Merry Xmas+°
――月の雫。旧市庁。此処がそう呼ばれていた頃から、もうすでに四年ほど経つ。
トーリはその頃ロストタウンに暮らすまだ何も知らない大学生だった。市への忠誠を誓う一般市民のひとりであり、もれなく生活を管理され、僅かニ歳で人生を振るいにかける仕組みに異議を唱える事もない従順な性格。友人とも程々に付き合いながら、それなりの暮らしに身を任せていた。
そんな中、突如起こった歴史に残る『NO.6の崩壊』はまるで夢物語だった。それも悪夢だ。街の人々は混乱の中で彷徨い、憂い、泣き叫ぶ。『悲しみや苦しみとは無縁の場所』そう謳われていた理想都市が見事なまでに瓦解する様は、まるで積み上げたブロックが崩れるゲームのようだった。
今思えば、到底、受け入れたく無かったのかもしれない。しかし、目の前に映る緊急速報のモニターからは信じ難いこの世の真実が垂れ流されており、行き交う人混みの中から現れた蜂の羽根が頬を掠めた時、これが現実なのだと思い知らされた。
・*.°
「ただいま、トーリ」
再建委員会・委員長執務室。会議を終えて一人の男が入ってきた。二十歳。トーリより数個違うだけだ。まだまだ若い青年である。それでも何となしに生きてきた自分と比べ、彼は間違いなく人生経験が豊富で、何より、誰よりも明晰な頭脳の持ち主だと思っている。旧NO.6で言うところのエリートコースを歩む者(実際にはその道は憚られたようだが…)。寄生蜂によって脱色された白髪と頬にかかる紅い痣は、貫禄とは無縁な儚げな雰囲気を醸し出している。普段から人懐っこい表情をするのも、あどけなさを残す一因かもしれない。
彼はあの日、『聖なる祝日』の日。モニターに大きく映し出された人物の一人だった。民衆の前で自身と、街の真実を曝け出した二人の少年の片割れであり、トーリやその他大勢の人生観。いや、人生そのものを変えた人間である。
ネクタイを緩め、襟首のボタンも外し、彼は最奥のデスクにある椅子にスーツの上着を引っ掛けた。その背後にある窓から差し込む陽射しによって彼の白い髪は光を透かして煌めき、トーリは思わず目を細める。美しいと思った。
「お帰りなさい。紫苑委員」
そろそろかと思い用意しておいたコーヒーをカップに汲みながら、トーリは口元を綻ばせた。トーリがこうして彼の執務室を自由に出入りするようになったのはここ一年くらい前からだ。前任の担当者が辞職した際の代わりとして彼の隣についた。再建委員会発足時からの悲願がようやく叶った時、一人で酒を飲んで喜んだものだ。
若くして精力的に活動する彼と違い、なんの特技も取り柄もない自分が今ここにいるのは、他でもない『紫苑』と言う存在に魅入られたからである。見た目に反して猛々しく咆哮をあげ、民衆を虜にした一場面は今でも鮮明に瞼の裏に焼きついており、生涯褪せることはない。トーリにとって彼の隣につけると言うことは幸せ以外の何ものでもなかった。
「髪。また、緩んでますよ」
トーリがうなじ辺りを指先で示しながら指摘すると、紫苑は確かめるように手のひらを首に回した。
「ははっ。本当だ」
下方に束ねて結んだ髪。襟足にハラリと落ちた後れ毛。紫苑は括った細くて白いヘアゴムをおもむろに引っ張って髪を解いた。根元から微かに鎖骨にかかる毛先まで綺麗に真っ白な頭髪は、彼がどんな人物か知らぬ者でも視線を向けてしまう。明媚ととるか稀有ととるかは人によるところで、トーリはもちろんのこと前者であった。
彼は半年ほど前から髪を伸ばし始めた。仕事が忙し過ぎて散髪に向かえないのかと思っていたが、休日が明けても伸びたままの容貌に「切りに行かないんですか?」と尋ねたところ「伸ばしているんだ」と恥ずかしそうに笑う。理由は頑なに教えてもらえなかった。くせっ毛の空気を含んだ柔らかそうな髪質は、後ろから見れば女性と間違われることもあるそうだ。
