二、歪
【うらみの】
魔族学園の外れは静かだ。講義棟を抜け、研究区画を越えると、人の気配が忽然と消える。立ち入りを禁じられているわけではない。しかし、月明かりさえ霞んで届くような虚ろな一角へ、わざわざ足を向ける者はいないのだろう。進むほどに道は細くなり、足元のブロックも不整備に放置されている。両端から木々が生い茂り、ついには行き止まりの立て看板に行手を阻まれるが、『のろいのないかい』トリースはそこを無視して進めと言っていた。紹介された時点でまともな場所ではないと分かっていたが、ここに道があることすら、学園の者は知らないのかもしれない。人の流れから外れたその奥に診療所があるなど、誰が思い至ろうか。レオナールは薄暗い道の先を窺いながら進む。目立たぬよう私服の上に羽織ってきたコートは、伸びた枝に裾を取られ、汗ばむ体もあって途中で腕に引っ掛けた。先日までの雨を含んだ砂利が、踏みしめるたびに鈍く湿った音を立てる。
「あれ……、かな?」
視線の先に、古びた建物が見える。看板はない。診療所というより、放置された古民家に近い。入口の脇に何か文字が書かれているが、癖が強すぎて判読できなかった。扉の前に立つと、不意に中から音がした。何かを削るような細かい音。低い唸り声。物がぶつかる音。そして──
「ウギャアァァアー!!」
断末魔のような悲鳴が、建物全体を揺らした。
「──ッ!?」
レオナールの肩が跳ねる。伸ばしかけた手を引き、次いで聞こえるドタバタと迫りくる足音に、反射的に横へと退いた。
「このクソがぁああッ! 二度と来るか腐れサイコ野郎!!」
バンッ! と、扉が内側から弾けるように開き、怒号が耳をつんざく。中から飛び出してきた魔物は頭から血を流していた。彼が煩わしそうに拭って飛ばした鮮血が、ビシャッ、とレオナールの頬に散る。状況を飲み込めず、レオナールは無言で瞬きを繰り返し、息を殺していた。その間に、扉の奥からぬるりと何かが伸びてきたかと思えば、触手のようなそれは数本、魔物の腕に絡みついた。
「こらこら、まだ治療は途中だよ~?」
「離せ!! マジでイカレてやがる!!」
「ははっ、『イカ』だけにねぇ」
「死ね! いや、殺す!!」
「いいねぇ、じゃぁ俺はもう一度キミの傷口にこのメスをブッ刺して、今度はこねくり回してあげよう。いや、殺すのは惜しいから神経弄って気持ちよくしてあげるね。あー、涎たらしちゃうかも。大丈夫、じぃーっとしてればすぐ終わるからね~」
「こ、こね……っ!? なんだって!? 気色悪りぃこと言うんじゃねー!! 離せぇえーー!!」
引きずられるようにして、魔物は中へと消えていく。無常にも、バタン。と、扉は閉じた。
「…………」
数分、数秒。いや、数十分だろうか。あまりの衝撃に動けずいたのはどれほどだったか。ギィーと、静かに扉が軋み、レオナールはハッとした。開いた隙間から、先ほどの魔物が出てくる。焦点の合っていない死んだ目をした彼は、口の両端から涎を垂らしていた。まるで糸の切れた人形のようだ。ふらふらと去っていく足取りに、先ほどまでの勢いは欠片も残っていない。
「フフフッ、お大事にぃ~」
間延びした声。声の主がぬっと現れ、レオナールの肩が再びビクリと跳ねる。ゆるく笑う男の横顔に、白く長い髪が揺れる。その中から覗く触腕が、手を振るようにひらひらと動いていた。
「おや?」
「……!」
小さなレンズ越しに、三白眼がこちらを捉えた。
「あくましゅうどうし様じゃないですか。いつからそちらに?」
「こ、こんにちは。うらみの先生……」
「お待ちしてましたよ~。どうぞ、入ってください」
「……はい」
気が進まない。今すぐ魔王城に帰りたい。なんてことは言えるはずもなく、カラン、コロン──と鳴る下駄音を聞きながら、レオナールは男の後に続いた。
室内は外観に反して手入れされていた。机の上も、器具も、雑然としているようでいて、どこか規則的に配置されている。あの魔物は別の部屋で脅威に晒されていたのか、血の匂いもしない。そういえば廊下を渡る際に医師以外の人影は見当たらなかった。先ほどまで悲鳴を上げていたはずの屋内は、嘘のように静かだった。
「そちらにお掛けください」
「あ、はい。失礼します」
『うらみの外科医師』は彼の通り名だ。一応白衣は纏っているものの、その下の格好はふらりと近所を散歩する中年男性のそれと変わらない。小さな丸いサングラスと、浮世離れした風貌に、胡散臭ささえ感じる。
声に促され、レオナールはデスク近くの丸椅子に腰を下ろした。うらみのはファイルの並ぶ棚に資料を戻しながら、世間話のように口を開く。
「それにしても、あの子は相変わらずですねぇ」
「『あの子』とは、のろいのくんですか?」
「そうです。彼はなんでもこなせますが、そのせいでいまいち探究心が足りてない」
