私の帰る場所
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(井上 沖田)
部屋で黙々と仕事を進めていたななしは凝り固まった体を解すように腕を伸ばし『ん〜』と息を着いた。
土方が部屋を去ってから半刻程が経過していたようだが、外から聞こえてくる雨の音は相変わらずで。
雨粒が瓦や地面にぶつかる音が新撰組の屯所内で静かに響いて聞こえた。
暫し休憩を兼ねて耳を澄ませ雨音を聞いていると、少しだけ肌寒くなってくるようだったななし。
体を動かすことなく半刻もこうして文机に向かっていたのも相まって芯から冷えてしまっているのだろう。
『少し、体動かそうかな』
火鉢で火を起こせばそれなりに温まることが出来たのだろうがななしはそうはせず。
じっと固まったままの筋肉を動かせばついでにあたたまるだろうと、道場に向かうことにした。
ななしは持っていた筆を硯に置き、書状を畳むと正座していた足に力を入れてゆっくりと立ち上がった。
襖を開き廊下に一歩踏み出すと、思っていた以上に雨が酷く一瞬で湿気と冷気がななしの体を包む。
寒い寒いと内心で唱えながら、早く体を動かすために小走りで道場へと向かった。
『あっ、源さん!』
「ん?ななしか」
外壁が無い渡り廊下は雨の飛沫で濡れており、後で乾拭きしなければいけないなと一人唸っていると、前方に大きな背中が見えてくる。
隊長だけが着ることを許された浅葱の羽織には六番隊を示す"六"の文字が書かれており、そこにいるのは六番隊隊長である井上源三郎だと分かると、ななしは嬉しそうに彼に駆け寄った。
井上もななしの声が聞こえたらしく、ゆっくりとした動作で振り返った。
『源さん、お疲れ様です』
「あぁ、道場に行くのか?」
『はい!少し肌寒かったので体を動かそうかなと思いまして』
「フッ、お前らしい体の温め方だな」
『そうでしょう?』
「それなら少し稽古を付けてやろう。どうせ手が空いているしな」
『ほ、本当ですか?』
「あぁ、本当だ」
『嬉しいです!』
新撰組の中で最年長である井上の仕事は新入隊士や平隊士達の稽古を付けること。
ななしも例外ではなく幾度となく井上に稽古をつけてもらっており、今や自身の"師匠"と呼ぶにふさわしい人物になっている。
少し強面で顔には真一文字の傷が刻まれているが面倒見も良く、その実力も確かであるためななしにとって井上とは信頼に足る先輩のような存在だ。
今も強面の顔を綻ばせ小さく笑いながら、ななしの隣を歩調を合わせて歩いてくれている。
井上の無言の優しさはいつだってななしの心を豊かにしてくれるものだ。
他愛ない話を二人でしていれば直ぐに道場へと到着し、ななしは古い作りの引き戸を開く為に両の手を置く。
新撰組屯所は比較的は新しい建物であるが、渡り廊下の先にある道場は元々この場所に存在していたもので築年数で言えばもう数十年は経つ。
木で造られた道場は綺麗に掃除され見れるようになってはいても、扉や壁は少しガタが来ているため力の少ないななしが戸を開閉させるには両手の腕力が必要になってくる。
『開けますね源さん』
「平気か?」
『大丈夫です!稽古の一貫ですよ!そりゃぁ!』
「怪我するなよ」
立て付けが悪い引き戸を声かけとともに力任せにひっぱり開き切ると、いの一番に飛び込んできた光景にななしも井上も直ぐに眉根に皺を寄せた。
誰もいない広い道場の中、床に広がる沢山の木刀。
『はぁぁぁ〜まぁた片付けてない』
「左之助の仕業か?」
地面に散乱している木刀は道場で稽古のために使うもので、本来使用後は手入れをし刀掛けに戻すのが定石なのだが。
どうも新撰組には片付けもできない横風な連中が一定数いるようで。
こうして木刀すら元に戻されていないことが良くある。
犯人が誰であるかは分かっており、殆どの場合は十番隊とその隊長である原田左之助によるものだ。
彼らは新撰組の中でも粗暴で事ある毎にこういった問題を起こしている。