「ぼくが結いましょうか」
トーリは角砂糖を一つ落としてかき混ぜたコーヒーを差し出した。椅子に座り雑に髪をほぐしている紫苑へと問いかける。
「君が?」
紫苑は紫がかった澄んだ瞳をまん丸くして、驚いた表情でトーリを見上げた。上司の間抜けな顔にトーリは堪らずプッと吹き出し、慌てて口元を隠す。髪を結うことの何が珍しいのか。驚かれるほどの不器用さを披露した覚えはない。
「…………頼もうか」
笑われたことに羞恥を覚えたらしく、紫苑は視線を逸らす。スッと渡されたヘアゴムを手に、トーリは紫苑の背後へと回った。
見た目通りの細くて柔らかな髪は全体的に見ると括る長さはあるが、まだ両サイドの所々短い毛は掻き集めたところで指の隙間から零れてしまう。毛束を捻って巻き込みながら、トーリは慎重に髪を纏め上げた。
「凄い。君、とても器用だったんだね」
引き出しから鏡を取り出した紫苑がパッと表情を明るくする。
「妹がいるので。小さい頃はよく結んでやってました」
母や、兄である自分の背中に隠れて顔を出すような、引っ込み思案で可愛らしい妹だった。今は知り合いの雑貨店の手伝いをしながら、将来は自分の店を持ちたいと夢を追いかけ日々奮闘している。
「あぁ、だから手慣れてるんだ。本当に……すごいや」
「お気に召して頂けたようで光栄です」
どうせなら仕事で褒められたいものだ。トーリは苦笑した。
「何かお礼をしないとな」
何がいいかな? と、紫苑は顎を上げ、首をもたげて視線を交わせた。背中にかけた重みで椅子がギシリと音を立てる。見上げてくる紫苑に対してトーリは二、三度瞬きをすると、慌てて両手を振った。
「い、いえ。このくらいでお礼なんて……」
「いらないのか?」
「え、あ……え?」
「君は案外、無欲なんだな」
ふふっと笑みを溢し、紫苑は姿勢を正した。先程トーリが用意したコーヒーをひと口含んで喉に流し込む。
「採用試験の時の君は、もっと貪欲な眼をしていたよ」
「え!?」
確かに、当時は採用されたくて必死だった。日頃、さして趣味も何も持たない自分に、あれほど強烈な刺激を与えた紫苑に近付きたい一心で受けた採用試験。もちろん自分達の街を、国を、また一から作ると言う一大プロジェクトにも惹かれていたが、やはり本命の前では二の次である。混乱の最中、高収入と安定を求める競争倍率は言うまでもなく、募集期間は応募者殺到の為、当初の予定より遥かに早く締め切られた。
受かる者は神に愛されし者だと言われていたが、入ってみれば、ブラック企業然りの神どころか死神に愛されし者の場所だと知るのだが……。改めて言われるほど、顔に出ていたのだろうか。なぜ自分なんかが受かったのか不思議でならなかったのだが、その貪欲な眼とやらが決め手であるならば目の前の男に夢中になっていたからなどと、悟られてはいけない。
「本当に、何も希望はないのか?」
紫苑が今度は身体を捻って振り返る。
――まさか。無いわけが無い。
聞きたいことも一緒にやりたいことも、ありすぎて困るくらいだ。
トーリは視線を逸らし「そうですね……」と、唸った。
「好きなもの」
「うん?」
「あなたの好きなものをひとつ、教えてください」
「好きなもの?」
紫苑が再び目を丸くする。
「そんなこと、知りたいの?」
「…………はい」
変なの。と、彼の表情は物語っていたが、髪を結ったくらいの礼なんてこんなものだろう。
トーリの頬がほんの微かに紅みを帯びる。
――ネズミ。
「え?」
紫苑がぽつりと口にした言葉が聞き取れず、トーリは聞き返した。
「…………。いや……、家にね、預かってる子がいるんだ。『ツキヨ』って言う小ネズミなんだけど」
