一 消失
【一日目】
白い砂が、終わりなく降り積もる夢だった。空も地もなく、音も風もない。降り続ける白だけが、視界を埋める。まるで、砂時計の中に放り込まれたようだった。身動きも取れぬほど積もった砂を前に、なぜかそれを口に運ばなければならない気がした。掬い上げても、指の隙間からこぼれていく。残った粒をひとつまみ、舌にのせる。
甘い。……違う。甘いはずなのに、甘さにならない。何かが欠けたそれは、舌から喉へ流れる。ゆっくりと飲み込んだ瞬間、視界が反転する。──天井。ぼやけた梁。冷たい空気。いつも通りの朝だった。
目が覚めたはずなのに、しばらく身動きができなかった。喉に触れるが、何もない。それでもすぐには手を離せず、レオナールは小さく咳払いをした。
昼刻。食堂は、いつも通りの喧騒に満ちていた。卓上には料理が並び、魔物たちのざわめきが反響している。皿が触れ合う音、豪快な笑い声、その奥から漂う焦げた肉の匂い。レオナールが注文しようとする横では、部下のきゅうけつきが腕を組み、難しい顔でメニュー表を睨んでいた。あどけなさの残る横顔に不釣り合いな深い皺。まるで戦略でも練っているかのようにも見える。
「きゅうけつきくん、どうしたの? 決められないのかい?」
「あっ、い、いえ!」
レオナールの問いに、きゅうけつきの肩と声が同時に跳ねた。続いて「あー……」と言葉を濁し、視線を落とす。黒髪のつむじが覗き、やがて遠慮がちに伸びた指先が一行をなぞると、レオナールもその先を追った。
『シェフの日替わり気まぐれ定食!』
……皿が運ばれてくるまで中身はわからない、少々厄介な一皿だ。
「食べたいけど……、なんだか量が……多そうだなぁ。なんて」
ちらりときゅうけつきの視線が壁へ流れる。『お残しは許しません』の張り紙は否応なく目につく場所にあり、レオナールは「なるほど……」と呟いた。
血を主食とする彼にとって、食堂の料理は嗜好品に近い。こうして肩を並べることはあっても、彼が大盛りの食事をするのを見たことはなかった。あの気まぐれ定食は皿数も多いと評判である。残せないとなれば、なおさら頼みにくい。それでも、彼の指先は例の一行から動かなかった。
きゅうけつきが顔を上げる。レオナールもつられて厨房へ目を向けた。奥では顔なじみのシェフが、こちらに気づいてにこやかに手を振っていた。それを見て、きゅうけつきの表情がふっとほころぶ。普段、背伸びをして仕事に向き合う姿とは違う、年相応の笑顔だった。メニューの端には『本日の担当:N』と書かれている。どうやら彼は味を選んでいるわけではないらしい。
レオナールはわずかに身を屈め、厨房に届かぬ声で囁いた。
「良かったら、私が少しもらうよ」
「え!?」
「大丈夫、今日はいつもよりお腹が空いていてね。少しくらい多くても平気だよ」
きゅうけつきは二、三度、瞬きをした。言われた言葉を、頭の中でゆっくり確かめているようだった。
「で、でも……」
小さく言いかけて再び厨房の方を見るが、シェフは忙しそうに仕事をはじめている。それから、もう一度レオナールを見上げた。
「……本当に、いいんですか?」
「もちろん」
レオナールは軽くうなずく。
「残すより、分けたほうがいいだろう?」
そう言うと、きゅうけつきの表情はパッと明るくなった。素直な反応に、レオナールの口元もやわらぐ。
「じゃ、じゃあ……それにします!」
彼はもう一度メニューを指さし、今度は迷いなく注文した。店員が頷いて控えていくのをどこか嬉しそうに見送り、こちらを向いて微笑んだ。
気まぐれ定食は評判に違わぬ量だった。丼に盛られた白飯の上に、これでもかと炙られた肉が積み上がっている。周囲には小皿がいくつも並び、湯気の立つスープまで添えられていた。腹を空かせた魔物達にはちょうどいいのだろうが、さすがに小柄な彼には多すぎる。きゅうけつきは、料理を前にしてごくりと唾を呑んだ。
「こ、これは……」
「……すごいね」
「あくましゅうどうし様、食べられるだけどうぞ……!」
きゅうけつきはそう言って、丼をこちらへ押しやった。遠慮しているのか、それとも本当に持て余しているのか。おそらくは後者なのだろうが、どちらとも取れる位置に置かれている。
「ありがとう」
軽く頷き、箸をとる。山のように積まれた肉の端から一切れを持ち上げると、タレがとろりと滴り、白い湯気がふわりと立った。炙られた表面にはこんがりと焼き色がつき、脂がつややかに光っている。香ばしい匂いが鼻をくすぐり、ずいぶんと美味しそうだ。
口に運び、歯を入れる。思ったより柔らかい。じゅわり、と脂が滲む。だが──
(……あれ?)
