四、微睡



 【悪夢】


 血溜まりの中、『それ』を夢中になって食っていた。辺りは暗闇にもかかわらず、見えるはずのない結いの解けた銀髪と、ぬるついた血の赤黒さが鮮明に浮かび上がっている。

 甘ったるいバニラの芳香に酔いながら、熟れた果実を喰らうように。掴んだケーキを貪るように。血に染まった肉片を口いっぱいに頬張っている。
 舌が溺れるほどに口内へと流れ込むとろとろとした液体が、喉の渇きを癒していくのが分かった。

「──……」

 『それ』が自分の名を呼ぶ声すら、もう意味のある言葉として認識できていなかった。びちゃびちゃと喰らう音に混じる雑音でしかなく、それでもなぜかその声を聞き取りたくて、消えゆく響きに縋ろうと、必死に耳を澄ましていた。
 

「……っは、」

 飛び起きた瞬間には夢だとわかっていた。しかし激しい動悸も、乱れた呼吸も容易には収まらず、全身から嫌な汗が吹き出している。
 レオナールは堰を切ったように寝台から飛び出し、キッチンへ向かった。蛇口から勢いよく流れる水を汲み、何度も喉へと流し込む。食っているはずのない血を、肉を、一秒でも早くどうにかしたかった。

「ゔ、っ……お゙ぇ、」

 嗚咽とともに無色透明な吐瀉物がシンクを打つ。日中、何も口にしていなかった胃から吐き出せるものなどあるはずもなく、粘液の混ざった水だけが、排水口に流されていく。

「……はぁ、……はぁ……っ」

 レオナールはその場に崩れ落ちるようにうずくまり、胃液で焼けた喉の痛みを堪えた。
 
 ──まただ。
 今日もまた同じ夢を見た。
 この夢を、あの人喰い事件の日から毎晩見ている。
 今日は、七度目の夢だった。

 肉を咀嚼する時の感触、味、匂い。何度も繰り返し見るせいで、存在しないそれらを全て覚えてしまっていた。これでは実際に食っているのと変わらないのではないか。いや、夢の中では自分であって自分でないような感覚がずっと抜けずに、どこか俯瞰しているようでもある。気のせいだ。
 それでも、あの場で感じた恍惚は、確かに自分の意思によるものだった。夢であるにもかかわらず否定できない事実に、再び抑えきれない吐き気を覚えた。


 
 今日は城内の廊下の一角がやけに騒がしい。簡易的に張られたテントに、財布を握った魔物たちが列を成している。月に一回要請している外部からの商人の店だった。
 その列の横を1ミリも興味無さげに素通りする影に気づき、レオナールは声を掛けた。 

「君は何も買わないのかい?」

 呼び掛けに振り向いたのはトリースだった。いつも通りの無表情ともいえる落ち着いた様相で、ため息混じりに口を開く。

「特には。必要な物があれば通販してますし。誰かさんのおかげでこんな行列に並んでる時間も惜しいんでね」

 誰かとは、言わずもがな魔王であるタソガレのことだろう。甘えきっている事実がある以上「そうだよね」とも「そんなこと言っちゃだめだよ」とも言えず、レオナールはその場凌ぎの笑みを返した。
 トリースはしばらくレオナールを眺めた後に距離を詰め、周りに聞こえないよう小さく耳打ちをした。

「調子、どう?」

 医師として診てもらったあの日から、彼とそのことについて話すことはなかった。うらみのにはフォークであることは言わないで欲しいと伝えてあるが、いつも通りの様子を見るに、どうやらその約束は守られているようだ。

「まだ戻ってはないけど、慣れてきたから大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」

 そうは言えども、おそらく彼には満足に眠れていないことなど見透かされている。だからこそ、こうして声を掛けてくれたのだろう。
 レオナールが微笑むと、トリースも「そっか」と軽く笑った。

「まぁ、食べる楽しみって味だけじゃないから。今度特別に何か作ってあげますよ」

 萎びた身体に気合いを入れるよう、持っていた資料でパンッとレオナールの背中を叩く。驚いた反動で猫背だった背筋が真っ直ぐに伸び、トリースはそのままの流れで「じゃあね」と手をひらつかせて行ってしまった。
 彼を見送った後、レオナールは購買の様子を眺めていた。程なくして、その足は列へと並んだ。
 

 +°

 黒玉の向こうで「また連絡する」と言われた夜、「もう俺に構うな」と受け取ったのは一瞬だった。声のトーンであったり、間の取り方であったり、物事を隠す際の言い回しであったり。相手があの男であれば、いくら寝ぼけていようともそれくらいは分かってしまう。いつも通りすっとぼけることもできたのに、あえて見逃したのは『いい機会なので少しばかり試してやりたくなった』というところでもある。
 
 無欲であれ。謙虚であれ、優しくあれ。人が何を美徳とするのか興味などないが、ことあの男に限ってはどうにも見過ごせないものがあった。いつの日からか魔王城の良心などと褒めそやされてはいるものの、長く傍にいた身からしてみれば、あれはただの強がりでしかない。しかも、相当な。