幾度となく注意してきたが問題行動が収まる様子はなく、結局ななしや井上など良く道場を使う人達が後片付けをしなければならなくなっているのだ。
『刀掛けにかけるだけなのに!!腹が立ちます!』
「全くだ。床に放置すれば木刀が歪む可能性もあるというのに…。仕方ない、ななし」
『はぁい。片付けましょう』
今回も放置する訳には行かず。
本来であれば稽古をつけてもらうはずだったがその予定は消え去り木刀整理が次の仕事になってしまった。
ななしも井上も深いため息をついた後、道場に入り落ちている木刀を拾い集めた。
ただ刀掛けに戻すだけもいいのだが、使い終わったものは乾拭きをすることで劣化を遅らせ長く使えるようになる。
新撰組も新しいものを毎回買う財産がある訳では無い。あるものを大事に使っていかなけらばならないと思っている二人は道場の隅に干してある手ぬぐいを引っ掴み、床に深々腰を下ろすと一本一本丁寧に拭いていく作業を開始した。
『せっかく体を温めに来たのにこれじゃ、冷えたままですよ!』
「片付けが終わった後で良いなら稽古に付き合ってやる」
『そうしたいのは山々なんですが、事務仕事の合間に抜けてきたものでして』
「なるほど、それは悠長にしている場合ではないな」
『あ!でも片付けはお手伝いしますよ?源さんとこうしてお話するのも十分息抜きになりますし、体温まるかもしれないし』
「いや、座っていては体は温まらないだろう」
『気持ち次第ですよ源さん』
「お前の体は随分都合がいい作りをしているんだな…」
『ふふ、なんですかそれ!』
「羨ましいことこの上ない」
『ちょっとバカにしてますよね?』
「フッ、そんなことは無い」
『あ!笑ってるじゃないですか!』
クスクス低い声で肩を揺らし笑っている井上に釣られるようにして笑ったななし。
仕事の合間にこうして気のおける人と会話できるだけでも十分息抜きになるし、体は温まらなくても心の中はホクホクと満たされるようだった。
「そういえばななし」
『ん?なんですか?』
「お前に伝えねばならない事があったのだ」
『伝えなければならない事…仕事関係ですか?』
「いや、仕事関係では無い」
『なる、ほど…?じゃぁ、何関係でしょうか?』
「近藤局長関係だな」
『あー…近藤さん関係ですか』
木刀を拭いていた井上は手を止めることなくななしにそう言った。
"近藤局長関係"だと言われたななしは、少し苦笑いを浮かべた後思い当たる節があるらしくなるほどと納得するように首を縦に振る。
近藤局長とはこの無法者の集団でできている新撰組を総括する存在、言わばこの組織の頂点でもある人物だ。
屯所に顔を出すことは殆どなく、新しく入隊したもの、隊長になったものの中には近藤局長の顔を見たことがないものも一定数いるほど彼は希少な存在である。
『あの人もかなり心配症ですね、別になにも問題は起きていないんですが…』
「いつもの"定期報告"という名の食事会だ。気負わず今晩料理をご馳走になってこい」
『近藤さん相手に気負うことは無いけど、仕事終わりに祇園まで行くの本当に面倒くさいです』
「まぁ、少し遠いかもしれんな」
『少しじゃないです!かなりです!』
希少な存在の近藤であるがななしや井上とは程々に交流がある。
ななしに至っては"定期報告"をするために近藤とは祇園にある旭屋という料亭で度々会っている。
報告することは"新撰組での生活"についてだが、この生き方にも慣れてきたななしにとって今更何も問題はない。特段近藤に報告することは無いため彼に会う理由などななしには全くないのだが、近藤の方がななしに会いたがっているためこの定期報告はズルズルと続いている状態だった。
新撰組の統率者である近藤の善意を一蹴することもできず、結局来いと言われれば足を運ばない訳には行かない。
ななしは仕事終わりに祇園かぁと深く長いため息を吐き項垂れた。
「あの人もお前を心配しているのだ。無下にするようなことはしてはならないぞ」