「ネズミ、ですか?」
「うん。とても愛らしい子なんだ」
彼は穏やかな笑みを浮かべた。
「おかしいかな?」
「あ……いや、まぁ……」
おかしいかおかしくないかと聞かれれば、もちろんおかしい。げっ歯類をペットにするなんて生まれてこの方聞いたことがなかった。けれど、人の好き嫌いに文句を言えるほどご立派な人間ではないし、ましてや彼の趣味趣向を笑う気などさらさらない。トーリは頬を掻いては窓の外に視線を向けた。目下の広場では、木枯らしがカラカラと木の葉を地に散らしている。
「紫苑委員は、ぼくたち普通の人間とは違いますから」
彼は知性の高さも然ることながら、見た目も生き方も、トーリにとっては全てが逸脱していた。凡人に理解できない事があってもなんら不思議ではない。今みたいな奇天烈な話しを聞けば驚きはするが、子どもみたいに揶揄ったりなんかはしないつもりでいる。
どう反応すれば良いのか、気を使い戸惑いを見せるトーリに、紫苑は息をひとつ吐き出した。
「それね、最近よく言われるんだ。けど、一緒だよ」
――ぼくも、君も、他の人間も。
そう言葉を転がすと、紫苑はコーヒーカップを片手で持ったまま立ち上がる。
「食べるものも、飲むものも、流れる血液も、何も君と変わらない。ヒトゲノムで構成された者は等しくただの人間さ」
紫苑は身体の距離を詰め、カップをトーリの顔に近づけた。少しばかり量の減った中身から、湯気にのったコーヒーの香りが鼻腔に広がる。
「たとえば、ぼくが実は『少し濃いめのコーヒーにミルクをたっぷり淹れたものの方が好きだ』とか、そんな些細な違い以外はね」
・*.°
あの時の相対する距離は何センチだったか。
夢見がちな記憶には彼の艶やかな頬の紅痣と、悪戯に弧を描いた唇だけが、やけに印象深く刻まれていた。特別な一日ではない日常。数ヶ月前の出来事を思い出したのは、世の中がやれクリスマスだ。やれ年末だ。なんて、イベントだなんだかんだと浮き足だっているからかもしれない。
しがらみから解放された街はまさに自由だ。もちろん承認は必要だが、商売にしろ祭り事にしろ、誰かが声を上げ、賛同する者がいれば成立するよう仕組みを整えている。少しずつ。本当に少しずつだが、人と人とが手を取り合い人間らしい営みを再構築している光景は、彼の目にどう映っているのだろうか。
側近になり傍から眺める彼の日々は朝から晩まで仕事一色のように見える。ある日はデスクに齧り付き、ある日は泥のように眠り、それをただただ繰り返す。委員会内部の揉め事やその他の業務にばかり気を取られ、何かを払拭するかのように仕事に没頭していた。そんな姿を見て尊敬することもあるが、やはり無理をしているようにも感じる。
「今度、一緒に出掛けませんか?」
トーリは資料提出用のカードメモリーを紫苑に手渡しながら誘ってみた。何か下心がある訳ではない。ただ純粋に、気晴らしにでもなればいいと思って声をかけた。デスクでノートPCと向き合いながらメモリーを受け取った紫苑は、唐突な誘いに画面から目を離してトーリを見上げる。
「きみと? どこに?」
「あ……、いや。えぇっと……」
特に行き先なんかは決めていない。思いつきで口をついて出た一言だったから。そうだな……、どこにしようか。
「妹のクリスマスプレゼントを、選びに行こうかと」
「あぁ、前に言ってた子だね。仲が良くていいな。……ぼくも、何か準備でもしようかな」
「お母様にですか?」
「そうだなあ……、母さんもだけど。渡したい人は沢山いるよ」
紫苑は再びPCに視線を落とし、キーボードを打ち始めた。彼の言う『沢山の人』と言うのが誰で、どんな繋がりの人達なのか。詮索は良くないと思いながらも、聞きたい衝動に駆られる。
