森の民さんたちから・*.°
【緋劉さん-空に想う(閉鎖)】
*リクエスト券.
『グズるシオンに、ネズミが子守歌。その歌を聞いて感動する紫苑』
────────────
あなたのために子守唄を
────────────
アナログ時計が時を刻む音がする。目を向ければその二本の針たちはもう幼子の眠る時間がとうに過ぎていることを告げていた。紫苑はそれを見て、もう何度目か分からないため息をつく。
「ほら、寝ないと大きくなれないよ?」
言った言葉の意味はまだ理解できていないだろうが、せめて気持ちだけは伝わっていてほしい。けれどそんな思いとは裏腹に視線の先のその子は紫苑の手を掴んだまま楽しそうな声をあげた。
…機嫌がいいのはいい。泣かれてもまだあやし方が上手くないという自覚はあるからだ。でも寝かせられないとまでは思わなかった。幼子ってこんなにこんな時間まで元気なものなのか。
自分のまわりに今までいなかった存在だから扱い方が分からない。いや、物みたいに言ったら失礼だ。これは接し方が分からないとでも言えばいいのだろうか。
「ぁ、あうあ」
言葉にならない声でキャッキャッとはしゃぐ幼子。泣くことと食べることと遊ぶことと寝ること。それがこの年頃の幼子全員の仕事だと紫苑は思っていた。事実、間違ってはいないだろう。だから…。
「ほら、もう寝よう。シオン」
大きくなれないぞ、と言っても通じないのは分かっている。それはもう理解した。でも他にどんなことを言ったらいいか分からない。何をすれば眠ってくれるのか知識にない。
紫苑はもう数えるのをやめるほどついたため息をもう一度ついた。
********
「なぁ、紫苑。一晩だけシオンを預かってくれないか」
「? どうしたんだ、イヌカシ」
今日もいつもと同じように廃墟のホテルへ仕事をしにきて、やることが全部終わって帰る少し前。紫苑はイヌカシに呼び止められ、そう言われた。いつものイヌカシらしくない困った顔にどうしたのかと紫苑が不思議に思うと同時にまたイヌカシが言う。
「情報収集の方で仕事が入ったんだが、それに犬が全員必要なんだ。暖房用に貸し出してる犬以外全員でさ、いつもシオンにつけてる犬も働いてもらわなきゃいけなくなった」
「そんなに大変な仕事なのか」
「ああ。でも、報酬はいい」
ニヤリと笑うイヌカシはいつもの彼らしい表情で、なにか大事なことが起こったのではと思った紫苑は肩の力を抜いた。今のは仕事を成功させる絶対の自信に満ちた顔だ。
イヌカシがぐっと紫苑に身を乗り出す。
「で、頼めるか。もちろんその分の金は払う」
「うん、大丈夫。今日はぼくがシオンを預かるよ。でも、お金はいらないよ。だってぼくがイヌカシにシオンを預け」
「あいつが煩いんだよ。またここに来ておれの食料を盗られたんじゃたまらない」
「…あ、それは…うん。止められなくてごめん」
「紫苑じゃなくてあのドブネズミ野郎が悪いんだ。まったく、油断も隙もねぇ。…油断も隙も見せてるつもりなんてないのによ」
イヌカシが前に盗られたクラッカーのことを思い出したのだろう。顔を歪めて吐き捨てるように言った。紫苑はそれに苦笑を返すことしかできなかった。自分だってネズミがイヌカシの元から盗ってきた物をもらって食べたのだ。
「やっぱりお金はいいよ。いつもネズミがイヌカシのもの盗ってるし。ぼくから言うから」
「…そうか? やっぱあんたって変だな。ここは『当たり前だ、金をよこせ』って言うとこだぞ。ま、渡さなくていいならこっちは儲かりもんだ。……じゃ、頼んだぜ」
「うん。イヌカシも仕事がんばって」
「当たり前だ」
部屋から連れてきたシオンを紫苑に手渡してその頭をひと撫ですると「いい子でいろよ」とイヌカシは言った。シオンはそれに大きな目を瞬き、なにを言われたかなんて分からないだろうが返事のように両手をばたつかせ機嫌よく笑い返す。
まるで本当の母と子のようなやり取りに傍で見ていた紫苑の心がほわりとした。体は寒くとも心が温まる、とても和やかな時間。
