短編(sss)

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The beautiful world +゜
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「ネズミ、これも見てごらんよ。すっごく綺麗だ」
「ワイングラスか。おっさんにはもったいないな」
「そうかな?力河さんならきっと毎日大事に使ってくれるよ」

──イタリア・ヴェネツィア。
ぼくらが新婚旅行に選んだ旅先は、街そのものが芸術品ともいえる水の都だった。

市街を縦横に流れる運河は蒼い空を映し出し、建築物は隅々まで繊細な装飾が施されている。世界遺産に登録された場所のみならず、市民の暮らす家々までもがまるで大きな額縁にはめ込まれた宝石のようだ。恍惚の溜息を漏らしてしまうほどに、見渡す風景はどこまでも美しい。

さて、観光の楽しみと言えば各地の名所巡りや穴場の散策。そして土産探しだ。

イヌカシには地元の人々に親しまれている焼き菓子の『バイコリ』を。母さんには細かな刺繍が可愛らしいヴェネツィアンレースのハンカチを。沙布には深海に差し込む光のように神秘的なヴェネツィアンガラスのピアスを。

そして今は残る一人。力河さんへ送る土産探しの真っ最中だ。

沙布のピアスを買った店で見つけたデザイン性の高い朱色のワイングラス。店内のライトを反射した美しい色彩に思わず目を奪われた。ついでに言うと、ネズミがそのワイングラスを飾り棚から手に取る様は上流階級の貴婦人のように思えてならない。

(やっぱり優美だ)

ほぅっと眺めていると、ネズミは僕の視線に気付いて照れくさそうに口を尖らせた。

「あんたはグラスを見てるのか?それともおれを見てるのか?」

こつん。

額を小突かれて目が覚める。

「グラスを持つきみを見ていた」
「ばか」
「ふふっ」

ネズミが恥ずかしがると、なんだかぼくも気恥ずかしい。

「おっさんには上質なワインだ。安い酒で腐った舌を清めるにはいい薬だろう」
「相変わらずきみは口が悪いな。けど……うん、ぼくもそっちの方がいいと思う。とびきり美味しいものを送ろう」
「では、テイスティングは陛下にお任せしてもよろしいのでしょうか」
「きみも一緒に決めるんだ」
「かしこまりました。仰せのままに」

グラスを元に戻しながらネズミは悪戯に笑う。

店を出てしばらく歩くと、世界でもっとも美しい広場と称されるヴェネツィアの中心部。サン・マルコ広場が視界いっぱいに広がった。ヴェネツィアに到着してから一番初めに訪れた場所だが、何度来てみても圧巻の光景だ。

壮大な海を正面に、回廊のある建物に囲まれた先に見えるはサン・マルコ大聖堂。どの角度から眺めてみても、造形美あふれる景観が当時の煌びやかな繁栄を物語っている。

「紫苑、そこで待ってろ。すぐ戻る」
「あ、ネズミ……」

伸ばした手は中途半端に行き場を失い、足早に去るネズミの後ろ姿を見送った。必ず戻ってくると分かっていても、初めての場所で一人取り残される心境は結構、複雑なものだ。

二十分くらいだろうか。某忠犬のようにその場でただただネズミを待っていた。暇な時間に飽きて周辺をうろつこうかと思った矢先、行き交う人々にぶつからないよう器用に隙間を縫って通るネズミが、遠目に姿を現した。

「ネズミ!どこに行ってたんだ」

足下に置いていた土産袋を持ち上げて駆け寄る。

「交渉してた」
「誰と」
「さぁ?まぁ、来ればわかるって」

意味ありげに事を隠して、ネズミはぼくの手を引っぱった。行き着いた先は海に面したゴンドラ乗り場。ネズミは客引きの為に停まっていた一隻のゴンドラに向かって迷わず進んでいった。

なるほど。交渉相手は漕ぎ手のゴンドリエーレだったらしい。

ネズミは普段では絶対にみせない。いわば商売用の明媚な笑みを向けながら握手を交わしていた。流暢なイタリア語で会話を楽しんでいる様子に、ぼくはちょっとした疎外感を覚える。

「さぁ、陛下。御手をどうぞ」

先にゴンドラに乗ったネズミが、手入れの行き届いた綺麗な手をぼくに向かってスッと差し出す。

「きみが漕ぎ手になったら、女性客が殺到しそうだな」
「そうしたらあんたはヤキモチを妬いてふてくされるだろうから、すぐに職を変えなきゃいけない」
「え……、ぁ、そりゃぁ少しは妬くかもしれないけど。別に辞めさせる程騒ぎはしないさ」
「……冗談に本気で答えるな」

言い合いながら向かい合わせに座ったぼくらを確認して、ゴンドラはゆるやかに動き出す。

流れる景色と揺れる水面。心地よい風が肌を撫でて、揺りかごのような優しい乗り心地が気持ちいい。目を瞑っていても、この街は眼裏に情緒ある景色を彩った。

ぼくが街の音に耳を澄ませてくつろいでいると、さざ波の音に溶け込むよう聞こえてきたのはネズミの声。

(あぁ、まさかこんなところできみの歌が聞けるだなんて。)