もう一度、確かめるように噛む。炙られた表面の歯触りは悪くない。肉もきちんと柔らかい。だが、肝心の味が、どこか……薄い。塩気も、香ばしさも、あるにはある。けれど舌に届くそれが、妙に遠かった。レオナールは小さく瞬きをする。箸の先には、まだ肉が残っていた。もう一口、噛む。……やはり同じだ。厨房から漂っていた匂いは、もっと濃かった気がする。それに、炙った肉ならもう少し味が立つはずだ。
(気のせい、かな)
レオナールは何気ない顔で、水を一口飲んだ。
「どうですか?」
向かいからきゅうけつきが身を乗り出してくる。
「うん」
レオナールは微笑んだ。
「美味しいよ」
嘘ではない。
ただ少し、思っていたより、味が淡いだけだ。
「よかった……!」
きゅうけつきはほっとしたように肩を下ろし、今度は自分の取り皿へ肉をよそった。勢いよく一口食べた次の瞬間、口元を隠しながら目を輝かせる。
「わっ、すごい! ……これ、めちゃくちゃ美味しいです!」
声を弾ませて、もう一口。嬉しそうに頬張っている。その様子を眺めながら、レオナールもまた肉を口に放り込んだ。──やはり、味は薄い。けれど、目の前の彼がこんなにも嬉しそうに食べているのだから、わざわざ水を差す必要もないだろう。
かすかな引っかかりを胸にしまい、静かに箸を動かす。
(……たぶん、気のせいだ)
少し疲れているのかもしれない。
それだけのことだ。
レオナールはもう一度、肉を噛んだ。
白い砂が、終わりなく降り積もる夢だった。空も地もなく、音も風もない。降り続ける白だけが、視界を埋める。まるで、砂時計の中に放り込まれたようだった。身動きも取れぬほど積もった砂を前に、なぜかそれを口に運ばなければならない気がした。掬い上げても、指の隙間からこぼれていく。残った粒をひとつまみ、舌にのせる。
甘い。……違う。甘いはずなのに、甘さにならない。何かが欠けたそれは、舌から喉へ流れる。ゆっくりと飲み込んだ瞬間、視界が反転する。──天井。ぼやけた梁。冷たい空気。いつも通りの朝だった。
目が覚めたはずなのに、しばらく身動きができなかった。喉に触れるが、何もない。それでもすぐには手を離せず、レオナールは小さく咳払いをした。
昼刻。食堂は、いつも通りの喧騒に満ちていた。卓上には料理が並び、魔物たちのざわめきが反響している。皿が触れ合う音、豪快な笑い声、その奥から漂う焦げた肉の匂い。レオナールが注文しようとする横では、部下のきゅうけつきが腕を組み、難しい顔でメニュー表を睨んでいた。あどけなさの残る横顔に不釣り合いな深い皺。まるで戦略でも練っているかのようにも見える。
「きゅうけつきくん、どうしたの? 決められないのかい?」
「あっ、い、いえ!」
レオナールの問いに、きゅうけつきの肩と声が同時に跳ねた。続いて「あー……」と言葉を濁し、視線を落とす。黒髪のつむじが覗き、やがて遠慮がちに伸びた指先が一行をなぞると、レオナールもその先を追った。
『シェフの日替わり気まぐれ定食!』
……皿が運ばれてくるまで中身はわからない、少々厄介な一皿だ。
「食べたいけど……、なんだか量が……多そうだなぁ。なんて」
ちらりときゅうけつきの視線が壁へ流れる。『お残しは許しません』の張り紙は否応なく目につく場所にあり、レオナールは「なるほど……」と呟いた。
血を主食とする彼にとって、食堂の料理は嗜好品に近い。こうして肩を並べることはあっても、彼が大盛りの食事をするのを見たことはなかった。あの気まぐれ定食は皿数も多いと評判である。残せないとなれば、なおさら頼みにくい。それでも、彼の指先は例の一行から動かなかった。