「またな」
ニカッと笑ったイヌカシが手を軽くあげて瓦礫の向こうへ消える。紫苑はそれを見送ってから自分を見上げるシオンに向かって微笑んだ。
「帰ろっか」
こうして今日は紫苑がシオンを預かることになったのだった。
********
あれから紫苑はシオンにご飯を食べさせたり、お風呂に入れたりと慌ただしくすごした。泣くことは少なかったが、泣かれたときにはなにをしたらいいか分からずに戸惑ったものの、今は多少、シオンのペースに合わせられるようになったと思っている。
しかし、それもこの寝てくれないという事態を前にそんなものは思い込みだったと思い知らされた。…本当にどうしたらいいのだろう。
お腹は、量は少ないながらもそれなりに満たされたはずだ。体も清潔にしたし、毛布もかぶせて温かくしている。これならもういつ寝てもおかしくないような状態なのに…。
紫苑は分からなくて考え込む。けれど一向にその答えは見えてこなかった。ますますどうしたらよいか分からず途方に暮れる。
幸い、ネズミはまだ帰っていなかった。劇場での仕事が長引いているのだろう。それでもこの時間ならもうすぐ帰ってきてしまう。疲れて帰ってくるネズミを騒がしいままで迎えるのはなんとか控えたかった。けれど、何度も繰り返すように寝つかせる方法が分からない。
うんうん唸る紫苑の横では、伸ばされた指で遊ぶシオンがまた上機嫌な声をあげた。
しかし、カチカチと無情にも時計の針は時を刻み、なにもできないままついに地下室の扉は開けられネズミが入ってきた。
「…おかえり」
「ああ。……なんでイヌカシんとこのガキがいるんだ?」
「あ、それは」
部屋に入ってきたネズミが紫苑を見たあと、視線は手元に移り声をあげながらうごめく小さな塊をとらえた。紫苑はそのわけを説明するため口を開く。
「イヌカシが犬を全員使うほどの仕事を受けたらしくて、シオンのことを任せている犬も必要だから一晩預かってくれないかって頼まれたんだ」
「ふぅん。で、そいつなんでまだ起きてんの?」
「どうしても寝てくれなくて…。きみが帰ってくる前までになんとか寝かせたかったんだけど、どうしたらいいかいくら考えても分からなかった」
自分の不甲斐なさに紫苑は力無くうなだれる。ネズミはそんな紫苑に近づくと白髪に手を差し入れて撫ではじめた。優しい手つきに揺れる瞳で見上げれば、くすりと笑うネズミ。
「あんた、疲れて帰ってくるおれに静かな空間を用意したい、とか思ったんだろ」
「!! …、うん」
考えを当てられたことに驚き、その通りだと頷く。それを見てさらにネズミが笑みを深めた。髪を梳いていた手が後頭部にまわされる。そのまま力を加えられ、近づいた額に軽くキスを落とされた。
「ありがとな、紫苑」
恥ずかしくて、でも嬉しくてはにかむように微笑んだ紫苑とネズミが見つめ合う中にキャッキャッとはしゃいだ声が割り込む。
慌てて視線を落とせば、今の場面を見ていたらしいシオンが手を叩いて笑っていた。…なんだか無性に恥ずかしい。
「そろそろ、ぼうやには眠ってもらわないとな」
「でも、どうやって?」
分からない、と途方に暮れた目を向けてくる紫苑の視線を受けながらネズミは艶やかに笑って見せた。それはもう、自信たっぷりな笑顔を。
「歌ってやればいいのさ」
「歌?」
「そう、歌は歌でも子守唄を。…まあ、見てな」
そう言うとネズミは深く息を吸い、歌いだした。
低く、穏やかな、眠りに誘う声で紡がれる言葉。緩やかな旋律にのせられ奏でられるその言葉たちは、まるで力を持っているかのように紫苑を歌いあげる世界へと引き込んでいった。
薄暗い地下室から景色が一変する。
-------
温かな日差しが降り注ぐ中で鈴の音のような声を響かせ鳴く小鳥たち。
きらきらと輝きながら流れる小川の上を吹き抜けていくのは花の香りを纏った風。
辺り一面に生き生きと咲き乱れる草花を見下ろすのは澄み渡った青空と浮かぶ真っ白い雲。
-------
