シリーズ 月島
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「落ち着いてください鯉登少尉」
行ったり来たり、貧乏揺すりをしたり、目の前にいる鯉登からは明らかに落ち着かない様子が見て取れた。
まるでソワソワと親を待ち望む子供のような仕草に、普段の三割増しで幼さ(と鬱陶しさ)を醸し出している。
軍服が無ければ陸軍には見えないし、誰が落ち着きのない鯉登を見て少尉だと言い当てられるだろうか。
月島は窘めるように鯉登に声をかけるが、聞こえていないのか忙しなく動く様は変わらない。
きっと姉であるななしが来るまで鯉登には何も通じないのだろう。これではまるで鶴見中尉に心酔している時と何も変わらないでは無いか。
月島の顔はスンと表情を無くした。
「あ!!」
「あ、鯉登少尉!」
面倒臭い…と口には出さないが内心で毒付く月島を他所に、隣でソワソワしていた鯉登は何かを見つけたようでパァっと表情を明るくし勢いよく駆け出した。
忠犬のごとく走り出した鯉登に耳としっぽが生えているように見え、月島は深くため息を着くと同時に自身も強く足を踏み出した…のだが。
「速っ」
走り出した鯉登の速いこと。
本当に目の前から一瞬で消えた、と形容して良いほど瞬く間に走り去って行った。
そんな鯉登の後を追うことは難しい。鶴見ほど心酔するななしが関わっているので鯉登の速さは加速しており、月島が追いつくのは最早不可能だ。
身軽で機敏な彼の事だ、走るだけではなくそこらの屋根に飛び乗りスイスイと姉の元に向かった可能性もある。そうなるとやはり若き薩摩隼人を見失うのも当然と言えるだろう。
どの角を曲がったのか、取り残された月島は辺りを見渡しているとそれはもう大きな声で「姉上ぇ!」と叫ぶ鯉登の声が町中に響き渡る。
それを合図に声の方へ駆け出した月島は見えてきた2つの濃紺の頭にホッと息をついた。
『ん?音!迎えに来てくれたのか?』
「姉上に会いとうて急いできもした!!」
『はははっ、元気だな音』
急いで鯉登とななしの元へ掛けよれば二人は再会を喜びあっているようだった。
背の高い鯉登の頭に手を伸ばしわしゃわしゃ撫で回すななしの姿は凛としていた昨日よりも幾分も柔らかい雰囲気で、弟を可愛がる姉そのものだ。
鯉登も鶴見には見せないであろう弟らしい笑顔でななしの手を受け入れている。
とても和やかで普段よりも随分と健全な一幕に月島は少しばかり心が温まるようだ。
鶴見に心酔するのは一向に構わないが鯉登のそれはかなり病的…基、不健全であるし、姉に対しても同じかと思えばきちんと常識を兼ね備えて尊敬しているようでとても安堵する。
こんな心配をしなければならない事が既に面倒臭いが、月島は敢えて口には出さず。久々の邂逅を喜び会う2人を傍らで微笑ましそうに見つめた。
『それにしても良く私の場所が分かったな音』
「姉上の足音が聞けもした!!!」
『耳がいいのだな…お前は。犬の様だ』
「そう言ちょっただけて嬉す思ももすっ!」
『犬でいいのか、犬で』
「良かですっっっ!!」
「……」
良くないだろう、月島の顔はスンと表情を無くした。
というか、姿が見えたから走り出した訳ではなく、この通りを歩く足音の中にななしの物が聞こえたから走り出したらしい。
これのどこが健全なのか、犬や猫など可愛らしいものではない。
人間を超越した能力を持っている天才的 な鯉登の後ろ姿を呆れたように見つめた月島は深々と溜息を着いた。
「む?なんだその溜息は!姉上の前だぞ、シャキッとしろ月島ァ!」
「はぁ」
『音、怒鳴るんじぁない。月島軍曹殿も周りも驚くだろう』
「…すんもはん」
『ふふふ、謝れて偉いな音』
「おいなんちまだまだ…おいやけねのためにと奔走する姉上の方がずっとえれぇです」
『…それはどうだろうな。結局父上や母上を悲しませてるからな』
「……姉上、そげな事…」
『……さて!!音に会えて良かった!私はそろそろお暇するよ』
「あ、姉上!?」
頭を撫でていたななしの手はゆっくりと鯉登から離れていく。
こんな短時間でもう終わりなのか!?とばかりに離れていく手を掴んだ鯉登はどこか焦っているようだ。
いつもの眉は下がり悲哀が全身から浮かび上がっている。
まさか手を掴まれるとは思っていなかったらしいななしは目を丸くして驚き、こちらも眉を下げた。
窘めるように『仕事中だろう?顔を見られただけで十分だ』と手を離すように促すが鯉登は「でも!まだまだかたったいこっが、ずばっあいもす!」と食い下がる。
お互い引かない不器用(そうに見える)な姉弟に月島はどうしたものかと眉根を寄せた。
しかしここでななしを行かせてしまえば鯉登の機嫌が頗る悪くなる事を十分に理解していた月島。仕事が捗らなくなり、最悪埋め合わせに大量の仕事を押し付けられることになるだろう…それだけは阻止せねばならない。
それに久々の邂逅がこれだけというのも些か侘しいような気がして、なんとかななしに留まってくれるように心変わりしてもらえないかと口を開いた。
「ななしさんはお忙しいのですか?」
『そうだな…全く零ではないが、十でもない。二、三程度か?』
「では、今からではなく業務が終わった後鯉登少尉とお会いになってはどうですか?」
「そ、そうだ!それがいい!手早く終わらせますので、また私と会ってください姉上!」
『…ふむ、仕事が終わってからなら…いいだろう。なんの気兼ねもなく話せる方がいいしな』
「では、仕事 が終 いしでぇ迎 けめにいっもす!」
『分かった。三丁目の○○宿屋に滞在しているから音が終わったら会いに来てくれ』
「はい!」
『月島軍曹殿』
「なんでしょう」
『音をいつもありがとう。本当に、本当に感謝している』
「い、いえ。そんな頭を下げないでください」
ガバッと勢いよく腰をおったななし。慌てた月島もまた深々頭を下げた。