『源さんがそういうなら行きますけど…』
「今日は早く仕事を終われるよう副長に頼んでおく。日が沈まぬうちに祇園に迎え」
『げ、源さん…優しい!』
「こんな雨だからな。気をつけて迎えよ」
『はい、大丈夫です!』
「要らぬ世話だったな」
『要ります!心配してくれてありがとうです』
いつだって優しさや気遣いを向けられるのは心地よいもので、それだけ井上が大切に思ってくれていると目に見えてわかるためななしは嬉しさに顔が緩むのが分かった。
くすくすと笑いながら感謝の言葉を告げると井上はどこかホッとしたような笑みを浮かべて、再び木刀を拭く作業に戻った。
ななしも井上が作業に戻るのを確認したあと、自分もそれに続こうと床に広がっている木刀を手に取り作業に勤しむ。
井上と二人でいるためか先程まで疎ましく感じられていた雨音も、今ではどこか心地よく聞こえてくるから不思議だ。
居心地の良い沈黙に身を任せて木刀の片付けを黙々と進め、綺麗に拭き終わったものを順に片付けるために刀掛けに向かおうとななしはゆっくりと立ち上がる。
井上が拭き終わったものも一緒に抱え、壁にくっついている壁掛けを目指し広い道場内を歩いていると、不意に履いている足袋がじわりと濡れ冷たくなる感覚を感じ驚いたななしは『うへぁ!?』と素っ頓狂な声を響かせ大きく飛び退いてしまった。
落ちそうになった木刀を必死に抱えたまま、何事かと地面を見ればそこは確かな水たまりができており、この水たまりが足袋を濡らしたのだと察知するななし。
「どうしたななし?」
『水たまりに片足入れちゃいました〜』
「なに?水たまり?」
『ビッチョビチョだぁ…』
「雨漏りしているようだ」
『あ、雨漏り!?一難去ってまた一難ってこの事ですよ…。はぁ〜』
「それにしてもこれはかなり酷いな」
『最近晴れが続いていましたもんね。今回の大雨で一気に屋根の腐敗が進んだのかもしれないです』
「道場の老朽化も進んでいたのだ、どの道こうなっていただろう」
道場の天井を指さした井上に続いてななしもゆっくりと顔を持ち上げ彼の指さす方へ視線を向ければ天井には大きな染みが出来ており、そこからぽたぽたと雫が落ちてきている。
古くから建てられている道場である為雨漏りをしていてもおかしくは無いのだが、目の当たりにしてしまうとどうにも気が滅入ってしまう。
しかも足袋まで濡れてしまい、とても不愉快極まりない。
『今日運悪くて悲しいです…。とりあえず桶を持ってきますね!』
「桶は俺が持ってこよう。お前はとりあえずその木刀をず片付けておいてくれ」
『了解です!地面も拭いておきます』
井上が桶を持ってきてくれると言うのでお言葉に甘えて、ななしは木刀を刀掛けに戻し、道場に干してある手ぬぐいを使って地面に出来た水たまりを素早く拭いていく。
井上が桶を持ってくるまで天井から落ちてくる水はどうしようも無いので、その場に手ぬぐいを置いたままにし彼が帰ってくるのを待った。
「ななし持ってきたぞ」
『あ、源さん〜』
「ワシも戻ったでぇ、ななし」
『あ!総司さん』
暫く井上の帰りを待っていると道場の立て付けの悪い扉がガタガタと開く音がした。
咄嗟に顔を向ければ桶を持った井上が立っていたのだが、その後ろからひょっこりと顔を出すもう一人の男の姿がななしの目に入った。
聞き覚えのある嬉しそうな声を発したのは、ななしが補佐をしてる隊長の沖田総司。
左目には刀鍔できた眼帯が付けられ、髭を蓄えた姿は井上とはまた別の厳つさを醸し出している。
そんな沖田は井上と一緒に道場に入ってくると「ほんまや、こりゃ酷いのぉ」と天井を見ながら呑気にヒヒヒと笑っている。
『おかえりなさい、総司さん…って!ちょっと総司さん!!』
「あ?」
『びちょ濡れじゃないですか!!』
「おう、雨に降られてもうてな」
『もうてなぁ、じゃなくて地面とても濡れてるんですけど??』
「なんや、ななし。ワシやなくて地面の心配しとんのか?」
