二、歪
【捕食】
「はぁ~っ、俺の勝ちだなぁ~!」
睡魔は仰向けに倒れ込んだ。ごつごつとした石床にも構わず、両手を広げて大きく息を吐く。その瞬間、くらりと視界が揺れた。
「レオー、運んでくれぇ」
睡魔はその場に転がったまま、今にも寝落ちしそうな声を出す。いつもなら仕方のない奴だと文句を言いながら、担いで運んでやれるのに。睡魔もそれを望んでいるのに。レオナールの足は動かない。
熱を持った甘さが、呼吸をするたびに肺の奥へと入り込んでくる。身体の芯から痺れていくようだった。石造りの冷えた空気に混ざってなお、それは異様なほど感覚を刺激した。
「レオ?」
返事がないことを不思議に思った睡魔が、重たそうにゆっくりと半身をもたげる。
「睡魔……」
酒じゃなかった。
だってもう、手元にグラスはない。
口の中にだって残っていない。
……なのに、ずっと甘い。
「なんだ?」
「いや。なんでも、ない」
「ははっ。お前さん、今日はずっと変だなぁ」
よほど必死に追いかけてくれたのだろう。髪はボサボサで、いつも緩く結っている三つ編みは崩れるように乱れていた。汗のせいで頬に毛束が張り付き、首筋から肩にかけても銀髪が散らばってしまっている。色素の薄い白肌が、しっとりと湿り気を帯びているのが分かる。喉が鳴る。視線が、そこばかり捉えて離れない。
「肩、貸してくれ」
睡魔が薄く笑う。無防備に、こちらへだらりと腕を伸ばす。血管の浮き出た手の甲。紅い痣を纏う腕。その皮膚の下を流れる血液も、きっと鮮やかな朱色をしている。勝手に唾液が溢れてくる。口を開ければ溢れてしまいそうで、何も返事ができずにいた。手首を掴むと、また、甘い香りがふわりと漂う。レオナールの動きが再び止まり、睡魔が首を傾げた。その拍子に銀髪が数本、はらりと肌を滑り落ちる。睡魔が動くたびに香る。睡魔が息をするたびに空気が甘い。酒はもうない。あるのは、目の前に居る、この男だけ。
『──それは、おひとりで?』
思い返せば、こいつはいつもそこにいた。
私は、見ないふりをしていただけだ。
レオナールは腕を引っ張るどころか、その場へと膝をついた。
「お前さん、本当にどうし……っ」
睡魔の腕に、頬を擦り付ける。切れそうな理性の精一杯の抵抗だった。獣のような荒い呼吸が止められない。睡魔の目に今の自分がどう映っているのか、考えている余裕すらなかった。私は逃げた。お前が追いかけてきて、呼び止めた。捕まえた。その匂いで。レオナールの息が、さらに荒くなっていく。
──この肉は、この血は、どれほど甘いのだろうか。
舌先に浮かんだ衝動に、「はぁっ」と吐息が漏れる。堪えていた涎がぽたりと落ち、黒い石床へと染みていった。
駄目だ。駄目だ……、駄目だ。
「おい、苦しいのか!?」
駄目だ。
「おい!」
これ以上、声を聞いてはいけない。近づいてはいけない。そう思うのに、この身体はひとつも言うことを聞かない。掴む手に力が入る。皮膚へ爪が食い込む感触。痛みに睡魔が小さく呻いた。反射的に引こうとする腕を逃すまいと捻り上げ、もつれた末に互いの身体が大きく傾く。
「っ、ぅお……!」
ドサッと鈍い音が響く。背中を打ちつけ、地面へ押さえ込まれた睡魔の顔が苦痛に歪んだ。
「痛ってぇ」
「はぁ……っ、はぁ……」
「レオ、重い……」
呼びかける声が遠い。睡魔が身を捩る。銀髪がさらりと地面に広がり、肌が無防備に晒される。視線が吸い寄せられるように首筋へ落ち、その瞬間、ふつりと何かが切れた。
「っ、待──」
睡魔が制止の言葉を言い切る前に、レオナールは顔を埋めていた。鼻先いっぱいに広がる甘い香りに全身が震える。息が触れる距離で香るそれは、酒とは比べものにならない。ごくっと唾を飲む音が聞こえるが、自分のものか、睡魔のものか分からなかった。味わうように肌に舌を這わして舐め上げると、睡魔の肩がびくんと跳ねる。
「ン……!」
「はぁ……、甘……っ」
舌先から零れた雫が、ぴちゃりと肌を濡らす。そのまま薄い皮膚へ犬歯が沈み込み、柔らかな噛みごたえと、薄皮を裂く感触に、脳髄が痺れる。「うあ゙っ」と痛みに呻く声にすら、煽りを感じていた。