「何をしているのだ月島ァ」と傍らで叫ぶ鯉登を無視しつつ、ななしの返答を待っていると『頭を上げてくれ軍曹殿』と肩を緩く叩かれる。
月島は言われた通りにゆっくりと顔を起こし、目の前にいるななしを見つめた。
「……」
その顔はなんとも憂い気なもので悲しみとも怒りともとれぬ表情が浮かんでいたのだ。
大きく黒い瞳には光が宿らず、しかし目鼻立ちのいい顔に影が落ちるとどこか妖艶にも見えて思わず魅入ってしまった月島はグッと唇を結んだ。
どんな感情からくる表情なのだろうか、鯉登の姉であるが鯉登とは真逆で何を考えているのかはなかなか読み取れない。
しかしそんな表情もほんの一瞬で、疑問に思っていた数秒後にはニコニコと人当たりの良い笑顔に戻っており、憂いのうの字も見当たらない。
「ななしさん?」
『……さ!仕事の時間だな!後で会おう音』
「は、はい!」
『月島軍曹殿も良かったら音と来てくれ』
「姉弟水入らずに私が参加しても宜しいのですか?」
『あぁ。音の事を沢山聞かせて欲しい』
「おいのこちゃおいが話しもす!」
『ははは!音からは誇張のない客観的意見を聞けないだろ?月島軍曹殿からは偽りない音の事を聞けそうじゃないか?』
「キェ…」
『尤も、お前は嘘などつかないだろうがな』
「もちろとです!」
『色々な活躍を沢山聞きたいんだ。頼むよ音』
「むっっ…むぜっ…!…わ、分かりもした。月島も連れっいきます」
『ありがとう』
「あの、鯉登少尉。私の意見は」
「なんだ文句があるのか月島」
「…いえ」
有無を言わせない鯉登の睨みにまたスンと表情を無くした月島は、面倒臭いと抗うことをやめ全てを受け入れた。
姉との態度をきっちり使い分ける鯉登。普段はあれほど不器用なくせに、こんな時ばかりは器用か、と一人内心でごちる。
そうしている内にななしは『では、また後で』と踵を返すと、手をひらひら振りながら歩き去っていく。
鯉登は後ろ姿が見えなくなるまでその場から動くことはなかった。
「姉上は…」
「はい?」
「姉上はお優しいお方なのだ」
しばしば黙っていた鯉登が俯きながら小さく呟いた。
月島は何を言うでもなく「そうですか」と、首を縦に降り続きを促した。
「姉上はおいを守りたいと1人で上京して邏卒になったのだ。"兄上の事"があってから姉上は『あたいが音を守っから』と寄り添ってくれてな」
「1人でですか」
「そうだ。元々海軍になりたいと仰っていたが…こんなご時世だ。父上や母上、ましてや海軍がそれを許すはずもない。姉上は何になることも叶わず、だが諦めきれず上京なさった。『強くなる』と一筆残してな」
「それから邏卒になった、という事ですか。強かな方ですね」
「あぁ、とても尊敬している。あの方は強くて優しくて、でも我慢ばかりでいつも寂しい思いをしている。だから、やっと会えた今あの頃側にいて寄り添ってくれたように…私も姉上を大事にしたいのだ…」
「なるほど、そのような事情があったんですね」
それは確かに離れ難いと月島も思う。
同時に富国強兵の時代にななしのように華奢な女性が海軍や陸軍になることは不可能に近いとも思った。
そもそも女性の殆どは15の頃からお家のためにと嫁ぎに行くことが当たり前である。家柄の強化や跡継ぎの問題など、女性には女性にしか出来ない役割が多い。
そしてそれを強制する文化や習慣が根強い。
しかし言い方は悪いが男尊女卑が定着している中でななしの様な存在は異例であった。
『強くなりたい』という気持ちだけでは兵になど絶対になれないのだが、ななしはどうしてか邏卒になっている。
そこには様々な理由があるはずで、それまでの道のりも険しいものだったはずだ。
月島には考えも及ばぬような人生があるのは明確で、そこにあの憂い気な表情をした理由も含まれているのだろう。
ただ弟思いの姉と、姉馬鹿の弟という訳では無いらしい。
「私は昔攫われた事があってな。犯人は露助だったが…」
「………」
「それに姉上は酷く落ち込んでしまったんだ。もしかしたらその時に色々決心したのかもしれないな」
鯉登の発言に月島はただただ黙り、顔を伏せた。
ツバから覗く表情はいつになく無表情だ。
そんな月島に気づかず鯉登は「私が強くなり姉上の杞憂を無くすのだ!」と拳を握りメラメラと燃えている。
「…少尉。仕事を終わらせないと会うことすら叶いませんよ。早く戻りましょう」
「うむ、そうだな!」
同じ空間、同じ道をズンズン歩く鯉登。若き薩摩隼人の背中は月島にはあまりに眩しく広く感じられた。
もう二度とその光を纏うことが出来ない月島は歩き出した鯉登をゆったりとした足取りで追いかける。
胸をチリリと痛める感情に蓋をして、軍帽を深く被り直した。
*******
「鯉登少尉、飲み過ぎですよ」
「やぞろしぞ!月島ァ!姉上やいやい飲んじょったもし!」
『音、酔っているのか?』
「酔っていもはん」
『酔っぱらいは皆そう言うのだ』
ななしの肩に寄りかかりながら頬を染めた鯉登がお猪口を掲げている。
月島もななしも半ば呆れたように鯉登を見つめていた。
久々の邂逅だと言うのだから鯉登の思いも汲んでこのまま見守るべきか、重たそうにしているななしへ手を差し伸べるべきか月島は考えあぐねた。
だがやはりななしの『しっかりしろ音。結構重いぞ』という声に、離してやるのが賢明だと月島は重い腰を上げ寄りかかり続ける鯉登を支えた。
酔っ払っているせいか頭の位置が定まらず、ぐわんぐわんと揺れている。
「鯉登少尉、羽目を外しすぎでは?」
「姉上と会えた嬉すてたまらなかと!飲んたくもなる!」
「その姉上を困らせている事に気付いてください」
「おいが姉上を困らせるはずね!」
「…はぁ。とにかく壁に寄りかかってください。産まれたての赤ん坊のようになってますよ、首が」
「馬鹿にしちょっのか〜!」
「はいはい」
「月島ぁん!!」