歌を辿って景色が流れるように目の前を流れていく。紫苑はただただそれに感動し、魅入った。心に直接響く歌。そしてその歌はだんだんと、すべてが寝静まる夜へと移り変わっていった。
-------
柔らかな光を放つ三日月の下に木々の間からどこからともなく響くフクロウの声。
闇に沈んだ小川は空に輝く月を映して夜の水気を含みしっとりと冷えた風がそよぐ。昼間の咲き乱れていた草花は眠る姿に月光を受けて淡く輝き星の瞬く夜空にはたゆたう薄雲。
-------
まるで一日の風景を流れ見ているかのようだった。とうに人々の内から忘れ去られた昔の光景に心が震える。…こんなに美しかったのか。この世界では見ることの叶わない風景に大きな感動を覚え、同時に胸に刺さる悲しみも感じた。
そして、心を捕らえ、震わせた歌は静かに終わっていった。
いつの間に閉じていたのだろう。ゆっくりと押し上げた瞼に映った視界はぼやけて揺れていた。
わけが分からずにいるとネズミが目尻を、頬を、指先と掌を使って拭った。そのときに初めて自分が泣いていることに気づく。
「あれ、なんで…」
拭ってくれているはずなのにあとからあとから溢れてくる涙が止まらない。袖で擦ろうとするとその腕に手をそえられた。顔を上げてネズミを見る。まだ視界は歪んだままだったけれど困ったように苦笑したのが伝わってきた。
「まったく、子守唄だったってのに。…ほらごらん。ぼうやはもう夢の世界へ旅立ったよ」
「ぁ…」
促されてシオンを見れば、すやすやと気持ちよさそうに眠っていた。そっと手を伸ばして頬を軽くつついても起きないほどの深い眠り。…あんなに眠らなかったのに、すごい。
「さすがだ」
「お褒めいただきありがとうございます、陛下」
少しだけおさまってきた涙の中で瞳と頬を濡らした紫苑が微笑む。ネズミはそんな紫苑が無性に愛しくなって、ぎゅっと抱きしめた。
今度はもう誰も見ていない二人だけの時間。ネズミは髪に隠れた耳に口を寄せ、囁く。
「さあ、次は…――」
あなたの涙を止めるための歌を歌いましょう。
fin.
*リクエスト券.
『グズるシオンに、ネズミが子守歌。その歌を聞いて感動する紫苑』
────────────
あなたのために子守唄を
────────────
アナログ時計が時を刻む音がする。目を向ければその二本の針たちはもう幼子の眠る時間がとうに過ぎていることを告げていた。紫苑はそれを見て、もう何度目か分からないため息をつく。
「ほら、寝ないと大きくなれないよ?」
言った言葉の意味はまだ理解できていないだろうが、せめて気持ちだけは伝わっていてほしい。けれどそんな思いとは裏腹に視線の先のその子は紫苑の手を掴んだまま楽しそうな声をあげた。
…機嫌がいいのはいい。泣かれてもまだあやし方が上手くないという自覚はあるからだ。でも寝かせられないとまでは思わなかった。幼子ってこんなにこんな時間まで元気なものなのか。
自分のまわりに今までいなかった存在だから扱い方が分からない。いや、物みたいに言ったら失礼だ。これは接し方が分からないとでも言えばいいのだろうか。
「ぁ、あうあ」
言葉にならない声でキャッキャッとはしゃぐ幼子。泣くことと食べることと遊ぶことと寝ること。それがこの年頃の幼子全員の仕事だと紫苑は思っていた。事実、間違ってはいないだろう。だから…。
「ほら、もう寝よう。シオン」
大きくなれないぞ、と言っても通じないのは分かっている。それはもう理解した。でも他にどんなことを言ったらいいか分からない。何をすれば眠ってくれるのか知識にない。
紫苑はもう数えるのをやめるほどついたため息をもう一度ついた。
********
「なぁ、紫苑。一晩だけシオンを預かってくれないか」
「? どうしたんだ、イヌカシ」
今日もいつもと同じように廃墟のホテルへ仕事をしにきて、やることが全部終わって帰る少し前。紫苑はイヌカシに呼び止められ、そう言われた。いつものイヌカシらしくない困った顔にどうしたのかと紫苑が不思議に思うと同時にまたイヌカシが言う。