朝一番に外回りという名の治安維持のための巡回をしていた沖田だが、どうやら運悪くこの大雨と遭遇してしまったらしい。
刀を扱う彼が常に番傘を所持しているはずもなく。半刻ほど前から振り出した雨をモロに受けてしまったようだった。
全身はくまなく濡れており、浅葱の羽織や黒の馬乗り袴からは天井から落ちる雨のようにぽたぽたと雫が垂れ、沖田が歩いてきた道に転々と小さな水たまりを作っていた。
今しがた大きな雨漏りを拭いたななしは沖田の後ろにできる水たまりを指さし怒ったように『服脱いでください!』と声を荒らげた。
『それからこれで体拭いて!風邪引きますよ』
「ちょっと待てや、ななし。それ道場の手ぬぐいやないか」
『応急処置です』
「阿呆!そんな雑巾みたいなもんで体拭けるかいな」
『じゃ、褌一丁になって羽織と袴絞ってくださいよ。このままじゃ床まで腐ってしまいます!』
「真昼間から大胆やのぉ」
『からかわないで下さい!』
「そうだぞ、総司。風邪をひく前に着替えるべきだ」
「源さん、ワシが風邪ひくようあタマやないっちゅうことくらい知っとるやろ」
『…なんちゃらは風邪ひかないですもんね』
「あぁ?何やて?もっぺん言ってみいななし」
『ちょっ、濡れたまま歩かないでくださいって!』
ななしの小さく呟いた言葉に片眉をあげ反応した沖田は不服そうな顔つきのまま、彼女にズンズンと近寄ってくる。しかし沖田が近づく為に歩いた分だけ地面には水たまりが出来、道場のを少しづつ汚していく。
まったと制止をかけるななしだが沖田が止まるはずもなく。
結局入口からななしの元まで転々と水たまりのあとが出来てしまった。
『あーー!もう、掃除しないと行けなくなりました!』
「お前が余計なこと言うのが悪いわ」
『断じて私は悪くないです』
「何言うとんねん!ワシをバカ呼ばわりしたくせに」
『冗談です。総司さんは天才で新撰組随一の剣豪で天才です』
「とってつけたような言い方しよって…」
『ふふふ、でも本当ですよ』
「総司、ななし。何時までそうやって喋っているつもりだ。ななしは早く仕事に戻らなければならないのだろう?」
『あ、そうです!』
「ならば、もっと慌てろ。今晩"定期報告"もあるんだぞ」
『す、すみません』
「総司、お前は早く着替えてこい。それから道場の掃除だ」
「源さんが言うならしゃあないのう。ほな着替えてくるわ」
『あ!廊下水浸しにしないでくださいね!?』
「おう、多分な」
『多分って…』
井上に窘められ踵を返した沖田はゆっくりと来た道を戻ると、道場から出ていった。
もちろん彼が扉へ向かう際に歩いた帰り道も転々と水溜まりが出来ているのは言うまでもない。
とりあえず井上が持ってきてくれた桶を雨漏りしている箇所に設置せねばならない。
その後は沖田が汚した道場を磨こう。
自室に戻り事務仕事を再開するのはまだまだ先になるかもしれないとななしは人知れずため息を零した。
「定期的に水を出しに来る必要があるな」
『こんな大きい桶でも満杯になりますかね?』
「今日の雨はかなり激しいからな。一刻とせぬうちに溜まるかもしれない」
『それなら私合間に見に来ますよ〜。源さんは他の方の訓練や稽古があるでしょう?』
「いや、構わん。それにかなり重くなるだろう。俺が定期的に見に来る」
『大丈夫ですか?』
「あぁ、そこまで老いていないしな」
『源さんはバリバリ現役ですよ?』
「フッ、そう言うのはお前くらいだろうな。さて木刀を片付けて掃除してしまおう。これ以上時間を割いていてはななしの仕事も終わらないだろうからな」
『はぁい!』
こうして雨漏りをなんとか凌ぎ、道場の掃除と木刀の手入れを再開した井上とななし。
明日以降晴れ間があれば天井を修理するという約束をし、ななしと井上。そして葡萄鼠の色の長着と予備の黒い袴に着替えてきた沖田も参戦し三人は道場の掃除に勤しんだ。
(ななし、こっちまで濡れとんで〜)
(濡れとんでじゃなくて拭いてください)
(ワシはこっち担当やねん)
(私もこっちが担当です!)
