私の帰る場所
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(土方)
『…あ、降ってきた』
ポツリ、ポツリ。
曇天の空から少量の雨粒が乾いた土の上に落ちてくる。
最初は緩やかな雨だったのだが、呟いた途端に激しさをまし地面はみるみるうちに色が変わっていった。
太陽が照りつけていた土に雨が染み込んでいくと、なんとも言えぬ特有のかおりが当たりを包み、襖を開き空を眺めていたななしは少しだけ顔を歪めた。
今にも稲妻が走り出しそうな空は鬱々としており、空を眺めるななしの顔はますます歪んでいく。
『雨、かぁ…』
誰にも拾われることの無い呟きは激しい雨音に溶け込み、消えていく。
『……』
ななしは暗く低い空から降り注ぐ大雨を眺めているとどうしても思い起こされる情景があった。
それはななしが新撰組という組織に所属するずっとずっと前の事。
今よりももっと暗く大きな雲の下 、目に見えるほどの稲妻が走り轟々と雷鳴が響く夜。
広がる真っ赤な血の海と、そんな海の中に倒れる四人の男。
今まで見た事がない凄惨な現場を目撃してしまい衝撃のあまり手足が震えたのを鮮明に覚えている。
"「お前は大切に思う此奴らの為に死ぬことが出来るか?」"
放心状態の中投げかけられた言葉と、此方を向く刀の切っ先。
雨が滴り、稲光が反射し、キラキラと輝く刀を見これから殺されるかもしれないと言うのになぜかヤケに美しく感じた事も昨日のように思い出せる。
それから振り上げられた刀と、最愛の人、家族のように慕う人達の叫ぶ声。
刀を持った男が一歩踏み出した音も、空を切る鋭い刀身の音も、あの時の雨と雷鳴も、全部全部鮮やかに脳裏に流れてくる。
雨の日はななしにとって"人生の転機"とも言える出来事を嫌でも思い起こさせるのだ。
襖を隔てた部屋の中から空を見上げ、昔のことを思い出しながら苦しそうに息を着いたななしは自身を落ち着かせるように胸に手を当て深呼吸を繰り返した。
思い出し未だに苦しくなる記憶、正にこの記憶に囚われているななしは雨の匂いや音をかき消すように勢いよく襖を閉めて、途中にしていた仕事に戻ろうと文机に向き直った。
文机には確認しなければならない書状や、署名し提出しなければならない書状など、数え切れないほど仕事が乗っている。
昔に耽り落ち込む暇など今のななしにはないのだ。
痛む頭を摩りつつななしは気分晴れぬまま文机の上の筆を取ると、ゆっくりと手を動かし始めた。
鬱蒼とした気分を少しでも払拭しようと一心不乱に書状とにらめっこしていると、不意に部屋の外から柱をコンコンと叩く音が聞こえてくる。
雨音とは違う音に反応したななしは素早く立ち上がり、襖を開くとそこには口を結んだ男…ななしが所属している新撰組の副長である土方歳三の姿があった。
「少しいいかね?」
『はい、勿論』
硬い顔つきのまま「失礼」と部屋の中に入ってきた土方は懐から数枚の書状を取り出し、ななしが仕事をしていた文机にそれらを置いた。
なるほどここに来たのは仕事を与えるためだったのかと、理解したななし。
わざわざこちらに来なくても出向いたのにと思いつつ、土方の仕事の内容がなんなのかを聞くために彼を見つめた。
「五日後の入隊試験についてだ」
『あぁ、そういえばこの間言っていましたね。応募もぼちぼちあったようで』
「あぁ、十五組ほど応募が来ている。今回も君が主導になって色々と取り決めてくれ」
『了解しました』
土方がこちらに来てななしに受けてもらおうとしていた仕事はどうやら五日後に開かれる新撰組入隊試験の事だったようだ。
京の治安を守る事、そして勤王志士の弾圧が主な仕事内容である新撰組は定期的に入隊試験なるものを設けている。