なんとか脇に手を入れ重たい鯉登を壁に寄りかけた月島。開放されたななしは『あ、ありがとう』と、安堵したように息をついた。
鯉登は酔いにより眠気が凄まじいらしく、壁に寄りかかるや否や目をしょぼしょぼさせ微睡んでいる。
「全く…」
『いつもこんな風に世話を?』
「え?あぁ、そうですね。それなりには」
『うぅむ…音は少し月島軍曹殿に甘えすぎだな』
「普段はもう少しシャキッとしておられますよ。ななしさんに会えて余程嬉しかったのでしょう」
『ふふふ、そうか。もう少しシャキッとしているか。きっと月島軍曹殿が目を光らせてくれているからだろうな』
褐色の肌に映える白い歯を覗かせていたずらっ子のように笑うななしはなんとも可愛らしい。
鯉登の姉でよく似た部分はあるが、その笑顔は彼とはあまり似ておらず年齢よりも幼く見えた。
月島は眩しい笑顔になんとなく視線を逸らし湯のみの茶をゆっくりと喉に流し混む。
部屋には鯉登の寝息だけが響いた。
昨日であったばかりのななしと二人きり(正確には寝た鯉登もいるが)と言う謎の空間は月島の胃をキリッと傷める。
なんとも気まずいし、沈黙も耐え難い。
さっさと帰らせてほしい、などとは口が裂けても言えず月島とななしの間には無の時間だけが流れていく。
そんな中ななしが不意に『月島軍曹殿が、羨ましい』と小さく呟いたのだ。
言葉の真意が分からずに「…羨ましい?私がですか?」と問えば、彼女は穏やかな表情で酒を煽りながらもゆっくりと話を続けた。
『あぁ、貴方が羨ましいよ。男で屈強で、それから陸軍で…少尉である音の傍にいられるからな。私が手に入れたくて仕方がなかったものを持ってる』
どこか遠くを見つめるななしに月島もまた目を細めた。
そして鯉登が語ったななしの人生のほんの少しの出来事を思い出した。
女として生まれ苦悩し、だが鯉登を守りたいと己を奮い立たせて過酷な人生を歩んでいる。ななしとは女性であるがとても愚直な人間だ。
───あぁ、この人は鯉登少尉を本当に大切に思っているのだな。
昼間に見た憂い気な表情の意味がようやく少しだけわかったような気がする月島はゆっくりと顔を起こしてななしを見つめた。
彼女の顔はやはりどこか寂しそうに見えた。
『初めこそ海軍になりたいと思った。そして音が陸軍になりたいと言ってからは陸軍になりたいとも思った。傍にいればこの世に繋ぎ止められると昔の私はそう思ったんだ。だが結局邏卒にしかなれなかったのだが、最近は邏卒になれて心底良かったと感じている』
酒を飲み程よく酔いしれたのかななしは饒舌になり、まるで読み物をきかせるように月島の反応も伺わず話し続けた。
『邏卒は東京を中心に活動しているが範囲拡大を目指している。東京だけでなくいかなる都市も治安維持をすべきだからな。私はそのための人員確保をすべく南から北まで旅をし手練の猛者に邏卒勧誘をしているんだ。北海道に来たのもその一環だ』
「……なるほど。ななしさんは人員確保の為に旅をされているのですね」
『あぁ、そうだ。だが道のりは険しいよ。なかなか正義感のある者には会えないからね。その点月島軍曹殿は忠勇義烈で音からも慕われている。どうだ、邏卒に興味はないか?』
「いえ、全く」
『そ、即答か…手厳しいな』
「はぁ、すみません」
『ふふ。いや、気にしないでくれ。さてここからが本題なのだが、あまり気負わず反応もせず聞いて欲しい』
「?分かりました」
ななしは一度瞳を閉じてゆっくりと深呼吸を始めた。
そして再び目を開く。その瞳は光を移さずまるで飲み込まれそうなほど真っ黒だ。
思わずゴクリと唾を飲み込んだ月島だが、動揺を悟られぬように平静を装った。
『邏卒には治安維持の他にも"罪人を召し捕る"事が可能だ。罪人の地位や名誉は関係ない、どんなものに従事していようと等しく召し捕る事が可能だ。と、言っても四等巡査の私にその権限はなく、組織の長などしか召し捕ることは不可能だが…色々と書類を作成し提出する事で対象と見なされれば"市ヶ谷刑務所"に送ることが出来たりする』
「………」
『時に、月島軍曹殿。音が昔誘拐された事を知っているかね?』
「…っ、えぇ。ご本人から聞いたことがありますよ」
有無を言わさない鋭い視線に月島の握った拳には手汗が滲んできている。
───この人は何が言いたい、何を隠している、何を知っている。
無表情を崩さないように務めながらも、直ぐに軍刀を構えることが出来るように月島は神経を研ぎ澄まし、ななしの話を聞いた。
『私はね』
「………」
『誘拐事件の経緯を何となく知っている』
「………何が言いたい」
『言いたいこと?そうだな、私は書類さえ提出すれば"第七師団の者"でも召し捕る事が出来る』
「っ!」
ななしの言葉に握っていた拳は膝の上から軍刀へとのびていた。同時に不敵に笑う彼女の瞳と視線が合わさり、月島は頭にカッと血が上るのを感じた。
悪魔で冷静に、激情等せずに素早く鞘から軍刀を引き抜き目の前で余裕そうにしているななしへ突きつける。
肌には触れないように配慮しつつ「どういう意味だ」と睨みつければ、『はぁ…怖い怖い』とななしはゆるゆる両手を上げ降参の姿勢を見せた。
『召し捕るというのは例え話だよ。だが、事と次第によっては私は貴方の上司様を召し捕る腹積もりでいる。今はまだその時ではないし……音とも争いたくは無い』
「どこまで知っているんだ」
『うん?まぁ、それなりに。貴方がロシア語ペラペラなのも知っているよ』
「…殆ど知っているんだな」
『あぁ。貴方達の誤算は私を野放しにした事だ。あの地域で生まれ育った私が貴方達の目を欺いて全て盗み見する事など造作もない』
「鯉登少尉は知っているのか」
『知らんよ。音が幸せなら深堀するつもりも言うつもりもない』
手を挙げて話すななしからは嘘を言っている様子は見て取れず、月島は突きつけていた軍刀をゆっくりと鞘へ戻した。
「…はぁ、参った。鶴見中尉になんと報告すれば…」
『しないでいいだろ。私が殺されるぞ』