「次の休みにでも行こうか」
「うぅえ!?」
「え?」
「あっ、はい!」
誘ったのは自分であるはずなのに思わず変な反応をしてしまうのは、まさかこんなすんなりと了承を得られると思っていなかったからだ。自らを戒めていた気持ちが瞬時に高揚する。
「あ……ありがとう、ございます……」
耳朶を赤く染め小さくなる語尾に、紫苑が笑った。
「最近、仕事ばかりで家にも帰ってなかったから。そろそろ顔見せないと母さん、心配してるかもしれないし。こちらこそ、思い出させてくれてありがとう」
はたしてその言葉が本音かどうかはさて置き、とりあえず外に連れ出す口実には成功したようだ。紫苑に背を向け、トーリは静かに右手の拳をグッと握った。彼の母親は女手ひとつで彼をここまで育てあげた素晴らしい人だ。実際に会ったことはないけれど、いつかお目に掛かりたいと思う。
「時間はまたあとで」
「分かりました」
一礼し、執務室を後にする。扉が閉まる直前、振り返ったドアの隙間から見えた彼は、変わらずPCの画面だけを眺めていた。いつも感じていることだが、彼はまるで『敢えて』他のモノを視界に入れようとしていない風にも見える。気のせいだろうか?
「──失礼」
開いたエレベーターの中から、白衣を纏った男が出てくる。トーリが入れ替わるように中に入る途中、僅かに肩がぶつかり、男は平謝りをした。トーリは視線を顔に向けようとしたが、男はスッと風のように、しなやかにそれをかわした。男のくせに黒くて長い髪だった。丁度、今の紫苑と同じくらいの髪の長さだろうか。長身でやたらスタイルがいい。
男の背中が遠くなる。気のせいかもしれないが、すれ違い様、男は口元に薄っすらとした笑みを浮かべていなかっただろうか。はっきりと認識する間もなく、エレベーターの扉はあっけなく閉じてしまった。
トーリはその頃ロストタウンに暮らすまだ何も知らない大学生だった。市への忠誠を誓う一般市民のひとりであり、もれなく生活を管理され、僅かニ歳で人生を振るいにかける仕組みに異議を唱える事もない従順な性格。友人とも程々に付き合いながら、それなりの暮らしに身を任せていた。
そんな中、突如起こった歴史に残る『NO.6の崩壊』はまるで夢物語だった。それも悪夢だ。街の人々は混乱の中で彷徨い、憂い、泣き叫ぶ。『悲しみや苦しみとは無縁の場所』そう謳われていた理想都市が見事なまでに瓦解する様は、まるで積み上げたブロックが崩れるゲームのようだった。
今思えば、到底、受け入れたく無かったのかもしれない。しかし、目の前に映る緊急速報のモニターからは信じ難いこの世の真実が垂れ流されており、行き交う人混みの中から現れた蜂の羽根が頬を掠めた時、これが現実なのだと思い知らされた。
・*.°
「ただいま、トーリ」
再建委員会・委員長執務室。会議を終えて一人の男が入ってきた。二十歳。トーリより数個違うだけだ。まだまだ若い青年である。それでも何となしに生きてきた自分と比べ、彼は間違いなく人生経験が豊富で、何より、誰よりも明晰な頭脳の持ち主だと思っている。旧NO.6で言うところのエリートコースを歩む者(実際にはその道は憚られたようだが…)。寄生蜂によって脱色された白髪と頬にかかる紅い痣は、貫禄とは無縁な儚げな雰囲気を醸し出している。普段から人懐っこい表情をするのも、あどけなさを残す一因かもしれない。
彼はあの日、『聖なる祝日』の日。モニターに大きく映し出された人物の一人だった。民衆の前で自身と、街の真実を曝け出した二人の少年の片割れであり、トーリやその他大勢の人生観。いや、人生そのものを変えた人間である。
