げた。
「おばけふろしき、三枚」
「…………はい」
蘇生ノルマの報告。まだ午後も始まったばかりだ。これからどれだけ運び込まれてくるのかを思い、レオナールは肩を落とした。
「レオくん」
膝をつき、立ち上がるための支えに差し出した手を、姫が取る。呼ばれて顔を上げると、視線が合った。
「どうかした?」
「しょっぱかった」
「しょっぱかった?」
「うん」
ふたたび首を傾げると、姫はこくりと頷いた。
「今日のお昼ごはん」
「あ……え? そんなに?」
「うん」
少し考えてから、姫は言う。
「今日はちょっと、塩気が多かったね」
「あ……ご、ごめんね」
ちゃんと味見はしたはずだった。いつも通りの感覚で仕上げたつもりが、何か配分を間違えていたらしい。レオナールが慌てて謝ると、姫はきょとんと大きな瞳を瞬かせた。
「え、いいよ別に。普通に食べたし」
「え! だめだよ」
乗せていただけの姫の手を、咄嗟に握り締める。思ってもみない返事に、冷や汗が滲んだ。
「無理して食べたら、お腹壊すよ」
「無理じゃないよ」
「だめ」
「だめじゃない」
「だ・め!」
「……ぬぅっ」
どれだけ言い聞かせても、姫が頷くことはなかった。「体調に異変があればすぐに言うんだよ」と念を押しても、彼女は面倒くさそうに目を逸らして「平気だよ」と返事をするばかりだ。そのまましばらく押し問答が続いたあと、小さな両手で頬を挟まれ、なぜか逆に叱られてしまう。結局こちらが折れると、姫は満足そうに笑った。
それでも……気持ちは晴れぬままだった。
夜。レオナールはキッチンに立っていた。煮立たせている鍋の汁をひと口啜る。
「…………」
舌の上に広がる味を注意深く追ってみるも、それはひどく薄く感じた。塩味も甘さも、出汁の旨味も確かにある。なのに、どうにも物足りない。調理は最初から最後まで、いつも通りだった。違いがあるとすれば、昼間の出来事を踏まえ、塩と醤油を控えめにしたくらいだ。それでも、多少の差は出るだろうが、普段とかけ離れた味になるはずがない。
鍋の中には、よく染みた肉と野菜が煮えている。箸に持ち替え、もうひと口、確かめる。ゆっくりと口を動かしながら、レオナールは怪訝に顔を歪ませた。
舌の奥が妙に鈍い。味が、うまく拾えていない。
咀嚼したものが、別の何かになっていくようだった。
「……おかしいな」
こぼれた言葉は、覗き込む鍋の上で行き場を失っていた。
口に含んだ水を、レオナールはすぐに吐き出した。排水口へ流れていくそれが、わずかに赤く染まっている。舌先で口の中を探ると、触れたところにひりつく痛みがあった。どうやら眠っている間に噛んでいたらしい。疲れているときには、珍しくないことだ。――ただ、水を口に含むまで血の味に気づかなかったのは、初めてだった。レオナールはもう一度、ゆっくりと口の中をゆすぐ。吐き出した水は、もう赤くなかった。
冷蔵庫を開けると昨日作った晩飯の残りが並んでいる。タッパーに詰め込まれたそれらには、開けずとも分かるようシールでラベリングしてあった。もちろん、自分ひとりのためにそんなことをしているのではない。おそらく後に訪れるであろう姫のためだ。彼女は魔王城において人質という立場であるが、いつの間にやら姫には姫なりのルーティーンができていた。そしてなぜか、その行動範囲に自分の部屋が含まれている。レオナールの把握している限りでは、昨日も一昨日も昼間にここへ来た形跡はなかった。そこから察するに、今日はきっと来る。何かを期待しているわけではない。日がな一日、泣いて牢で過ごされるよりは、彼女らしく過ごしてくれた方が何倍も安心できるのだ。甘やかしているだけ、と言われればそれまでだが……。以前は部屋に侵入するだけだったのに、最近ではもっぱら家探しのようなこともする。そのうち冷蔵庫の中身まで普通に食べてしまうようになった。しかしそれすらも腹を空かせた子どものようで、どこか愛らしく思う。世話焼きの性分には敵わない部分もあり、自由に動き回る後ろ姿を想像して、微かな笑みがこぼれた。本当に開けて欲しくないところには釘を刺しているが、はたして彼女がそれを守っているのかどうかは確認のしようがない。……まあ、それも今さらだ。
