Flower Gift+°
店のドアに飾られた鈴が、チリンと可愛らしい音で鳴った。
客が足を踏み入れるのと同時に店員は花殻詰みの手を休め、慌てて振り返る。エプロンについていた花粉や花びらが、立ち上がった瞬間に、はらはらと床に落ちた。
「いらっしゃいませ! ……て、あっ、ネズミさんじゃないですか。こんにちは」
「はいはい、こんにちは。……なぁ紫苑、いい加減“さん”付けやめない? あと敬語も。俺ら同い年なんだぜ」
柔らかい微笑みで出迎えた店員とは対照的に、客は口を尖らせた。
紫苑とネズミ、二人の出会いは数ヶ月前。場所はネズミが知人の祝いにと、ふらりと寄ったこの花屋だった。薔薇、百合、パンジー、ビオラ。多種多様の花達に囲まれ、紫苑は右から左へ、左から右へと重い鉢を移動させながらせっせと働いていた。彼はプレゼントのブーケを頼めばすぐに花を見繕い、目に鮮やかな品を作り上げる。
女の客を喜ばすには花が一番効果的だ。その華麗な仕上がりを気に入ったネズミは仕事柄、度々店に足を運んでいた。毎度、たわいない話をするも、互いの歳や名を知ったのはつい最近のこと。
ネズミは紫苑の髪についた一枚の花弁を掬い取って、そっと彼の片手に握らせる。毎日惜しげもなく花に愛情を注ぐ手のひらは、所々に傷を作り、痛々しく荒れていた。
対照的なネズミの洗礼された手は、慰めるかの如く、それを優しく包み込む。
「呼び捨てにされても俺は気にしないんだけど」
「いえ、そうはいきません。貴方は僕の大事なお客様です。失礼な事はしたくない」
「断る方が失礼だ」
「駄目です」
紫苑はふるふると首を横に振った。
「さて、今日はどんな花がよろしいですか?」
手渡された花びらをさりげなくポケットにしまい、ネズミに問いかける。
紫苑はネズミが『夜の仕事』をしている事について、本人からも誰からも、聞いた事はない。しかし、なんとなく理解はしていた。客のことをわざわざ詮索する必要はないのであえて口にはしない。いや、口にすると彼がもうこの店に来ない気がして言えなかった。
ネズミはといえば、紫苑にいつ指摘されるのだろうかと常に気にかけていた。品の出来映えに満足したなど二の次で、一番は紫苑目当てに来ていたのだから。
ネズミから見た紫苑はそれこそ花そのものだ。初めはどんな趣味をしているのかと気になっていた風貌も、よく見れば端整な顔立ちが栄えてなかなかに自分好みだった。客の女達がつけるきつい香水などではなく、甘く漂うジャスミンのような香りも、この腕に抱きしめて心ゆくまで堪能したい。
「今日は、そうだな。白い花がいい」
――不意をついて紫苑の髪にキスを落としてみる。
これも、ネズミが好む紫苑のパーツの一つだった。
流石に嫌がるかと思ったのだが、意外にも何も言われない。少し、恥じらいを見せた程度だ。
「……白、ですか? あの、女性にはやっぱりピンクとかオレンジの方がいいかと……」
「女? 誰が女にやるって言った?」
「あっ」
「やっぱり。あんた知ってたな」
「いえ……あの、だって……。――…すみません……」
紫苑が落ち込む。
先程のネズミの色づいた行動に内心、錯乱していたのだ。
言葉を選ぶ余裕すらなかった。
紫苑はやってしまったと言わんばかりに、がっくりと肩を落とした。
「別に……、あんたが謝ることない。俺が女を相手にしてるのは事実なんだし」
「あ……あの、気分を悪く……されたかと」
「それだけ?」
「……?」
「本当に、それだけ?」
そろりと、濃灰色の瞳がのぞき込む。
「紫苑、あんた俺が怖いんだろ。だから俺に近付こうとしない。せっかく俺から寄ってるのにいつも離れてく」
「そんなこと……今だって、近い」
「近くない。あんたは遠いよ」
「すみません。言っていることが……ちょっと、わからない」
「嘘つき」
「……っ」
ネズミの手が視界を覆う。
紫苑が一歩後ずさるのを、腰を抱いて引きとめる。
何が起こったのか分からない間に、唇に柔らかいものが触れ、それは押し当てたまま動かない。離れることも、さらに口を割ることもなく、ただそこに留まっていた。
「――…ン」
暗闇と唇の感覚に、強く目を瞑る。
どれくらいそうしていただろうか。やっと解放され、ゆっくり瞼を開けると、ネズミは踵を返して紫苑に背を向けた。振り返ることなく店のドアに手をかける。
「また、そのうち来る。……たぶん」
聞き逃してしまうかと思う程に、語尾は囁き程度だった。
いつもと変わらぬ鈴の音が、ネズミの声より一際大きく耳朶の奥でチリンと鳴り響いた。
・*.°
……嫌われた?