ふっと瞼を開ける。ぼくの瞳に映るのは、空を飛ぶ鳥を見つめながら歌うきみ。

互い、仕事や役所の手続き、旅行の準備でこの地の言葉を勉強する暇がなかったにもかかわらず、ネズミはぼくに隠れてイタリア語を修得していた。

『ヴェネツィア語を覚えるまでにはいたらなかったけどな』

確かにそう言っていたはずなのに、目の前の彼は今、立派なヴェネツィア語でカンツォーネを歌っている。

まったく、どこまでが本当でどこからが嘘なのか。どれだけ共に過ごそうとも、ネズミの本質を見抜くのは難しい。

街中に響くきみの歌声。
心を揺さぶる旋律。

細い水路ではその声が大きく反響して、現地の人々や観光客がこぞってぼくらのゴンドラに注目していた。

彼らにはネズミがどう見えているのだろうか。
ぼくは時々、彼が人間だと思えない時がある。

妖精、精霊。
はたまた神の使いか。

とにかく、何か不思議な力で形作られた幻の様なものに思えてならない。そんな時ほどネズミが遠い存在のような気がして、たまらず叫びたくなってしまう。

『置いていかないでくれ』と。

ネズミのカンツォーネが終わると、そこかしこから称賛と感動の声が運河を行き交った。振り向けば、ぼくらを運んでくれたゴンドリエーレは感極まって涙を流していた。リアルト橋の近くにあるゴンドラ降り場でネズミが料金とチップを渡そうとしたのだが、彼は受け取ってはくれなかった。よほどネズミの歌声に惚れ込んでしまったのだろう。

質の良いワインを取り扱っている店の場所を教えて貰い、ネズミとぼくは礼もそこそこにゴンドラを後にした。長いこと揺られていたせいか、地に足をつけてもふわふわと宙に浮いているような気がする。

「ネズミ」
「ん?」
「交渉って、このことだったのか」
「ご名答」
「きみのその『してやったり』な顔を見て察しがついた」
「さすがだな。日夜の熱い視線は伊達じゃないって事だ」

ネズミが愉快そうに笑う。

「タダにしろとまでは言ってないぜ?自慢の歌を聞かせてやるから、気に入ったら料金を割安にしてくれと言ったんだ」
「相手が条件を聞き入れた時点で、きみの中では無賃乗船が確定していたはずだと思うけど」
「まぁな。でも、それなりに歌わせてもらった。あんたも充分堪能しただろう」
「それは…、うん。きみの歌声は素晴らしいから、否定しない」

路地裏に入り、ひっそりと隠れ家的に構えられた酒屋につくと、ぼくらは力河さんへの土産を吟味した。

──あんたは飲み過ぎると酔っぱらって面倒なことになるからおれに任せろ。

そう言って結局、ワインの味を決めたのはネズミだった。前に力河さんからワインをもらって、飲み過ぎた日のことを根に持っていたのだろうか。絡み酒で相当酷かったらしいけど、ぼくは覚えていない。

「さて、土産も買ったし。観光も終わった。そろそろ日も暮れてきたからホテルに戻ろう」
「あぁ、もうくたくただ。腹も減った」
「夕飯、なんだろうね。楽しみだなぁ」
「フルコースの最後には格別のデザートが待ってる。おれはディナーよりそっちの方が今は楽しみで仕方ない」
「デザート?」

ぼくが首を傾げると、ネズミは土産袋からボトルを一本取り出した。力河さんのとは別に、自分たちで飲もうと買ったワインの一つだ。

「今夜は無礼講だ。ホテルの酒も、このワインも、存分に飲むといい」
「さっきは酔ったら面倒だと言ってたじゃないか」
「『外』で酔われると面倒だろう。『中』では酔ってもらった方が盛り上がる。」
「二日酔いになったらぼくが面倒だ。明日も予定が詰まっているから酒は飲まない」
「あんた前に『ワインは二日酔いしない』とウンチクを言ってなかったっけ?」
「うん、まぁ、そうだけど……」

──その後、ぼくがネズミの言葉をちゃんと理解したのは初夜明けのベッドの中だった。

酔いが覚めて隣で眠るネズミを見れば昨夜のことを思い出し、恥ずかしくていたたまれなくて。ベッドから飛び出ると急いで服を着た。…いや、着ようとした。

「まだ時間はあるだろ」
「うわっ、ネズミ!きみ…起きて…ッ」

裸のネズミに抱きすくめられ、赤面から始まった旅行二日目。出だしは予想外だったが、きっと今日も素晴らしい世界がぼくらを待っている。

「なぁ紫苑」
「なに?」
「       」

道中。不意に耳打ちされた言葉は、ネズミから送られたぼくだけの宝物。

「ふふっ、ネズミ。それならぼくだって」
「ん?」
「       」



ねぇ、ネズミ。
こうしてずっと、ぼくらは幸せを紡いでいけるだろうか。

口先だけで愛を誓った神に頼らず、自分たちの手で確かな想いを守りきれるだろうか。

望みを保証された未来などありはしないけれど、それでもぼくは、きみの傍らにいられるだけでその全てが叶う気がしている。

いや、違うな。
すでに叶ってしまっているのかもしれない。

(はぁ……、つくづく幸せ者だなぁ…)

そんな生ぬるいぼくの気持ち。

きみと繋いだ手のぬくもりが、
優しく答えを返してくれた。


END.

(世界が美しいんじゃない。)
(きみといるから、世界が美しく映るんだ。)
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