一 消失
【零日目 】
魔界に朝を告げるのは光ではない。
僅かに変わる、静寂の質だ。
小鳥のさえずりは奇怪な獣の声に掻き消され、空が白むこともない。闇を満たす魔力のみが、静かに巡りを変えていく。その巡りに従い、それぞれの魔物は目を覚ます。何百年、何千年。ただ、同じことを繰り返してきた。長寿である魔物にとって、時の流れは意識の外側にある。
『まるで人間の真似事をしているようだ』
遥か昔。混沌に委ねられていた魔界を新たな秩序のもとに統べるべく、初代の魔王が城を築いた。その瞬間、どこからともなくそんな声が投げつけられたとされている。
秩序、管理、時間。
そのどれもが、本来、この魔界には不要な概念だった。
長い時を経て、それらは静かに定着し、かつてのような争いは影を潜めている。
今や魔王城は、統治と安定の象徴として存在している。
それでも城に仕える者たちは、定められた役割に従い、定められた時刻に目を覚ます。城に勤務する『あくましゅうどうし』レオナールもまた、例外ではない。
早朝。大半の魔物が未だ眠る中、彼は自然と眠りを手放す。その時刻は長年の習慣として身体に馴染んでおり、前日に床へ着くのが遅くなろうとも、変わることはなかった。
視界に異常はない。
魔力の流れも安定している。
思考にも濁りはなかった。
まどろみを誘う温もりを残した布団をはぐり、レオナールはゆっくりと寝台から降りた。冷たい床の感触が足裏から静かに伝わる。ソファーの背もたれに引っ掛けたままのブランケットを羽織り、キッチンへ向かう。ガラスコップに注いだ水を一口含むと、清涼な滴が喉元を通り過ぎた。
──無味の水。
本来、味を持たないもの。だからこそ、それは基準になる。レオナールは一日の始まりに、無意識にその感覚を受け入れていた。ただの習慣なのかもしれない。あるいはもっと根源的な、本能に近い行為なのかもしれない。なぜそうしているのか、レオナールが自身に問うことはなかった。疑う余地すらない、日常の一部でしかないからだ。空になったガラスコップを洗い流し、蛇口を閉める音が、キッ、と小さく鳴った。
魔王城の地下にある悪魔教会。『教会』とはいえ、信者が毎朝ミサのために訪ねてくるような厳かな場所ではない。城内の魔物が集うのは、年に一度、闇のミサが行われる十二月二十五日のみだ。日々、この場で粛々と祈りを捧げる者はレオナールと、務めに配属された、ほんのわずかな魔物達である。エリアボスとして。ひとりの信者として。レオナールは彼らよりも一足先に、この場を訪れていた。
重厚な扉を押し開くと、蝶番が低く鈍い音を上げる。内側の静まった空気が外へゆるやかに流れ、頬を撫でる。かすかに漂う古びた木の匂いを吸い込み、教会に足を踏み入れた途端、レオナールの動きは止まった。
嗅ぎ慣れた空気の底に沈むわずかな甘さ。意識を向けなければ見落としてしまいそうなほど淡い、蜜にも似たほのかな香りだった。
香だろうか、と一瞬思う。けれど、この教会で香を焚くことはない。姫の悪戯かとも思うが、彼女はまだ自室で眠っているはずだ。レオナールは目を細め、もう一度息を吸い込む。空気は常と変わらず冴え渡っていた。それでも、先ほど鼻先をかすめたものは確かにそこにあった。しかし胸の奥へ落ちるよりも早く、ほどけるように薄れていく。掬い取ろうとしたときには、すでに形を失っていた。あとに残ったのは、わずかな違和感だった。澄んだ層に溶けきらない甘さの記憶のみが、かすかに胸の内側に触れている。匂いは消えているのに、その気配だけがどこか留まっている。
視線を巡らせるも、広がる光景には整然と並ぶ長椅子と祭壇があるばかりで、普段と変わらぬ静寂がそこにあった。気のせいだと片づけてしまえばそれまでだ。名を与えるほどのものではなく、追うほどのものでもない。レオナールは目蓋を伏せ、小さく息を吐いた。背後で扉が閉まり、乾いた靴音が堂内に響く。祭壇へ歩み寄ると、最前列の長椅子から、黒く細長い尻尾がくたりと垂れていた。先端には白い房。見間違えようもない、よく知る主のものだった。
「…………」
尻尾を辿るように視線を上げる。長椅子の上には、場違いなほどふわふわとした白いマットが敷かれていた。いつもどうやって持ち込んでいるのか知らないが、無造作に広げられたそれに身体を預けているのは旧友の睡魔だ。ゆるく三つ編みにした銀髪が頬に落ち、長い耳が無防備に晒されている。白黒の寝巻き姿のまま、好きな時に好きな場所、どこでも構わず眠る男は案の定、涎まで垂らしている。満ち足りた寝顔はこちらに気づく気配もない。長椅子の足元には木札が立てかけられており、『鐘が鳴ったら起こしてくれ』と走り書きが残されている。レオナールはわずかに眉を寄せ、それから呆れたように笑った。気の抜けるような寝息を背に、朝のミサをひとり始める。睡魔の気配も、教会の空気も、静かな呼吸の中に落ちつく。やがて荘厳な鐘の音が魔王城全体を震わせた。ひとつ、間を置いて、もうひとつ。鐘の余韻が沈むのを待ち、レオナールはゆっくりと瞼を持ち上げた。
+°
妙に落ち着かない夜というものがある。
夢の道が絡まり、出口が遠い。
どの扉を開けても、寝苦しさが残る。
そういうときは、あの場所にさえいればいい。
面倒くさそうな呼び声は、どんな神の御言葉よりも目覚めが軽く、随分と心地良いのだ。