嫌われたな。
いや、待て。
もしかして……最初から、嫌われていた?
「……くそっ、バカ野郎」
ネズミは荒々しくグラスを掴む。
琥珀色のウィスキーの中で、溶けた氷がカランと揺れた。
口からもれた一言は自分への文句だった。
あれから二週間。ネズミは文字通り頭を抱え悩んでいた。男の唇にキスをするなど、繰り返す女ばかりの生活に神経が麻痺していたとしか思えない。いくら気に入っていたとは言えやりすぎだ。そんな関係など望んで……いなかったと言いきれないのが歯痒いが、少なくともまだ己の心の準備はできていなかった。自制がきかなくなるほど紫苑に溺れていたとでも言うのだろうか。
そもそも何故俺はこの仕事に対して紫苑に後ろめたさを感じていたんだ? ……やはり、当初から一線を越えていたのかもしれない。
ネズミはむしゃくしゃとした感情の勢いに任せ、グラスの中身を一気に飲み干した。
客席から見て死角にあるスタッフ用のテーブル。腰掛けていたネズミの前を、同僚ホストであるイヌカシが、ボトルを片手に陣取った。高い位置で纏めた長い髪が肩に掛かり、鬱陶しそうに後ろへ跳ねのける。
「随分とご立腹じゃねーか、ネズミ」
「あん? あぁ、イヌカシか。地雷のお前には関係ない」
「地雷!? お前、本気で言ってんならぶっ飛ばすぞ」
「うるさい……。いちいち噛みつくな。お前と違って毎秒売り出し中の俺には今が貴重なブレイクタイムだ。邪魔する暇があるなら俺のレディー達を貸してやる」
片肘をソファの背もたれに預け、自慢の長い脚を組んだ姿はまるで皇帝(エンペラー)だ。イヌカシは顔をしかめながらも、偉げに振る舞うネズミのグラスに酒を注いだ。
「お前のヘルプなんて御免だね。……それより、さっき変な奴が来た」
「変な奴?」
「髪が真っ白でさ。華奢だし。世間知らずのじじいかと思ったら、俺らと大差ない顔してた。カラコンして顔に紅い蛇の刺青なんかして、怪しかったからすぐ追い返したけど」
「――まさか、紫苑!?」
「しおん?」
「イヌカシ、そいつは何か言ってなかったか」
ネズミが身を乗り出し、イヌカシはたじろいだ。
「いや、言ってはなかったけど……。どうしたんだよ。そんな血相変えるなんてお前らしくない」
「クソッ」
「……あ。花だけ、受け取った」
「その花は?」
「あんまりに綺麗だったから見せてやろうと思ってたけど、途中でお前の客にぶん捕られたよ」
ほら。と、イヌカシが一つのテーブルを指さす。そこには大きな白い花束が中央に置かれ、先程までネズミが担当していた女がうっとりとそれを眺めていた。
「あいつ、どういうつもりだ」
ふらりとネズミは立ち上がり、花束のもとへ歩き出す。取り残されたイヌカシは、ネズミの吐いた一言が紫苑と客、どちらに対して放たれたものかも分からぬまま、黙ってネズミを見送った。
客が足を踏み入れるのと同時に店員は花殻詰みの手を休め、慌てて振り返る。エプロンについていた花粉や花びらが、立ち上がった瞬間に、はらはらと床に落ちた。
「いらっしゃいませ! ……て、あっ、ネズミさんじゃないですか。こんにちは」
「はいはい、こんにちは。……なぁ紫苑、いい加減“さん”付けやめない? あと敬語も。俺ら同い年なんだぜ」
柔らかい微笑みで出迎えた店員とは対照的に、客は口を尖らせた。
紫苑とネズミ、二人の出会いは数ヶ月前。場所はネズミが知人の祝いにと、ふらりと寄ったこの花屋だった。薔薇、百合、パンジー、ビオラ。多種多様の花達に囲まれ、紫苑は右から左へ、左から右へと重い鉢を移動させながらせっせと働いていた。彼はプレゼントのブーケを頼めばすぐに花を見繕い、目に鮮やかな品を作り上げる。