「そういう訳にはいかんだろ。第七師団でもこの一件の真相を知るの者は数少ないんだ。まして鯉登少尉の姉が知っているだなんて…あの方がなんと言うか」
『口外はせんよ』
「信じられるか」
『その代わり1つだけお願いがある』
「…この一件を出汁に無理難題を要求するつもりか?金か?名声か?…今すぐに鶴見中尉に報告しても良いんだぞ」
『難しい事では無いんだが……』
金も名声も要らないと首を横に振ったななしは膝立ちのまま眠る鯉登の隣へと移動した。
寝息を立てて夢の中にいる鯉登の頭を丁寧に撫でながら『常に寄り添うことが出来ないから…』と小さく、小さく。聞こえるかどうかの声色でポツリと話す。
そしてななしは『どうか月島軍曹殿が音を見守ってやってくれないか』とそう言ったのだ。
これには頼まれた月島も驚き目を白黒させた。
鯉登誘拐事件…そもそもその事件を起こした犯人は露助などでは無い。紛れもなく鶴見中尉とその部下である自分達が行ったもの。
一連の流れを知っているななしが咎めるでもなく、憎しみをこぼすでもなく、ただ『見守ってくれ』と頼むとはどう考えても思い至らず開いた口が塞がらない。
だがななしはそんな月島などお構い無しに鯉登の頭や跳ねた髪を撫で続けている。
「どういうことだ」
『はぁ、掻い摘んで言うと私が北海道に邏卒の駐在所を設けてそこで働けるようになるまで、音が無茶をしないか怪我をしないか見ていて欲しいと頼んでいるんだ!』
「…正気か?」
『正気だ!馬鹿すったれ!……正気だ!馬鹿者!』
「……」
『……と、とにかく!鶴見中尉の事はいけ好かないしなんなら嫌いだが、別に召し捕るつもりは無いし知っている情報を漏らすようなことは絶対にしない。だからその代わりに音を頼むと言っているんだ』
「……それでいいのか?」
『いいか悪いかは音が判断すべきだ』
「何も知らない者に委ねるのが正しいと」
『あぁ。いつかそれを知り音がどうなるかは分からんが。その時が来るまで私は今の"弟想いな姉上"のままでいるつもりだ』
「………どうしてそこまでするんだ?」
『はぁ。弟を守りたいと願うのに理由がいるか?私は二度と音に傷ついて欲しくは無いし、家族を失いたくもない。その為に何がなんでものし上がり地位的にも物理的にも強くなりたいのだ』
凛と言いきったななしの抜山蓋世たるや、その辺の有象無象などを優に上回る程だ。その目は漆黒ではなくなり、光を宿し希望すらも垣間見える。
随分と年下なはずで、華奢な女子なのに。それらを思わせないほど威厳があった。
まるでいつの日か"死んだ気でロシア語を勉強しろ"と、半ば無理やり自分を監獄から連れ出したあの頃の"命の恩人"を彷彿とさせる気概に月島は押し黙るしか無かった。
───なんてまっすぐで、気丈で、明るい人間だろうか。
「……必ず秘密厳守だ。口外しようものなら貴様が鯉登少尉の身内だろうが姉だろうが容赦なく始末する、いいな」
『あぁ!分かった!それじゃ、約束通り月島軍曹殿は音を見守ってやってくれ!』
「今回はその条件を受け入れる。だが、思い上がるなよ。俺の一存で鶴見中尉にすぐにでも報告出来るんだからな」
『あぁ!あいがと。おはんに話すこっができて正解じゃった』
「っ…」
鋭くも光を宿した双眸はどこへやら、嬉しいのかへにゃりと目を垂らし微笑んだななしの表情はまさに年頃の娘だ。キリリとした表情と可愛らしい表情に差異を感じた月島はカァッと顔に熱が集まるのを感じた。更には薩摩弁を用いて感謝を伝えてくるためなかなか心臓に悪い。
出会ったばかりで隙のないななしの破顔した姿はあまりにも男心を擽る。
しかしこの女は鯉登誘拐事件の真相を知り、鶴見中尉を敵視している人物。
今は何もしないと言っているが、その心持ちが変わりいつか鶴見中尉を召し捕る可能性も否めない。
その時は鯉登の姉だろうが敵として対峙することになるし、なんなら殺さなくてはならないだろう。
いくら女性らしい体つきで、可愛らしい顔の持ち主でも絶対に懐柔されてはならない。
絶対にだ。
月島は己を律するように自戒の念を持った。
自分を救ってくれた中尉に報いる為に生きる。
生きる意味などない自分に出来ることはそれくらいしかないのだから、と。
『ところで月島軍曹殿!』
「なんだ?」
『いや、砕けて話してくれた方がしっくりくるなと思ってな。これからもそうやって接してくれ』
「………嫌です」
『え!?』
「鯉登少尉に文句を言われるのは俺ですよ。先程は取り乱し、乱暴な口ぶりになりましたが普段貴女へ話しかける際は敬語を使います」
『や、止めろ。もう素を聞いたのだから取り繕われても気持ち悪いだけだ』
「気持ち悪い…」
『すまん、言いすぎた』
「…別に問題はない」
『月島軍曹殿!』
「譲渡する変わりに貴様も軍曹殿等と呼ぶな。月島でいい」
『つ、月島でいいか?』
「あぁ」
『つ、月島!』
「……」
『せっかく酒を用意させたんだから飲もう月島!私は酒に強いぞ』
「鯉登少尉はこんなに弱いのにか」
『音も昔の兄も父も弱い。母と私は強いぞ』
それでいいのか鯉登家よ。
だがなんとなく想像も出来てしまう。
きっと鯉登家はかかあ天下なのだろうな。
渡されたお猪口を素直に受け取った月島は傍らで注ぐななしを見て不思議な縁ができてしまったと長く息を吐いた。
そしてよもや"鯉登少尉を見守る"という約束まで取り付けてしまったことに、なんとも言えない気持ちになっている。
『夜は長いぞ月島。音見守り隊結成を記念して乾杯だ』
「嫌です」
『乾杯!!!』
「……はぁ」
カツンと小さなお猪口同士が重なる音が響いた。
(ところでぇ、ちゅきしまはぁ、日頃からぁ…)
(待て、酒が強いのでは無いのか?)
(えぇ?つよいだろぉ!もっと飲め!ちゅきしまぁ)
(……多分鯉登家全員酒に弱いんだな…)
(あぁ?わたしはぁつよい!)
(首が赤ん坊みたいになっているが?)