(……お前たち、いい加減にしろ)
雨が齎すもの
(雨漏りと痴話喧嘩)
部屋で黙々と仕事を進めていたななしは凝り固まった体を解すように腕を伸ばし『ん〜』と息を着いた。
土方が部屋を去ってから半刻程が経過していたようだが、外から聞こえてくる雨の音は相変わらずで。
雨粒が瓦や地面にぶつかる音が新撰組の屯所内で静かに響いて聞こえた。
暫し休憩を兼ねて耳を澄ませ雨音を聞いていると、少しだけ肌寒くなってくるようだったななし。
体を動かすことなく半刻もこうして文机に向かっていたのも相まって芯から冷えてしまっているのだろう。
『少し、体動かそうかな』
火鉢で火を起こせばそれなりに温まることが出来たのだろうがななしはそうはせず。
じっと固まったままの筋肉を動かせばついでにあたたまるだろうと、道場に向かうことにした。
ななしは持っていた筆を硯に置き、書状を畳むと正座していた足に力を入れてゆっくりと立ち上がった。
襖を開き廊下に一歩踏み出すと、思っていた以上に雨が酷く一瞬で湿気と冷気がななしの体を包む。
寒い寒いと内心で唱えながら、早く体を動かすために小走りで道場へと向かった。
『あっ、源さん!』
「ん?ななしか」
外壁が無い渡り廊下は雨の飛沫で濡れており、後で乾拭きしなければいけないなと一人唸っていると、前方に大きな背中が見えてくる。
隊長だけが着ることを許された浅葱の羽織には六番隊を示す"六"の文字が書かれており、そこにいるのは六番隊隊長である井上源三郎だと分かると、ななしは嬉しそうに彼に駆け寄った。
井上もななしの声が聞こえたらしく、ゆっくりとした動作で振り返った。
『源さん、お疲れ様です』
「あぁ、道場に行くのか?」
『はい!少し肌寒かったので体を動かそうかなと思いまして』
「フッ、お前らしい体の温め方だな」
『そうでしょう?』
「それなら少し稽古を付けてやろう。どうせ手が空いているしな」
『ほ、本当ですか?』
「あぁ、本当だ」
『嬉しいです!』
新撰組の中で最年長である井上の仕事は新入隊士や平隊士達の稽古を付けること。
ななしも例外ではなく幾度となく井上に稽古をつけてもらっており、今や自身の"師匠"と呼ぶにふさわしい人物になっている。
少し強面で顔には真一文字の傷が刻まれているが面倒見も良く、その実力も確かであるためななしにとって井上とは信頼に足る先輩のような存在だ。
今も強面の顔を綻ばせ小さく笑いながら、ななしの隣を歩調を合わせて歩いてくれている。
井上の無言の優しさはいつだってななしの心を豊かにしてくれるものだ。
他愛ない話を二人でしていれば直ぐに道場へと到着し、ななしは古い作りの引き戸を開く為に両の手を置く。
新撰組屯所は比較的は新しい建物であるが、渡り廊下の先にある道場は元々この場所に存在していたもので築年数で言えばもう数十年は経つ。
木で造られた道場は綺麗に掃除され見れるようになってはいても、扉や壁は少しガタが来ているため力の少ないななしが戸を開閉させるには両手の腕力が必要になってくる。
『開けますね源さん』
「平気か?」
『大丈夫です!稽古の一貫ですよ!そりゃぁ!』
「怪我するなよ」
立て付けが悪い引き戸を声かけとともに力任せにひっぱり開き切ると、いの一番に飛び込んできた光景にななしも井上も直ぐに眉根に皺を寄せた。
誰もいない広い道場の中、床に広がる沢山の木刀。
『はぁぁぁ〜まぁた片付けてない』
「左之助の仕業か?」
地面に散乱している木刀は道場で稽古のために使うもので、本来使用後は手入れをし刀掛けに戻すのが定石なのだが。
どうも新撰組には片付けもできない横風な連中が一定数いるようで。
こうして木刀すら元に戻されていないことが良くある。
犯人が誰であるかは分かっており、殆どの場合は十番隊とその隊長である原田左之助によるものだ。
彼らは新撰組の中でも粗暴で事ある毎にこういった問題を起こしている。
