pixiv作品 名探偵コナン
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「…ん…ちは…や…」
「…ああ…起きた…よかった…」
真夜中、体を揺らされて目を覚ました。
ゆっくりと目を開けて、千速へと視線を移すと。
千速はひどく泣きそうで。
ひどく安心したかのような表情を浮かべていた。
いや。
表面上は涙を零してはいないけど、心が泣いている。
体を起こして千速を抱き締めると。
千速も私の背中に腕を回してくれて。
お互いの肩に顔を埋め、お互いの温もりと吐息を感じることで。
お互いが生きているのかを確かめる。
“何か飲む?”
そのままの体勢で聞くと。
“…いい…しばらくこうしててくれ…”
千速もそのままの体勢で答えてくれた。
千速の背中を摩って。
“大丈夫よ、千速。大丈夫だから”
千速が落ち着くまで。
––––– 子守唄のように。
大丈夫、という言葉をかけ続ける。
“……冬華…”
小さく私の名前を呟く。
“なぁに?”
それに答えても、千速からの続きの言葉はなくて。
私を抱き締める腕の力が弱まったのを感じて。
スゥスゥと寝息を立てる千速を、ゆっくりと寝かせた。
私は千速の頭を抱き締めるように包み込んで。
“…おやすみ、千速…”
千速の額にキスを落として、眠りに就く。
これがこの一ヶ月の間の千速の様子。
そう。
千速は。
私が目覚めてから、一週間経った頃に。
トラウマを発症した。
「…ん」
朝、私が先に目が覚めた。
千速を抱き締めたままの体勢で、千速もまた私に抱きついている体勢だった。
「…ふふ」
それがなんだか嬉しくて。
まだ寝てる千速のほっぺにキスをして起き上がり、リビングへ行くついでに新聞を取りに行く。
「あちゃー…玉子買い忘れたぁ…」
千速のお弁当と、朝ご飯の用意をするために冷蔵庫を開ける。
玉子の存在がなくて、買い忘れたことを知った。
テーブルに置いた新聞。
それに挟まっているスーパーのチラシを見て。
「玉子 玉子…安くない…」
玉子が安くないことに肩を落とす。
すると。
ガチャと、リビングのドアが開いて。
「!おはよ」
千速が起きてきた。
「…おは…ぁふ…よう…」
千速はまだ眠そうで、欠伸をしながらお腹を掻いた。
それがなんだかおかしくて、可愛い。
「なんかおじさんみたいよ、千速」
「誰が親父だ」
なんて朝の一笑いをして、千速は私の隣に座った。
「玉子買い忘れちゃった」
「卵焼きはなしか」
「食べたい?」
「お前の卵焼きが好きだから食べたい」
私はクスクスと笑って。
「じゃあ、お昼にお弁当届けるわね」
「うん」
今日はお弁当を配達することになった。
今は。
夜中の不安そうな千速はいない。
朝起きればいつもの千速で。
「交通課の奴ら、愛妻弁当を羨ましがるんだ」
「あら、手抜き出来ないなぁ」
「一昨日は刑事課の奴に卵焼きを食われて取っ組み合いだよ」
「…怪我しないようにね?」
いつもの強気の千速なの。
不安で、弱々しくなるのは夜中だけ。
そして。
真夜中に起きて。
不安で泣きそうになりながら私を起こしてる時の記憶がないの。
夢遊病のような症状。
ただ起きて歩き回ることはないし、私を起こして落ち着くまで抱き締める。
そんな感じかしら。
私はそれについて、千速には言っていない。
気にしちゃうだろうから。
千速にトラウマになるきっかけを与えたのは私だから。
研二君の死を始めとし、ズンと重くのし掛かる暗く冷たい感情が腹の奥底に貯まって。
私の昏睡状態でそれがまた蓄積され、陣平君の死でさらに蓄積された。
溢れそうになる暗く冷たい感情が溢れないように。
なんとか耐えれていたのは私がまだ生きていたから。
けれど。
私が目覚めたことで、溢れそうで溢れなかった感情が溢れてしまった。
目覚めたことへの喜び以上に。
再び私が眠りに就いてしまうかもしれない不安と恐怖に支配されてしまった。
だから私は。
毎日不安と恐怖で泣きそうになっている千速を見るのはつらいけど、千速が自然と起きずに眠れるようになるまで。
千速のトラウマに付き合っていくつもり。
「んーッ!っはぁ…!」
私はグーッと背中を伸ばして。
「よし!今 朝ご飯作るから」
「……」
中断してた朝ご飯の準備を再開する。
「…っ!!…ちょっと千速?」
否…。
しようとしたら…。
「その前に一回抱く」
手を掴まれ、ソファーに倒された。
昼夜問わず急にスイッチが入るのよね…。
「仕事遅れ––––
るわよ、とは続けられず…。
まぁ朝から。
まぁそれなりに、ね。
まぁ…。
…真夜中以外はいつも通りの千速だから…ねぇ…?
「…迷った」
千速を送り出して、洗濯を終わらせて。
掃除に取り掛かる前に玉子を買いに出た。
街を歩くのは五年ぶり。
目が覚めてからの一ヶ月間は検査続きだった。
なんかよくわからないけど、脳波を調べたりMRIを撮ったりCTスキャナーにかけられたり。
何でも、脳死じゃないのに五年も意識不明になるという例がなくて。
“論文書きたい”って言われたわ。
やっと検査から解放され、自由に歩き回るのは今日が初めて。
横浜駅周辺が五年前とは大きく違っていて。
高いビルも増えて、近未来的な街並みになった。
スマホで時間を確認して。
お昼まで時間あるし、ちょっとだけ街を見て回ろうと思って。
風景を見ながら歩いていたら。
迷子になっちゃった…。
「や、確かこっちから来たはず」
と思って角を曲がったけど、また知らない道。
こっちから来たと思ってた道と、行こうとしてる道を交互に見て。
「……神隠しに遭ったわね、これは」
自分の方向音痴を認めなかった。
私は五年前まで使っていたスマホを取り出す。
私のスマホは、ずっと病室のベッドに置かれていたみたい。
枕元にあって、千速がお見舞いに来る度に充電をして。
月に一度、持って帰って基本料を払って。
ずっと維持をしてくれていた。
と、病院の先生から聞かされた。
私のスマホの着信履歴とメッセージの件数は、2000件を裕に超えていた。
友人からの数件と、あとはほぼ千速からだった。
“おはよう” と “おやすみ”
“いつまで寝てるんだ” と “さっさと起きろ”
千速は毎日お見舞いにきてくれていて、毎日電話とメッセージを残してくれた。
さすがに全部遡ることは出来ないから、途中までだけど。
病院の先生にそんな話をすると。
“五年間ずっと、君からの返事を待っていたんだろうね”
そう言われて、泣いちゃった。
「あ、やば…泣きそう…」
思い出しただけでも泣きそうになる。
涙を拭っていたところで。
「あれ、お前さんは…」
声をかけられた。
「…!」
そちらへ振り返ると、スーツを着た大柄の男性が一人と。
小柄な男性が二人いた。
「あ…こんにちは…」
どなたかはわからないけれど、大柄の男性は私を知っているようで。
「あんた、千速のだろ?」
どうやら千速の知り合いみたい。
「はい、そうです。蒼月冬華です」
千速の知り合いなら大丈夫だと思って、名前を伝える。
「俺は横溝 重悟だ。千速と同じ警察署勤務だが部署は刑事課でな」
横溝…って、確か。
「あなたが私の目覚めを千速に知らせてくれた…」
“全然電話に出ねぇ!ええい警察署にかけてやる一大事だ!”