ネクタイを緩め、襟首のボタンも外し、彼は最奥のデスクにある椅子にスーツの上着を引っ掛けた。その背後にある窓から差し込む陽射しによって彼の白い髪は光を透かして煌めき、トーリは思わず目を細める。美しいと思った。
「お帰りなさい。紫苑委員」
そろそろかと思い用意しておいたコーヒーをカップに汲みながら、トーリは口元を綻ばせた。トーリがこうして彼の執務室を自由に出入りするようになったのはここ一年くらい前からだ。前任の担当者が辞職した際の代わりとして彼の隣についた。再建委員会発足時からの悲願がようやく叶った時、一人で酒を飲んで喜んだものだ。
若くして精力的に活動する彼と違い、なんの特技も取り柄もない自分が今ここにいるのは、他でもない『紫苑』と言う存在に魅入られたからである。見た目に反して猛々しく咆哮をあげ、民衆を虜にした一場面は今でも鮮明に瞼の裏に焼きついており、生涯褪せることはない。トーリにとって彼の隣につけると言うことは幸せ以外の何ものでもなかった。
「髪。また、緩んでますよ」
トーリがうなじ辺りを指先で示しながら指摘すると、紫苑は確かめるように手のひらを首に回した。
「ははっ。本当だ」
下方に束ねて結んだ髪。襟足にハラリと落ちた後れ毛。紫苑は括った細くて白いヘアゴムをおもむろに引っ張って髪を解いた。根元から微かに鎖骨にかかる毛先まで綺麗に真っ白な頭髪は、彼がどんな人物か知らぬ者でも視線を向けてしまう。明媚ととるか稀有ととるかは人によるところで、トーリはもちろんのこと前者であった。
彼は半年ほど前から髪を伸ばし始めた。仕事が忙し過ぎて散髪に向かえないのかと思っていたが、休日が明けても伸びたままの容貌に「切りに行かないんですか?」と尋ねたところ「伸ばしているんだ」と恥ずかしそうに笑う。理由は頑なに教えてもらえなかった。くせっ毛の空気を含んだ柔らかそうな髪質は、後ろから見れば女性と間違われることもあるそうだ。
「ぼくが結いましょうか」
トーリは角砂糖を一つ落としてかき混ぜたコーヒーを差し出した。椅子に座り雑に髪をほぐしている紫苑へと問いかける。
「君が?」
紫苑は紫がかった澄んだ瞳をまん丸くして、驚いた表情でトーリを見上げた。上司の間抜けな顔にトーリは堪らずプッと吹き出し、慌てて口元を隠す。髪を結うことの何が珍しいのか。驚かれるほどの不器用さを披露した覚えはない。
「…………頼もうか」
笑われたことに羞恥を覚えたらしく、紫苑は視線を逸らす。スッと渡されたヘアゴムを手に、トーリは紫苑の背後へと回った。
見た目通りの細くて柔らかな髪は全体的に見ると括る長さはあるが、まだ両サイドの所々短い毛は掻き集めたところで指の隙間から零れてしまう。毛束を捻って巻き込みながら、トーリは慎重に髪を纏め上げた。
「凄い。君、とても器用だったんだね」
引き出しから鏡を取り出した紫苑がパッと表情を明るくする。
「妹がいるので。小さい頃はよく結んでやってました」
母や、兄である自分の背中に隠れて顔を出すような、引っ込み思案で可愛らしい妹だった。今は知り合いの雑貨店の手伝いをしながら、将来は自分の店を持ちたいと夢を追いかけ日々奮闘している。
「あぁ、だから手慣れてるんだ。本当に……すごいや」
「お気に召して頂けたようで光栄です」
どうせなら仕事で褒められたいものだ。トーリは苦笑した。
「何かお礼をしないとな」
何がいいかな? と、紫苑は顎を上げ、首をもたげて視線を交わせた。背中にかけた重みで椅子がギシリと音を立てる。見上げてくる紫苑に対してトーリは二、三度瞬きをすると、慌てて両手を振った。
「い、いえ。このくらいでお礼なんて……」
「いらないのか?」
「え、あ……え?」
「君は案外、無欲なんだな」
ふふっと笑みを溢し、紫苑は姿勢を正した。先程トーリが用意したコーヒーをひと口含んで喉に流し込む。