女の客を喜ばすには花が一番効果的だ。その華麗な仕上がりを気に入ったネズミは仕事柄、度々店に足を運んでいた。毎度、たわいない話をするも、互いの歳や名を知ったのはつい最近のこと。
ネズミは紫苑の髪についた一枚の花弁を掬い取って、そっと彼の片手に握らせる。毎日惜しげもなく花に愛情を注ぐ手のひらは、所々に傷を作り、痛々しく荒れていた。
対照的なネズミの洗礼された手は、慰めるかの如く、それを優しく包み込む。
「呼び捨てにされても俺は気にしないんだけど」
「いえ、そうはいきません。貴方は僕の大事なお客様です。失礼な事はしたくない」
「断る方が失礼だ」
「駄目です」
紫苑はふるふると首を横に振った。
「さて、今日はどんな花がよろしいですか?」
手渡された花びらをさりげなくポケットにしまい、ネズミに問いかける。
紫苑はネズミが『夜の仕事』をしている事について、本人からも誰からも、聞いた事はない。しかし、なんとなく理解はしていた。客のことをわざわざ詮索する必要はないのであえて口にはしない。いや、口にすると彼がもうこの店に来ない気がして言えなかった。
ネズミはといえば、紫苑にいつ指摘されるのだろうかと常に気にかけていた。品の出来映えに満足したなど二の次で、一番は紫苑目当てに来ていたのだから。
ネズミから見た紫苑はそれこそ花そのものだ。初めはどんな趣味をしているのかと気になっていた風貌も、よく見れば端整な顔立ちが栄えてなかなかに自分好みだった。客の女達がつけるきつい香水などではなく、甘く漂うジャスミンのような香りも、この腕に抱きしめて心ゆくまで堪能したい。
「今日は、そうだな。白い花がいい」
――不意をついて紫苑の髪にキスを落としてみる。
これも、ネズミが好む紫苑のパーツの一つだった。
流石に嫌がるかと思ったのだが、意外にも何も言われない。少し、恥じらいを見せた程度だ。
「……白、ですか? あの、女性にはやっぱりピンクとかオレンジの方がいいかと……」
「女? 誰が女にやるって言った?」
「あっ」
「やっぱり。あんた知ってたな」
「いえ……あの、だって……。――…すみません……」
紫苑が落ち込む。
先程のネズミの色づいた行動に内心、錯乱していたのだ。
言葉を選ぶ余裕すらなかった。
紫苑はやってしまったと言わんばかりに、がっくりと肩を落とした。
「別に……、あんたが謝ることない。俺が女を相手にしてるのは事実なんだし」
「あ……あの、気分を悪く……されたかと」
「それだけ?」
「……?」
「本当に、それだけ?」
そろりと、濃灰色の瞳がのぞき込む。
「紫苑、あんた俺が怖いんだろ。だから俺に近付こうとしない。せっかく俺から寄ってるのにいつも離れてく」
「そんなこと……今だって、近い」
「近くない。あんたは遠いよ」
「すみません。言っていることが……ちょっと、わからない」
「嘘つき」
「……っ」
ネズミの手が視界を覆う。
紫苑が一歩後ずさるのを、腰を抱いて引きとめる。
何が起こったのか分からない間に、唇に柔らかいものが触れ、それは押し当てたまま動かない。離れることも、さらに口を割ることもなく、ただそこに留まっていた。
「――…ン」
暗闇と唇の感覚に、強く目を瞑る。
どれくらいそうしていただろうか。やっと解放され、ゆっくり瞼を開けると、ネズミは踵を返して紫苑に背を向けた。振り返ることなく店のドアに手をかける。
「また、そのうち来る。……たぶん」
聞き逃してしまうかと思う程に、語尾は囁き程度だった。
いつもと変わらぬ鈴の音が、ネズミの声より一際大きく耳朶の奥でチリンと鳴り響いた。
・*.°
……嫌われた?