 度を過ぎたそれは大事な時ほど周りを遠ざけてばかりだ。いい加減、素直に甘えることを覚えなければいけない。あの男は甘えることは弱さでないと他者を諭すくせに、何故か自分に限ってはそうでないと勘違いしている。それでは駄目だと一発気合いを入れたはずなのだが、いまいち効いているような効いていないような。分かっているようで分かっていないような態度が続いている。

 弱さを見せる相手は選ぶべきだが、あいつはそもそも選ぼうともしていない。タソガレのでも姫のでもいい。縋れる腕が目の前にきた時、素直に手を伸ばせなければそれがいつか致命的なものになるだろう。……と、保護者さながらいい機会なので甘え方を教えているつもりだったのだが。まぁ、それが少しは身になっていればいいと思う。あれは融通の利かない不器用な年寄り故に、馴染むまでにはまだまだ時間がかかりそうではあるが。
 

 ここ最近は暇さえあればあいつの元へ通っていたせいで、ひとりの時間の潰し方がどうにも下手になってしまった。いや、もとより風呂か散歩か読書ぐらいしかすることはなかったか。スリッパを床に擦らして城内を彷徨う最中、睡魔はふと足を止めた。
 
「なぁなぁなぁっ、さっき会議室の前通った時に聞こえちまったんだけど! 妖艶座でさぁ、人喰いが現れたらしいぜ」
「怖え~」
「オレ食われたらどうしよう」
「はははっ、骨と皮のお前よりはりとげの方がうまそうだよな」
「腐ったお前に言われなくねぇよ!」
「お前ら頼むから俺を餌にして逃げるなよ!?」
「あ、でもちゃんとあくましゅうどうし様が──」

 興味本位でそば立てた耳に、男の名が転がり込む。
 どうやらまた眠っている間に予想外の出来事が起こっていたらしい。

「まぁ、それなら無理もない、か……?」

 ──あぁ、なんと分かりやすく、なんと繊細な男なのか。
 態度からしてその場で『何か』があったのかは明白で、血みどろの現場に自分を重ねたといったところだろう。わざわざ地雷を踏みに行くなんて馬鹿なことをせず、仕事のひとつくらいちょいと断れば良かったものを……。

 何であれ、せっかく身体を張って埋めつつあった頑固な罪悪感は、見ず知らずの狂人に掘り起こされたに違いない。もう少し先であれば、被せた土の上にコンクリートでも流し込んで固めていたというのに。随分と間の悪いやつがいたものだ。睡魔は舌打ちこそしなかったものの、無表情でいた顔をほんのわずかに歪ませた。

 身の内からではなく、他者によって煽られたならさすがに少しばかり気の毒ではある。だからといって、すぐに向かおうとは思わなかった。タイミングのせいもあるが、結局はあの男が変わらなければ、これ以上構ったところで意味がないのだ。ひとりで抱え込めるものなど、たかが知れているのだから。
 あとはまぁ、やはり単純に、伸ばした手を振り払われて少しばかり腹が立っているのかもしれない。本当に、少しだけ。

 しかし普通に過ごしていて城内ですれ違うことすらないのは、おそらく先回りして逃げられていると見ていいだろう。ケーキの匂いというのはそんなにも香るものなのか。甘いといっても香水をつけているやつだっているのに、いったいどんな匂いがしているのだろう。袖口に鼻先をつけるも、嗅ぎ慣れた匂いに眠気がまさるだけで、あの男を惑わせる匂いなんてまったくもって分からない。
 

 それから更に数日は大人しくしていたが、やはりと言うべきか、向こうから連絡を寄越すことはなかった。睡魔の片手にはいつでも通信玉があったにもかかわらず。
 寝起きがてらに折っていた指も、ついに立てるようになった。しかし片手が開く頃にはスンと飽きてしまい、それ以降数えるのをやめてしまった。

 鳥が我が子に餌を与えるよう飴をついばみ、付き合いたての恋人と営むように唇を重ね、夜の女が男を誘惑するように肌を晒した。手段としてそれしかなかったのでなんともない風を装ってはいたが、それなりに熱のある時を過ごしていた自覚はある。そのせいもあって、ぽっかりと空いてしまった心の穴が、人肌恋しいと思っているのか、純粋に友にかまってもらえないことが寂しいと思っているのか、なんだかよく分からなくなってきた。そのうちに旧魔王城で寝ることが多くなり、今や風呂に入るくらいしか楽しみがないことに気づいてしまった。

 睡魔は満月のように丸くくり抜いた吹きさらしの窓際が好きだった。静かにそよぐ風が心地良く、うっとりと目蓋を閉じるのが常だった。しかし、ここから眺める月の様相は、こんなにも孤独に冴えたものだったろうか。待たせることには慣れていたが、そのことについて少し自分は反省した方がいいかもしれない。いや、そんなことができればあの男が友になり得ることはなかったのだから、できないことに気を揉んでも仕方がないとも思う。
 睡魔はうつらうつらと舟を漕ぐ。そうして今日もまたひとりで現を手放した。


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