治安維持の為の人数は多ければ多いほどいいとされているが、そもそも剣の腕が無いものは入隊しても即戦力にはならないし足でまといになる可能性も十二分にある。即戦力に成りうるかどうかを"見極める"という意味でも入隊試験とはとても大事な行事でもあった。
毎度この試験が行われる際は場所の確保、試験官の選出、応募者の確認などがあり、それらを確認し取り決めるのが一番隊隊長補佐であるななしの役目になっている。
書状を一瞥し土方に向け『すぐに終わらせますか?』と問えば、彼はしばしば悩んだ後ゆっくりと首を横に振った。
「君なら簡単に終わる作業だろう。手が空いた時、前日までにそちらで共有しておいてくれ」
『分かりました。ではそのように』
「理解が早くて助かる」
『ふふ、まぁ、新撰組の面々は文机に向かうのが苦手な人が多いですもんね』
「君の隊長が筆頭だが?」
『…返す言葉もありません』
暗に君の隊長も事務仕事を手伝えばこんなにも苦労しないのだと土方に言われているようで、ななしは下げた頭を起こすことが出来なかった。
新撰組にいる隊士や隊長たちは血の気盛んな男たちが殆どで、黙々と文机に向かい書状とにらめっこするのが苦手な人が多い。
ななしが所属する一番隊の隊長である沖田総司も例外ではなく、座ってじっとしているくらいなら刀を振り回す方が何倍も楽しいと言ってのけるような人物だ。
そんな好戦的な人物が多いため、新撰組の事務仕事は溜まっていく一方。
土方だけでは手に負えない部分はななしがこうして助力している現状だ。
「君は精明強幹だ。補佐と謳ってはいるがその技量にはとても期待している」
『なんだか含みのある言い方ですね…もっと頑張れってことですか?』
「どのように取ってもらっても構わないが」
『土方さんてたま〜に意地悪ですよね。もっと褒めてくれてもいいのに』
「褒めてやっただろう」
『え?今の褒めてくれたんです?』
「さぁ、どうだろうな」
『絶対褒めてくれてないです!』
眉ひとつ動かさない土方は少し口角を上げた後、フッと鼻で笑うようにななしを一瞥する。
その行動は褒めると言うよりは嘲笑に近しい気がして、ななしは『酷いです!』とおいおいと泣き真似を始めた。
しかしそんなこと意に返さない土方は「それでは頼む」と一言ななしに浴びせあしらうと、部屋を退散するためそそくさと立ち上がり襖に手をかけた。
素早く行動した土方が不服でならないななしは唇を尖らせ抗議するも聞く耳持たぬ土方は手をかけていた襖をスッと開いた。
「…時にななし」
『え?』
部屋を出るために襖を開いていた土方の動きが止まったかと思うと、彼は顔を外に向けたまま泣き真似をし項垂れているななしの名を呼んだ。
なんです?と顔を上げたななしを視界に入れることなく土方は続けて口を開いた。
「雨は、嫌いか?」
『…え?』
「質問をしている。雨が嫌いかどうかのな」
『雨ですか』
「あぁ」
『急ですね。どうしてそんな質問を?』
土方が質問してきた意図が分からず、答えとは違う返事をしてしまった。
しかし土方はななしの回答を咎めることはなく続けて「雨を眺めている君の顔があまりにも物憂げだったので気になった」と、一息に抑揚なくそう言いきったのだ。
土方はななしが雨空を眺め顔を歪ませていた瞬間を目撃していたのだろう。
雨を見ながら昔起きた情景を思い起こしている顔は、自分でも分かるほどに苦痛の表情を浮かべていた。
そんな普段とは違う顔を目撃すれば誰だって気になってしまうもので、土方もその一人だったようだ。
他人に関心がない素振りをしつつも、彼なりに気にかけてくれた結果の質問なのだろう。
