短編(sss)
───────
親愛なる君へ
───────
ほくがしてあげられる事なんてほんの僅かだけれど。それでも、きみの為にできることをしたかった。この気持ちさえ、彼に言わせてみれば自己陶酔的なものなのかもしれないが、今のぼくにはこれ以上の行いを思いつくことができなかった。
どうか、どうか。きみが一秒でも長く素敵な夢をみられますように。
その慈悲深い心が暗く濁りませんように。
──────
終わった。
今までにないくらい長い一日だった。
ネズミの出て行ったドアが閉まり、イヌカシは堪らず息を吐き出した。
「おまえさんは帰らないのかい。紫苑」
小柄な身体をベッドに投げ出すと、スプリングの軋む音と共に紫苑がくるりと振り返った。
「イヌカシ。今日は協力してくれて本当にありがとう」
「あぁ。まったくだぜ」
イヤミを込めてフンと鼻を鳴らす。
紫苑は困ったように笑ってみせた。
「もうこんな事、二度とやらないからな」
「うん、わかってる」
後悔と哀れみを含む紫苑の瞳に背を向ける。
ポケットの中で、金貨がチャリッと高い音をたてた。いつもなら魅惑の音に聞こえるそれが、今はまるで自分の価値を示しているようで、酷く不快に感じた。娼婦の真似事なんてするもんじゃない。
イヌカシはいまだ感覚の残るうなじに手を這わした。窓の外では冷えた風が静かな唸りをあげている。こんな寒空で禊ぎをすれば、犬でも風邪をひくだろう。
「チッ、」
下劣な欲を露わにした男のなんと醜いことか。
血生臭さと酒臭い匂いが、今頃になって鼻につく。富良が暴れた際に飛び散った血痕が、お気に入りの毛布に染みて薄黒く変色していた。
「イヌカシ」
「なんだ、まだいたのか。早く帰れ」
「イヌカシ、こっちを向いて」
「うるさい。おれはもう寝るんだ。おまえも早く行かないとネズミさまに怒られるぞ」
今日は我ながら申し分のない働きをしたんだ。
だからあとは寝るだけだ。
ほんの数分前まで拷問部屋だったこの場所で。
気色の悪い男に撫で回されたこの場所で。
それでも朝になれば水を浴びて、部屋は紫苑が来たときに掃除をさせればいい。
それだけのことだ。
「イヌカシ」
「なんだよ、もうっ」
紫苑の呼び声に、イヌカシは煩わしそうに起きあがった。眉間に皺をよせて振り向くと、至ってまじめな顔をした紫苑がベッドの足下に膝をついてイヌカシを見上げていた。毛布を握りしめていた手に手を重ね、まっすぐ視線を合わせてくる。イヌカシは顎をひいて息を飲み込んだ。
「明日はいつもより早く来るから」
「あ、当たり前だ。このくせぇ部屋、すみずみまで綺麗にしてもらうからな。しかも部屋の清掃代はないぜ。タダ働きだ」
ふふんと笑い、無理矢理口角を押し上げる。
紫苑は頷き、イヌカシに優しく微笑みかけた。
「清掃代だけじゃない。明日丸一日タダ働きだって構わない」
「じゃぁずっとタダ働きだ」
「え、いや。それはちょっと困るな」
「はっ。ばーか」
自分から好んで徒労する者の話しなど聞いたことがなかった。本当に変な奴だ。たとえNO.6の住人だったとしても、少なくとも西ブロックで過ごせば否応なしに無秩序に染まっていく。
しかし紫苑は初めて会ったときから何も変わらない。手の甲に重ねられた体温のように、いつもじんわりと心を温めてくれる。警戒心を解きほぐし、安心させてくれる。それをありがたいと思ったことはないが、紫苑の隣にいれば居心地が良いのは確かだった。
「じゃぁ、また明日」
紫苑がスッと立ち上がる。
「遅刻したら昼飯は抜きだぜ」
「わかってるよ。おやすみ、イヌカシ」
ふふ。と笑いながら、紫苑はイヌカシの頬にキスをした。不意をついた一瞬だった。
あ。と声をあげようにも口は開かず、瞳孔だけが開いた。親愛の行為なんてものは犬相手にしかした事もされた事もない。イヌカシはパクパクと鯉のように口を動かして顔を赤らめた。
目と鼻の先にある紫苑の瞳に、なんとも間抜けな表情をした自分が映って見える。
「あと、ここにもいいかな」
「へ、うぇ?」
紫苑はイヌカシの長い黒髪を払い、うなじにもそっと唇を這わせた。富良がなめずった箇所だった。柔らかな唇が、褐色の肌を愛おしむようについばむ。
「し、紫苑…?」
燭台の明かりに照らされた白髪からふわりと石けんの香りが漂う。血の匂いも、酒の匂いも、全て洗い流してくれるような清潔感のある香り。紫苑はイヌカシの頭を撫で、額をコツンと合わせた。日常的でない行動に、これから何かの儀式が始まるんじゃないかと錯覚してしまう。
「──イヌカシが良い夢を見れますように」
「……あんたはおれのママか?」
イヌカシの言葉に、紫苑は笑って部屋を出て行った。やっと一人になったところで、イヌカシは再びベッドに身を投げだした。
キスをされた首筋が熱い。
不快な感触など、とうに消えてしまっていた。
「なるほどね、」
巧みなのかは分からないが、ネズミの言う通り情熱的であるというのは、なんとなく分かったような気がする。
イヌカシは窓を揺らす風音に目をとじた。
END.