って先生が言っていたのは聞こえてきてた。
「千速が言ってたか?県警本部に病院から電話来てビビったよ」
…千速、ではないのだけれど。
「本当にありがとうございます。横溝さんのおかげですぐ千速が来てくれました」
でも、ちゃんとお礼が言えてよかった。
「いや、いいんだ。俺はお前さん方が幸せならそれで」
「…警部らしくない言葉だ」
「誰だこの人…」
二人の刑事さんたちが訝しげに横溝さんを見上げていたからつい笑ってしまった。
「というか、こんなところで何をしてたんだ?」
そうだった。
本来の目的を忘れてた…。
「…実は…玉子を買いに行こうと街に出たら迷子になっちゃって…」
恥ずかしいけど、千速の知り合いに会えてラッキーだった。
「そんな入り組んだ場所じゃねぇがなぁ」
「…神隠しに遭ったんです」
「5秒くらい前に迷子になったっつったろ」
横溝さんにスーパーの場所を聞いて、玉子を買って、家に帰ってお弁当!
で、千速に届けたらいい時間よね。
と、思っていたら。
「だが、まぁ、ふむ」
横溝さんは何かを考えて。
「ちょっといいか?」
「?はい、どうしました?」
スマホを取り出し、私の肩に手を置いて。
顔を近づけて。
パシャ
「!」
所謂 自撮りというのをした。
「よし」
「セクハラですよ警部」
「萩原警部補に通報しますからね」
刑事さんたちが私を庇うように前に出た。
「萩原警部補の愛妻家ぶりを知ってるでしょう?」
「あぁ、一昨日弁当を見せびらかしてきたから卵焼きを食ってやったら掴みかかってきた」
あ、この人と取っ組み合いをしたんだ…。
私は苦笑いを浮かべて、横溝さんが操作してるスマホを見せてもらうと。
“お前の嫁、迷子になってるぞ”
というメッセージと一緒に、今撮った写真を千速に送った瞬間。
ヴーッ ヴーッ
千速から電話が来た。
「もしもし、ちは『お前どこにいるんだ!?なんで重悟がそこにいる!?』
私の言葉を遮って、大きな声を出してきた。
「や…玉子を『おい重悟!聞こえてんだろ!お前セクハラだからな!!』
…めちゃ怒ってる…。
横溝さんが手を出すから、スマホを渡した。
「この近辺で事件があってな。近隣住民に聞き取りをしてたんだよ」
『それと触るのと何が関係あるんだ!冬華に代われ!』
めちゃ怒ってるから、めちゃ声が聞こえる…。
「お前、俺たちがここに居たから彼女を見つけられたってことを忘れてないか?」
横溝さんはニヤニヤ笑いながら千速にそう言うと。
『…ぅ…』
黙っちゃった。
確かに横溝さんたちがここにいたから私を見つけてくれたわけだから。
「何か言うことは?」
千速の声が聞こえなくなったから、冷静になったみたい。
「はっはっ、覚えてろだとよ」
あ、なってなかったわね、冷静に。
横溝さんは笑いながら私へとスマホを返してくれた。
「もしもし、私は大丈夫だから」
『今から迎えに行くからそこにいろ』
「え?でも仕事中…」
『白バイの巡回を利用して行く。だから待っててくれ』
「えー…ごめん千速…」
『大丈夫だ。じゃあ切るぞ?』
「うん…」
千速にすごく迷惑かけちゃった…。
千速との通話を終えて、肩を落とす。
こんなはずじゃなかったのになぁ…。
「過保護にも程があるんじゃないか、お前さんの恋人さんは」
「千速の過保護は昔からなんです。でもほら、私…」
「あー…」
横溝さんは理解をしてくれて、苦笑いを零した。
「お前ら、先に聞き込みに行っててくれ」
「了解しました」
刑事さん二人を先に行かせ、横溝さんは私の傍にいてくれた。
千速が来るまで居てくれるみたい。
「千速、仕事中はどういう感じですか?」
「部署が違うからあんま詳しくはわからねぇけど、お前さんの写真を見てニヤニヤしてるらしい」
「…そ、そうなんですか…」
…何やってるのよ千速。
顔が熱くなるのを感じて、手でパタパタと顔を仰ぐ。
「家ではどんな感じなんだ?」
横溝さんはスマホをいじりながら、家での千速についてを聞いてきた。
家でもいつも通りの千速。
裏表のない人だから、みんなが知っている通りの千速だ。
千速が千速らしくなくなるのは真夜中だけ。
私は横溝さんを見上げる。
さっきの電話でのやり取りから推測すると、結構仲がよろしいようで。
ちょっと妬けるけど、千速と横溝さんの関係性なら真夜中の千速の行動を相談してもいいのかな。
「…千速は、今トラウマに苦しんでます」
「トラウマ?」
「と言っても、本人は記憶にないんですけどね」
「どういうことか説明してもらえるか?」
私は地面を見つめるように視線を下げて。
「…この一ヶ月間、真夜中に起こされるんです。千速は大切な人を二人も失ってるから…」
千速の悲しみに触れる。
「私まで起きなくなったらどうしようっていう不安から来てるんだと思います」
七年前に研二君を失い、五年前には私が意識不明に。
三年前は陣平君が亡くなった。
千速の大切な人たちが亡くなって、私まで死んでしまうかもしれない恐怖の中で。
千速は五年も待っていてくれた。
「ふむ」
「あ、私自身が寝れないのがつらいとかじゃないんですよ?」
不満ではないことを告げる。
「それはわかってるさ」
千速に対して不満なんかない。
これでもか!というくらい千速からの“好き”が伝わってくるし、大事にしてくれてる。
「…だが…そうか。今まで発症しないのが奇跡だったんだよな。それがあいつの強さだったんだな」
どうすれば千速は救われるのだろう。
どうすれば千速は安心して眠ることが出来るのだろう。
私はもう大丈夫だと一ヶ月間言い続けても、千速のトラウマは治らない。
「…怖いんです私…」
「怖い?」
いつか。
いつか千速が壊れてしまうのではないかと。
「…千速が壊れそうで…」
今はまだ千速自身は覚えていないけど。
それでも静かに。
それでいて着々と。
今の千速の心は。
–––– ヒビ割れた
ガラスのように –––––
少し触れれば、割れてしまうのではないかというくらい脆くなっていて。
そしていつか。
千速が自身のトラウマに呑まれてしまった時。
千速はきっと、壊れてしまう。
だから怖くて言えない。
「まぁ大丈夫さ」
横溝さんが私の頭に手を置いて。
「あんたが傍にいる限り、千速は絶対に壊れない」
「え?」
また横溝さんを見上げると、小さく笑みを浮かべていて。
何を根拠にそう言えるのだろうと。
話を聞いてくれた人に私はなんてことを思ってしまうのだろう。
「根拠はねぇがな!」
エスパーかと思った。
それによ、と横溝さんは続けて。
「確かに千速はお前さんが目覚めたことで過去の悲しみと相まってトラウマを発症しちまったのかもしれねぇが」
ニッと笑って。
「そんな危うい千速の心を繋ぎ止めてんのもまた、お前さんだってことを忘れんな」
ガシガシと私の頭を強めに撫でてくれた。
私が、壊れそうな千速の心を。
繋ぎ止めてる?
