五、睡魔



【廻廊】

 小さい頃は夢と現の違いがよく分かっていなかった。普通、夢は起きれば記憶から消えていくものだが、睡魔の場合、現よりもあちらでの記憶の方が、眼裏にも脳裏にも鮮明に残っていた。

 眠すぎて食べ損ねたクッキーは夢でもちゃんと甘くてさくさくしていたし、熟睡していたせいで置いて行かれた遠出も向こうでたくさん楽しんだ。けれどそれが夢と現どちらの記憶なのか幼い睡魔には見分けようがなく、しかし起こった出来事全てが現実であり、愛おしい記憶だった。

 二つの世界の違いと言えば、現はあらゆる痛みを伴うことだろうか。自身の時の流れは他者と決して相容れない。そして夢というものは夢見本人の記憶や感情から作り出されるが、睡魔は自分の知らないものまで見ていたし、知らない場所にまで行っていた。

 目の前を横切った魔物は確かに昨日遊んだはずなのに「こんにちは。はじめまして」なんてことが日常茶飯事だった。それが他人の夢に入り込んでいたからだと理解する年頃には、相応に思い耽る夜もあった。

 なんとなしに楽しかった出来事を語れば、周りの者はみな突然に目を丸くした。ある者は驚いて一歩下がり、ある者は片眉を上げて怪訝な表情を浮かべた。まるで変な生き物を目の当たりにしたような顔で睡魔のことを見ていた。歴代魔王の像は機嫌が良くなると踊りだす。ゴーストは花を食えば人になる。本気でそんなとんちんかんなことを言えば、陰で笑い者にもなった。直接揶揄されることがなかったのは、あの方の影響に他ならない。

 睡魔は夢でも現でも変わらぬあの方が好きだった。脈絡なく頭を撫でる大きな手が好きだった。大人になるにつれそんな甘やかしは無くなったけれど、拾い子だった自分には、充分すぎるほど幸せな日々だった。

 夢を夢と区別できる頃には、迷路のようなその道もすっかり覚えてしまっていた。夢の回廊には無数の入り口があり、それは扉の形をしている時もあれば本の形をしている時もある。瓶の蓋を開けたり、水に足をつけた瞬間に誰かの夢の中へと入ることもあった。

 道は覚えても人の数だけ増えては消えていく入り口全てを知るのは不可能だ。もとより、そんなつもりもさらさらなく、睡魔が把握するのは、よほど面白い夢を見る者か、その逆に恐ろしく危険な夢を見やすい者、それから現で関わりのある者だけだ。仕事で特定の者の夢を探すときには、夢の住人に聞けば辿り着けた。

 夢の中にはたくさんのあくむーがいる。ふわふわと浮かんでいたり、よちよちぽてぽてと散歩をしていたり、空から落ちた星をわたあめの雲に乗せて遊んでいたりもする。のんびりと歩くこちらに気づいて寄ってきたあくむーを一匹だけ腕に抱え、睡魔は歩き慣れた回廊を進んでいた。お喋り好きな花園を抜けるアーチをくぐると頭上にぽろぽろと金平糖が落ちてきて、藤の花を絞ってミルクに混ぜたような淡い空色が、徐々に暗く染まっていくのを見上げた。

 睡魔は持っていた巾着に金平糖を詰め込んで、あくむーに持たせてやった。「ひとりで帰れるか?」と聞けば、あくむーは「むー!」と鳴いて短く可愛らしい手を上げてみせた。

 ぱちんと指を弾いて現れた傘を手に、睡魔はさらに先へと進む。ぽこんぽこんと傘が飴を弾く音はポップコーンが跳ねる音にも似ていた。睡魔は口の中でころころと金平糖を転がしながら、ようやく目的地に辿り着いた。