幾度となく注意してきたが問題行動が収まる様子はなく、結局ななしや井上など良く道場を使う人達が後片付けをしなければならなくなっているのだ。
『刀掛けにかけるだけなのに!!腹が立ちます!』
「全くだ。床に放置すれば木刀が歪む可能性もあるというのに…。仕方ない、ななし」
『はぁい。片付けましょう』
今回も放置する訳には行かず。
本来であれば稽古をつけてもらうはずだったがその予定は消え去り木刀整理が次の仕事になってしまった。
ななしも井上も深いため息をついた後、道場に入り落ちている木刀を拾い集めた。
ただ刀掛けに戻すだけもいいのだが、使い終わったものは乾拭きをすることで劣化を遅らせ長く使えるようになる。
新撰組も新しいものを毎回買う財産がある訳では無い。あるものを大事に使っていかなけらばならないと思っている二人は道場の隅に干してある手ぬぐいを引っ掴み、床に深々腰を下ろすと一本一本丁寧に拭いていく作業を開始した。
『せっかく体を温めに来たのにこれじゃ、冷えたままですよ!』
「片付けが終わった後で良いなら稽古に付き合ってやる」
『そうしたいのは山々なんですが、事務仕事の合間に抜けてきたものでして』
「なるほど、それは悠長にしている場合ではないな」
『あ!でも片付けはお手伝いしますよ?源さんとこうしてお話するのも十分息抜きになりますし、体温まるかもしれないし』
「いや、座っていては体は温まらないだろう」
『気持ち次第ですよ源さん』
「お前の体は随分都合がいい作りをしているんだな…」
『ふふ、なんですかそれ!』
「羨ましいことこの上ない」
『ちょっとバカにしてますよね?』
「フッ、そんなことは無い」
『あ!笑ってるじゃないですか!』
クスクス低い声で肩を揺らし笑っている井上に釣られるようにして笑ったななし。
仕事の合間にこうして気のおける人と会話できるだけでも十分息抜きになるし、体は温まらなくても心の中はホクホクと満たされるようだった。
「そういえばななし」
『ん?なんですか?』
「お前に伝えねばならない事があったのだ」
『伝えなければならない事…仕事関係ですか?』
「いや、仕事関係では無い」
『なる、ほど…?じゃぁ、何関係でしょうか?』
「近藤局長関係だな」
『あー…近藤さん関係ですか』
木刀を拭いていた井上は手を止めることなくななしにそう言った。
"近藤局長関係"だと言われたななしは、少し苦笑いを浮かべた後思い当たる節があるらしくなるほどと納得するように首を縦に振る。
近藤局長とはこの無法者の集団でできている新撰組を総括する存在、言わばこの組織の頂点でもある人物だ。
屯所に顔を出すことは殆どなく、新しく入隊したもの、隊長になったものの中には近藤局長の顔を見たことがないものも一定数いるほど彼は希少な存在である。
『あの人もかなり心配症ですね、別になにも問題は起きていないんですが…』
「いつもの"定期報告"という名の食事会だ。気負わず今晩料理をご馳走になってこい」
『近藤さん相手に気負うことは無いけど、仕事終わりに祇園まで行くの本当に面倒くさいです』
「まぁ、少し遠いかもしれんな」
『少しじゃないです!かなりです!』
希少な存在の近藤であるがななしや井上とは程々に交流がある。
ななしに至っては"定期報告"をするために近藤とは祇園にある旭屋という料亭で度々会っている。
報告することは"新撰組での生活"についてだが、この生き方にも慣れてきたななしにとって今更何も問題はない。特段近藤に報告することは無いため彼に会う理由などななしには全くないのだが、近藤の方がななしに会いたがっているためこの定期報告はズルズルと続いている状態だった。
新撰組の統率者である近藤の善意を一蹴することもできず、結局来いと言われれば足を運ばない訳には行かない。
ななしは仕事終わりに祇園かぁと深く長いため息を吐き項垂れた。
「あの人もお前を心配しているのだ。無下にするようなことはしてはならないぞ」
『源さんがそういうなら行きますけど…』