「…ありがとう…ございます…」
ちょっとだけ、心が軽くなった気がする。
私が千速のトラウマのきっかけなのに。
“私が千速の心の支えになってる”
そんなふうに考えたことがなかったから。
この人…お弁当の件で千速と取っ組み合いになった人とは思えないくらい優しい人って思ったところに。
サイレンの音が聞こえてきた。
「あのバカ…白バイのサイレン鳴らして来てやがる…」
途端に横溝さんは呆れ顔で。
大きなエンジン音と排気音を響かせて、白バイが角から現れたと思ったら。
『そこの人相が悪い大男、直ちに彼女から離れて壁に手を付きなさい。抵抗しても無駄だ』
ヘルメットに搭載されている拡声器で横溝さんに警告を出した。
すごいエンジンを吹かしながら、私と横溝さんの間で白バイを止めて。
「横溝重悟、お前を公然わいせつの罪で死刑とする」
「わいせつなんてしてねぇし、もししたならまずは逮捕しろ」
ジト目で横溝さんを睨んだ。
「っつうか、事故でも事件でもないのにこんな住宅街でサイレン鳴らして来るバカがどこにいるんだよ…」
千速はジト目のまま私を見て、横溝さんに視線を戻して。
「目の前にいるだろ」
至極普通にそう言った。
私は苦笑いを浮かべるしかない…。
「千速、横溝さんは千速が来るまで傍に居てくれたの」
だからそんなに横溝さんを威嚇しないでほしいことを伝えると。
「…冬華」
「へっ」
横溝さんは“ほら見ろ!”と言わんばかりにニヤニヤと千速を挑発して。
「…チッ」
千速はガチトーンの舌打ちをした。
「…世話になったな、重悟」
「もっと心を込めて言ってほしいもんだが、構わねぇよ」
千速は白バイに跨ったまま私の腰を抱き、白バイの後ろに座らせて。
「あ、おい。白バイでの二人乗りは違反だぞ」
また白バイのスロットルを吹かして。
「っちょっ!千速!」
「っ千速てめぇ!」
横溝さんにあかんべーをしてバイクを走らせた。
…今度会ったら謝ろうと思った。
「止まって止まって!そろそろ降りないと!」
細道を通ったり、あっち行ったりこっち行ったり。
私にはどこを走ってるのかわからないけれど。
横溝さんが“白バイでの二人乗りは禁止”って言っていたから、誰かに見られる前に降ろしてもらわないと。
千速は白バイのスピードを緩めて。
「ここら辺でいいか」
千速が止まってくれた場所は、ガタンガタンと頭上から電車の音が聞こえるような。
長年使われていないような橋の下の駐輪場。
私は白バイから降りて、辺りを見回す。
「ここどこ?地球?」
「地球」
千速はヘルメットを脱いで、白バイのハンドルにかける。
「人っ子一人いないわねぇ」
生活感はあるのに、誰も通りかからない。
なんだか不思議な場所だと思っていたら、何か落ちる音が聞こえて。
「?」
振り返れば、千速が脱いだ手袋が地面に落ちる音で。
これはまずいと思って千速から距離を取ろうとしたら時すでに遅く…。
「……っ」
橋の石柱に押し付けられて、キスをされた。
両手で私の頬を固定し、逃げられないように。
––– 舌を絡め取られて。
––– 交わる吐息を吸って。
千速の袖を掴み、なんとか止めさせようにも深くなる一方で。
遠くで聞こえる車の排気音と。
電車が頭上の線路を通る度に鳴る大きな音に隠されて。
私たちしか聞こえない ––––
–––– 唾液が混ざり合う艶かしい水音に。
羞恥心を抉られながら。
捉えて離さない千速の煽情的な眼差しで、目を逸らすことすら許されない中で。
千速を求めてしまう前に。
なんとか押し返して。
「…っや…っやめ…って…っくれないと…!今日から一緒に寝ない…っ!」
って言えた私、すごいと思う。
「…ッ!」
千速はピタッと動きを止めて。
「お前…それは卑怯だぞ…」
頬を膨らませながら離れた。
「卑怯でも何でもないわよ…!あなた警察の制服を着たままだということを忘れてない!?」
「…忘れてはないが、元はと言えばお前が迷子になるから悪いんだろ」
ま、まぁ…それを言われると、ちょっと言い返せないから。
「…迷子じゃなくて神隠しに遭ったの」
ちょっと抵抗してみたら、千速はきょとん顔をして。
「神隠しってお前なぁ」
目を細め、腰に手を当てて。
「神とやらにお前を隠されてしまったのなら、私はそいつを憎むことになるが…いいんだな?」
………そう言われちゃうと、また言い返せないから。
「…迷子になってすみませんでした…」
迷子を認めるしかなくなった。
だって、必殺技の“神様お願いします!”が使えなくなっちゃう。
「よろしい」
千速はクツリと笑い、額にキスをしてくれた。
「今日はコンビニで弁当を買って、公園かどこかで一緒に食おう」
時間的に、玉子を買って帰ってからお弁当を作るんじゃもう間に合わないから。
「そうしよっかぁ…はぁ…神隠しに遭わなければなぁ…」
「よかろう。神とやらと戦争だ」
「勝てるかしら?」
「勝つに決まってる」
なんて千速と笑っていたら。
『萩原警部補、どこへ行ってるんですか?直ちに県警本部へと帰還してください』
という、ヘルメットの通信機能で県警本部からの連絡が入った。
「…昼は食べられないかもしれん」
「帰りも遅くなりそうね」
報告書と上司からのお叱りが確定しました…。
「……ん」
夜、目を覚ました私。
時計を見ると、午前一時頃。
千速に起こされる前に起きた。
「…喉痛い気がする…」
身体の不調で。
少しの悪寒と喉の違和感。
節々の痛みと、身体の怠さ。
千速の首筋に触れる。
…よかった。
千速は大丈夫そう。
千速の頬にキスを一つ落とし、千速を起こさないようにベッドから降りる。
「…薬あったかな」
静かに寝室を出て、納戸で薬を探す。
「あ、あった」
わりと早く薬を見つけ、水と一緒に飲み込んだ。
キッチンのシンクに手を付き、深く息を吐く。
ソファーに移動して、パタリと横になる。
薬が効いてきたらベッドに戻ろうか、はたまた千速に移さないようにここで寝ようかしら。
いや、だめだ。
真夜中、無意識に起きる千速の不安を拭ってあげないと。
抱き締めて、良い子良い子して、大丈夫って子守唄を歌ってあげないと。
「…戻ろ」
節々の痛みが強くなってきたし、千速に起こされる時間までちょっと寝ようと。
立ち上がった時。
ふと。
似顔絵班の方に描いていただいた湊の肖像画が視界に入った。
湊は、私たちがたくさん考えて付けた子供の名前。
“良い名前だよな”
“この名前と同じくらい良い名前は一人しか知らないわ”
“…誰だよそれ”
“ “千速”って名前なんだけど、知ってるかなぁ?”