「情報収集の方で仕事が入ったんだが、それに犬が全員必要なんだ。暖房用に貸し出してる犬以外全員でさ、いつもシオンにつけてる犬も働いてもらわなきゃいけなくなった」
「そんなに大変な仕事なのか」
「ああ。でも、報酬はいい」
ニヤリと笑うイヌカシはいつもの彼らしい表情で、なにか大事なことが起こったのではと思った紫苑は肩の力を抜いた。今のは仕事を成功させる絶対の自信に満ちた顔だ。
イヌカシがぐっと紫苑に身を乗り出す。
「で、頼めるか。もちろんその分の金は払う」
「うん、大丈夫。今日はぼくがシオンを預かるよ。でも、お金はいらないよ。だってぼくがイヌカシにシオンを預け」
「あいつが煩いんだよ。またここに来ておれの食料を盗られたんじゃたまらない」
「…あ、それは…うん。止められなくてごめん」
「紫苑じゃなくてあのドブネズミ野郎が悪いんだ。まったく、油断も隙もねぇ。…油断も隙も見せてるつもりなんてないのによ」
イヌカシが前に盗られたクラッカーのことを思い出したのだろう。顔を歪めて吐き捨てるように言った。紫苑はそれに苦笑を返すことしかできなかった。自分だってネズミがイヌカシの元から盗ってきた物をもらって食べたのだ。
「やっぱりお金はいいよ。いつもネズミがイヌカシのもの盗ってるし。ぼくから言うから」
「…そうか? やっぱあんたって変だな。ここは『当たり前だ、金をよこせ』って言うとこだぞ。ま、渡さなくていいならこっちは儲かりもんだ。……じゃ、頼んだぜ」
「うん。イヌカシも仕事がんばって」
「当たり前だ」
部屋から連れてきたシオンを紫苑に手渡してその頭をひと撫ですると「いい子でいろよ」とイヌカシは言った。シオンはそれに大きな目を瞬き、なにを言われたかなんて分からないだろうが返事のように両手をばたつかせ機嫌よく笑い返す。
まるで本当の母と子のようなやり取りに傍で見ていた紫苑の心がほわりとした。体は寒くとも心が温まる、とても和やかな時間。
「またな」
ニカッと笑ったイヌカシが手を軽くあげて瓦礫の向こうへ消える。紫苑はそれを見送ってから自分を見上げるシオンに向かって微笑んだ。
「帰ろっか」
こうして今日は紫苑がシオンを預かることになったのだった。
********
あれから紫苑はシオンにご飯を食べさせたり、お風呂に入れたりと慌ただしくすごした。泣くことは少なかったが、泣かれたときにはなにをしたらいいか分からずに戸惑ったものの、今は多少、シオンのペースに合わせられるようになったと思っている。
しかし、それもこの寝てくれないという事態を前にそんなものは思い込みだったと思い知らされた。…本当にどうしたらいいのだろう。
お腹は、量は少ないながらもそれなりに満たされたはずだ。体も清潔にしたし、毛布もかぶせて温かくしている。これならもういつ寝てもおかしくないような状態なのに…。
紫苑は分からなくて考え込む。けれど一向にその答えは見えてこなかった。ますますどうしたらよいか分からず途方に暮れる。
幸い、ネズミはまだ帰っていなかった。劇場での仕事が長引いているのだろう。それでもこの時間ならもうすぐ帰ってきてしまう。疲れて帰ってくるネズミを騒がしいままで迎えるのはなんとか控えたかった。けれど、何度も繰り返すように寝つかせる方法が分からない。
うんうん唸る紫苑の横では、伸ばされた指で遊ぶシオンがまた上機嫌な声をあげた。
しかし、カチカチと無情にも時計の針は時を刻み、なにもできないままついに地下室の扉は開けられネズミが入ってきた。
「…おかえり」
「ああ。……なんでイヌカシんとこのガキがいるんだ?」
「あ、それは」
部屋に入ってきたネズミが紫苑を見たあと、視線は手元に移り声をあげながらうごめく小さな塊をとらえた。紫苑はそのわけを説明するため口を開く。
「イヌカシが犬を全員使うほどの仕事を受けたらしくて、シオンのことを任せている犬も必要だから一晩預かってくれないかって頼まれたんだ」
「ふぅん。で、そいつなんでまだ起きてんの?」