少し、意外だった。彼は周囲からの評価は高く、外部からも引き抜きの事件を起こしたほどだ。(まぁ、あの件については多いにあちら側の私情が挟まっていたようだが……)レオナール自身も、城内での彼の活躍に尊敬の念を抱いている。彼がこの言葉を聞けば、なんと思うのだろう。
「彼は、城の者達からの信頼も厚いですよ」
「ははっ、そうでしょうね~。確かに優秀です。手先も器用だし、判断も的確」
以前に、トリースはうらみののことを恩師だと言っていた。彼は魔族学園の卒業生だ。教え子のひとりであった時期でも思い出しているのか、うらみのは目を閉じてひとり頷いていた。
「でもね、“分からないものを面白がる”って部分がまだまだ足りてないんです。『目の前の出来事をどれだけ正確に、素早く処理できるか』が、今の彼の基準ですから。だからこういうのは、俺のところに回ってくるんですよねぇ」
「こういうの、とは?」
「んー? まぁ、珍しい症例、とでも言っておきましょう」
「……」
言葉に、引っかかりを覚える。自分が何かに分類されたような気がした。不意に、うらみのが横から顔を覗き込む。長い髪と吸盤の這う脚が、床に向かってだらりと垂れた。
「貴方はどうですか? そういうの」
──分からないもの、稀有なもの、珍妙なもの。気になりますか?
レオナールは問いの意図を測る。
今回のことで言えば、答えは単純だった。
「原因があるなら、突き止めるべきだとは思いますが……」
わずかに言葉を濁す。
うらみのは「へぇ」と短く返した。声は上擦り、どこか楽しげだ。生温かい触腕が顎を捉え、逃げ場なく持ち上げられる。
「では、受け入れられますか?」
「何を、ですか」
「『貴方自身』を」
「……」
彼の抑揚のせいか、軽く、冗談のような口調にも聞こえるが、その実、瞳の奥で何かを見定めるようにこちらを観察している。
「……分かりません」
そのひと言が、精一杯だった。何もなかった時でさえ、自分というものを受け入れていたかどうか怪しい。触腕をやんわりと払い、たまらず逸らした視線に、白衣の裾がひらめく。
「いいねぇ、その顔」
うらみのは薄く笑った。何事もなかったかのように、話しを続ける。
「で、例の“味がしない”やつですが、一応、あっちで受けていた検査結果は回してもらいましたけど」
向かいの椅子に深く腰掛けたうらみのは、デスクにあるモニターの数値を目で追った。液晶の光がレンズに反射している。カチカチとマウスをクリックしながら、触腕が近くにあったウェットティッシュを一枚、こちらに差し出す。レオナールが理解をしていない素振りを見せると、それは頬を拭った。乾きかけた魔物の血だ。慌ただしさに、汚れていたことすらすっかりと忘れていた。
「まあ、体はやたら健康ですね~」
「そうみたいですね」
ぐいぐいとくる雑な手の動かし方に片目を瞑りながらも、姿勢を持ち堪え、ひやりと濡れた頬を手の甲で擦る。
「昨日はちゃんと休めました?」
「ええ、特に問題は」
「眠れないとか」
「むしろ、ずっと眠いです」
あっ、でも今朝は珍しくすんなりと起きれましたねとレオナールが付け足すが、うらみのは「そうですか」と背もたれに身体を預けた。それ以上は何も言わず、ただモニターに向かってわずかに目を細めるだけだった。
「あの」
「ん?」
「昨晩……、酒を飲んだ時に、少しだけ甘いと感じました」
レオナールの言葉に、うらみのが目をぱちりと開く。
「ほぉ~? 甘い、ですか」
身体を起こし、わかりやすく興味を抱いた彼の口元が弧を描いた。
「それはおひとりで?」
レオナールは一瞬悩んだが、飲んだタイミングでは確かに自分ひとりだった。「はい」と答えると、うらみのは「んん?」と、声を漏らした。何かおかしなことを言っただろうか。
「そのあと、何か変わったことは?」
「変わったこと、ですか?」
「うん。なんでもいいよ。体調でも、気分でも」
どちらでも。と、曖昧な問いだった。
ふと、とある記憶が蘇ってはきたものの、それにはすぐに蓋をした。
「……いえ、特には」
「ふぅん?」
怪しむような相槌に、一瞬、レオナールの視線が泳ぐ。
「本当に?」
「ええ」
うらみのはしばらくこちらを見ていたが、やがてあからさまに興味を失ったように、レオナールから視線を外した。「ま、いいや」と言葉を捨て、彼の特徴的な髪が、つまらなそうにうねりだす。
「それ、気のせいだったんじゃないです?」
「え、そ、そんなことは!」
おもわず、声を張り上げてしまった。あの甘さは錯覚ではない。はっきりと感じたのだ。舌を浸したそれは砂糖よりやわらかな、どこまでも後を引く甘さだった。前のめりになったレオナールに、再び彼はこちらを見据えた。
「だって、症例として知ってる中には、それっぽいものもありますけど……」