“…お前なぁ…それはズルすぎるだろ…”
なんて会話をしたのを思い出して、少し笑った。
湊の肖像画の前に立って。
「…どうしたら千速を救えるのかしらね」
撫でるように触れる。
「…横溝さんは私が壊れそうな千速の心を繋ぎ止めてるって言っていたけど」
繋ぎ止めているだけで、直してあげることが出来ない。
大丈夫だと声をかけても、千速は不安と恐怖を克服出来ない。
私が眠るのを畏れ、不安で泣きそうな千速を見るのがつらいの。
「…あなたなら、千速になんて声をかける?」
“ママ、起きて。ちーちゃんが待ってるよ”
あなたの言葉で私は目覚めたの。
千速が待っててくれてるって知れたから。
「…ねぇ湊…どうか千速を救ってあげて…」
私を起こしてくれたように。
千速を不安と恐怖から解放してあげてほしいと。
そう願いながら。
「…おやすみ、湊」
私はもう一度、湊の肖像画を撫でて。
この二時間後、再び起きた。
「…本当に大丈夫なのか?」
「えぇ、病院行くほど熱も高くないし、大丈夫よ」
朝起きて、体は夜中よりは楽になった。
でも熱はまだあるから今日一日しっかり寝て、明日までにちゃんと治そう。
千速は出勤ギリギリまで休むと利かなかったけど、定期的に写メを送るからって言ったら納得した。
「ちゃんと寝てろよ?どこにも出掛けるなよ?神とやらに隠されるからな」
「神隠しに遭ったら連絡するわ」
「だから出掛けるなって言ってるんだよ」
そんな会話をして、千速を送り出した。
本当に心配性で過保護で困っちゃうけど、私がそうさせたみたいなものなのよね。
「…寝る前に洗濯機回すかな」
白いものと色付きのものを分けて、最初は白いものから洗濯をする。
ピロン
「!」
スマホが鳴る。
千速からだ。
“ちゃんと寝てるか?”
私がちゃんと寝てるかの確認だった。
「ふふ、心配性だなぁ」
私は捲った袖を下ろして、寝室へ行ってベッドで横になってから自撮りをして。
“大丈夫、ちゃんと寝てる”
と、写メ付きの返事をした。
“よろしい”
「上手く騙せたわね」
体はつらいけど、専業主婦をさせてもらってる以上やるべき家事はやらないと。
スマホを閉じ、家事に戻る。
10分後。
“ちゃんと寝てるのか?”
また千速から連絡がきた。
“もちろん”
また同じように捲った袖を下ろしてベッドに潜り、写メを撮って千速に送る。
家事に戻ってまた10分後、また千速から連絡が来る。
…私が寝てるかもしれないって思わないのかしら。
“本当に寝てるか?”
“寝てるわよ。もうちょっとで寝そうだったのにー”
と送って、ベッドにいる写メを送ったところ。
“やっぱりお前、家事をしてただろ”
と送られてきた。
「え?」
なんでわかるの?って返信しようとしたら。
“捲った袖、下ろし忘れてるぞ”
「…しくったぁ!」
何回も連絡が来るから戻し忘れた。
“家事はいいから、ちゃんと寝てろ”
きっと千速は、私が起きて家事をしてるってわかっていたから何度も連絡をしてきてたのね。
私は小さく笑って“了解しました”と送った。
それから千速からの連絡がないから、信用してくれたんだと思う。
「…ふー…」
とりあえず洗濯機は回しちゃってるし、洗濯物を干してから休もっと。
“…ここは…”
気が付けば、真っ白な空間の中にいた。
周りを見ても誰もいないし、何の音も聞こえない。
“あ、夢か。寝ちゃったんだ私”
すぐに夢だと気付いた。
“えー…洗濯物がぁ…”
せっかく洗濯機を回したのに、また洗濯し直さないといけないことに肩を落とした。
キュッ
と、右手。
何か、握られるような感触。
「?」
自然と握り返しながら、右手へと視線を落とすと。
“……湊…”
私を長い眠りから起こしてくれた湊が。
私の手を握っていた。
“また会いにきてくれたのね”
私は湊と視線を合わせるように屈んで、湊の両手を握る。
湊は小さな笑みを浮かべているだけで、言葉を発することはなく。
けれど。
“湊?”
湊が振り返ったと同時に。
「……ん」
目が覚めた。
「!冬華、起こしちゃったか?」
千速が目の前にいる。
「…ちはや…?」
「うん」
え、仕事は?
今何時?
「昼休憩を利用して一度帰ってきたんだ」
お前が心配で、と。
千速は私の額にキスを落とした。
ああ。
湊は千速が帰ってきたことを教えてくれたのね。
「…そう」
あんな短い夢なのに、結構時間が経っちゃってたのね。
「大丈夫か?薬は飲んだ?」
「あー…朝に飲んだだけだから、ご飯食べてまた飲まないと」
「病院行ったほうが…」
「そこまで酷くないから大丈夫よ」
千速の頬に手を添えて、誘導してキスを一つ。
「はい移しました」
「お前の風邪が良くなるなら大いに結構」
むしろ休む口実になるから移してくれ、だって。
ふふ、本当に愛されてるなと感じる。
体を起こし、リビングへ行く。
「お昼はまだ食べてないでしょ?」
「買ってきたから作らないでいい」
テーブルにはコンビニの袋があり、中にはおにぎりとうどん、スポーツドリンクと玉子が入っていた。
「あ、玉子買ってきてくれたのね」
「あぁ。神隠しに遭う前に買ってきた。弁当は好きなやつ食っていいぞ」
神隠しに遭う前にって、もう迷子になる前提になってる…。
そんな千速に苦笑いを零す。
「じゃあ、胃に優しそうなうどんいただこうかな」
「ん、温めてくる」
千速が動いてくれて、私は座ってるだけ。
待ってる間、窓の外を見ると洗濯物が干されていた。
「あ、洗濯物干してくれたのね。ありがと」
「ん?ああ、うん。いや、礼を言われるようなことではないだろ」
「専業主婦をさせてもらってる側としたら、お礼を言うべきことなの」
「“させてもらってる”んじゃなくて、“してもらってる”んだがな、私にしたら」
だから私のほうこそありがとうだろ、と。
千速は笑った。
ああ、好きだなって思う。
こういう気遣いがすごく好きだなって。
心配性で過保護で。
今だってきっと、私が起きなかったらどうしようと思ったと思う。
目が覚めた時に目に入った千速の表情が、不安そうだったからね。
本当に、どうしたらあなたをトラウマから救ってあげられるのだろう。
「熱いから気をつけろ」
「ん、ありがと」
「あ、ふぅふぅするか?」
「自分で食べられますー!」
なんて笑い合って、お昼ご飯を食べた。
薬を飲んで、ソファーで横になる。
「ベッドで「さっきねぇ」
ベッドで寝ろって言おうとしただろう千速の言葉を遮って。
「さっき、湊の夢を見たの」
「湊の?」
「えぇ」
夢を見ているってわかったから、あれは明晰夢。
明晰夢は、夢の中の状況をある程度コントロール出来ることもある不思議な夢。
だからきっと、湊が出てくるように自分でコントロールしたのかもしれない。
出てきてくれたわけじゃなく、出させた状況だったのかもしれない。
「湊、何か言っていたか?」
私は自分の右手を見つめて。
「…んーん。でも湊が手を握ってくれたの」
その感触は夢の中でしかわからなかったけれど。
私の手を握って、笑ってくれた。
「…そうか。湊もお前を心配してるのかもしれないな」
千速は湊の肖像画を見つめ、小さく笑う。
その笑みは、どこか湊に似ていて。
やっぱり私たちの子供なんだなって改めて思った。
…いえ、まさか。
「まさか千速の隠し子とか?」
「私が浮気した、と?」
「………ゴメンナサイ」
「さすがに次は怒るからな」
眉間に皺を寄せ、私の額に自分の額を合わせた。
「…私の夢にも出てきてほしい」
「どんな夢を見たい?」
「お前と湊と私の三人で、手を繋いでる夢がいいな」
海に行ったり山に行ったり、遊園地や水族館で遊び尽くす夢よりも。
ただ三人で手を繋いで笑い合えれば。
それだけでいいと千速は言った。
子を成せない私たちには、贅沢すぎる夢かもしれないがなと続けて。
「夢に贅沢も何もないわよ」
「はは、そうだな」
千速はクスクスと笑って、時計を見る。
「っと、そろそろ戻らないと」
と言いながら、熱を測って。
「…ダメだ、健康だった」
「あは!本当に千速は可愛いわねぇ」
「…行ってくる」
「えぇ、行ってらっしゃい」
ガクッと項垂れた千速にキスをして、再び送り出した。
「明日には治ってるといいが…」
「これだけ休んだんだもの。治るわよ」
夜、ベッドの中でまだ心配してる千速が言った。
家事は千速が帰宅後にしてくれて。
夜ご飯も。
“お前ほど上手く出来なかった…”
“えー?美味しそうよ?ありがと”
不器用ながらに作ってくれた。
お風呂も一緒に入って、髪の毛を洗ってくれて。
“ちゃんと乾かさないとまたぶり返すからな”
“はーい”
ドライヤーで乾かしてくれた。
その間千速は何回も熱を測り、健康であることに肩を落とす。
“健康であることに感謝すること!”
