二、歪
【酔香】
長い髪を丁寧に梳いていく。ブラシを通すたび、やわらかな光の筋が静かに揺れていた。うとうとと目を細めている姫は、心地良さそうに時折こくんと舟を漕ぐ。部屋の時計は二十二時を回っていた。
「姫、できたよ」
「ぬぅ~」
「ほら、起きて」
「なんでぇ?」
「なんでじゃないよ。『寝るなら自分の部屋で』って、いつも言ってるでしょ」
「ここでも寝れるよぉ」
「だめだってば」
言いながら肩に触れ、軽くゆする。普段ならもう少し強めに起こすところで、レオナールの手が止まった。ふと、違和感を覚えた。髪をかき分けると、細いうなじに不釣り合いな切り傷がひとつ。
「どうしたの、これ」
「うーん……ひっかけた?」
「どこで?」
「どっか」
相変わらずの適当な返事だった。問い詰めても意味はないと分かっている。レオナールはそっと傷口に手をかざした。
「……?」
いつもなら、触れた瞬間に終わる程度の傷だった。
「レオくん?」
姫が、どうしたの? と首を動かす。レオナールはもう一度同じように手をかざすが、彼女の白肌には赤い一線が残ったままだ。
──消えない。
正確には、消え方が遅い。じわり、と時間をかけて塞がっていく。今更自分がこんな初歩的な回復魔術に手こずるわけがない。まさかと思いながら手元に集中すると、ようやく傷は綺麗に消えた。焦りとまではいかずとも、疑問は残る。レオナールは自分の手のひらをじっと見つめた。
「ごめん。少し、疲れてるみたい……」
「んー?」
姫は気にも留めず、うなじに手をやった。すりすりと指先で撫でて確認している。
「治ってる?」
「うん。もう大丈夫だよ」
「ん、ありがとうレオくん」
小さな身体がそのまま、とすんと寄りかかる。はちみつのように甘い香りがふわりと広がり、眠気を含んだあたたかさが伝わってきた。レオナールは姫の頭を少しばかり撫でたが、そのままだとうっかり眠ってしまうことも知っている。
「ちゃんと帰れる? 送ろうか?」
声をかけると姫はしばらくこちらを見上げて、ゆるく首を横に振った。
『んぁ……? 酒ぇ?』
眠たげな声が、通信玉から響く。
「この前のやつ。まだ残ってるか?」
『あるんじゃないかぁ。たぶん』
「少しでいいから分けてほしいんだ」
『少しってなんだよ。全部飲めばいいだろう。ついでに飯でも食うか』
睡魔の提案に、レオナールは少しだけ考えてから頷いた。
「……そうだな。食堂で待ってる」
時間が遅かったこともあり、夜の食堂は普段より幾分静かだった。自分と同じ残業終わりの魔族たちがまばらに席へ散り、厨房で食器を洗う音も聞こえる。レオナールは先に食事を受け取り、端の席へ腰を下ろした。温かな湯気を眺めながら、ぼんやりと時間を潰す。
医師から渡された小瓶はポケットの中にある。昨夜に一錠。今朝も一錠。効いているのかと聞かれれば、正直よく分からない。味覚に変化はないし、空腹にも変わらず無頓着なままだ。ただ、胸の奥にあるいつまでも拭えない焦燥感だけは、少しばかり薄れていた。不快が静まり、思考がやけに落ち着いている。ここ数日の不安定さを思えば、その静けさはありがたいものだった。
離れた席で数人の魔物達が、楽しそうに杯を交わしている。酒を片手に笑い合う様子は、いつも通りの光景だ。以前なら気にも留めなかったはずなのに、今日はなぜだか視線が引かれる。グラスの中の酒が揺れるたび、ふと、あの甘い味が脳裏を掠めた。
気を抜くと、どうしてもあの酒へ意識が向いてしまっていた。わずかでも、確かに甘かった。錯覚だったとは思えない。うらみのの言葉どおり、同じ酒を飲めばわかることだが、もし本当にまた甘く感じたなら、その時はどうすればいいのだろう。原因を探るために来たはずなのに、答えが出ることをどこかで避けたがっている自分がいる。曖昧なままなら、まだ気のせいで済ませられる。だが、確信へ変わってしまえばもう誤魔化せない。何から目を逸らそうとしているのかさえ、分からないのに。