嫌われたな。
いや、待て。
もしかして……最初から、嫌われていた?
「……くそっ、バカ野郎」
ネズミは荒々しくグラスを掴む。
琥珀色のウィスキーの中で、溶けた氷がカランと揺れた。
口からもれた一言は自分への文句だった。
あれから二週間。ネズミは文字通り頭を抱え悩んでいた。男の唇にキスをするなど、繰り返す女ばかりの生活に神経が麻痺していたとしか思えない。いくら気に入っていたとは言えやりすぎだ。そんな関係など望んで……いなかったと言いきれないのが歯痒いが、少なくともまだ己の心の準備はできていなかった。自制がきかなくなるほど紫苑に溺れていたとでも言うのだろうか。
そもそも何故俺はこの仕事に対して紫苑に後ろめたさを感じていたんだ? ……やはり、当初から一線を越えていたのかもしれない。
ネズミはむしゃくしゃとした感情の勢いに任せ、グラスの中身を一気に飲み干した。
客席から見て死角にあるスタッフ用のテーブル。腰掛けていたネズミの前を、同僚ホストであるイヌカシが、ボトルを片手に陣取った。高い位置で纏めた長い髪が肩に掛かり、鬱陶しそうに後ろへ跳ねのける。
「随分とご立腹じゃねーか、ネズミ」
「あん? あぁ、イヌカシか。地雷のお前には関係ない」
「地雷!? お前、本気で言ってんならぶっ飛ばすぞ」
「うるさい……。いちいち噛みつくな。お前と違って毎秒売り出し中の俺には今が貴重なブレイクタイムだ。邪魔する暇があるなら俺のレディー達を貸してやる」
片肘をソファの背もたれに預け、自慢の長い脚を組んだ姿はまるで皇帝(エンペラー)だ。イヌカシは顔をしかめながらも、偉げに振る舞うネズミのグラスに酒を注いだ。
「お前のヘルプなんて御免だね。……それより、さっき変な奴が来た」
「変な奴?」
「髪が真っ白でさ。華奢だし。世間知らずのじじいかと思ったら、俺らと大差ない顔してた。カラコンして顔に紅い蛇の刺青なんかして、怪しかったからすぐ追い返したけど」
「――まさか、紫苑!?」
「しおん?」
「イヌカシ、そいつは何か言ってなかったか」
ネズミが身を乗り出し、イヌカシはたじろいだ。
「いや、言ってはなかったけど……。どうしたんだよ。そんな血相変えるなんてお前らしくない」
「クソッ」
「……あ。花だけ、受け取った」
「その花は?」
「あんまりに綺麗だったから見せてやろうと思ってたけど、途中でお前の客にぶん捕られたよ」
ほら。と、イヌカシが一つのテーブルを指さす。そこには大きな白い花束が中央に置かれ、先程までネズミが担当していた女がうっとりとそれを眺めていた。
「あいつ、どういうつもりだ」
ふらりとネズミは立ち上がり、花束のもとへ歩き出す。取り残されたイヌカシは、ネズミの吐いた一言が紫苑と客、どちらに対して放たれたものかも分からぬまま、黙ってネズミを見送った。
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