土方の声音に少しの憂慮を感じたななしは物珍しさに小さく笑いながら『そうですね…』と開かれた襖の隙間から少しだけ見える空をちらりと視野に入れる。
『好きか嫌いかで言うと、好きかもしれません』
雨は昔を思い起こさせる程鬱陶しいものであるのは違いない。
だが"今のななし"にとって都合が良いのも事実であった。
「…意外だな」
返答が思っていたものとはかけはなれていたのか、少しだけ驚いたような顔をした土方は、体勢は変えないものの肩口から横目でななしを見つめた。
『雨は消してくれるんです』
「消す…?」
『雨は、全てを洗い流して消してくれるんです。私の憂鬱な心持ちも、涙も、血も。汚れたものも次の日にはまた綺麗に戻してくれてとても都合が良いという意味で、好きかな…って思います』
「なるほど」
"新撰組隊士"として生きる事実に目を背け逃げ出したくなった時、どれだけ声を上げ泣いても雨音がかき消してくれる。頬を伝う涙も一緒に洗い流してくれる。
溢れた血もこびり付いた血も、雨は都合よくなにもかも全てを無かったことにしてくれる。
ななしにとって雨とは、無くてはならないものだ。
「…少しだけ理解できるが、とても君らしくない意見だな」
『え?そうですか?結構まともなこと言ったと思うんですが…』
「型に嵌ったような意見だ。個性がない、とでも言うべきか」
『今ダメ出しされてます?』
「そうかもしれないな」
『なんですか!真面目に答えたのに!』
「本当に、好きかね?」
『…本当にって…』
「本当に雨が好きかと問うている」
今度は体をこちらに向けて、真っ直ぐななしを捉えながら質問をした土方。
あまりにも真剣に問うてくるためななしは今一度雨について頭の中で考えてみる。
勿論、色々思い出し嫌にもなる。
髪も跳ねるし、ジトジトとした空気で書状が草臥れるのもとても煩わしい。
長着が濡れ肌に引っ付く感覚も、足袋が濡れて水を含み歩く度に溢れるような感覚も、不愉快で仕方がない。
刀の手入れもいつもより慎重に行わなければならないし、晴れている時よりも作業がひとつもふたつも増える。
『土方さん…』
「なんだ」
『よくよく考えてみたら、私雨は大嫌いです。いい事ないですもん』
「フッ、君らしい意見だな」
結局雨のいい所はあまり思い浮かばず、"新撰組の自分"に都合がいいだけだと分かった。
いつだって、さわやかに晴れていたほうが心地よいに決まっている。
こちらをみつめていた土方に素直に伝えれば、いつも固く結ばれている口が緩み、目尻が少しだけ下がった。
先程の鼻であしらったような笑いではなく、どこか安堵したような優しい笑を浮かべた土方はそのままななしの頭に大きな手を乗せ数回優しく撫で付けた。
『うわ、珍しい。きっと明日は槍が降りますよ』
「そうなれば新撰組は朝から総出だ」
『それはそれで大変なことになりそうですね』
「なりそうではなくなるだろうな」
鬼の副長、そう言われるほど冷酷で残忍な一面を持つ土方だがその面影を残さぬほど綺麗な笑みはきっと京の町にいる女性を一人残らず虜にするに違いない。
"男"であるななしもその麗しさに少しだけ心臓が高なってしまう。
『仕事に戻りますっ』
「あぁ、そうだな」
小綺麗な顔を近くで見てしまえば誰だって照れくさくなるものだろう。
顔に熱が集まってくる感覚に、慌てて土方から文机に向き直ったななしはいそいそと筆を取り、溜まっている仕事を再開し始めた。
そんなななしの心境を察したであろう土方は愉快そうに喉の奥でクツクツ笑った後、今度こそ部屋を退散するために廊下へと足を踏み出した。
しっかり襖が締まり土方が歩いていくのを確認した後ななしははぁとため息を着くと、一人小さく呟いた。
『美男子怖ぁ…』