 常闇の空間を背に、重厚な扉が立ち塞がっている。ゴシック調の真っ黒な扉には大きな骸骨のデザインが施されており、鋭い刃の鎖鎌が二本、クロスして入り口を遮っていた。太い錆びた鎖が罪人を縛るようにギチギチに巻かれ、コウモリが辺りを飛び交い、濁声のカラスが鳴いている。傘を打つ飴は、次第にその勢いを増していった。

「相変わらずだな」

 睡魔は扉に近寄って見上げると、夢見のセンスに複雑な笑みを浮かべた。この扉は睡魔が知る限りでも、もう百年以上このままだ。初めて見た時は何か拒まれている意図でもあるのかと思っていたが、意外にもそんなことはない。睡魔は軽く扉をノックした。そのまま片手を上に掲げて、睡魔にしては大きな声で叫んだ。

「ひらけー、ごまっ」

 別に掛け声などいらないのだが、ここへ来たときにはなんとなくいつもそうしていた。睡魔が一歩、二歩と後ろへ下がると、鎖がガラガラと崩れ、鎌は朽ちて消えていった。見かけ倒しと言うよりは、来るもの拒まずと言ったところだ。降っていた飴はやみ、傘は睡魔がおろして閉じた瞬間に、手元からぽんと消えた。


 その夢の中は扉と同様、陰鬱とした空気が漂っていた。薄暗い空間に睡魔が足を踏み入れると、壁に等間隔に並ぶガーゴイルの石像が、手にしたランタンに青白い炎を順々に灯していった。窓も部屋の扉もなく、色褪せた赤錆色の絨毯が敷かれた長い廊下は、虚ろな光を吸い込む暗闇の奥へと続いている。

 辺りを見渡していると、古い映写機のフィルムのようにぼやけた映像が天井や左右の壁に次々と浮かび上がり、睡魔は眩しさに目を細めた。悪魔教会の長椅子で寝入っている睡魔の顔。食堂の飯を頬張る部下の様子。姫や魔王との日常的なやりとり。診断を下す二人の医師。

 レオナールの記憶をなぞる映像は側を通るたびに途切れ途切れの声を響かせていた。断片的に映し出されるそれらを仰ぎ見ながら、睡魔はいつもと同じゆったりとした足取りで廊下を進む。やがて辿り着いた最奥の扉を開くと、底知れない闇が広がる空間に、ようやくその男を見つけた。溢れ出る濃厚なバニラの香りが、ゆるやかに鼻腔を満たしていった。

 甘いパンケーキにたっぷりの生クリームをのせて、さらにメープルシロップをかけると誰でも幸せになれる。そんな姫の言葉を睡魔は思い出した。けれど、この甘ったるい香りに包まれた男の背中は丸く縮こまり、ちっとも幸せそうには見えなかった。

 男は夢中になって何かを貪っていた。ぐちゃぐちゃと水気を含んだ音がする。いったい何を食っているのかと、睡魔は目を凝らして男の手元を見た。腕の中に抱えられた何か。見覚えのある影。銀髪の三つ編みが男と一緒に揺れている。小さく呻く声がするものの、レオナールは構わず肩を掴んでは引き寄せ、牙を立てていた。腕の中のそれが力なくもがく様子を、睡魔はじっと見つめていた。

 苦しむ声が次第に消えていき、代わりに聞こえてくるのは肉を噛みちぎる音だった。ふと違和感を覚えた睡魔は自分の手のひらを見る。そこには赤黒い血がべっとりとついていた。鼻をつく血の匂いがしたが、それはすぐに甘い匂いへと変わっていった。同じものを啜るレオナールに視線を流した後、睡魔は手のひらについた血を少しだけ舐めてみた。甘酸っぱいラズベリーソースの味が、口いっぱいに広がった。

 ──あぁ。
 睡魔は理解した。これはとんでもない悪夢だ。けれど、ひょっとしたらレオナールにとって、そうではないのかもしれない。現で耐えている衝動に身を任せ、倫理に反したところで咎められることもない。自分は特別にここに居合わせてしまったが、本来なら誰に知られることもない夢の中で、レオナールは隠されたデザートを口にしているだけだ。