「今日は早く仕事を終われるよう副長に頼んでおく。日が沈まぬうちに祇園に迎え」
『げ、源さん…優しい!』
「こんな雨だからな。気をつけて迎えよ」
『はい、大丈夫です!』
「要らぬ世話だったな」
『要ります!心配してくれてありがとうです』
いつだって優しさや気遣いを向けられるのは心地よいもので、それだけ井上が大切に思ってくれていると目に見えてわかるためななしは嬉しさに顔が緩むのが分かった。
くすくすと笑いながら感謝の言葉を告げると井上はどこかホッとしたような笑みを浮かべて、再び木刀を拭く作業に戻った。
ななしも井上が作業に戻るのを確認したあと、自分もそれに続こうと床に広がっている木刀を手に取り作業に勤しむ。
井上と二人でいるためか先程まで疎ましく感じられていた雨音も、今ではどこか心地よく聞こえてくるから不思議だ。
居心地の良い沈黙に身を任せて木刀の片付けを黙々と進め、綺麗に拭き終わったものを順に片付けるために刀掛けに向かおうとななしはゆっくりと立ち上がる。
井上が拭き終わったものも一緒に抱え、壁にくっついている壁掛けを目指し広い道場内を歩いていると、不意に履いている足袋がじわりと濡れ冷たくなる感覚を感じ驚いたななしは『うへぁ!?』と素っ頓狂な声を響かせ大きく飛び退いてしまった。
落ちそうになった木刀を必死に抱えたまま、何事かと地面を見ればそこは確かな水たまりができており、この水たまりが足袋を濡らしたのだと察知するななし。
「どうしたななし?」
『水たまりに片足入れちゃいました〜』
「なに?水たまり?」
『ビッチョビチョだぁ…』
「雨漏りしているようだ」
『あ、雨漏り!?一難去ってまた一難ってこの事ですよ…。はぁ〜』
「それにしてもこれはかなり酷いな」
『最近晴れが続いていましたもんね。今回の大雨で一気に屋根の腐敗が進んだのかもしれないです』
「道場の老朽化も進んでいたのだ、どの道こうなっていただろう」
道場の天井を指さした井上に続いてななしもゆっくりと顔を持ち上げ彼の指さす方へ視線を向ければ天井には大きな染みが出来ており、そこからぽたぽたと雫が落ちてきている。
古くから建てられている道場である為雨漏りをしていてもおかしくは無いのだが、目の当たりにしてしまうとどうにも気が滅入ってしまう。
しかも足袋まで濡れてしまい、とても不愉快極まりない。
『今日運悪くて悲しいです…。とりあえず桶を持ってきますね!』
「桶は俺が持ってこよう。お前はとりあえずその木刀をず片付けておいてくれ」
『了解です!地面も拭いておきます』
井上が桶を持ってきてくれると言うのでお言葉に甘えて、ななしは木刀を刀掛けに戻し、道場に干してある手ぬぐいを使って地面に出来た水たまりを素早く拭いていく。
井上が桶を持ってくるまで天井から落ちてくる水はどうしようも無いので、その場に手ぬぐいを置いたままにし彼が帰ってくるのを待った。
「ななし持ってきたぞ」
『あ、源さん〜』
「ワシも戻ったでぇ、ななし」
『あ!総司さん』
暫く井上の帰りを待っていると道場の立て付けの悪い扉がガタガタと開く音がした。
咄嗟に顔を向ければ桶を持った井上が立っていたのだが、その後ろからひょっこりと顔を出すもう一人の男の姿がななしの目に入った。
聞き覚えのある嬉しそうな声を発したのは、ななしが補佐をしてる隊長の沖田総司。
左目には刀鍔できた眼帯が付けられ、髭を蓄えた姿は井上とはまた別の厳つさを醸し出している。
そんな沖田は井上と一緒に道場に入ってくると「ほんまや、こりゃ酷いのぉ」と天井を見ながら呑気にヒヒヒと笑っている。
『おかえりなさい、総司さん…って!ちょっと総司さん!!』
「あ?」
『びちょ濡れじゃないですか!!』
「おう、雨に降られてもうてな」
『もうてなぁ、じゃなくて地面とても濡れてるんですけど??』
「なんや、ななし。ワシやなくて地面の心配しとんのか?」
朝一番に外回りという名の治安維持のための巡回をしていた沖田だが、どうやら運悪くこの大雨と遭遇してしまったらしい。