勿論呟いた声は雨音にかき消されて、誰の耳にも届くことは無かった。
雨が降る理由
("新撰組"を生き抜くため)
『…あ、降ってきた』
ポツリ、ポツリ。
曇天の空から少量の雨粒が乾いた土の上に落ちてくる。
最初は緩やかな雨だったのだが、呟いた途端に激しさをまし地面はみるみるうちに色が変わっていった。
太陽が照りつけていた土に雨が染み込んでいくと、なんとも言えぬ特有のかおりが当たりを包み、襖を開き空を眺めていたななしは少しだけ顔を歪めた。
今にも稲妻が走り出しそうな空は鬱々としており、空を眺めるななしの顔はますます歪んでいく。
『雨、かぁ…』
誰にも拾われることの無い呟きは激しい雨音に溶け込み、消えていく。
『……』
ななしは暗く低い空から降り注ぐ大雨を眺めているとどうしても思い起こされる情景があった。
それはななしが新撰組という組織に所属するずっとずっと前の事。
今よりももっと暗く大きな雲の
広がる真っ赤な血の海と、そんな海の中に倒れる四人の男。
今まで見た事がない凄惨な現場を目撃してしまい衝撃のあまり手足が震えたのを鮮明に覚えている。
"「お前は大切に思う此奴らの為に死ぬことが出来るか?」"
放心状態の中投げかけられた言葉と、此方を向く刀の切っ先。
雨が滴り、稲光が反射し、キラキラと輝く刀を見これから殺されるかもしれないと言うのになぜかヤケに美しく感じた事も昨日のように思い出せる。
それから振り上げられた刀と、最愛の人、家族のように慕う人達の叫ぶ声。
刀を持った男が一歩踏み出した音も、空を切る鋭い刀身の音も、あの時の雨と雷鳴も、全部全部鮮やかに脳裏に流れてくる。
雨の日はななしにとって"人生の転機"とも言える出来事を嫌でも思い起こさせるのだ。
襖を隔てた部屋の中から空を見上げ、昔のことを思い出しながら苦しそうに息を着いたななしは自身を落ち着かせるように胸に手を当て深呼吸を繰り返した。
思い出し未だに苦しくなる記憶、正にこの記憶に囚われているななしは雨の匂いや音をかき消すように勢いよく襖を閉めて、途中にしていた仕事に戻ろうと文机に向き直った。
文机には確認しなければならない書状や、署名し提出しなければならない書状など、数え切れないほど仕事が乗っている。
昔に耽り落ち込む暇など今のななしにはないのだ。
痛む頭を摩りつつななしは気分晴れぬまま文机の上の筆を取ると、ゆっくりと手を動かし始めた。
鬱蒼とした気分を少しでも払拭しようと一心不乱に書状とにらめっこしていると、不意に部屋の外から柱をコンコンと叩く音が聞こえてくる。
雨音とは違う音に反応したななしは素早く立ち上がり、襖を開くとそこには口を結んだ男…ななしが所属している新撰組の副長である土方歳三の姿があった。
「少しいいかね?」
『はい、勿論』
硬い顔つきのまま「失礼」と部屋の中に入ってきた土方は懐から数枚の書状を取り出し、ななしが仕事をしていた文机にそれらを置いた。
なるほどここに来たのは仕事を与えるためだったのかと、理解したななし。
わざわざこちらに来なくても出向いたのにと思いつつ、土方の仕事の内容がなんなのかを聞くために彼を見つめた。
「五日後の入隊試験についてだ」
『あぁ、そういえばこの間言っていましたね。応募もぼちぼちあったようで』
「あぁ、十五組ほど応募が来ている。今回も君が主導になって色々と取り決めてくれ」
『了解しました』
土方がこちらに来てななしに受けてもらおうとしていた仕事はどうやら五日後に開かれる新撰組入隊試験の事だったようだ。
京の治安を守る事、そして勤王志士の弾圧が主な仕事内容である新撰組は定期的に入隊試験なるものを設けている。