「どうしても寝てくれなくて…。きみが帰ってくる前までになんとか寝かせたかったんだけど、どうしたらいいかいくら考えても分からなかった」
自分の不甲斐なさに紫苑は力無くうなだれる。ネズミはそんな紫苑に近づくと白髪に手を差し入れて撫ではじめた。優しい手つきに揺れる瞳で見上げれば、くすりと笑うネズミ。
「あんた、疲れて帰ってくるおれに静かな空間を用意したい、とか思ったんだろ」
「!! …、うん」
考えを当てられたことに驚き、その通りだと頷く。それを見てさらにネズミが笑みを深めた。髪を梳いていた手が後頭部にまわされる。そのまま力を加えられ、近づいた額に軽くキスを落とされた。
「ありがとな、紫苑」
恥ずかしくて、でも嬉しくてはにかむように微笑んだ紫苑とネズミが見つめ合う中にキャッキャッとはしゃいだ声が割り込む。
慌てて視線を落とせば、今の場面を見ていたらしいシオンが手を叩いて笑っていた。…なんだか無性に恥ずかしい。
「そろそろ、ぼうやには眠ってもらわないとな」
「でも、どうやって?」
分からない、と途方に暮れた目を向けてくる紫苑の視線を受けながらネズミは艶やかに笑って見せた。それはもう、自信たっぷりな笑顔を。
「歌ってやればいいのさ」
「歌?」
「そう、歌は歌でも子守唄を。…まあ、見てな」
そう言うとネズミは深く息を吸い、歌いだした。
低く、穏やかな、眠りに誘う声で紡がれる言葉。緩やかな旋律にのせられ奏でられるその言葉たちは、まるで力を持っているかのように紫苑を歌いあげる世界へと引き込んでいった。
薄暗い地下室から景色が一変する。
-------
温かな日差しが降り注ぐ中で鈴の音のような声を響かせ鳴く小鳥たち。
きらきらと輝きながら流れる小川の上を吹き抜けていくのは花の香りを纏った風。
辺り一面に生き生きと咲き乱れる草花を見下ろすのは澄み渡った青空と浮かぶ真っ白い雲。
-------
歌を辿って景色が流れるように目の前を流れていく。紫苑はただただそれに感動し、魅入った。心に直接響く歌。そしてその歌はだんだんと、すべてが寝静まる夜へと移り変わっていった。
-------
柔らかな光を放つ三日月の下に木々の間からどこからともなく響くフクロウの声。
闇に沈んだ小川は空に輝く月を映して夜の水気を含みしっとりと冷えた風がそよぐ。昼間の咲き乱れていた草花は眠る姿に月光を受けて淡く輝き星の瞬く夜空にはたゆたう薄雲。
-------
まるで一日の風景を流れ見ているかのようだった。とうに人々の内から忘れ去られた昔の光景に心が震える。…こんなに美しかったのか。この世界では見ることの叶わない風景に大きな感動を覚え、同時に胸に刺さる悲しみも感じた。
そして、心を捕らえ、震わせた歌は静かに終わっていった。
いつの間に閉じていたのだろう。ゆっくりと押し上げた瞼に映った視界はぼやけて揺れていた。
わけが分からずにいるとネズミが目尻を、頬を、指先と掌を使って拭った。そのときに初めて自分が泣いていることに気づく。
「あれ、なんで…」
拭ってくれているはずなのにあとからあとから溢れてくる涙が止まらない。袖で擦ろうとするとその腕に手をそえられた。顔を上げてネズミを見る。まだ視界は歪んだままだったけれど困ったように苦笑したのが伝わってきた。
「まったく、子守唄だったってのに。…ほらごらん。ぼうやはもう夢の世界へ旅立ったよ」
「ぁ…」
促されてシオンを見れば、すやすやと気持ちよさそうに眠っていた。そっと手を伸ばして頬を軽くつついても起きないほどの深い眠り。…あんなに眠らなかったのに、すごい。
「さすがだ」
「お褒めいただきありがとうございます、陛下」
少しだけおさまってきた涙の中で瞳と頬を濡らした紫苑が微笑む。ネズミはそんな紫苑が無性に愛しくなって、ぎゅっと抱きしめた。
今度はもう誰も見ていない二人だけの時間。ネズミは髪に隠れた耳に口を寄せ、囁く。
「さあ、次は…――」
あなたの涙を止めるための歌を歌いましょう。
fin.
