四、微睡
【約束】
+°
『逆を言えば、ケーキはフォークの壊れた味覚に唯一干渉できる人物ということです。失われた他の味覚の神経を動かす可能性もあるとみていいのではないでしょうか』
『そんな都合がいいこと』
『ないとも言い切れないでしょう。何せ誰も調べていませんから』
暗闇の向こうでコウモリの鳴き声が夜気を揺らした。風に煽られた窓硝子がガタリと震え、診察室に生温い空気が流れ込む。
「──それは、例えば……どのようにして治療を進めることになりますか?」
レオナールの問いに、うらみのは首を傾げる。
「例えば? うーん、そうですねぇ」
しばらく悩んだ後、指を一本立てて宙をくるくると回した。
「まず前提として、フォークが感じられる『甘味』というのは、通常の味覚とは全く異なるものとされています。ちなみにフォークから直接聞き取ったわけではないですし、研究をしたわけではないので、これはあくまで仮説」
「はぁ……」
「そしてケーキの体から発せられる特殊なフェロモン、あるいは体内で生成される未知の分泌物に対し、フォークが過敏に反応しているのは確かです。それらを感知すると同時に、脳内の快楽物質が異常分泌され、捕食衝動へと繋がっている」
唾の塊が喉に引っかかるようだった。頭では理解していたつもりでも、あらためて他人の口から聞くとどこか生々しい。
「しかしおかしいんですよね。単にドラッグのような依存性物質を欲して倫理を超えるには相応の摂取量、回数がないと説明がつかない。フォークは捕食経験がないにも関わらず、ケーキと言うだけでその衝動が込み上げます。食べる前には甘いかどうかも分からない。毒かもしれない。であるにも関わらず、まるでそれが自分にとって必要なものだと分かっているかのように、躊躇いなく食べます。フォークがケーキを捕食することで何を得ようとしているのか。考えてみるとひとつしかありません。なにせ、フォークが失ったものも、ひとつだけですから」
「味覚、ですね」
「そうです。ケーキを食べることで、無くした味覚が戻る可能性を本能で感じ取っている。とすれば……やはり、あなたの見つけたケーキから採取したもので薬が作れれば簡単な話しですが、完成までどのくらいかかるかもわかりません。さすがに俺もひとりでそんな大仕事をする暇なんてない。薬の開発チームを組んだとして、あなたがフォークだと外部に知られる一因にもなる」
「それは……! 困り……ます」
「まぁ、そうですよね。魔王の側近が人喰い予備軍だなんてとんでもない話です」
「…………」
背中を丸めて黙りこくるレオナールを前に、うらみのは人差し指で眼鏡のブリッジを押し上げた。
「体験したことのない快楽に歯止めは効かない。過去何百年と抗えた者はいない。しかし、あなたはさすが大悪魔と言うべきか、それをやってのけました。ならば手段はひとつ」
ゆらゆらと揺れていた触腕の一本が、俯くレオナールの顎にかかり、上を向かせる。
「そのケーキ、食べてしまいましょう」
横長の瞳孔が見開かれ、つっと冷や汗が流れた。
「そ……」
「勘違いしないでくださいね? 物理的に食えと言っているのではありません。貴重なケーキを平らげてしまうなんて勿体無い。これはケーキが協力してくれるのが大前提ですが、もし可能であれば、繰り返しそのケーキの唾液や汗などの体液を体に取り込むことであらかじめ捕食衝動を抑えつつ、味覚異常の改善に──」
「そんなこと、できるわけがないだろう!?」
「できるできないではなく、やるしかないのでは?」
青ざめるレオナールを前に、うらみのは頭を掻いた。
「定期的な血液採取は採血者の肉体的負担が大きい。吸血鬼のように血液パックにして頼ろうにもひとりから得られる量なんてたかが知れてます。体液となれば接吻、欲を言えば……。ケーキがどこまで許容してくれるか分かりませんが、まぁそこはあくましゅうどうし様の手解きと言うところでしょう」
「できない……」
「大丈夫ですよ。愛情がなくてもそういった行為は世間でも多く行われていますから。それにあくましゅうどうし様はソレにおいては現状、問題ないと思いますけど?」
「ッ……!?」
「食欲と性欲は紙一重。貴方が初めてここに来た時も確認しましたが、三大欲求はバランスを崩すとストレスを感じます。睡眠は眠ることでしか補えませんが、残り二つは脳の神経が似通っているので互いを補いあおうとする。結果、フォークの場合はケーキに対する異常な食欲が性欲をも刺激してしまう。捕食しながら残した半身で行為にいそしんでいたフォークの事例も少なくない」
「ゔ……」
レオナールは迫り上がる吐き気から口を覆った。
「そしてこれは確証された治療ではなく、あくまで可能性の話です。それをしたからといって、必ず治るとも限らない。ヤるつもりで食ってしまうなんて最悪の場合も考えられます。なので、やはりするかしないかは、あくましゅうどうし様次第ですね」