(馬鹿にしちょっのか〜!)
((流石姉弟))
出会い編 (完)
行ったり来たり、貧乏揺すりをしたり、目の前にいる鯉登からは明らかに落ち着かない様子が見て取れた。
まるでソワソワと親を待ち望む子供のような仕草に、普段の三割増しで幼さ(と鬱陶しさ)を醸し出している。
軍服が無ければ陸軍には見えないし、誰が落ち着きのない鯉登を見て少尉だと言い当てられるだろうか。
月島は窘めるように鯉登に声をかけるが、聞こえていないのか忙しなく動く様は変わらない。
きっと姉であるななしが来るまで鯉登には何も通じないのだろう。これではまるで鶴見中尉に心酔している時と何も変わらないでは無いか。
月島の顔はスンと表情を無くした。
「あ!!」
「あ、鯉登少尉!」
面倒臭い…と口には出さないが内心で毒付く月島を他所に、隣でソワソワしていた鯉登は何かを見つけたようでパァっと表情を明るくし勢いよく駆け出した。
忠犬のごとく走り出した鯉登に耳としっぽが生えているように見え、月島は深くため息を着くと同時に自身も強く足を踏み出した…のだが。
「速っ」
走り出した鯉登の速いこと。
本当に目の前から一瞬で消えた、と形容して良いほど瞬く間に走り去って行った。
そんな鯉登の後を追うことは難しい。鶴見ほど心酔するななしが関わっているので鯉登の速さは加速しており、月島が追いつくのは最早不可能だ。
身軽で機敏な彼の事だ、走るだけではなくそこらの屋根に飛び乗りスイスイと姉の元に向かった可能性もある。そうなるとやはり若き薩摩隼人を見失うのも当然と言えるだろう。
どの角を曲がったのか、取り残された月島は辺りを見渡しているとそれはもう大きな声で「姉上ぇ!」と叫ぶ鯉登の声が町中に響き渡る。
それを合図に声の方へ駆け出した月島は見えてきた2つの濃紺の頭にホッと息をついた。
『ん?音!迎えに来てくれたのか?』
「姉上に会いとうて急いできもした!!」
『はははっ、元気だな音』
急いで鯉登とななしの元へ掛けよれば二人は再会を喜びあっているようだった。
背の高い鯉登の頭に手を伸ばしわしゃわしゃ撫で回すななしの姿は凛としていた昨日よりも幾分も柔らかい雰囲気で、弟を可愛がる姉そのものだ。
鯉登も鶴見には見せないであろう弟らしい笑顔でななしの手を受け入れている。
とても和やかで普段よりも随分と健全な一幕に月島は少しばかり心が温まるようだ。
鶴見に心酔するのは一向に構わないが鯉登のそれはかなり病的…基、不健全であるし、姉に対しても同じかと思えばきちんと常識を兼ね備えて尊敬しているようでとても安堵する。
こんな心配をしなければならない事が既に面倒臭いが、月島は敢えて口には出さず。久々の邂逅を喜び会う2人を傍らで微笑ましそうに見つめた。
『それにしても良く私の場所が分かったな音』
「姉上の足音が聞けもした!!!」
『耳がいいのだな…お前は。犬の様だ』
「そう言ちょっただけて嬉す思ももすっ!」
『犬でいいのか、犬で』
「良かですっっっ!!」
「……」
良くないだろう、月島の顔はスンと表情を無くした。
というか、姿が見えたから走り出した訳ではなく、この通りを歩く足音の中にななしの物が聞こえたから走り出したらしい。
これのどこが健全なのか、犬や猫など可愛らしいものではない。
人間を超越した能力を持っている
「む?なんだその溜息は!姉上の前だぞ、シャキッとしろ月島ァ!」
「はぁ」
『音、怒鳴るんじぁない。月島軍曹殿も周りも驚くだろう』
「…すんもはん」
『ふふふ、謝れて偉いな音』
「おいなんちまだまだ…おいやけねのためにと奔走する姉上の方がずっとえれぇです」
『…それはどうだろうな。結局父上や母上を悲しませてるからな』
「……姉上、そげな事…」
『……さて!!音に会えて良かった!私はそろそろお暇するよ』
「あ、姉上!?」
頭を撫でていたななしの手はゆっくりと鯉登から離れていく。
こんな短時間でもう終わりなのか!?とばかりに離れていく手を掴んだ鯉登はどこか焦っているようだ。
いつもの眉は下がり悲哀が全身から浮かび上がっている。
まさか手を掴まれるとは思っていなかったらしいななしは目を丸くして驚き、こちらも眉を下げた。
窘めるように『仕事中だろう?顔を見られただけで十分だ』と手を離すように促すが鯉登は「でも!まだまだかたったいこっが、ずばっあいもす!」と食い下がる。
お互い引かない不器用(そうに見える)な姉弟に月島はどうしたものかと眉根を寄せた。
しかしここでななしを行かせてしまえば鯉登の機嫌が頗る悪くなる事を十分に理解していた月島。仕事が捗らなくなり、最悪埋め合わせに大量の仕事を押し付けられることになるだろう…それだけは阻止せねばならない。
それに久々の邂逅がこれだけというのも些か侘しいような気がして、なんとかななしに留まってくれるように心変わりしてもらえないかと口を開いた。
「ななしさんはお忙しいのですか?」
『そうだな…全く零ではないが、十でもない。二、三程度か?』
「では、今からではなく業務が終わった後鯉登少尉とお会いになってはどうですか?」
「そ、そうだ!それがいい!手早く終わらせますので、また私と会ってください姉上!」
『…ふむ、仕事が終わってからなら…いいだろう。なんの気兼ねもなく話せる方がいいしな』
「では、
『分かった。三丁目の○○宿屋に滞在しているから音が終わったら会いに来てくれ』
「はい!」
『月島軍曹殿』
「なんでしょう」
『音をいつもありがとう。本当に、本当に感謝している』
「い、いえ。そんな頭を下げないでください」
ガバッと勢いよく腰をおったななし。慌てた月島もまた深々頭を下げた。
「何をしているのだ月島ァ」と傍らで叫ぶ鯉登を無視しつつ、ななしの返答を待っていると『頭を上げてくれ軍曹殿』と肩を緩く叩かれる。
月島は言われた通りにゆっくりと顔を起こし、目の前にいるななしを見つめた。