「採用試験の時の君は、もっと貪欲な眼をしていたよ」
「え!?」
確かに、当時は採用されたくて必死だった。日頃、さして趣味も何も持たない自分に、あれほど強烈な刺激を与えた紫苑に近付きたい一心で受けた採用試験。もちろん自分達の街を、国を、また一から作ると言う一大プロジェクトにも惹かれていたが、やはり本命の前では二の次である。混乱の最中、高収入と安定を求める競争倍率は言うまでもなく、募集期間は応募者殺到の為、当初の予定より遥かに早く締め切られた。
受かる者は神に愛されし者だと言われていたが、入ってみれば、ブラック企業然りの神どころか死神に愛されし者の場所だと知るのだが……。改めて言われるほど、顔に出ていたのだろうか。なぜ自分なんかが受かったのか不思議でならなかったのだが、その貪欲な眼とやらが決め手であるならば目の前の男に夢中になっていたからなどと、悟られてはいけない。
「本当に、何も希望はないのか?」
紫苑が今度は身体を捻って振り返る。
――まさか。無いわけが無い。
聞きたいことも一緒にやりたいことも、ありすぎて困るくらいだ。
トーリは視線を逸らし「そうですね……」と、唸った。
「好きなもの」
「うん?」
「あなたの好きなものをひとつ、教えてください」
「好きなもの?」
紫苑が再び目を丸くする。
「そんなこと、知りたいの?」
「…………はい」
変なの。と、彼の表情は物語っていたが、髪を結ったくらいの礼なんてこんなものだろう。
トーリの頬がほんの微かに紅みを帯びる。
――ネズミ。
「え?」
紫苑がぽつりと口にした言葉が聞き取れず、トーリは聞き返した。
「…………。いや……、家にね、預かってる子がいるんだ。『ツキヨ』って言う小ネズミなんだけど」
「ネズミ、ですか?」
「うん。とても愛らしい子なんだ」
彼は穏やかな笑みを浮かべた。
「おかしいかな?」
「あ……いや、まぁ……」
おかしいかおかしくないかと聞かれれば、もちろんおかしい。げっ歯類をペットにするなんて生まれてこの方聞いたことがなかった。けれど、人の好き嫌いに文句を言えるほどご立派な人間ではないし、ましてや彼の趣味趣向を笑う気などさらさらない。トーリは頬を掻いては窓の外に視線を向けた。目下の広場では、木枯らしがカラカラと木の葉を地に散らしている。
「紫苑委員は、ぼくたち普通の人間とは違いますから」
彼は知性の高さも然ることながら、見た目も生き方も、トーリにとっては全てが逸脱していた。凡人に理解できない事があってもなんら不思議ではない。今みたいな奇天烈な話しを聞けば驚きはするが、子どもみたいに揶揄ったりなんかはしないつもりでいる。
どう反応すれば良いのか、気を使い戸惑いを見せるトーリに、紫苑は息をひとつ吐き出した。
「それね、最近よく言われるんだ。けど、一緒だよ」
――ぼくも、君も、他の人間も。
そう言葉を転がすと、紫苑はコーヒーカップを片手で持ったまま立ち上がる。
「食べるものも、飲むものも、流れる血液も、何も君と変わらない。ヒトゲノムで構成された者は等しくただの人間さ」
紫苑は身体の距離を詰め、カップをトーリの顔に近づけた。少しばかり量の減った中身から、湯気にのったコーヒーの香りが鼻腔に広がる。
「たとえば、ぼくが実は『少し濃いめのコーヒーにミルクをたっぷり淹れたものの方が好きだ』とか、そんな些細な違い以外はね」
・*.°
あの時の相対する距離は何センチだったか。
夢見がちな記憶には彼の艶やかな頬の紅痣と、悪戯に弧を描いた唇だけが、やけに印象深く刻まれていた。特別な一日ではない日常。数ヶ月前の出来事を思い出したのは、世の中がやれクリスマスだ。やれ年末だ。なんて、イベントだなんだかんだと浮き足だっているからかもしれない。
