短編(sss)

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リップクリームなんて物はない
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唇が切れた。
乾燥した空気のせいだ。
ピリリと痛みを感じた下唇を、紫苑は濡れた舌先で舐めてみた。

「痛ッ、」

──ジクリ。
唾液が傷に染みる。
刺し込むような痛みに、おもわず口を押さえた。

その姿がたまたま視界に入ったのか、ソファーで本を読んでいたネズミが ついと顔を上げた。

「噛んだのか?」
「違う。切れたんだ」
「あぁ、そっちか。見せてみろ」

呼ばれて近付いてみれば腰に回されるスラリとした腕。紫苑は屈んでネズミに顔を近づけた。

「舐めていい?」
「痛いから嫌だよ」
「少しだけ」
「……きみも大概Sだな」
「あんたはには負ける」

ネズミが悪戯に笑う。
紫苑が逃げないようにシャツの襟を掴んでは距離を縮めた。唇の傷にわざと唾液をぬりたくり、苦痛に歪む紫苑の表情を楽しみ始める。

「ぃ……ッ、…ひ‥ぁ」

これはどういった遊びだろうか。
ネズミは下唇を引っ張って傷口だけを、ぐじゅぐじゅ。ぐじゅぐじゅ。執拗になぶる。


「、…痛っ、!」

奥歯を噛みしめて、紫苑は痛みに耐えていた。
ネズミの手には紫苑の口からこぼれた涎がつたう。

「痛いだけじゃないだろ」

存分に堪能した後、ネズミは指についた唾液を舐めた。

(厭らしい!厭らしい!厭らしい!)

紫苑は唇を袖で隠す。顔が熱い。

ネズミは卑怯だ。自分がどういう素振りをすれば、相手がどう意識するかを熟知している。

紫苑が悔しそうに睨むと、ネズミはニヤリと笑みを浮かべた。

「ほら、もう一回」
「……覚えてろよ、ネズミ」
「おー、怖い怖い」

次にきみが同じような事になれば、絶対に容赦しないぞ。痛みを覚悟で、紫苑はネズミの唇に噛みついた。

END.

(おれから言わせればあんたの声の方が厭らしい。)
(……?)
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