「……」
その顔はなんとも憂い気なもので悲しみとも怒りともとれぬ表情が浮かんでいたのだ。
大きく黒い瞳には光が宿らず、しかし目鼻立ちのいい顔に影が落ちるとどこか妖艶にも見えて思わず魅入ってしまった月島はグッと唇を結んだ。
どんな感情からくる表情なのだろうか、鯉登の姉であるが鯉登とは真逆で何を考えているのかはなかなか読み取れない。
しかしそんな表情もほんの一瞬で、疑問に思っていた数秒後にはニコニコと人当たりの良い笑顔に戻っており、憂いのうの字も見当たらない。
「ななしさん?」
『……さ!仕事の時間だな!後で会おう音』
「は、はい!」
『月島軍曹殿も良かったら音と来てくれ』
「姉弟水入らずに私が参加しても宜しいのですか?」
『あぁ。音の事を沢山聞かせて欲しい』
「おいのこちゃおいが話しもす!」
『ははは!音からは誇張のない客観的意見を聞けないだろ?月島軍曹殿からは偽りない音の事を聞けそうじゃないか?』
「キェ…」
『尤も、お前は嘘などつかないだろうがな』
「もちろとです!」
『色々な活躍を沢山聞きたいんだ。頼むよ音』
「むっっ…むぜっ…!…わ、分かりもした。月島も連れっいきます」
『ありがとう』
「あの、鯉登少尉。私の意見は」
「なんだ文句があるのか月島」
「…いえ」
有無を言わせない鯉登の睨みにまたスンと表情を無くした月島は、面倒臭いと抗うことをやめ全てを受け入れた。
姉との態度をきっちり使い分ける鯉登。普段はあれほど不器用なくせに、こんな時ばかりは器用か、と一人内心でごちる。
そうしている内にななしは『では、また後で』と踵を返すと、手をひらひら振りながら歩き去っていく。
鯉登は後ろ姿が見えなくなるまでその場から動くことはなかった。
「姉上は…」
「はい?」
「姉上はお優しいお方なのだ」
しばしば黙っていた鯉登が俯きながら小さく呟いた。
月島は何を言うでもなく「そうですか」と、首を縦に降り続きを促した。
「姉上はおいを守りたいと1人で上京して邏卒になったのだ。"兄上の事"があってから姉上は『あたいが音を守っから』と寄り添ってくれてな」
「1人でですか」
「そうだ。元々海軍になりたいと仰っていたが…こんなご時世だ。父上や母上、ましてや海軍がそれを許すはずもない。姉上は何になることも叶わず、だが諦めきれず上京なさった。『強くなる』と一筆残してな」
「それから邏卒になった、という事ですか。強かな方ですね」
「あぁ、とても尊敬している。あの方は強くて優しくて、でも我慢ばかりでいつも寂しい思いをしている。だから、やっと会えた今あの頃側にいて寄り添ってくれたように…私も姉上を大事にしたいのだ…」
「なるほど、そのような事情があったんですね」
それは確かに離れ難いと月島も思う。
同時に富国強兵の時代にななしのように華奢な女性が海軍や陸軍になることは不可能に近いとも思った。
そもそも女性の殆どは15の頃からお家のためにと嫁ぎに行くことが当たり前である。家柄の強化や跡継ぎの問題など、女性には女性にしか出来ない役割が多い。
そしてそれを強制する文化や習慣が根強い。
しかし言い方は悪いが男尊女卑が定着している中でななしの様な存在は異例であった。
『強くなりたい』という気持ちだけでは兵になど絶対になれないのだが、ななしはどうしてか邏卒になっている。
そこには様々な理由があるはずで、それまでの道のりも険しいものだったはずだ。
月島には考えも及ばぬような人生があるのは明確で、そこにあの憂い気な表情をした理由も含まれているのだろう。
ただ弟思いの姉と、姉馬鹿の弟という訳では無いらしい。
「私は昔攫われた事があってな。犯人は露助だったが…」
「………」
「それに姉上は酷く落ち込んでしまったんだ。もしかしたらその時に色々決心したのかもしれないな」
鯉登の発言に月島はただただ黙り、顔を伏せた。
ツバから覗く表情はいつになく無表情だ。
そんな月島に気づかず鯉登は「私が強くなり姉上の杞憂を無くすのだ!」と拳を握りメラメラと燃えている。
「…少尉。仕事を終わらせないと会うことすら叶いませんよ。早く戻りましょう」
「うむ、そうだな!」
同じ空間、同じ道をズンズン歩く鯉登。若き薩摩隼人の背中は月島にはあまりに眩しく広く感じられた。
もう二度とその光を纏うことが出来ない月島は歩き出した鯉登をゆったりとした足取りで追いかける。
胸をチリリと痛める感情に蓋をして、軍帽を深く被り直した。
*******
「鯉登少尉、飲み過ぎですよ」
「やぞろしぞ!月島ァ!姉上やいやい飲んじょったもし!」
『音、酔っているのか?』
「酔っていもはん」
『酔っぱらいは皆そう言うのだ』
ななしの肩に寄りかかりながら頬を染めた鯉登がお猪口を掲げている。
月島もななしも半ば呆れたように鯉登を見つめていた。
久々の邂逅だと言うのだから鯉登の思いも汲んでこのまま見守るべきか、重たそうにしているななしへ手を差し伸べるべきか月島は考えあぐねた。
だがやはりななしの『しっかりしろ音。結構重いぞ』という声に、離してやるのが賢明だと月島は重い腰を上げ寄りかかり続ける鯉登を支えた。
酔っ払っているせいか頭の位置が定まらず、ぐわんぐわんと揺れている。
「鯉登少尉、羽目を外しすぎでは?」
「姉上と会えた嬉すてたまらなかと!飲んたくもなる!」
「その姉上を困らせている事に気付いてください」
「おいが姉上を困らせるはずね!」
「…はぁ。とにかく壁に寄りかかってください。産まれたての赤ん坊のようになってますよ、首が」
「馬鹿にしちょっのか〜!」
「はいはい」
「月島ぁん!!」
なんとか脇に手を入れ重たい鯉登を壁に寄りかけた月島。開放されたななしは『あ、ありがとう』と、安堵したように息をついた。
鯉登は酔いにより眠気が凄まじいらしく、壁に寄りかかるや否や目をしょぼしょぼさせ微睡んでいる。