魔界に朝を告げるのは光ではない。
僅かに変わる、静寂の質だ。
小鳥のさえずりは奇怪な獣の声に掻き消され、空が白むこともない。闇を満たす魔力のみが、静かに巡りを変えていく。その巡りに従い、それぞれの魔物は目を覚ます。何百年、何千年。ただ、同じことを繰り返してきた。長寿である魔物にとって、時の流れは意識の外側にある。
『まるで人間の真似事をしているようだ』
遥か昔。混沌に委ねられていた魔界を新たな秩序のもとに統べるべく、初代の魔王が城を築いた。その瞬間、どこからともなくそんな声が投げつけられたとされている。
秩序、管理、時間。
そのどれもが、本来、この魔界には不要な概念だった。
長い時を経て、それらは静かに定着し、かつてのような争いは影を潜めている。
今や魔王城は、統治と安定の象徴として存在している。
それでも城に仕える者たちは、定められた役割に従い、定められた時刻に目を覚ます。城に勤務する『あくましゅうどうし』レオナールもまた、例外ではない。
早朝。大半の魔物が未だ眠る中、彼は自然と眠りを手放す。その時刻は長年の習慣として身体に馴染んでおり、前日に床へ着くのが遅くなろうとも、変わることはなかった。
視界に異常はない。
魔力の流れも安定している。
思考にも濁りはなかった。
まどろみを誘う温もりを残した布団をはぐり、レオナールはゆっくりと寝台から降りた。冷たい床の感触が足裏から静かに伝わる。ソファーの背もたれに引っ掛けたままのブランケットを羽織り、キッチンへ向かう。ガラスコップに注いだ水を一口含むと、清涼な滴が喉元を通り過ぎた。
──無味の水。
本来、味を持たないもの。だからこそ、それは基準になる。レオナールは一日の始まりに、無意識にその感覚を受け入れていた。ただの習慣なのかもしれない。あるいはもっと根源的な、本能に近い行為なのかもしれない。なぜそうしているのか、レオナールが自身に問うことはなかった。疑う余地すらない、日常の一部でしかないからだ。空になったガラスコップを洗い流し、蛇口を閉める音が、キッ、と小さく鳴った。
魔王城の地下にある悪魔教会。『教会』とはいえ、信者が毎朝ミサのために訪ねてくるような厳かな場所ではない。城内の魔物が集うのは、年に一度、闇のミサが行われる十二月二十五日のみだ。日々、この場で粛々と祈りを捧げる者はレオナールと、務めに配属された、ほんのわずかな魔物達である。エリアボスとして。ひとりの信者として。レオナールは彼らよりも一足先に、この場を訪れていた。
重厚な扉を押し開くと、蝶番が低く鈍い音を上げる。内側の静まった空気が外へゆるやかに流れ、頬を撫でる。かすかに漂う古びた木の匂いを吸い込み、教会に足を踏み入れた途端、レオナールの動きは止まった。
嗅ぎ慣れた空気の底に沈むわずかな甘さ。意識を向けなければ見落としてしまいそうなほど淡い、蜜にも似たほのかな香りだった。
香だろうか、と一瞬思う。けれど、この教会で香を焚くことはない。姫の悪戯かとも思うが、彼女はまだ自室で眠っているはずだ。レオナールは目を細め、もう一度息を吸い込む。空気は常と変わらず冴え渡っていた。それでも、先ほど鼻先をかすめたものは確かにそこにあった。しかし胸の奥へ落ちるよりも早く、ほどけるように薄れていく。掬い取ろうとしたときには、すでに形を失っていた。あとに残ったのは、わずかな違和感だった。澄んだ層に溶けきらない甘さの記憶のみが、かすかに胸の内側に触れている。匂いは消えているのに、その気配だけがどこか留まっている。
視線を巡らせるも、広がる光景には整然と並ぶ長椅子と祭壇があるばかりで、普段と変わらぬ静寂がそこにあった。気のせいだと片づけてしまえばそれまでだ。名を与えるほどのものではなく、追うほどのものでもない。レオナールは目蓋を伏せ、小さく息を吐いた。背後で扉が閉まり、乾いた靴音が堂内に響く。祭壇へ歩み寄ると、最前列の長椅子から、黒く細長い尻尾がくたりと垂れていた。先端には白い房。見間違えようもない、よく知る主のものだった。
「…………」
尻尾を辿るように視線を上げる。長椅子の上には、場違いなほどふわふわとした白いマットが敷かれていた。いつもどうやって持ち込んでいるのか知らないが、無造作に広げられたそれに身体を預けているのは旧友の睡魔だ。ゆるく三つ編みにした銀髪が頬に落ち、長い耳が無防備に晒されている。白黒の寝巻き姿のまま、好きな時に好きな場所、どこでも構わず眠る男は案の定、涎まで垂らしている。満ち足りた寝顔はこちらに気づく気配もない。長椅子の足元には木札が立てかけられており、『鐘が鳴ったら起こしてくれ』と走り書きが残されている。レオナールはわずかに眉を寄せ、それから呆れたように笑った。気の抜けるような寝息を背に、朝のミサをひとり始める。睡魔の気配も、教会の空気も、静かな呼吸の中に落ちつく。やがて荘厳な鐘の音が魔王城全体を震わせた。ひとつ、間を置いて、もうひとつ。鐘の余韻が沈むのを待ち、レオナールはゆっくりと瞼を持ち上げた。
+°
妙に落ち着かない夜というものがある。
夢の道が絡まり、出口が遠い。
どの扉を開けても、寝苦しさが残る。
そういうときは、あの場所にさえいればいい。
面倒くさそうな呼び声は、どんな神の御言葉よりも目覚めが軽く、随分と心地良いのだ。
1/6ページ