 睡魔はその場にあぐらをかいて座った。目の前の光景はまるでグロテスクなホラー映画の一場面だったが、なぜだか恐ろしく思えなかった。本来、睡魔はそういったものが苦手だし、今だって好きで眺めているわけじゃない。ただ、この男を見ていたいだけで、他に理由なんてなかった。むしろ、ここに自分がいるということに気づかれていない事実に寂しささえ感じている。

 しばらく眺めているとレオナールの動きが止まった。腕の中にあるあらかた食い散らかしたそれに、透明な雫をぱたぱたと落としていた。それからさらに堰を切ったようにぼろぼろと泣き出すものだから、睡魔は慌てて立ち上がりレオナールに近寄った。それでもやはり、こちらに気付きはしなかった。

 睡魔は背後に周り濡れた目を覆ってやった。食いながら泣くなんて起きてる時と変わらないじゃないかと、仕方のない奴だと、呆れたように笑った。自分の知らない間に季節は巡り、他者はやがて離れていなくなる。だから睡魔はいつまでも変わらないものに弱かった。いっとう弱く、よりいっそうの愛おしさを感じてやまなかった。裏も表も見えてしまう世界で建前なく接する者も珍しく、それに輪をかけて自分のために思い悩み、正面からぶつかってくるレオナールのことが、好きで好きでたまらなかった。

 血で汚れた指をまた口に運ぼうとするものだから、睡魔はその手を握ってやった。

「もう、いいだろう」

 睡魔がそれだけ言うと、夢はひび割れ、音を立てて崩れた。レオナールの手から力が抜け、抱えられたデザートも、血の匂いも、甘い匂いも、少しずつ消えていく。
 目を覚ましたレオナールが今夜の夢を覚えているかどうか。そこまでは気にしなかった。ただ、楽になればいいとそれだけを思った。


 次の日の夜も、睡魔はレオナールの夢を覗いた。廊下の映像は昨日と少し違っていて、レオナールが初めて睡魔に噛みついてきたり一線を超えた頃のものだった。寝た後も食っていたのかと少しばかり驚いたが今更なこともあり別にかまわなかった。起きた時に身体は綺麗に拭かれていたし、まぁ、堪えきれなかったのだろうと分かるので責める気もない。ひとつだけ、医師とのとある光景に睡魔は眉をひそめたが、今は言及する相手もいないので仕方なしに飲み込んだ。

 扉の奥では昨夜と同じ暗闇の中でレオナールが膝をついていた。あいも変わらず傀儡のデザートを貪っていた。レオナールの食事を見ながら睡魔は口元に手を添えて少しばかり首を傾げた。夢というものはその日の心に強く引っ張られる。似たような夢を見ることも珍しくはないが、昨日と何も変わらないのはよほど食い足りていないか相当に思いつめている証拠だ。人喰いの現場はそんなにも悲惨なものだったのだろうか。何も知らされていない睡魔にはやはりわからなかった。

 昨日と同じように、レオナールのそばへ歩み寄る。男の目を覆った手のひらに、熱が籠るのを感じた。涙が滲んで頬を流れていたけれど、拭ってやることはしなかった。罪の意識に苛まれている男の涙を、哀れとも、美しいとも感じながら、静かに眺めていた。やがて睡魔は宙に伸ばした指先で、暗闇に紛れる夢の輪郭に触れた。そこから濃く淀んだ闇が波紋のように揺れて、レオナールは脱力したように肩を落とした。空間が崩れて、夢の終わりを告げた。


 その翌日も、睡魔はまたレオナールの夢へと入った。例の廊下で、睡魔はようやく知りたかったことを見ることができた。あの妖怪──。親父殿は、確かに首を跳ねただけだったか。正直な感想としては「なぜ今になって」というひと言に尽きた。なんの因果か知らないが、偶然とは必然で、起こるべくして起こるとも言う。世迷言にも思えるその言葉を、呪いのように疎ましく思った。

