二、歪
【病】
バンッと、診療所の扉が外れんばかりの勢いで開く。
「先生ッ!!」
荒い呼吸が室内へ雪崩れ込む。レオナールの余裕の欠片もない声とは対照的に、うらみのは本を片手にゆっくりと振り向いた。
「おや、思っていたよりお早い到着で」
「あ……あの、私……っ」
言葉が、喉で詰まる。今からすぐ会ってほしいと急かしたものの、何から話せばいいのか分からない。友人を押し倒したことか。血を舐めたことか。それとも、あの瞬間に自分の中で湧き上がった衝動か。
二人の間に沈黙が走り、レオナールの息切れのみが空気を震わせている。互いに見つめ合うだけの時間が数秒。うらみのは突如ガタンと大袈裟に立ち上がり、本を床に落とした。
「え、食べちゃった!?」
「……!」
レオナールの肩が跳ねる。
「たたたたた、食べてないです!!」
「犯人はみんなそう言うよね!?」
「み、未遂です! 未遂!!」
「あ、未遂ね。はい、分かりました。話を聞きましょう」
切り替えの速さに、本気で言っているのか冗談で言っているのか分からなくなる。レオナールはその場で力が抜けたように肩を落とした。うらみのは「まぁまぁ」と適当な相槌を打ちながら落ちた本を拾い上げる。
「座ってください。倒れられると面倒なので」
「すみません……」
椅子へ腰掛けた途端、張り詰めていた力が抜けた。うらみのは棚から二つのマグカップを取り出し、沸かした湯でコーヒーを淹れ始めた。部屋の中へ、煎った豆の深い香りがゆっくりと広がっていく。ただの白湯でも変わらないのに、わざわざコーヒーを淹れるのは彼なりの心配りだろうか。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
マグカップを受け取る手が、まだ微かに震えていた。ギッと椅子の軋む音がして、うらみのはデスクに頬杖をつく。
「で? もう一度確認しますけど、食べました?」
「だから未遂ですって……!」
「その格好で?」
咄嗟に飛び乗った夜行列車。車窓へ映る自分の襟元には、わずかだが血が滲んでいた。そこへ重なるように、酷く憔悴した顔が映る。慌てて城から出てきたせいで、上着も着替えも持っていない。隠すほどではないものの、やらかしてしまった罪を振り撒いているようで、どうにも隠したい気持ちがあった。
そわそわとしているうちに切符を切りに来た車掌は、「本日もお疲れさまです」とだけ告げて去っていった。怪しまれてはいないようだったが、手元に視線を落とすと、睡魔に掴まれた袖先には赤い汚れが薄く擦れていた。
あいつは最後にどんな表情をしていただろうか。できることならいつもと同じ眠たげな顔か、へらへらとした骨のない笑顔でいてほしかった。あの状況ではそうにもいかないだろう。追いかけてきている間もそうだった。
背中に投げかけられる声は、張り詰めた、必死さが込められた叫びだった。叫びながら自分の名を呼んでいた。あの睡魔が、だ。いつも間延びした緊張感のない男の声が、あれほど切羽詰まったものになるなんて、誰が想像できただろう。睡魔の顔より、すれ違う魔物達の驚いた表情の方が、よほど記憶に鮮やかだった。
レオナールの肩が目に見えて縮こまり、うらみのはふむ、と小さく唸る。足の先から頭のてっぺんまで、視線が流れていくのを感じた。
「まず確認です。例の酒が原因でしたか?」
原因といえば原因だが、本質はもはやそこではない。レオナールは首を横に振った。
「まぁ、そうでしょうね。では処方した薬は飲まなかったんですか?」
「飲んではいました」
「では何故? あれは魔物用の鎮静剤です。抑制剤ともいいますね。知っているでしょう? 過度な興奮や攻撃性を抑えるためのものです。飲んでいたなら味覚があってもなくても人を襲うなんてことあり得ない」
「抑制剤って、なんでそんなもの!」
どおりで……。奥歯を噛み締める。抑制剤は本来手のつけられなくなった魔物や討伐対象を生かしたまま拘束するための薬だ。興奮した神経を無理矢理鎮め、感情や攻撃性を鈍らせる代物。暴走を止め、魔力まで抑え込むため、本来の力も満足に扱えなくなる。姫の傷といい、睡魔の傷といい、やはり思うように治せなかった。
眩暈を堪えるようにこめかみを押さえる。うらみのは「おかしいなぁ」と呟いた。口元に手を当て、何やら計算するようにぶつぶつと独り言を続けている。
「直接摂取? あくましゅうどうし様、キスでもしました?」
「キ──!? し、してません! あいつが口をつけた酒を飲んだだけです!」
「“あいつ”とは?」
「あ……、いや」
「なるほど。私のことを信用していないと」
「いえ、あの、そういうことではなくて。単に、言いたくないというか……。あの、先生は私がこうなるって分かってて薬を出したんじゃ……」
「症例は似通っていましたが断定はしていませんでした。あなたに渡したのは万が一を考えてですよ。うん、とりあえず良かったじゃないですか。薬を飲んでいなかったら未遂じゃすまなかったはずです」
「それは……、まぁ。おそらく」
口を結ぶ。否定はできなかった。
「元より酒が原因でないことさえわかれば充分だったんです。あなたがフォークだったとしてもケーキはあとでゆっくり探し出せばよかった」
「は?」
「あくましゅうどうし様が襲ったお相手は“ケーキ”です。そしてあなたはおそらく“フォーク”」
「フォーク?」
何を言っているのかわからなかった。ケーキだのフォークだの三時のおやつでもあるまいし、そんな夢見がちに例えられてもこちらとしては何一つ気が休まらない。