刀を扱う彼が常に番傘を所持しているはずもなく。半刻ほど前から振り出した雨をモロに受けてしまったようだった。
全身はくまなく濡れており、浅葱の羽織や黒の馬乗り袴からは天井から落ちる雨のようにぽたぽたと雫が垂れ、沖田が歩いてきた道に転々と小さな水たまりを作っていた。
今しがた大きな雨漏りを拭いたななしは沖田の後ろにできる水たまりを指さし怒ったように『服脱いでください!』と声を荒らげた。
『それからこれで体拭いて!風邪引きますよ』
「ちょっと待てや、ななし。それ道場の手ぬぐいやないか」
『応急処置です』
「阿呆!そんな雑巾みたいなもんで体拭けるかいな」
『じゃ、褌一丁になって羽織と袴絞ってくださいよ。このままじゃ床まで腐ってしまいます!』
「真昼間から大胆やのぉ」
『からかわないで下さい!』
「そうだぞ、総司。風邪をひく前に着替えるべきだ」
「源さん、ワシが風邪ひくようあタマやないっちゅうことくらい知っとるやろ」
『…なんちゃらは風邪ひかないですもんね』
「あぁ?何やて?もっぺん言ってみいななし」
『ちょっ、濡れたまま歩かないでくださいって!』
ななしの小さく呟いた言葉に片眉をあげ反応した沖田は不服そうな顔つきのまま、彼女にズンズンと近寄ってくる。しかし沖田が近づく為に歩いた分だけ地面には水たまりが出来、道場のを少しづつ汚していく。
まったと制止をかけるななしだが沖田が止まるはずもなく。
結局入口からななしの元まで転々と水たまりのあとが出来てしまった。
『あーー!もう、掃除しないと行けなくなりました!』
「お前が余計なこと言うのが悪いわ」
『断じて私は悪くないです』
「何言うとんねん!ワシをバカ呼ばわりしたくせに」
『冗談です。総司さんは天才で新撰組随一の剣豪で天才です』
「とってつけたような言い方しよって…」
『ふふふ、でも本当ですよ』
「総司、ななし。何時までそうやって喋っているつもりだ。ななしは早く仕事に戻らなければならないのだろう?」
『あ、そうです!』
「ならば、もっと慌てろ。今晩"定期報告"もあるんだぞ」
『す、すみません』
「総司、お前は早く着替えてこい。それから道場の掃除だ」
「源さんが言うならしゃあないのう。ほな着替えてくるわ」
『あ!廊下水浸しにしないでくださいね!?』
「おう、多分な」
『多分って…』
井上に窘められ踵を返した沖田はゆっくりと来た道を戻ると、道場から出ていった。
もちろん彼が扉へ向かう際に歩いた帰り道も転々と水溜まりが出来ているのは言うまでもない。
とりあえず井上が持ってきてくれた桶を雨漏りしている箇所に設置せねばならない。
その後は沖田が汚した道場を磨こう。
自室に戻り事務仕事を再開するのはまだまだ先になるかもしれないとななしは人知れずため息を零した。
「定期的に水を出しに来る必要があるな」
『こんな大きい桶でも満杯になりますかね?』
「今日の雨はかなり激しいからな。一刻とせぬうちに溜まるかもしれない」
『それなら私合間に見に来ますよ〜。源さんは他の方の訓練や稽古があるでしょう?』
「いや、構わん。それにかなり重くなるだろう。俺が定期的に見に来る」
『大丈夫ですか?』
「あぁ、そこまで老いていないしな」
『源さんはバリバリ現役ですよ?』
「フッ、そう言うのはお前くらいだろうな。さて木刀を片付けて掃除してしまおう。これ以上時間を割いていてはななしの仕事も終わらないだろうからな」
『はぁい!』
こうして雨漏りをなんとか凌ぎ、道場の掃除と木刀の手入れを再開した井上とななし。
明日以降晴れ間があれば天井を修理するという約束をし、ななしと井上。そして葡萄鼠の色の長着と予備の黒い袴に着替えてきた沖田も参戦し三人は道場の掃除に勤しんだ。
(ななし、こっちまで濡れとんで〜)
(濡れとんでじゃなくて拭いてください)
(ワシはこっち担当やねん)
(私もこっちが担当です!)
(……お前たち、いい加減にしろ)
雨が齎すもの
(雨漏りと痴話喧嘩)