『では、受け入れられますか?』
『──貴方自身を』
レオナールは目を伏せる。
うらみのの言葉が、ひどく嫌な響きを伴って蘇る。
気を紛らわすようスプーンを手に取り、ひと口だけスープを飲む。美味いとも不味いとも感じない。ただ身体へ流し込んでいるだけだ。食事というものが、ずいぶん遠くへ行ってしまった。
持ってきた皿の中身が減っていく。しかし睡魔は来ない。いや、正確には『まだ来ていない』だけだ。あいつは昔から、平気で寝過ごす。一日二十時間以上眠らなければ死ぬなどという極端な体質のせいなのだから仕方ない。約束を忘れることはないが、時間通りに来ることもあまりないのが睡魔という男だった。
レオナールはぬるくなり始めたスープへ視線を落とす。待たされることには慣れている。むしろ時間ぴったりに現れるほうが何かあったのかと心配になるくらいだ。馴染みのあるゆるい気配が近づいてきたのは、それから少し後だった。
「悪いなぁ、レオ」
ひらひらと片手を上げた睡魔が正面から歩いてくる。脇には布に包まれた瓶が抱えられていた。レオナールは無意識に唾を飲み込んだ。
「寝てたのか?」
「あぁ、すぐ起きるつもりだったんだが」
あくびを落とし、悪びれた様子もなく隣へ腰を下ろす。睡魔はそのまま卓上へ酒瓶を置いた。布がはらりと解かれ、ついにレオナールの前へと差し出される。
「ほら、この前のやつ」
「……あ、ありがとう」
受け取りながら、小さく息を呑んだ。本当にこれなのだろうか。レオナールが神妙な顔で酒瓶を見つめる傍で、睡魔は並んだ皿から遠慮なく串揚げを掴む。まだ眠たげな顔のまま、のんびりとそれをかじっていた。
「で? なんで急にこの酒なんだ?」
ごく自然な問いかけだったが、レオナールの動きは一瞬止まった。
「なんでって……、何か、おかしいか?」
「いやぁ? ただ、珍しいと思っただけさ」
「美味かったから……」
「へぇ? まぁ、お前さんが気に入ってくれたなら嬉しいよ」
深く追及する様子もなく、睡魔は頬杖をついた。俺も止まらなかったしなぁ、と笑いながら箸に持ち替え、今度は卵焼きを摘まむ。ひょいと口に放り込み、口をもごつかせた。レオナールは水を飲み干して空いたグラスへと酒を注ぐ。睡魔は立ち上がり、自分のグラスを取りに行くと席を立った。ひとりで向かい合うグラスの中には、あの日と同じ透明な液体が静かに揺れている。
──飲まなければ。
ひと口でいい。それだけで求めている答えが分かる。レオナールはグラスを手に取り、酒の表面をじっと見つめた。味のしない料理にも、訳のわからない気分の浮き沈みにも、もう飽き飽きしている。これで原因が分かるのなら簡単な話だ。……それなのにどうしてか、手が動かない。これ以上、グラスを持ち上げられない。半分ほどしか注いでいないそれが、ひどく重く感じて仕方なかった。
いつの間にやら渇いてしまった唇を軽く舐める。無理やり手を動かし、グラスを傾ける。透明な液体が舌を濡らす瞬間に、レオナールはぎゅっと目を閉じた。
グラスに加えて追加の皿を持ってきた睡魔が席に着く。手にした酒をじっと見つめたまま動かないレオナールに対し、睡魔は顔を覗きこんだ。
「どうかしたのか?」
呼びかけにも、顔を上げない。睡魔は不思議そうに眺めながら、持ってきた皿の焼き鳥に手を伸ばす。瞬きはしているものの、呆然としているレオナールに、もう一度声をかける。
「おーい、レオー?」
睡魔の声はずいぶんと遠くに聞こえた。レオナールはゆっくり瞬きをする。液体が喉を通った感覚だけは残っていた。けれど、それだけだった。口の中では刺激も、香りも、何も分からない。今までと同じ、ただの水だった。期待していた舌上にあるはずのものは、どこにも見当たらない。
「味が……ない……」
ぽつり、独り言のように零れる。
「ん?」
「……味がしない」
自分でも呆れるほどに小さな声だった。思わず漏れた本音に、レオナールはハッとした。