きゅうけつきが顔を上げる。レオナールもつられて厨房へ目を向けた。奥では顔なじみのシェフが、こちらに気づいてにこやかに手を振っていた。それを見て、きゅうけつきの表情がふっとほころぶ。普段、背伸びをして仕事に向き合う姿とは違う、年相応の笑顔だった。メニューの端には『本日の担当:N』と書かれている。どうやら彼は味を選んでいるわけではないらしい。
レオナールはわずかに身を屈め、厨房に届かぬ声で囁いた。
「良かったら、私が少しもらうよ」
「え!?」
「大丈夫、今日はいつもよりお腹が空いていてね。少しくらい多くても平気だよ」
きゅうけつきは二、三度、瞬きをした。言われた言葉を、頭の中でゆっくり確かめているようだった。
「で、でも……」
小さく言いかけて再び厨房の方を見るが、シェフは忙しそうに仕事をはじめている。それから、もう一度レオナールを見上げた。
「……本当に、いいんですか?」
「もちろん」
レオナールは軽くうなずく。
「残すより、分けたほうがいいだろう?」
そう言うと、きゅうけつきの表情はパッと明るくなった。素直な反応に、レオナールの口元もやわらぐ。
「じゃ、じゃあ……それにします!」
彼はもう一度メニューを指さし、今度は迷いなく注文した。店員が頷いて控えていくのをどこか嬉しそうに見送り、こちらを向いて微笑んだ。
気まぐれ定食は評判に違わぬ量だった。丼に盛られた白飯の上に、これでもかと炙られた肉が積み上がっている。周囲には小皿がいくつも並び、湯気の立つスープまで添えられていた。腹を空かせた魔物達にはちょうどいいのだろうが、さすがに小柄な彼には多すぎる。きゅうけつきは、料理を前にしてごくりと唾を呑んだ。
「こ、これは……」
「……すごいね」
「あくましゅうどうし様、食べられるだけどうぞ……!」
きゅうけつきはそう言って、丼をこちらへ押しやった。遠慮しているのか、それとも本当に持て余しているのか。おそらくは後者なのだろうが、どちらとも取れる位置に置かれている。
「ありがとう」
軽く頷き、箸をとる。山のように積まれた肉の端から一切れを持ち上げると、タレがとろりと滴り、白い湯気がふわりと立った。炙られた表面にはこんがりと焼き色がつき、脂がつややかに光っている。香ばしい匂いが鼻をくすぐり、ずいぶんと美味しそうだ。
口に運び、歯を入れる。思ったより柔らかい。じゅわり、と脂が滲む。だが──
(……あれ?)
もう一度、確かめるように噛む。炙られた表面の歯触りは悪くない。肉もきちんと柔らかい。だが、肝心の味が、どこか……薄い。塩気も、香ばしさも、あるにはある。けれど舌に届くそれが、妙に遠かった。レオナールは小さく瞬きをする。箸の先には、まだ肉が残っていた。もう一口、噛む。……やはり同じだ。厨房から漂っていた匂いは、もっと濃かった気がする。それに、炙った肉ならもう少し味が立つはずだ。
(気のせい、かな)
レオナールは何気ない顔で、水を一口飲んだ。
「どうですか?」
向かいからきゅうけつきが身を乗り出してくる。
「うん」
レオナールは微笑んだ。
「美味しいよ」
嘘ではない。
ただ少し、思っていたより、味が淡いだけだ。
「よかった……!」
きゅうけつきはほっとしたように肩を下ろし、今度は自分の取り皿へ肉をよそった。勢いよく一口食べた次の瞬間、口元を隠しながら目を輝かせる。
「わっ、すごい! ……これ、めちゃくちゃ美味しいです!」
声を弾ませて、もう一口。嬉しそうに頬張っている。その様子を眺めながら、レオナールもまた肉を口に放り込んだ。──やはり、味は薄い。けれど、目の前の彼がこんなにも嬉しそうに食べているのだから、わざわざ水を差す必要もないだろう。
かすかな引っかかりを胸にしまい、静かに箸を動かす。
(……たぶん、気のせいだ)
少し疲れているのかもしれない。
それだけのことだ。
レオナールはもう一度、肉を噛んだ。