今日の料理は、彼女の胃袋を満足させることができるだろうか。レオナールはもう一度冷蔵庫の中を眺めると、そっと扉を閉じた。
作ってしまえば、それで満足だった。姫が食べようが食べまいが、残り物は自分で片づければいい。昼も過ぎ、作り置きのことなど忘れた頃、姫が教会へやって来た。正確には、運び込まれてきた。普段どおり、墓の姿で。重たい墓石を魔物が二人がかりで担いでくるのを労いながら、こちらも棺桶を用意する。
「おはよう、レオくん」
「おはよう、姫」
姫は棺桶から身を起こすと、まるで布団から目覚めたときのように背伸びをした。続けて大きな欠伸をひとつ。まだ寝足りないとでも言うように、ぼんやりとした目をこする。レオナールは思わず苦笑した。すると姫は、ふと思い出したように目の前へ手を差し出す。三本の指。レオナールは首を傾げた。
「おばけふろしき、三枚」
「…………はい」
蘇生ノルマの報告。まだ午後も始まったばかりだ。これからどれだけ運び込まれてくるのかを思い、レオナールは肩を落とした。
「レオくん」
膝をつき、立ち上がるための支えに差し出した手を、姫が取る。呼ばれて顔を上げると、視線が合った。
「どうかした?」
「しょっぱかった」
「しょっぱかった?」
「うん」
ふたたび首を傾げると、姫はこくりと頷いた。
「今日のお昼ごはん」
「あ……え? そんなに?」
「うん」
少し考えてから、姫は言う。
「今日はちょっと、塩気が多かったね」
「あ……ご、ごめんね」
ちゃんと味見はしたはずだった。いつも通りの感覚で仕上げたつもりが、何か配分を間違えていたらしい。レオナールが慌てて謝ると、姫はきょとんと大きな瞳を瞬かせた。
「え、いいよ別に。普通に食べたし」
「え! だめだよ」
乗せていただけの姫の手を、咄嗟に握り締める。思ってもみない返事に、冷や汗が滲んだ。
「無理して食べたら、お腹壊すよ」
「無理じゃないよ」
「だめ」
「だめじゃない」
「だ・め!」
「……ぬぅっ」
どれだけ言い聞かせても、姫が頷くことはなかった。「体調に異変があればすぐに言うんだよ」と念を押しても、彼女は面倒くさそうに目を逸らして「平気だよ」と返事をするばかりだ。そのまましばらく押し問答が続いたあと、小さな両手で頬を挟まれ、なぜか逆に叱られてしまう。結局こちらが折れると、姫は満足そうに笑った。
それでも……気持ちは晴れぬままだった。
夜。レオナールはキッチンに立っていた。煮立たせている鍋の汁をひと口啜る。
「…………」
舌の上に広がる味を注意深く追ってみるも、それはひどく薄く感じた。塩味も甘さも、出汁の旨味も確かにある。なのに、どうにも物足りない。調理は最初から最後まで、いつも通りだった。違いがあるとすれば、昼間の出来事を踏まえ、塩と醤油を控えめにしたくらいだ。それでも、多少の差は出るだろうが、普段とかけ離れた味になるはずがない。
鍋の中には、よく染みた肉と野菜が煮えている。箸に持ち替え、もうひと口、確かめる。ゆっくりと口を動かしながら、レオナールは怪訝に顔を歪ませた。
舌の奥が妙に鈍い。味が、うまく拾えていない。
咀嚼したものが、別の何かになっていくようだった。
「……おかしいな」
こぼれた言葉は、覗き込む鍋の上で行き場を失っていた。