“く…わかった…”
素直な千速に笑っちゃった。
“先に寝るわね”
早めにベッドへ行けば、千速も付いてきて。
“まだ起きててもいいわよ?”
“いや、私も寝る”
リビングに一人で居るのが寂しいみたいで、一緒にベッドへ入った。
“玉子もあるし、明日こそお弁当作るわね”
“無理はしないでいいが、あると嬉しい”
“やっぱり可愛いなぁ千速は”
“うるさいぞ、まったく”
なんて会話をして、私たちは眠りに就いた。
そして、また。
––––– 夢を見た。
“……湊”
昼間と同じ夢を。
私は湊と視線を合わせるように屈んでいて、湊の両手を握っていた。
昼間と同じ夢であり、昼間の続きのような夢。
千速の面影を残すあなたは、本当に存在しないのかな。
どこかに居て、私たちが来るのを待ってるんじゃないのかな。
“…あなたはどこにいるの?”
問いかけても、湊は笑ってるだけ。
“ねぇ湊。私も千速もあなたにすごく会いたいの”
あなたに会って、抱き締めて。
“ありがとう”って言いたいの。
湊は立ち上がり、クイッと私の手を引いて歩き出した。
“どこへ行くの?”
私は湊と手を繋いだまま、湊について行く。
“…?”
遠くに人影が見えた。
目を凝らして見てみると。
“……ちは…や…?”
その人影が、千速だと知った。
“……冬華…?”
千速も驚くように私を見ていて。
湊が私から手を離し、千速へと駆けて行って。
“…やっと私の夢にも出てきてくれたんだな”
千速の前に立つ湊の頭を、千速が撫でた。
不思議な夢。
私はゆっくりと千速へと歩み寄って。
千速と一緒に、湊と視線を合わせるようにまた屈んだ。
その時だった。
湊は私と千速を交互に見て、私と千速の手を握って。
太陽のような笑顔で。
“もうママは大丈夫。だから安心してね、ちーちゃん”
そう言った瞬間だった。
「……ッ!」
目を覚ましたのは。
「……はぁ…」
泣きそう。
あなたに会いたすぎて。
あなたに会いたすぎて泣きそうよママは。
千速が身動いだのを感じて、千速のほうを見ると。
「…千速?」
千速は、仰向けのまま両手で顔を覆い隠していて。
手の端から、涙が伝っていた。
「どうしたの?千速」
体を起こし、千速のお腹に手を置いて。
どうして泣いているのかを聞こうとした。
怖い夢を見た?
私がまた起きない夢を見た?
どんな言葉を言ったら、あなたは安心する?
頭の中で考えていたら。
「…お前は」
千速が口を開いた。
「ん?なぁに?」
千速は両手で顔を隠したまま。
「お前は、もう大丈夫なんだな」
そう言った。
その瞬間に。
“ママはもう大丈夫。だから安心してね、ちーちゃん”
この言葉の意味を理解したと同時に。
「…あなたも…湊の夢を…?」
私が見ていた夢と、千速が見ていた夢が。
「……うん…湊が…ママは…もう大丈夫だって…」
同じであることを知って。
「……っ」
堪え切れない涙が頬を伝った。
“……ねぇ湊…どうか千速を救ってあげて…”
あなたは、私のこの言葉を。
「大丈夫、私はもう大丈夫…!」
叶えにきてくれた。
「…うん…うん…」
あなたは。
「すまなかった…冬華…ごめん…」
「いいの…!いいんだってば…っ千速…!」
千速と一緒にあなたに会いたい、あなたと千速と私の三人で手を繋ぎたいという願いを叶えにきてくれた。
きっと現代科学では証明出来ないだろう奇跡のような出来事で。
誰も信じてくれない不思議な出来事だろう。
それでも確かに私たちは。
あなたの存在を知り、あなたの手の暖かさを知って。
太陽のような笑顔に救われた。
その日から。
千速は真夜中に起きることがなくなった。
安心して眠れるようになったことで。
「そうだったのか…知らなかった…すまない…」
「んーん。言わなかったのは私だから謝らないで?」
ようやく千速に真夜中のことを話すことが出来た。
そして、あの日以来。
湊が私たちの夢に出てくることはなかった。
落ち込む私に、千速は言った。
“きっと未来に帰ってしまったのかもしれないな”
と。
そう思うと心が軽くなって。
“そうかもしれないわね”
私も笑うことが出来た。
私たちは信じてる。
いつか。
–––– 遥か遠い未来で。
女同士でも子を成せるような時代が来ると。
そこでまた。
千速と出会い、結ばれて。
そして。
あなたという存在に。
–––– 必ず出逢えることを
信じてるから ––––
END
「…ん…ちは…や…」
「…ああ…起きた…よかった…」
真夜中、体を揺らされて目を覚ました。
ゆっくりと目を開けて、千速へと視線を移すと。
千速はひどく泣きそうで。
ひどく安心したかのような表情を浮かべていた。
いや。
表面上は涙を零してはいないけど、心が泣いている。
体を起こして千速を抱き締めると。
千速も私の背中に腕を回してくれて。
お互いの肩に顔を埋め、お互いの温もりと吐息を感じることで。
お互いが生きているのかを確かめる。
“何か飲む?”
そのままの体勢で聞くと。
“…いい…しばらくこうしててくれ…”
千速もそのままの体勢で答えてくれた。
千速の背中を摩って。
“大丈夫よ、千速。大丈夫だから”
千速が落ち着くまで。
––––– 子守唄のように。
大丈夫、という言葉をかけ続ける。
“……冬華…”
小さく私の名前を呟く。
“なぁに?”