「全く…」
『いつもこんな風に世話を?』
「え?あぁ、そうですね。それなりには」
『うぅむ…音は少し月島軍曹殿に甘えすぎだな』
「普段はもう少しシャキッとしておられますよ。ななしさんに会えて余程嬉しかったのでしょう」
『ふふふ、そうか。もう少しシャキッとしているか。きっと月島軍曹殿が目を光らせてくれているからだろうな』
褐色の肌に映える白い歯を覗かせていたずらっ子のように笑うななしはなんとも可愛らしい。
鯉登の姉でよく似た部分はあるが、その笑顔は彼とはあまり似ておらず年齢よりも幼く見えた。
月島は眩しい笑顔になんとなく視線を逸らし湯のみの茶をゆっくりと喉に流し混む。
部屋には鯉登の寝息だけが響いた。
昨日であったばかりのななしと二人きり(正確には寝た鯉登もいるが)と言う謎の空間は月島の胃をキリッと傷める。
なんとも気まずいし、沈黙も耐え難い。
さっさと帰らせてほしい、などとは口が裂けても言えず月島とななしの間には無の時間だけが流れていく。
そんな中ななしが不意に『月島軍曹殿が、羨ましい』と小さく呟いたのだ。
言葉の真意が分からずに「…羨ましい?私がですか?」と問えば、彼女は穏やかな表情で酒を煽りながらもゆっくりと話を続けた。
『あぁ、貴方が羨ましいよ。男で屈強で、それから陸軍で…少尉である音の傍にいられるからな。私が手に入れたくて仕方がなかったものを持ってる』
どこか遠くを見つめるななしに月島もまた目を細めた。
そして鯉登が語ったななしの人生のほんの少しの出来事を思い出した。
女として生まれ苦悩し、だが鯉登を守りたいと己を奮い立たせて過酷な人生を歩んでいる。ななしとは女性であるがとても愚直な人間だ。
───あぁ、この人は鯉登少尉を本当に大切に思っているのだな。
昼間に見た憂い気な表情の意味がようやく少しだけわかったような気がする月島はゆっくりと顔を起こしてななしを見つめた。
彼女の顔はやはりどこか寂しそうに見えた。
『初めこそ海軍になりたいと思った。そして音が陸軍になりたいと言ってからは陸軍になりたいとも思った。傍にいればこの世に繋ぎ止められると昔の私はそう思ったんだ。だが結局邏卒にしかなれなかったのだが、最近は邏卒になれて心底良かったと感じている』
酒を飲み程よく酔いしれたのかななしは饒舌になり、まるで読み物をきかせるように月島の反応も伺わず話し続けた。
『邏卒は東京を中心に活動しているが範囲拡大を目指している。東京だけでなくいかなる都市も治安維持をすべきだからな。私はそのための人員確保をすべく南から北まで旅をし手練の猛者に邏卒勧誘をしているんだ。北海道に来たのもその一環だ』
「……なるほど。ななしさんは人員確保の為に旅をされているのですね」
『あぁ、そうだ。だが道のりは険しいよ。なかなか正義感のある者には会えないからね。その点月島軍曹殿は忠勇義烈で音からも慕われている。どうだ、邏卒に興味はないか?』
「いえ、全く」
『そ、即答か…手厳しいな』
「はぁ、すみません」
『ふふ。いや、気にしないでくれ。さてここからが本題なのだが、あまり気負わず反応もせず聞いて欲しい』
「?分かりました」
ななしは一度瞳を閉じてゆっくりと深呼吸を始めた。
そして再び目を開く。その瞳は光を移さずまるで飲み込まれそうなほど真っ黒だ。
思わずゴクリと唾を飲み込んだ月島だが、動揺を悟られぬように平静を装った。
『邏卒には治安維持の他にも"罪人を召し捕る"事が可能だ。罪人の地位や名誉は関係ない、どんなものに従事していようと等しく召し捕る事が可能だ。と、言っても四等巡査の私にその権限はなく、組織の長などしか召し捕ることは不可能だが…色々と書類を作成し提出する事で対象と見なされれば"市ヶ谷刑務所"に送ることが出来たりする』
「………」
『時に、月島軍曹殿。音が昔誘拐された事を知っているかね?』
「…っ、えぇ。ご本人から聞いたことがありますよ」
有無を言わさない鋭い視線に月島の握った拳には手汗が滲んできている。
───この人は何が言いたい、何を隠している、何を知っている。
無表情を崩さないように務めながらも、直ぐに軍刀を構えることが出来るように月島は神経を研ぎ澄まし、ななしの話を聞いた。
『私はね』
「………」
『誘拐事件の経緯を何となく知っている』
「………何が言いたい」
『言いたいこと?そうだな、私は書類さえ提出すれば"第七師団の者"でも召し捕る事が出来る』
「っ!」
ななしの言葉に握っていた拳は膝の上から軍刀へとのびていた。同時に不敵に笑う彼女の瞳と視線が合わさり、月島は頭にカッと血が上るのを感じた。
悪魔で冷静に、激情等せずに素早く鞘から軍刀を引き抜き目の前で余裕そうにしているななしへ突きつける。
肌には触れないように配慮しつつ「どういう意味だ」と睨みつければ、『はぁ…怖い怖い』とななしはゆるゆる両手を上げ降参の姿勢を見せた。
『召し捕るというのは例え話だよ。だが、事と次第によっては私は貴方の上司様を召し捕る腹積もりでいる。今はまだその時ではないし……音とも争いたくは無い』
「どこまで知っているんだ」
『うん?まぁ、それなりに。貴方がロシア語ペラペラなのも知っているよ』
「…殆ど知っているんだな」
『あぁ。貴方達の誤算は私を野放しにした事だ。あの地域で生まれ育った私が貴方達の目を欺いて全て盗み見する事など造作もない』
「鯉登少尉は知っているのか」
『知らんよ。音が幸せなら深堀するつもりも言うつもりもない』
手を挙げて話すななしからは嘘を言っている様子は見て取れず、月島は突きつけていた軍刀をゆっくりと鞘へ戻した。
「…はぁ、参った。鶴見中尉になんと報告すれば…」
『しないでいいだろ。私が殺されるぞ』
「そういう訳にはいかんだろ。第七師団でもこの一件の真相を知るの者は数少ないんだ。まして鯉登少尉の姉が知っているだなんて…あの方がなんと言うか」