 けれど睡魔にはまだよく分からなかった。あの妖怪がきっかけであることは明らかだが、なぜそれがこうもあの男を苦しめているのか。自身を重ねてしまったにしても、その恐れがあるというだけで、実際にはこの身体の小指の爪も、髪の毛一本すらも喰っちゃいない。それなのにこの男はあたかもそれを犯してしまったかのようにこうしてずっと夢にうなされている。

 自分が今見たものと、レオナールが見たものは何か違うのだろうか。いや、レオナールの記憶と結びついているのだからそんなことはない。しばらく悩んだ末に睡魔は考えるのを諦めて奥の部屋へと向かった。

 男は飽きもせずに今日もその手に抱えたものを喰いながら、焦点の合わない虚ろな目をしていた。睡魔の眉間に皺が寄る。そんな顔をするくらいなら、もう喰わなければいいのに。

 睡魔にとってレオナールの前にあるそれは自分の形をしたただの人形でしかなかった。うめいたり動いたりするものだから、まるで自分になりすましているような気さえして、なんだか腹の底に沸々とわだかまるものがあった。日頃は誰に腹を立てることもないのに、なぜかこの男が絡むと、時折りこういった感情が芽生えてくるのだから不思議なものだ。

 睡魔はレオナールの目の前に立った。「レオ」と男の名前を呼んでみても、やはり耳には届いていないようだった。しゃがんで覗き込んで目線を合わせてみても、その眸に睡魔の姿は映っていない。

「レーオ」

 夢の中でいくら睡魔が自由に動けたとしても、夢見の意思までは変えられない。見たくないものは見ないし、聞きたくないものは聞かないですむ。そして欲しいと望んだものはなんでも手に入る。

「…………」

 ──つまりは、そういうことなのだろうか。
 レオナールは素直な男だ。嘘を吐こうとしたって全身から本音を醸し出すような不器用なやつだ。だからこそ睡魔はこの男が自分にいくらわめいてどれだけ文句を垂れ流そうともそれが愛情の裏返しなのだと知っていたし、そのやりとりが心地良かった。自分のことを好いてくれているのだと信じて疑わなかった。だが今目の前の男はどうだろう……。

 ここにきて信じていたものが揺らぐのは、睡魔にとって夢もまた現実だからだ。この男のことを心底好いているからこそ、夢を夢として切り離すことができなかった。睡魔が口を結ぶと、レオナールの腕の中にいるソレが、こちらに視線を寄越して静かに嘲笑った。

 睡魔は大きく息を吐き出し、それから腰を上げた。「今日は好きなだけ食えばいいさ」と言って、片手でレオナールの髪を掻き混ぜた。その場を立ち去ろうと踵を返した途端、睡魔の肩が下に向かってくんと傾く。振り返ると男が睡魔の腕を掴んでいた。俯いていた顔を上げ、大きく見開かれた蒼い目が、横長の瞳孔を揺らしていた。同じように驚いた自分の顔が、その目には映っていた。

「睡魔、」
「……あぁ」

 短く答えると、レオナールは両目に涙を溜め込んだ。男の口や睡魔の腕を汚す血は生々しく、そして掴む手の力強さに、夢であることを忘れそうになる。

「睡魔……、睡魔……」

 男の震えた声が耳朶に響く。睡魔は何も答えることなくゆっくりとその手を取った。ついと指を絡めて握ると、暗闇が湖の中にいるように静かに揺れた。波紋が空間の隅まで行き渡ると、いつものように夢の全てが崩れていき、そのうちレオナールの姿もからからと砕け始めて声も聞こえなくなった。

レオナールは結局のところ名前しか呼ばなかったが、睡魔は夢の欠片が消えるまで、握った手を離さなかった。
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