治安維持の為の人数は多ければ多いほどいいとされているが、そもそも剣の腕が無いものは入隊しても即戦力にはならないし足でまといになる可能性も十二分にある。即戦力に成りうるかどうかを"見極める"という意味でも入隊試験とはとても大事な行事でもあった。
毎度この試験が行われる際は場所の確保、試験官の選出、応募者の確認などがあり、それらを確認し取り決めるのが一番隊隊長補佐であるななしの役目になっている。
書状を一瞥し土方に向け『すぐに終わらせますか?』と問えば、彼はしばしば悩んだ後ゆっくりと首を横に振った。
「君なら簡単に終わる作業だろう。手が空いた時、前日までにそちらで共有しておいてくれ」
『分かりました。ではそのように』
「理解が早くて助かる」
『ふふ、まぁ、新撰組の面々は文机に向かうのが苦手な人が多いですもんね』
「君の隊長が筆頭だが?」
『…返す言葉もありません』
暗に君の隊長も事務仕事を手伝えばこんなにも苦労しないのだと土方に言われているようで、ななしは下げた頭を起こすことが出来なかった。
新撰組にいる隊士や隊長たちは血の気盛んな男たちが殆どで、黙々と文机に向かい書状とにらめっこするのが苦手な人が多い。
ななしが所属する一番隊の隊長である沖田総司も例外ではなく、座ってじっとしているくらいなら刀を振り回す方が何倍も楽しいと言ってのけるような人物だ。
そんな好戦的な人物が多いため、新撰組の事務仕事は溜まっていく一方。
土方だけでは手に負えない部分はななしがこうして助力している現状だ。
「君は精明強幹だ。補佐と謳ってはいるがその技量にはとても期待している」
『なんだか含みのある言い方ですね…もっと頑張れってことですか?』
「どのように取ってもらっても構わないが」
『土方さんてたま〜に意地悪ですよね。もっと褒めてくれてもいいのに』
「褒めてやっただろう」
『え?今の褒めてくれたんです?』
「さぁ、どうだろうな」
『絶対褒めてくれてないです!』
眉ひとつ動かさない土方は少し口角を上げた後、フッと鼻で笑うようにななしを一瞥する。
その行動は褒めると言うよりは嘲笑に近しい気がして、ななしは『酷いです!』とおいおいと泣き真似を始めた。
しかしそんなこと意に返さない土方は「それでは頼む」と一言ななしに浴びせあしらうと、部屋を退散するためそそくさと立ち上がり襖に手をかけた。
素早く行動した土方が不服でならないななしは唇を尖らせ抗議するも聞く耳持たぬ土方は手をかけていた襖をスッと開いた。
「…時にななし」
『え?』
部屋を出るために襖を開いていた土方の動きが止まったかと思うと、彼は顔を外に向けたまま泣き真似をし項垂れているななしの名を呼んだ。
なんです?と顔を上げたななしを視界に入れることなく土方は続けて口を開いた。
「雨は、嫌いか?」
『…え?』
「質問をしている。雨が嫌いかどうかのな」
『雨ですか』
「あぁ」
『急ですね。どうしてそんな質問を?』
土方が質問してきた意図が分からず、答えとは違う返事をしてしまった。
しかし土方はななしの回答を咎めることはなく続けて「雨を眺めている君の顔があまりにも物憂げだったので気になった」と、一息に抑揚なくそう言いきったのだ。
土方はななしが雨空を眺め顔を歪ませていた瞬間を目撃していたのだろう。
雨を見ながら昔起きた情景を思い起こしている顔は、自分でも分かるほどに苦痛の表情を浮かべていた。
そんな普段とは違う顔を目撃すれば誰だって気になってしまうもので、土方もその一人だったようだ。
他人に関心がない素振りをしつつも、彼なりに気にかけてくれた結果の質問なのだろう。
土方の声音に少しの憂慮を感じたななしは物珍しさに小さく笑いながら『そうですね…』と開かれた襖の隙間から少しだけ見える空をちらりと視野に入れる。