親愛なる君へ
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ほくがしてあげられる事なんてほんの僅かだけれど。それでも、きみの為にできることをしたかった。この気持ちさえ、彼に言わせてみれば自己陶酔的なものなのかもしれないが、今のぼくにはこれ以上の行いを思いつくことができなかった。
どうか、どうか。きみが一秒でも長く素敵な夢をみられますように。
その慈悲深い心が暗く濁りませんように。
──────
終わった。
今までにないくらい長い一日だった。
ネズミの出て行ったドアが閉まり、イヌカシは堪らず息を吐き出した。
「おまえさんは帰らないのかい。紫苑」
小柄な身体をベッドに投げ出すと、スプリングの軋む音と共に紫苑がくるりと振り返った。
「イヌカシ。今日は協力してくれて本当にありがとう」
「あぁ。まったくだぜ」
イヤミを込めてフンと鼻を鳴らす。
紫苑は困ったように笑ってみせた。
「もうこんな事、二度とやらないからな」
「うん、わかってる」
後悔と哀れみを含む紫苑の瞳に背を向ける。
ポケットの中で、金貨がチャリッと高い音をたてた。いつもなら魅惑の音に聞こえるそれが、今はまるで自分の価値を示しているようで、酷く不快に感じた。娼婦の真似事なんてするもんじゃない。
イヌカシはいまだ感覚の残るうなじに手を這わした。窓の外では冷えた風が静かな唸りをあげている。こんな寒空で禊ぎをすれば、犬でも風邪をひくだろう。
「チッ、」
下劣な欲を露わにした男のなんと醜いことか。
血生臭さと酒臭い匂いが、今頃になって鼻につく。富良が暴れた際に飛び散った血痕が、お気に入りの毛布に染みて薄黒く変色していた。
「イヌカシ」
「なんだ、まだいたのか。早く帰れ」
「イヌカシ、こっちを向いて」
「うるさい。おれはもう寝るんだ。おまえも早く行かないとネズミさまに怒られるぞ」
今日は我ながら申し分のない働きをしたんだ。
だからあとは寝るだけだ。
ほんの数分前まで拷問部屋だったこの場所で。
気色の悪い男に撫で回されたこの場所で。
それでも朝になれば水を浴びて、部屋は紫苑が来たときに掃除をさせればいい。
それだけのことだ。
「イヌカシ」
「なんだよ、もうっ」
紫苑の呼び声に、イヌカシは煩わしそうに起きあがった。眉間に皺をよせて振り向くと、至ってまじめな顔をした紫苑がベッドの足下に膝をついてイヌカシを見上げていた。毛布を握りしめていた手に手を重ね、まっすぐ視線を合わせてくる。イヌカシは顎をひいて息を飲み込んだ。
「明日はいつもより早く来るから」
「あ、当たり前だ。このくせぇ部屋、すみずみまで綺麗にしてもらうからな。しかも部屋の清掃代はないぜ。タダ働きだ」
ふふんと笑い、無理矢理口角を押し上げる。
紫苑は頷き、イヌカシに優しく微笑みかけた。
「清掃代だけじゃない。明日丸一日タダ働きだって構わない」
「じゃぁずっとタダ働きだ」
「え、いや。それはちょっと困るな」
「はっ。ばーか」
自分から好んで徒労する者の話しなど聞いたことがなかった。本当に変な奴だ。たとえNO.6の住人だったとしても、少なくとも西ブロックで過ごせば否応なしに無秩序に染まっていく。
しかし紫苑は初めて会ったときから何も変わらない。手の甲に重ねられた体温のように、いつもじんわりと心を温めてくれる。警戒心を解きほぐし、安心させてくれる。それをありがたいと思ったことはないが、紫苑の隣にいれば居心地が良いのは確かだった。
「じゃぁ、また明日」
紫苑がスッと立ち上がる。
「遅刻したら昼飯は抜きだぜ」
「わかってるよ。おやすみ、イヌカシ」
ふふ。と笑いながら、紫苑はイヌカシの頬にキスをした。不意をついた一瞬だった。
あ。と声をあげようにも口は開かず、瞳孔だけが開いた。親愛の行為なんてものは犬相手にしかした事もされた事もない。イヌカシはパクパクと鯉のように口を動かして顔を赤らめた。
目と鼻の先にある紫苑の瞳に、なんとも間抜けな表情をした自分が映って見える。
「あと、ここにもいいかな」
「へ、うぇ?」
紫苑はイヌカシの長い黒髪を払い、うなじにもそっと唇を這わせた。富良がなめずった箇所だった。柔らかな唇が、褐色の肌を愛おしむようについばむ。
「し、紫苑…?」
燭台の明かりに照らされた白髪からふわりと石けんの香りが漂う。血の匂いも、酒の匂いも、全て洗い流してくれるような清潔感のある香り。紫苑はイヌカシの頭を撫で、額をコツンと合わせた。日常的でない行動に、これから何かの儀式が始まるんじゃないかと錯覚してしまう。
「──イヌカシが良い夢を見れますように」
「……あんたはおれのママか?」
イヌカシの言葉に、紫苑は笑って部屋を出て行った。やっと一人になったところで、イヌカシは再びベッドに身を投げだした。
キスをされた首筋が熱い。
不快な感触など、とうに消えてしまっていた。
「なるほどね、」
巧みなのかは分からないが、ネズミの言う通り情熱的であるというのは、なんとなく分かったような気がする。
イヌカシは窓を揺らす風音に目をとじた。
END.
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