あぁ──……美味い。今まで口にしたどんな食べ物とも比べものにならないほどに甘美だった。舌先へ絡まる熱に夢中になる。もっと深く。もっと欲しい。腕を掴んでいた手は睡魔の頭と身体を抱え込む。逃がしたくない衝動が、ぐらぐらと全身を支配していく。舌と意識が蕩けてしまいそうだった。滲んでくる血は果実の汁のように甘く、レオナールはそれを啜るように含んだ。唾液に混じる血を喉に流すと、久しぶりの食事にありつけたような幸福感に満たされる。
「ッ……レオ……ナール」
低く、静かな声が鼓膜を揺らす。解けた手で、レオナールの修道着を掴む。ぴたりとレオナールの動きが止まった。睡魔は呼吸を整えるように、吐き出す息と合わせて言葉をのせた。
「それ以上は……やめといたほうが……いい、だろうなぁ」
責めるでもなく、怯えるでもない声音だった。それでも、噛み殺した痛みが喉を震わせている。──誰に……何を、言っているのだろう。投げかけられた言葉を、ぼんやりと頭の中で繰り返す。意識が明瞭になる。睡魔が抵抗していた身体の力をふっと抜くのが分かった。
「……ぁ……」
自分が何をしているのか、ようやく理解した。目下の肌には、くっきりと歯形が残っている。傷口からじわりと滲み出てくるそれに、全身から血の気が引いていく。
「あ……、ごめ……」
レオナールは慌てて睡魔の首筋に触れた。魔術の黒い光が掌から溢れ、傷口を包み込む。しかしほんのわずかに治癒する程度で、傷は完全には癒えなかった。レオナールの呼吸が乱れる。焦っているせいで、手元に上手く集中できない。それでも何度も必死に魔力を流し込んだ。いくら繰り返しても、震えた指先から零れる光は弱々しく、まともに形を成さなくなる。
「なんで……っ」
喉が掠れる。項垂れるレオナールを前に、睡魔は身体を起こし、自分の血を手で拭った。汚れた手のひらを見下ろし、はぁっと息を吐き出す。
「大丈夫だ、ちゃんと治ってる。もう痛くもないさ」
「ごめん」
被せるように言葉が落ちる。まともに顔を見れなかった。自分が噛みついた。食べようとした。挙げ句、元に戻せない。
「ごめん……、オレ……」
「あ、おい!」
睡魔は咄嗟に袖を掴んだが、レオナールはその手を今度こそ振り払った。
+°
『──……お前、香でもつけてるのか?』
見たことがあった。その目を。感じたことがあった。その息遣いを。覗き込む友人の眸はこんなにも獣染みていたものだったろうかと、虚ろに思っていた。あの日、記憶を辿りかけたまま寝落ちてしまったことが、今更ながらに悔やまれる。痛みを受けてやっと蘇った記憶は、随分と幼い頃のものだった。
『あや……し……、が、は……ら?』
ウシミツに連れられて訪れた場所は、街全体が橙色の灯りに眩しく、そこかしこに大小さまざまな提灯がゆらゆらと揺れていた。
『睡魔。我は用事を済ませてくる。すぐに戻るが遠くには行くな』
『ん』
見慣れない魔物たちの様相は、本で見たことのある『妖怪』というものによく似ていた。首の長いものや、一本足の傘がぴょこぴょこと跳ね回る姿は、馴染みの魔物達よりずいぶんと奇異に感じる。日頃、城内をうろつくだけの睡魔にしてみれば、その街全体は摩訶不思議な空間だった。一際大きな湯屋を囲うように茶屋や土産屋が軒を連ね、どこからか硫黄と甘辛い醤油の焦げた匂いが漂ってくる。夢の方がずっとおかしなモノは多いはずなのに、見渡すほどに胸の内が沸き立つような感覚。街の賑わいに目を輝かせていると、ウシミツは睡魔の頭をぽんと叩いてひとりで湯屋の中へと入っていった。
御守りと称して手首に巻かれた組紐にしばし視線を落した後、睡魔は思うがままに走り出した。人混みを縫うように駆け抜け、妖怪達の姿を追いかける。提灯の灯りはどこまでも続き、足元の感覚さえ曖昧になるようだった。
『あら。可愛らしい子ども』
『迷い子かぁ?』
『こっちへおいで』
ぴたりと足が止まる。
声を掛けてきたのは、路地脇に腰掛けた女だった。白粉のように白い肌に、緩く結い上げられた黒髪。細くしなる指先で煙管を弄びながら、じっと睡魔を見つめている。時折ちろちろと覗かせる蛇に似た舌が妙に気になった。その隣では、一つ目のハゲた大男がにやにやと口角を吊り上げていた。でっぷりとした体格は立っているのか座っているのかもわからない。睡魔はきょろりと辺りを見回す。いつの間にか、大通りの喧騒は少し遠ざかっていた。
『俺は迷い子じゃない』