それに答えても、千速からの続きの言葉はなくて。
私を抱き締める腕の力が弱まったのを感じて。
スゥスゥと寝息を立てる千速を、ゆっくりと寝かせた。
私は千速の頭を抱き締めるように包み込んで。
“…おやすみ、千速…”
千速の額にキスを落として、眠りに就く。
これがこの一ヶ月の間の千速の様子。
そう。
千速は。
私が目覚めてから、一週間経った頃に。
トラウマを発症した。
「…ん」
朝、私が先に目が覚めた。
千速を抱き締めたままの体勢で、千速もまた私に抱きついている体勢だった。
「…ふふ」
それがなんだか嬉しくて。
まだ寝てる千速のほっぺにキスをして起き上がり、リビングへ行くついでに新聞を取りに行く。
「あちゃー…玉子買い忘れたぁ…」
千速のお弁当と、朝ご飯の用意をするために冷蔵庫を開ける。
玉子の存在がなくて、買い忘れたことを知った。
テーブルに置いた新聞。
それに挟まっているスーパーのチラシを見て。
「玉子 玉子…安くない…」
玉子が安くないことに肩を落とす。
すると。
ガチャと、リビングのドアが開いて。
「!おはよ」
千速が起きてきた。
「…おは…ぁふ…よう…」
千速はまだ眠そうで、欠伸をしながらお腹を掻いた。
それがなんだかおかしくて、可愛い。
「なんかおじさんみたいよ、千速」
「誰が親父だ」
なんて朝の一笑いをして、千速は私の隣に座った。
「玉子買い忘れちゃった」
「卵焼きはなしか」
「食べたい?」
「お前の卵焼きが好きだから食べたい」
私はクスクスと笑って。
「じゃあ、お昼にお弁当届けるわね」
「うん」
今日はお弁当を配達することになった。
今は。
夜中の不安そうな千速はいない。
朝起きればいつもの千速で。
「交通課の奴ら、愛妻弁当を羨ましがるんだ」
「あら、手抜き出来ないなぁ」
「一昨日は刑事課の奴に卵焼きを食われて取っ組み合いだよ」
「…怪我しないようにね?」
いつもの強気の千速なの。
不安で、弱々しくなるのは夜中だけ。
そして。
真夜中に起きて。
不安で泣きそうになりながら私を起こしてる時の記憶がないの。
夢遊病のような症状。
ただ起きて歩き回ることはないし、私を起こして落ち着くまで抱き締める。
そんな感じかしら。
私はそれについて、千速には言っていない。
気にしちゃうだろうから。
千速にトラウマになるきっかけを与えたのは私だから。
研二君の死を始めとし、ズンと重くのし掛かる暗く冷たい感情が腹の奥底に貯まって。
私の昏睡状態でそれがまた蓄積され、陣平君の死でさらに蓄積された。
溢れそうになる暗く冷たい感情が溢れないように。
なんとか耐えれていたのは私がまだ生きていたから。
けれど。
私が目覚めたことで、溢れそうで溢れなかった感情が溢れてしまった。
目覚めたことへの喜び以上に。
再び私が眠りに就いてしまうかもしれない不安と恐怖に支配されてしまった。
だから私は。
毎日不安と恐怖で泣きそうになっている千速を見るのはつらいけど、千速が自然と起きずに眠れるようになるまで。
千速のトラウマに付き合っていくつもり。
「んーッ!っはぁ…!」
私はグーッと背中を伸ばして。
「よし!今 朝ご飯作るから」
「……」
中断してた朝ご飯の準備を再開する。
「…っ!!…ちょっと千速?」
否…。
しようとしたら…。
「その前に一回抱く」
手を掴まれ、ソファーに倒された。
昼夜問わず急にスイッチが入るのよね…。
「仕事遅れ––––
るわよ、とは続けられず…。
まぁ朝から。
まぁそれなりに、ね。
まぁ…。
…真夜中以外はいつも通りの千速だから…ねぇ…?
「…迷った」
千速を送り出して、洗濯を終わらせて。
掃除に取り掛かる前に玉子を買いに出た。
街を歩くのは五年ぶり。
目が覚めてからの一ヶ月間は検査続きだった。
なんかよくわからないけど、脳波を調べたりMRIを撮ったりCTスキャナーにかけられたり。
何でも、脳死じゃないのに五年も意識不明になるという例がなくて。
“論文書きたい”って言われたわ。
やっと検査から解放され、自由に歩き回るのは今日が初めて。
横浜駅周辺が五年前とは大きく違っていて。
高いビルも増えて、近未来的な街並みになった。
スマホで時間を確認して。
お昼まで時間あるし、ちょっとだけ街を見て回ろうと思って。
風景を見ながら歩いていたら。
迷子になっちゃった…。
「や、確かこっちから来たはず」
と思って角を曲がったけど、また知らない道。
こっちから来たと思ってた道と、行こうとしてる道を交互に見て。
「……神隠しに遭ったわね、これは」
自分の方向音痴を認めなかった。
私は五年前まで使っていたスマホを取り出す。
私のスマホは、ずっと病室のベッドに置かれていたみたい。
枕元にあって、千速がお見舞いに来る度に充電をして。
月に一度、持って帰って基本料を払って。
ずっと維持をしてくれていた。
と、病院の先生から聞かされた。
私のスマホの着信履歴とメッセージの件数は、2000件を裕に超えていた。
友人からの数件と、あとはほぼ千速からだった。
“おはよう” と “おやすみ”
“いつまで寝てるんだ” と “さっさと起きろ”
千速は毎日お見舞いにきてくれていて、毎日電話とメッセージを残してくれた。
さすがに全部遡ることは出来ないから、途中までだけど。
病院の先生にそんな話をすると。
“五年間ずっと、君からの返事を待っていたんだろうね”
そう言われて、泣いちゃった。
「あ、やば…泣きそう…」
思い出しただけでも泣きそうになる。
涙を拭っていたところで。
「あれ、お前さんは…」
声をかけられた。
「…!」
そちらへ振り返ると、スーツを着た大柄の男性が一人と。
小柄な男性が二人いた。
「あ…こんにちは…」
どなたかはわからないけれど、大柄の男性は私を知っているようで。
「あんた、千速のだろ?」
どうやら千速の知り合いみたい。
「はい、そうです。蒼月冬華です」
千速の知り合いなら大丈夫だと思って、名前を伝える。
「俺は横溝 重悟だ。千速と同じ警察署勤務だが部署は刑事課でな」
横溝…って、確か。
「あなたが私の目覚めを千速に知らせてくれた…」
“全然電話に出ねぇ!ええい警察署にかけてやる一大事だ!”
って先生が言っていたのは聞こえてきてた。
「千速が言ってたか?県警本部に病院から電話来てビビったよ」
…千速、ではないのだけれど。
「本当にありがとうございます。横溝さんのおかげですぐ千速が来てくれました」
でも、ちゃんとお礼が言えてよかった。
「いや、いいんだ。俺はお前さん方が幸せならそれで」
「…警部らしくない言葉だ」
「誰だこの人…」
二人の刑事さんたちが訝しげに横溝さんを見上げていたからつい笑ってしまった。
「というか、こんなところで何をしてたんだ?」
そうだった。
本来の目的を忘れてた…。
「…実は…玉子を買いに行こうと街に出たら迷子になっちゃって…」
恥ずかしいけど、千速の知り合いに会えてラッキーだった。
「そんな入り組んだ場所じゃねぇがなぁ」
「…神隠しに遭ったんです」
「5秒くらい前に迷子になったっつったろ」
横溝さんにスーパーの場所を聞いて、玉子を買って、家に帰ってお弁当!