そこまで言い終えて、うらみのはマグカップの中身を啜った。ふう、と満足げに息を吐いたかと思えば、次の瞬間には両手のように触腕を擦り合わせる。
「ではまずそのケーキ、こちらで調べて差し上げますので」
「結構です」
「まだ何も言ってませんが」
「結構ですっ」
反射的に、絶対渡してはいけないと思った。
うらみのは「やっぱりだめかぁ」と残念がるそぶりを見せたが、心から悔やんでいる様子はない。医師としては優秀なのだろうが、この男を信用しきれないのはこういったところだ。
「貴方のケーキ、随分と大切な方なんですねぇ」
感心しているような、どこか面白がっているような声に、肯定も否定もすることができなかった。
+°
睡魔の唇が離れてもなお、舌が甘さに痺れていた。静まり返った部屋に呼吸音だけが聞こえる。
目の前の男が何を言ったのか。何をしようとしているのか。
頭では理解しているはずなのに、心がまるで追いつかない。
全て話すと言いながら唯一言えなかったことを、なぜこの男は易々と口にしているのだろう。
「なんで……」
拳が震える。怒りではなく困惑の矛先を求めて。額を押さえ俯くレオナールの旋毛に、睡魔の吐息がかかる。無防備な距離。昨夜と同じ――いや、あの夜を経ての無警戒さに眩暈がした。
「一回してしまえばあとは何度しても同じだと思うがなぁ」
低い囁きが鼓膜を揺らす。これではどちらが悪魔か分からない。その手を取っては駄目だ。そう思うのに本能が燻る。ぐらぐらと揺れる理性の中、必死で言葉を探した。
「でも……、お前を……」
睡魔の手が角をさわりと撫でる。
「薬じゃ駄目だ。お前さん、本当に壊れるぞ」
自分の耳を疑い続けた。何か術でもかけられてるんじゃないだろうか。いや、そんな気配は見当たらない。レオナールはちらりと男を見るも、一瞬だけ合った視線をすぐに逸らした。
睡魔の言っていることはすでに理解していた。味覚を取り戻すためではない。城に居続けるためには、自分というものを保つためには、睡魔に協力してもらうしかない。しかし、どれほどの負担と危険を負わせるか分からないのが怖かった。
「なぁ、レオ。故郷に帰ってぐずぐずと引きこもるつもりか?」
「…………」
「せっかくここまで来たのに、尻尾を巻いて逃げるのか?」
ぽとりぽとりと落とされる問いに、レオナールは目を閉じた。捨てるためにこんなに悩んだのではなかった。守りたいものも、手放せないものも多すぎるからこその苦しさだった。そして睡魔はそれを知った上で食えと言っている。
昔から道を踏み外しそうな時にはこちらの手を引く男だった。普段は寝てばかりで何も考えていないような顔をしているくせに、不意に伸ばされるその手に何度助けられたか知れない。そんな男がここまで言うということは、自分は今まさに崖のほとりにいるのだろう。もしかしたらすでに落ちてしまっているのかもしれない。身動きが取れずに途方に暮れているのは確かだった。
言葉の途切れた部屋で、時間だけが過ぎていく。しばらくしてレオナールの口が小さく開いた。
「……分かった」
短い返事に、睡魔は「それでいい」と言った。レオナールは面を上げ、未だ納得しきれていない表情を不機嫌に歪ませる。
「ただし、条件がある」
「おぉ」
睡魔は目を細めてほくそ笑んだ。レオナールの指が一本立てられる。
「ひとつ、食うのは絶対に体液だけだ。血や肉や内臓は論外」
「ふむ」
二本目の指を立てる。
「ふたつ、俺は食欲だけで動いているわけじゃない。疲れてる時なんかは何をするか分からない。だから体液を分けてもらうのは理性を保てる時だけだ。あと、同意なしでは絶対に手を出さない」
「いいだろう」
三本目の指を立て、レオナールは続ける。
「みっつ。本当に危ない時には助けを呼んでくれ。お前の命だけは……奪いたくない」
「任せろ」
睡魔は立てられた三本の指を握って下ろさせた。膝上で手が離れた瞬間、室内の張り詰めた空気が緩んだ気がした。レオナールは肩を落とす。まだ胸のあたりにわだかまる不安はあるが、試してみる他ない。
「さぁ、ところで、お前さんの所為で服が汚れてしまった」
睡魔の声にはっとする。見れば惨状が広がっていた。睡魔のズボンもマットも、すっかり汚れてしまっている。自分のせいといえばそうかもしれないが、こんな荒々しいことをしてみせたのは……、いや、そうまでして心配をしてくれたのだ。レオナールは膝に手をついて立ち上がった。
「洗濯してやる」
「ふふっ」
着替えを持ってこようと振り返った背に声が投げかけられる。
「ついでに晩酌に付き合ってくれ。昨日はもちろん、一昨日からひと口も飲んでない」
「あぁ、悪かったよ」
「そう思うなら朝まで付き合え」
レオナールはタンスを漁りながら「お前途中で寝るだろ」と悪態をついた。すんと鼻を啜る音に睡魔が笑った。
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