しがらみから解放された街はまさに自由だ。もちろん承認は必要だが、商売にしろ祭り事にしろ、誰かが声を上げ、賛同する者がいれば成立するよう仕組みを整えている。少しずつ。本当に少しずつだが、人と人とが手を取り合い人間らしい営みを再構築している光景は、彼の目にどう映っているのだろうか。
側近になり傍から眺める彼の日々は朝から晩まで仕事一色のように見える。ある日はデスクに齧り付き、ある日は泥のように眠り、それをただただ繰り返す。委員会内部の揉め事やその他の業務にばかり気を取られ、何かを払拭するかのように仕事に没頭していた。そんな姿を見て尊敬することもあるが、やはり無理をしているようにも感じる。
「今度、一緒に出掛けませんか?」
トーリは資料提出用のカードメモリーを紫苑に手渡しながら誘ってみた。何か下心がある訳ではない。ただ純粋に、気晴らしにでもなればいいと思って声をかけた。デスクでノートPCと向き合いながらメモリーを受け取った紫苑は、唐突な誘いに画面から目を離してトーリを見上げる。
「きみと? どこに?」
「あ……、いや。えぇっと……」
特に行き先なんかは決めていない。思いつきで口をついて出た一言だったから。そうだな……、どこにしようか。
「妹のクリスマスプレゼントを、選びに行こうかと」
「あぁ、前に言ってた子だね。仲が良くていいな。……ぼくも、何か準備でもしようかな」
「お母様にですか?」
「そうだなあ……、母さんもだけど。渡したい人は沢山いるよ」
紫苑は再びPCに視線を落とし、キーボードを打ち始めた。彼の言う『沢山の人』と言うのが誰で、どんな繋がりの人達なのか。詮索は良くないと思いながらも、聞きたい衝動に駆られる。
「次の休みにでも行こうか」
「うぅえ!?」
「え?」
「あっ、はい!」
誘ったのは自分であるはずなのに思わず変な反応をしてしまうのは、まさかこんなすんなりと了承を得られると思っていなかったからだ。自らを戒めていた気持ちが瞬時に高揚する。
「あ……ありがとう、ございます……」
耳朶を赤く染め小さくなる語尾に、紫苑が笑った。
「最近、仕事ばかりで家にも帰ってなかったから。そろそろ顔見せないと母さん、心配してるかもしれないし。こちらこそ、思い出させてくれてありがとう」
はたしてその言葉が本音かどうかはさて置き、とりあえず外に連れ出す口実には成功したようだ。紫苑に背を向け、トーリは静かに右手の拳をグッと握った。彼の母親は女手ひとつで彼をここまで育てあげた素晴らしい人だ。実際に会ったことはないけれど、いつかお目に掛かりたいと思う。
「時間はまたあとで」
「分かりました」
一礼し、執務室を後にする。扉が閉まる直前、振り返ったドアの隙間から見えた彼は、変わらずPCの画面だけを眺めていた。いつも感じていることだが、彼はまるで『敢えて』他のモノを視界に入れようとしていない風にも見える。気のせいだろうか?
「──失礼」
開いたエレベーターの中から、白衣を纏った男が出てくる。トーリが入れ替わるように中に入る途中、僅かに肩がぶつかり、男は平謝りをした。トーリは視線を顔に向けようとしたが、男はスッと風のように、しなやかにそれをかわした。男のくせに黒くて長い髪だった。丁度、今の紫苑と同じくらいの髪の長さだろうか。長身でやたらスタイルがいい。
男の背中が遠くなる。気のせいかもしれないが、すれ違い様、男は口元に薄っすらとした笑みを浮かべていなかっただろうか。はっきりと認識する間もなく、エレベーターの扉はあっけなく閉じてしまった。
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