『へぇ』
『親父殿はすぐに戻るって言っていたから、散歩してるだけさ』
物怖じしない睡魔の口振りに、女が面白そうに目を細めた。
『ちゃあんと待てる良い子なんだ』
『良い子はこんなところで走り回ったりしねえさぁ!』
どっと男が笑う。その瞬間、ぞわりと背筋を撫でるものがあった。笑い声は陽気なのに、何かおかしい。向けられる視線は粘ついていて、まるで品定めでもされているようだった。睡魔は無意識に手首の組紐を押さえる。
『あ゙ぁ?』
『……?』
急に男の笑い声がとまり、睡魔は首を傾げた。その時、ひゅっと、風を吸い込むような息遣いがすぐ近くで聞こえ、反射的に振り返る。
提灯の灯りが揺れる薄暗がりの中、ひとりの男が立っていた。背が高く、左右にある鬼の角の真ん中から顔面に赤札を貼り付けた妖怪だった。風が強く吹き、札が捲れる。黒く、ぼさついた髪の隙間から覗く双眸が、異様なほどギラついていた。その目を見た瞬間、睡魔は息を呑んだ。肌が粟立ち、耳の毛先までぶるりと震える。本能が逃げろと叫んでいた。なのに、身体が動かない。ただその場に立ち尽くし、茫然と見上げることしかできなかった。
『おや』
煙管を持った女が、小さく笑った。
『ありゃあ、人喰いだねぇ』
『しかも、ずいぶん腹ァ空かせてやがる』
『ぼうや、“甘味”だったのかい』
赤札男が、ぬるりと舌をのぞかせる。視線がかち合った瞬間、嫌な予感が脳裏を走った。
『ッ……!』
睡魔は弾かれたように駆け出した。同時に背後で、ぐしゃりと石畳を蹴る音が響いた。必死に足を動かす。けれど、幼い脚では大人の歩幅に敵うはずもなかった。
提灯の灯りがぐらぐらと揺れる。笑い声。湯気。甘辛い匂い。さっきまで楽しかったはずの景色が、一瞬で知らないものへ変わっていく。
『甘……ィ、……待テ……ェ……』
背後から淀んだ声が追いかけてくる。足がもつれて転けそうになりながらも、捕まってはいけないという感覚だけが、全身を突き動かしていた。行く宛もなく角を曲がった瞬間、何かにぶつかる。
『うわっ』
とすんと尻餅をつき、組紐が石畳で擦れた。
『……ぃ、た……』
顔を上げかけた時だった。生暖かい指先が頬へ触れる。
『……捕マエ、タ』
『──……!?』
声が出ない。男は邪魔くさそうに赤札を取っ払う。前髪の隙間から覗く双眸が、飢えた獣のように目の奥を妖しく揺らしていた。身体が強張る。男は顔を近づけ、恍惚とした顔で睡魔の匂いを吸い込んだ。
熱を孕んだ吐息が肌を撫で、男の指がそのまま喉元へ滑る。突きつけられた切先に、睡魔は小さく息を呑んだ。
『やめ……』
後ずさることすらできず、呼吸ばかりが浅くなる。
──怖い。
理解した瞬間、奥歯がかちりと鳴った。
『親父、殿……っ』
震える声が零れる。男の爪が肌に食い込んだ瞬間、手首の組紐がギチッと音を立てて切れた。
『ア゙?』
男が声を上げたのと、ブツリと何かが断ち切れる音が鳴ったのは同時だった。視界が黒く染まる。
『──……』
男の首が不自然な方へと傾く。
何が起きたのか分からなかった。ただ、どさりと重いものが地面へ崩れ落ち、遅れて、赤黒い液体が石畳を濡らしていくのが見えた。
『へ?』
『睡魔』
『……ぁ』
目の前には、いつの間にかウシミツが立っていた。返り血が顔に散っている。けれどその表情は、恐ろしいほど静かだった。足元に転がる男を一瞥し、ウシミツは睡魔へ視線を移した。
『行くぞ』
短く、それだけを告げる。
茫然としたままの睡魔を片腕で軽々と脇に抱え、何事もなかったかのように歩きだす。硫黄と血の匂い。その奥にある嗅ぎ慣れた父の匂いに安堵した。
『……ぉやじ……どのぉ…』
『寝ていろ』
低い声が頭上から落ちてくる。途端、どっと全身から力が抜けた。走り回った疲れと恐怖が一気に押し寄せ、瞼が重く閉じていく。揺れる提灯の灯りをぼんやり見つめたまま、睡魔の意識は静かに沈んでいった。
もう、何百年と前のことだった。とうに埋もれていたはずの記憶で、けれども今し方起きた出来事は、どうしてもあの件と重なって見えた。
「はぁ……」
睡魔は首筋を押さえながら、深く息を吐いた。立ち上がろうとした瞬間、バリッと大粒の砂利が擦れるような音が鳴る。視線を落とすと、手元には割れたガラスが散らばっていた。