様子を伺いみるような言葉尻に、レオナールの表情が曇る。うらみのは両手を開いてやれやれと首を振った。
「何もなかったなら、違うので」
ふたりの間に沈黙が落ちる。レオナールが俯くと、ギシッとうらみののイスが軋んだ。膝に落とした視界に、影がかかる。耳元に気配が近づく。触れずとも、体温を感じとれる距離だった。
「──何も、なかったんですよね?」
レオナールの耳朶に直接、囁きが流し込まれる。黒山羊の毛にふっと息が掛かり、反射的に耳がピクリと跳ねる。
「……」
レオナールは無意識に唾を飲み込んだ。
──何もなかった。酒と繋がるものは。けれど、それは独断でしかなく、タイミングをいうのであれば、その直後から感じるものはあった。何度か口を開きかけて、ようやく声を出す。
「昨夜は……酒を飲んだあと、酷く熱くて……」
ふつりふつりと言葉が切れる。うらみのは、静かに待っていた。
「その……ひとりで……」
喉の奥が詰まる。
「……しました」
ぽつりと落ちた言葉に、三度沈黙が重なる。その一瞬のあと、再びうらみのの口元がゆるく歪んだ。「何を?」と返答がないあたり、言葉の意味は通じているのだろう。羞恥に身体が強張り、頬の奥がじわりと熱を帯びる。溜め込んだ息を、微かに吐き出すのがやっとだった。
「あの、こ、こんなの、関係あるんでしょうか」
「ありますよ。大アリ。大丈夫、あくましゅうどうし様のプレイに興味はないので、安心してください」
面を上げ、ははっと軽く笑う男に対し、レオナールは熱いままの顔を両手で覆った。自身の自慰行為を晒すことになるなんて思ってもみなかった。けれど、それを知っていたからとて、昨夜の自分はその行為を止められただろうか。堪えきれない欲求を、どうやって諌めることができただろう。頭から湯気をだすレオナールを尻目に、うらみのは触腕でポンと手を鳴らす。
「じゃあ、こうしましょう」
終始軽い口調はなんとかならないのだろうか。自身との温度差を感じながら、レオナールは頬を染めたままそちらを見上げる。
「もう一回、同じ条件をつくってみてください」
「条件……」
「そう。さっきの酒。もう一回飲んでみてください。それで“同じこと”が起きるかどうか検証してみましょう」
それは……、もう一度自分に暴露しろということだろうか。こちらの気持ちを汲み取る素振りも見せず、うらみのはさらりとした口調で提案する。確かに酒が原因であれば、それで再現できる。理屈としては分かるのだが、恥ずかしさとは別に、どこか、強く拒む気持ちがあった。それでも、状況を変えるには従うしかないのだろう。
「……わかりました」
「いいですねぇ、さっきの患者よりずっと素直で助かりますよ」
うらみのは鼻歌を歌いながらカルテに何かを記入している。途中、軽やかにペンを走らせながら、言葉を続けた。
「反応があることは別に悪いことじゃないですよ。むしろ正常と言えます」
「はぁ……」
「あと、食欲はないかもしれませんが、なるべく空腹は避けたほうがいい。腹が減ってると、ろくなことになりませんから」
空腹感など、当に通り越しているのだが……。時間を見ながら食べることにするべきかと、ぼんやり考える。うらみのは「あー、そうそう」と、独り言のように呟きながら、デスクの一番下にある底の深い引き出しを開けた。液体、錠剤、粉末と、ありとあらゆる種類の処方薬が瓶や小分けの状態で山のように詰め込まれており、パッと見でどれが必要なのか常人にはわからない。管理している彼でさえ、触腕やら脚やらを使って掘り起こしているくらいだ。そのうち、十錠ほどの錠剤が入った小さな瓶を取り出し、レオナールに手渡す。受け取る際に、カランと音が鳴った。
「とりあえず、元気になる薬」
「元気になる薬?」
「気休めみたいなもんですがねぇ」
ひらひらと手を振る様子は、詳しい説明をする気がないようだった。
「まあ、使うかどうかはお任せしますけど」
「ありがとうございます」
「じゃ~、そんな感じで。結果が出たらまた来てください。これ、俺の連絡先です」
レオナールを出口まで送る最中に、普段はここにいないのだと、うらみのは言った。ヨレたシャツにくたびれたズボン、下駄。まるで名医と呼ぶには些か疑わしい見た目だが、魔王城、学園、それ以外にも彼を必要としている機関は多い。そんな中、ここは個人的なアトリエのようなものだという。彼が興味をそそられるもの。表で診れない非合法な処置などには都合がいいと言っていた。レオナールは乾いた笑みを返すことしかできなかった。自分がここに招かれた理由はどちらにあるのか、うっすらと考える。廊下には、あの魔物の血が点々と落ちていた。
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