『口外はせんよ』
「信じられるか」
『その代わり1つだけお願いがある』
「…この一件を出汁に無理難題を要求するつもりか?金か?名声か?…今すぐに鶴見中尉に報告しても良いんだぞ」
『難しい事では無いんだが……』
金も名声も要らないと首を横に振ったななしは膝立ちのまま眠る鯉登の隣へと移動した。
寝息を立てて夢の中にいる鯉登の頭を丁寧に撫でながら『常に寄り添うことが出来ないから…』と小さく、小さく。聞こえるかどうかの声色でポツリと話す。
そしてななしは『どうか月島軍曹殿が音を見守ってやってくれないか』とそう言ったのだ。
これには頼まれた月島も驚き目を白黒させた。
鯉登誘拐事件…そもそもその事件を起こした犯人は露助などでは無い。紛れもなく鶴見中尉とその部下である自分達が行ったもの。
一連の流れを知っているななしが咎めるでもなく、憎しみをこぼすでもなく、ただ『見守ってくれ』と頼むとはどう考えても思い至らず開いた口が塞がらない。
だがななしはそんな月島などお構い無しに鯉登の頭や跳ねた髪を撫で続けている。
「どういうことだ」
『はぁ、掻い摘んで言うと私が北海道に邏卒の駐在所を設けてそこで働けるようになるまで、音が無茶をしないか怪我をしないか見ていて欲しいと頼んでいるんだ!』
「…正気か?」
『正気だ!馬鹿すったれ!……正気だ!馬鹿者!』
「……」
『……と、とにかく!鶴見中尉の事はいけ好かないしなんなら嫌いだが、別に召し捕るつもりは無いし知っている情報を漏らすようなことは絶対にしない。だからその代わりに音を頼むと言っているんだ』
「……それでいいのか?」
『いいか悪いかは音が判断すべきだ』
「何も知らない者に委ねるのが正しいと」
『あぁ。いつかそれを知り音がどうなるかは分からんが。その時が来るまで私は今の"弟想いな姉上"のままでいるつもりだ』
「………どうしてそこまでするんだ?」
『はぁ。弟を守りたいと願うのに理由がいるか?私は二度と音に傷ついて欲しくは無いし、家族を失いたくもない。その為に何がなんでものし上がり地位的にも物理的にも強くなりたいのだ』
凛と言いきったななしの抜山蓋世たるや、その辺の有象無象などを優に上回る程だ。その目は漆黒ではなくなり、光を宿し希望すらも垣間見える。
随分と年下なはずで、華奢な女子なのに。それらを思わせないほど威厳があった。
まるでいつの日か"死んだ気でロシア語を勉強しろ"と、半ば無理やり自分を監獄から連れ出したあの頃の"命の恩人"を彷彿とさせる気概に月島は押し黙るしか無かった。
───なんてまっすぐで、気丈で、明るい人間だろうか。
「……必ず秘密厳守だ。口外しようものなら貴様が鯉登少尉の身内だろうが姉だろうが容赦なく始末する、いいな」
『あぁ!分かった!それじゃ、約束通り月島軍曹殿は音を見守ってやってくれ!』
「今回はその条件を受け入れる。だが、思い上がるなよ。俺の一存で鶴見中尉にすぐにでも報告出来るんだからな」
『あぁ!あいがと。おはんに話すこっができて正解じゃった』
「っ…」
鋭くも光を宿した双眸はどこへやら、嬉しいのかへにゃりと目を垂らし微笑んだななしの表情はまさに年頃の娘だ。キリリとした表情と可愛らしい表情に差異を感じた月島はカァッと顔に熱が集まるのを感じた。更には薩摩弁を用いて感謝を伝えてくるためなかなか心臓に悪い。
出会ったばかりで隙のないななしの破顔した姿はあまりにも男心を擽る。
しかしこの女は鯉登誘拐事件の真相を知り、鶴見中尉を敵視している人物。
今は何もしないと言っているが、その心持ちが変わりいつか鶴見中尉を召し捕る可能性も否めない。
その時は鯉登の姉だろうが敵として対峙することになるし、なんなら殺さなくてはならないだろう。
いくら女性らしい体つきで、可愛らしい顔の持ち主でも絶対に懐柔されてはならない。
絶対にだ。
月島は己を律するように自戒の念を持った。
自分を救ってくれた中尉に報いる為に生きる。
生きる意味などない自分に出来ることはそれくらいしかないのだから、と。
『ところで月島軍曹殿!』
「なんだ?」
『いや、砕けて話してくれた方がしっくりくるなと思ってな。これからもそうやって接してくれ』
「………嫌です」
『え!?』
「鯉登少尉に文句を言われるのは俺ですよ。先程は取り乱し、乱暴な口ぶりになりましたが普段貴女へ話しかける際は敬語を使います」
『や、止めろ。もう素を聞いたのだから取り繕われても気持ち悪いだけだ』
「気持ち悪い…」
『すまん、言いすぎた』
「…別に問題はない」
『月島軍曹殿!』
「譲渡する変わりに貴様も軍曹殿等と呼ぶな。月島でいい」
『つ、月島でいいか?』
「あぁ」
『つ、月島!』
「……」
『せっかく酒を用意させたんだから飲もう月島!私は酒に強いぞ』
「鯉登少尉はこんなに弱いのにか」
『音も昔の兄も父も弱い。母と私は強いぞ』
それでいいのか鯉登家よ。
だがなんとなく想像も出来てしまう。
きっと鯉登家はかかあ天下なのだろうな。
渡されたお猪口を素直に受け取った月島は傍らで注ぐななしを見て不思議な縁ができてしまったと長く息を吐いた。
そしてよもや"鯉登少尉を見守る"という約束まで取り付けてしまったことに、なんとも言えない気持ちになっている。
『夜は長いぞ月島。音見守り隊結成を記念して乾杯だ』
「嫌です」
『乾杯!!!』
「……はぁ」
カツンと小さなお猪口同士が重なる音が響いた。
(ところでぇ、ちゅきしまはぁ、日頃からぁ…)
(待て、酒が強いのでは無いのか?)
(えぇ?つよいだろぉ!もっと飲め!ちゅきしまぁ)
(……多分鯉登家全員酒に弱いんだな…)
(あぁ?わたしはぁつよい!)
(首が赤ん坊みたいになっているが?)
(馬鹿にしちょっのか〜!)
((流石姉弟))
出会い編 (完)
3/3ページ