『好きか嫌いかで言うと、好きかもしれません』
雨は昔を思い起こさせる程鬱陶しいものであるのは違いない。
だが"今のななし"にとって都合が良いのも事実であった。
「…意外だな」
返答が思っていたものとはかけはなれていたのか、少しだけ驚いたような顔をした土方は、体勢は変えないものの肩口から横目でななしを見つめた。
『雨は消してくれるんです』
「消す…?」
『雨は、全てを洗い流して消してくれるんです。私の憂鬱な心持ちも、涙も、血も。汚れたものも次の日にはまた綺麗に戻してくれてとても都合が良いという意味で、好きかな…って思います』
「なるほど」
"新撰組隊士"として生きる事実に目を背け逃げ出したくなった時、どれだけ声を上げ泣いても雨音がかき消してくれる。頬を伝う涙も一緒に洗い流してくれる。
溢れた血もこびり付いた血も、雨は都合よくなにもかも全てを無かったことにしてくれる。
ななしにとって雨とは、無くてはならないものだ。
「…少しだけ理解できるが、とても君らしくない意見だな」
『え?そうですか?結構まともなこと言ったと思うんですが…』
「型に嵌ったような意見だ。個性がない、とでも言うべきか」
『今ダメ出しされてます?』
「そうかもしれないな」
『なんですか!真面目に答えたのに!』
「本当に、好きかね?」
『…本当にって…』
「本当に雨が好きかと問うている」
今度は体をこちらに向けて、真っ直ぐななしを捉えながら質問をした土方。
あまりにも真剣に問うてくるためななしは今一度雨について頭の中で考えてみる。
勿論、色々思い出し嫌にもなる。
髪も跳ねるし、ジトジトとした空気で書状が草臥れるのもとても煩わしい。
長着が濡れ肌に引っ付く感覚も、足袋が濡れて水を含み歩く度に溢れるような感覚も、不愉快で仕方がない。
刀の手入れもいつもより慎重に行わなければならないし、晴れている時よりも作業がひとつもふたつも増える。
『土方さん…』
「なんだ」
『よくよく考えてみたら、私雨は大嫌いです。いい事ないですもん』
「フッ、君らしい意見だな」
結局雨のいい所はあまり思い浮かばず、"新撰組の自分"に都合がいいだけだと分かった。
いつだって、さわやかに晴れていたほうが心地よいに決まっている。
こちらをみつめていた土方に素直に伝えれば、いつも固く結ばれている口が緩み、目尻が少しだけ下がった。
先程の鼻であしらったような笑いではなく、どこか安堵したような優しい笑を浮かべた土方はそのままななしの頭に大きな手を乗せ数回優しく撫で付けた。
『うわ、珍しい。きっと明日は槍が降りますよ』
「そうなれば新撰組は朝から総出だ」
『それはそれで大変なことになりそうですね』
「なりそうではなくなるだろうな」
鬼の副長、そう言われるほど冷酷で残忍な一面を持つ土方だがその面影を残さぬほど綺麗な笑みはきっと京の町にいる女性を一人残らず虜にするに違いない。
"男"であるななしもその麗しさに少しだけ心臓が高なってしまう。
『仕事に戻りますっ』
「あぁ、そうだな」
小綺麗な顔を近くで見てしまえば誰だって照れくさくなるものだろう。
顔に熱が集まってくる感覚に、慌てて土方から文机に向き直ったななしはいそいそと筆を取り、溜まっている仕事を再開し始めた。
そんなななしの心境を察したであろう土方は愉快そうに喉の奥でクツクツ笑った後、今度こそ部屋を退散するために廊下へと足を踏み出した。
しっかり襖が締まり土方が歩いていくのを確認した後ななしははぁとため息を着くと、一人小さく呟いた。
『美男子怖ぁ…』
勿論呟いた声は雨音にかき消されて、誰の耳にも届くことは無かった。
雨が降る理由
("新撰組"を生き抜くため)