で、千速に届けたらいい時間よね。
と、思っていたら。
「だが、まぁ、ふむ」
横溝さんは何かを考えて。
「ちょっといいか?」
「?はい、どうしました?」
スマホを取り出し、私の肩に手を置いて。
顔を近づけて。
パシャ
「!」
所謂 自撮りというのをした。
「よし」
「セクハラですよ警部」
「萩原警部補に通報しますからね」
刑事さんたちが私を庇うように前に出た。
「萩原警部補の愛妻家ぶりを知ってるでしょう?」
「あぁ、一昨日弁当を見せびらかしてきたから卵焼きを食ってやったら掴みかかってきた」
あ、この人と取っ組み合いをしたんだ…。
私は苦笑いを浮かべて、横溝さんが操作してるスマホを見せてもらうと。
“お前の嫁、迷子になってるぞ”
というメッセージと一緒に、今撮った写真を千速に送った瞬間。
ヴーッ ヴーッ
千速から電話が来た。
「もしもし、ちは『お前どこにいるんだ!?なんで重悟がそこにいる!?』
私の言葉を遮って、大きな声を出してきた。
「や…玉子を『おい重悟!聞こえてんだろ!お前セクハラだからな!!』
…めちゃ怒ってる…。
横溝さんが手を出すから、スマホを渡した。
「この近辺で事件があってな。近隣住民に聞き取りをしてたんだよ」
『それと触るのと何が関係あるんだ!冬華に代われ!』
めちゃ怒ってるから、めちゃ声が聞こえる…。
「お前、俺たちがここに居たから彼女を見つけられたってことを忘れてないか?」
横溝さんはニヤニヤ笑いながら千速にそう言うと。
『…ぅ…』
黙っちゃった。
確かに横溝さんたちがここにいたから私を見つけてくれたわけだから。
「何か言うことは?」
千速の声が聞こえなくなったから、冷静になったみたい。
「はっはっ、覚えてろだとよ」
あ、なってなかったわね、冷静に。
横溝さんは笑いながら私へとスマホを返してくれた。
「もしもし、私は大丈夫だから」
『今から迎えに行くからそこにいろ』
「え?でも仕事中…」
『白バイの巡回を利用して行く。だから待っててくれ』
「えー…ごめん千速…」
『大丈夫だ。じゃあ切るぞ?』
「うん…」
千速にすごく迷惑かけちゃった…。
千速との通話を終えて、肩を落とす。
こんなはずじゃなかったのになぁ…。
「過保護にも程があるんじゃないか、お前さんの恋人さんは」
「千速の過保護は昔からなんです。でもほら、私…」
「あー…」
横溝さんは理解をしてくれて、苦笑いを零した。
「お前ら、先に聞き込みに行っててくれ」
「了解しました」
刑事さん二人を先に行かせ、横溝さんは私の傍にいてくれた。
千速が来るまで居てくれるみたい。
「千速、仕事中はどういう感じですか?」
「部署が違うからあんま詳しくはわからねぇけど、お前さんの写真を見てニヤニヤしてるらしい」
「…そ、そうなんですか…」
…何やってるのよ千速。
顔が熱くなるのを感じて、手でパタパタと顔を仰ぐ。
「家ではどんな感じなんだ?」
横溝さんはスマホをいじりながら、家での千速についてを聞いてきた。
家でもいつも通りの千速。
裏表のない人だから、みんなが知っている通りの千速だ。
千速が千速らしくなくなるのは真夜中だけ。
私は横溝さんを見上げる。
さっきの電話でのやり取りから推測すると、結構仲がよろしいようで。
ちょっと妬けるけど、千速と横溝さんの関係性なら真夜中の千速の行動を相談してもいいのかな。
「…千速は、今トラウマに苦しんでます」
「トラウマ?」
「と言っても、本人は記憶にないんですけどね」
「どういうことか説明してもらえるか?」
私は地面を見つめるように視線を下げて。
「…この一ヶ月間、真夜中に起こされるんです。千速は大切な人を二人も失ってるから…」
千速の悲しみに触れる。
「私まで起きなくなったらどうしようっていう不安から来てるんだと思います」
七年前に研二君を失い、五年前には私が意識不明に。
三年前は陣平君が亡くなった。
千速の大切な人たちが亡くなって、私まで死んでしまうかもしれない恐怖の中で。
千速は五年も待っていてくれた。
「ふむ」
「あ、私自身が寝れないのがつらいとかじゃないんですよ?」
不満ではないことを告げる。
「それはわかってるさ」
千速に対して不満なんかない。
これでもか!というくらい千速からの“好き”が伝わってくるし、大事にしてくれてる。
「…だが…そうか。今まで発症しないのが奇跡だったんだよな。それがあいつの強さだったんだな」
どうすれば千速は救われるのだろう。
どうすれば千速は安心して眠ることが出来るのだろう。
私はもう大丈夫だと一ヶ月間言い続けても、千速のトラウマは治らない。
「…怖いんです私…」
「怖い?」
いつか。
いつか千速が壊れてしまうのではないかと。
「…千速が壊れそうで…」
今はまだ千速自身は覚えていないけど。
それでも静かに。
それでいて着々と。
今の千速の心は。
–––– ヒビ割れた
ガラスのように –––––
少し触れれば、割れてしまうのではないかというくらい脆くなっていて。
そしていつか。
千速が自身のトラウマに呑まれてしまった時。
千速はきっと、壊れてしまう。
だから怖くて言えない。
「まぁ大丈夫さ」
横溝さんが私の頭に手を置いて。
「あんたが傍にいる限り、千速は絶対に壊れない」
「え?」
また横溝さんを見上げると、小さく笑みを浮かべていて。
何を根拠にそう言えるのだろうと。
話を聞いてくれた人に私はなんてことを思ってしまうのだろう。
「根拠はねぇがな!」
エスパーかと思った。
それによ、と横溝さんは続けて。
「確かに千速はお前さんが目覚めたことで過去の悲しみと相まってトラウマを発症しちまったのかもしれねぇが」
ニッと笑って。
「そんな危うい千速の心を繋ぎ止めてんのもまた、お前さんだってことを忘れんな」
ガシガシと私の頭を強めに撫でてくれた。
私が、壊れそうな千速の心を。
繋ぎ止めてる?