「そんなことあるか」
睡魔は軽く笑いながら、レオナールのグラスを取りあげる。そのまま酒を口に含み、ごくりと喉へ流し込む。白い喉が上下する。レオナールはどこか諦めたような顔で、その様子を見ていた。袖で口元を拭い、睡魔はからりと言う。
「なんだ、ちゃんと美味いじゃないか」
もう一回飲んでみろと、レオナールにグラスを押し付ける。受け取ったグラスに視線を落とすも、すでに水でしかないそれに、先ほどまでの興味は抱けなかった。酒に踊らされた挙げ句、ひどく落胆している自分がいた。レオナールはグラスを傾ける。適当に美味いとでも言って話しを合わせようか。あぁ、でも、お前に嘘をつくのは好きじゃない。
半ば投げやりに酒を口へ含むと、レオナールの瞳が揺れた。ゴンッとグラスの底を叩くように置く。同時に、睡魔の肩が跳ねた。
「──ッ!?」
「おい、どうした?」
「あ──……」
「あ?」
「……、いや……なんでも……っ」
舌へ残る味覚に、レオナールは息を呑む。
──甘い。……違う。この酒はこんな味ではなかった。さっき飲んだ時には本当に何も感じなかった。ただ喉を通るだけの水だった。なのに今、あの日感じた甘さが再現された。もう一口。……足りない。これでは全然、物足りない。二口、三口と、レオナールはあっと言う間に酒を飲み干した。癖になるような、とろりと舌へ絡みつく感覚。酒だということさえ忘れそうになる。
「お前さん、大丈夫か?」
レオナールは弾かれたように顔を上げた。睡魔の声。いや、レオナールが反応を示したのは、鼻を掠めた甘い香りだった。花の香りよりやわらかな、けれど姫のはちみつの香りより甘ったるい。まるでデザートのショートケーキを思わせるような、食欲を誘う、甘い香り。
──どこからだ?
酒はもうない。けれどさっきより近くにある。
嗅いだことがある。煽られたことがある。
駄目だ。
何かがおかしい。
考えがまとまらないまま、反射的に席を立った。椅子が乱暴な音を立てる。膝がぶつかった拍子に、酒瓶がカタンと揺れる。睡魔は慌てて瓶を押さえた。
「あっ、おい!」
呼び止める声を無視して、レオナールは足早に食堂の出口へと向かう。身体が熱い。呼吸が浅い。鼓動ばかりが嫌になるほど耳に響いている。
「レオナール!」
追ってくる足音から逃げるように角を曲がった。とにかく人目につかない場所はないか、隠れられる場所はないか、無我夢中で探していた。気付けば足は通い慣れた地下へ地下へと向かっていた。階段を下る最中にも、叫ぶ睡魔の声が反響する。聞き慣れた声が自分の名を呼ぶ度、背筋を指でなぞられるような震えが走る。徐々に小さくなる睡魔の声は、そのうちに途絶えた。
長い廊下を抜けて取り付けの梯子を登れば自分の部屋だった。乱れた息を整えながら足を進める。梯子に足をかけるたび、まだあの甘い香りが纏わりつくような感覚があった。急な刺激に、気が触れてしまったのかもしれない。そうでなければ──……
「……っ、レオ」
頭上に掛かる影を、レオナールはまさかと見上げた。そこには先回りしていた睡魔が、膝に手をついて息を切らせながら立っている。
「……はっ、……お前さん、足、速すぎるだろ……」
苦しそうな表情でレオナールを見下ろしている。睡魔は体力がない。長時間起きているだけでも負担になる男だ。それでもここまで追いかけてきたらしい。レオナールは反射的に踵を返そうと、梯子の下を見た。
「待て……」
俯いたレオナールの首根っこを、睡魔はぐいっと掴んだ。
「危ないから離せ……」
「離したら、また逃げるだろう」
ハッ、と息を吐くように笑い、その拍子に額から流れた汗が一滴、レオナールの頬に落ちる。
「……ッ、」
雫が垂れる前に、すぐさまそれを拭った。喉が熱い。心臓がうるさい。レオナールは乱れた呼吸を誤魔化すように眉を寄せる。
「……分かった」
観念したように呟くと、睡魔はようやくその手を離した。