「そう呼ばれているってだけです。簡単に言えば、“食べられる側”と“食べる側”」
「食べ……」
突如として、喉が渇く。
脳裏へ焼き付いて離れないのは、睡魔を舐った味だった。舌に纏わりつく甘さ。昂ぶった神経を痺れさせるような幸福感。思い出しただけでまた唾液が舌を濡らし始める。レオナールは咄嗟に口元を押さえた。
「……っ」
「あぁ、今は思い出さなくていいですよ。え、吐きます?」
「いえ、大丈夫です……」
「そうですか」
持ち上げたゴミ箱を下ろし、うらみのは言葉を続けた。
「原因は不明。フォークは発症すると味覚に異常を抱えます。あなたと同じ、何を食べても味がしない。慣れれば別でしょうが、大半が普通の食事では満たされていない。満たされていないが、どうすることもできない。それが一過性のものか、一生そうであるのかさえ分からない。ただし、味覚以外は健康そのもの」
味覚がなくなること自体はフォークでなくとも起こり得る。高熱を出したとかストレスだとか。生まれつきその個体の遺伝子損傷によるもの。人間と違って複雑な身体の作りをしている魔物であれば、後天的に異常が起きても不思議ではない。それらの場合、多くは味覚以外にも何らかの不調を抱えるものだが、フォークにはそれがない。味覚損失はあれど、ごく普通の生活に支障をきたすような何かがプラスされるわけでないのだ。フォークであることに問題があるとすればただ一つ。
うらみのは人差し指をすっと立てた。
「文字通り『ケーキを食べてしまうこと』」
鼓膜を揺らしたその言葉に、一瞬で身体の芯が冷える。
「ケーキはフォークが唯一味を感じられる対象です。しかもケーキと呼ばれるだけあって、甘い。その味たるや極上の甘露であり蜜酒であるとも。舌も脳も狂わせ、理性など容易く焼き切れてしまう。そして困ったことにケーキはフォークに襲われるまで自分をケーキだと認識できません。気付いた時には胃袋の中、なんてことも珍しくない。ケーキである人間を見つけられるのはフォークだけ。あくましゅうどうし様は、なぜだかもうお分かりでしょう」
「……」
「そう、獣のように、匂いを嗅ぎつける」
うらみのはどこか他人事のように薄ら笑う。
「実際、フォークによる捕食事件は昔からあります。だからケーキは減った。ケーキが減ればフォークも減る。減ると言うより、存在はしているけれど、見つかっていないだけかもしれません。まぁ、発症率自体稀なので、まともに研究している者もいませんしね。興味本位で漁った資料も、ほとんどが中途半端に投げ出されていた。それは生きたケーキが手に入らないのが原因です。加えて大概は気の触れた同族喰いとしてフォーク自体も殺──……おっと、失礼」
咳払いもわざとらしく、うらみのはコーヒーを口にした。握りしめた拳の爪が、掌に食い込む。
墓も残らないとされる同族喰いは重罪だ。蘇生が可能だからこそ魔族間では殺し合いと言う遊戯が成り立つ。もしその罪を犯して肉を喰らってしまえば、この世からは永久追放とされ、即刻首を刎ねられても文句は言えない。
「抑制剤を服用していたにも関わらずあくましゅうどうし様がそうなったのは、本能で飢えているところにいきなり極上の肉をぶら下げられたからでしょう。しかし残念ですが原因が分かったところで、現在有効な治療法はありません」
「そんな!」
「お相手を避ける。もしくはその場しのぎに薬を服用し続ける。どちらかしかありませんねぇ」
「…………」
「まぁ、避けたところで別のケーキが現れてしまえば終わりですが」
味覚を失っただけでも厄介だったというのに、蓋を開けてみれば人喰い予備軍だったらしい。笑えない冗談だ。誰かの悪趣味な悪夢なら、そろそろ目が覚めてもいい頃合いだろう。
「つまり私は一生、ケーキという存在に怯えて暮らせと……」
薬を飲めば魔術がまともに使えず、城から去るしかなくなる。しかしそれは自分の意思と反している。この身が尽きるまで魔王様に仕えると誓った。魔界と人間界の行末も不透明で、まだ、何もやり遂げていない。こんな道半ばで自分の役割を投げ出したくはない。──ならば睡魔は? おそらく睡魔を避けることはできる。友人を、あいつを喰らってしまうくらいなら、それくらいなんてことはない。もちろん、縁を切ることと同義になるが、それでもあいつを失うわけにはいかない。そんなことになれば、一生後悔するのが目に見えている。それに──……。
瞼を閉じる。
オーロラ色に煌めく長い髪が、眼裏で揺れている。
「あくましゅうどうし様、死にそうな顔してますが話しはまだ途中です。よろしいですか?」
「……」
「今は治療法がないと言っただけです」
「……同じ、では?」
「違います。原因は不明、症例も少ない。研究も進んでいない。つまり、分からないことだらけなんです。分からないということは、可能性も残っている。先程も言いましたが、フォークはケーキだけ味を感じる。逆を言えば、ケーキはフォークの壊れた味覚に唯一干渉できる人物ということです。失われた他の味覚の神経を動かす可能性もあるとみていいのではないでしょうか」
「そんな都合がいいこと──……」
「ないとも言い切れないでしょう。何せ誰も調べていませんから」
むしろケーキにだけ反応してる方がよほど可笑しな話だと、うらみのは肩をすくめた。
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