「…ありがとう…ございます…」
ちょっとだけ、心が軽くなった気がする。
私が千速のトラウマのきっかけなのに。
“私が千速の心の支えになってる”
そんなふうに考えたことがなかったから。
この人…お弁当の件で千速と取っ組み合いになった人とは思えないくらい優しい人って思ったところに。
サイレンの音が聞こえてきた。
「あのバカ…白バイのサイレン鳴らして来てやがる…」
途端に横溝さんは呆れ顔で。
大きなエンジン音と排気音を響かせて、白バイが角から現れたと思ったら。
『そこの人相が悪い大男、直ちに彼女から離れて壁に手を付きなさい。抵抗しても無駄だ』
ヘルメットに搭載されている拡声器で横溝さんに警告を出した。
すごいエンジンを吹かしながら、私と横溝さんの間で白バイを止めて。
「横溝重悟、お前を公然わいせつの罪で死刑とする」
「わいせつなんてしてねぇし、もししたならまずは逮捕しろ」
ジト目で横溝さんを睨んだ。
「っつうか、事故でも事件でもないのにこんな住宅街でサイレン鳴らして来るバカがどこにいるんだよ…」
千速はジト目のまま私を見て、横溝さんに視線を戻して。
「目の前にいるだろ」
至極普通にそう言った。
私は苦笑いを浮かべるしかない…。
「千速、横溝さんは千速が来るまで傍に居てくれたの」
だからそんなに横溝さんを威嚇しないでほしいことを伝えると。
「…冬華」
「へっ」
横溝さんは“ほら見ろ!”と言わんばかりにニヤニヤと千速を挑発して。
「…チッ」
千速はガチトーンの舌打ちをした。
「…世話になったな、重悟」
「もっと心を込めて言ってほしいもんだが、構わねぇよ」
千速は白バイに跨ったまま私の腰を抱き、白バイの後ろに座らせて。
「あ、おい。白バイでの二人乗りは違反だぞ」
また白バイのスロットルを吹かして。
「っちょっ!千速!」
「っ千速てめぇ!」
横溝さんにあかんべーをしてバイクを走らせた。
…今度会ったら謝ろうと思った。
「止まって止まって!そろそろ降りないと!」
細道を通ったり、あっち行ったりこっち行ったり。
私にはどこを走ってるのかわからないけれど。
横溝さんが“白バイでの二人乗りは禁止”って言っていたから、誰かに見られる前に降ろしてもらわないと。
千速は白バイのスピードを緩めて。
「ここら辺でいいか」
千速が止まってくれた場所は、ガタンガタンと頭上から電車の音が聞こえるような。
長年使われていないような橋の下の駐輪場。
私は白バイから降りて、辺りを見回す。
「ここどこ?地球?」
「地球」
千速はヘルメットを脱いで、白バイのハンドルにかける。
「人っ子一人いないわねぇ」
生活感はあるのに、誰も通りかからない。
なんだか不思議な場所だと思っていたら、何か落ちる音が聞こえて。
「?」
振り返れば、千速が脱いだ手袋が地面に落ちる音で。
これはまずいと思って千速から距離を取ろうとしたら時すでに遅く…。
「……っ」
橋の石柱に押し付けられて、キスをされた。
両手で私の頬を固定し、逃げられないように。
––– 舌を絡め取られて。
––– 交わる吐息を吸って。
千速の袖を掴み、なんとか止めさせようにも深くなる一方で。
遠くで聞こえる車の排気音と。
電車が頭上の線路を通る度に鳴る大きな音に隠されて。
私たちしか聞こえない ––––
–––– 唾液が混ざり合う艶かしい水音に。
羞恥心を抉られながら。
捉えて離さない千速の煽情的な眼差しで、目を逸らすことすら許されない中で。
千速を求めてしまう前に。
なんとか押し返して。
「…っや…っやめ…って…っくれないと…!今日から一緒に寝ない…っ!」
って言えた私、すごいと思う。
「…ッ!」
千速はピタッと動きを止めて。
「お前…それは卑怯だぞ…」
頬を膨らませながら離れた。
「卑怯でも何でもないわよ…!あなた警察の制服を着たままだということを忘れてない!?」
「…忘れてはないが、元はと言えばお前が迷子になるから悪いんだろ」
ま、まぁ…それを言われると、ちょっと言い返せないから。
「…迷子じゃなくて神隠しに遭ったの」
ちょっと抵抗してみたら、千速はきょとん顔をして。
「神隠しってお前なぁ」
目を細め、腰に手を当てて。
「神とやらにお前を隠されてしまったのなら、私はそいつを憎むことになるが…いいんだな?」
………そう言われちゃうと、また言い返せないから。
「…迷子になってすみませんでした…」
迷子を認めるしかなくなった。
だって、必殺技の“神様お願いします!”が使えなくなっちゃう。
「よろしい」
千速はクツリと笑い、額にキスをしてくれた。
「今日はコンビニで弁当を買って、公園かどこかで一緒に食おう」
時間的に、玉子を買って帰ってからお弁当を作るんじゃもう間に合わないから。
「そうしよっかぁ…はぁ…神隠しに遭わなければなぁ…」
「よかろう。神とやらと戦争だ」
「勝てるかしら?」
「勝つに決まってる」
なんて千速と笑っていたら。
『萩原警部補、どこへ行ってるんですか?直ちに県警本部へと帰還してください』
という、ヘルメットの通信機能で県警本部からの連絡が入った。
「…昼は食べられないかもしれん」
「帰りも遅くなりそうね」
報告書と上司からのお叱りが確定しました…。
「……ん」
夜、目を覚ました私。
時計を見ると、午前一時頃。
千速に起こされる前に起きた。
「…喉痛い気がする…」
身体の不調で。
少しの悪寒と喉の違和感。
節々の痛みと、身体の怠さ。
千速の首筋に触れる。
…よかった。
千速は大丈夫そう。
千速の頬にキスを一つ落とし、千速を起こさないようにベッドから降りる。
「…薬あったかな」
静かに寝室を出て、納戸で薬を探す。
「あ、あった」
わりと早く薬を見つけ、水と一緒に飲み込んだ。
キッチンのシンクに手を付き、深く息を吐く。
ソファーに移動して、パタリと横になる。
薬が効いてきたらベッドに戻ろうか、はたまた千速に移さないようにここで寝ようかしら。
いや、だめだ。
真夜中、無意識に起きる千速の不安を拭ってあげないと。
抱き締めて、良い子良い子して、大丈夫って子守唄を歌ってあげないと。
「…戻ろ」
節々の痛みが強くなってきたし、千速に起こされる時間までちょっと寝ようと。
立ち上がった時。
ふと。
似顔絵班の方に描いていただいた湊の肖像画が視界に入った。
湊は、私たちがたくさん考えて付けた子供の名前。
“良い名前だよな”
“この名前と同じくらい良い名前は一人しか知らないわ”
“…誰だよそれ”
“ “千速”って名前なんだけど、知ってるかなぁ?”
“…お前なぁ…それはズルすぎるだろ…”
なんて会話をしたのを思い出して、少し笑った。
湊の肖像画の前に立って。
「…どうしたら千速を救えるのかしらね」
撫でるように触れる。
「…横溝さんは私が壊れそうな千速の心を繋ぎ止めてるって言っていたけど」
繋ぎ止めているだけで、直してあげることが出来ない。
大丈夫だと声をかけても、千速は不安と恐怖を克服出来ない。
私が眠るのを畏れ、不安で泣きそうな千速を見るのがつらいの。
「…あなたなら、千速になんて声をかける?」
“ママ、起きて。ちーちゃんが待ってるよ”
あなたの言葉で私は目覚めたの。
千速が待っててくれてるって知れたから。
「…ねぇ湊…どうか千速を救ってあげて…」
私を起こしてくれたように。
千速を不安と恐怖から解放してあげてほしいと。
そう願いながら。
「…おやすみ、湊」
私はもう一度、湊の肖像画を撫でて。
この二時間後、再び起きた。
「…本当に大丈夫なのか?」
「えぇ、病院行くほど熱も高くないし、大丈夫よ」
朝起きて、体は夜中よりは楽になった。
でも熱はまだあるから今日一日しっかり寝て、明日までにちゃんと治そう。
千速は出勤ギリギリまで休むと利かなかったけど、定期的に写メを送るからって言ったら納得した。
「ちゃんと寝てろよ?どこにも出掛けるなよ?神とやらに隠されるからな」
「神隠しに遭ったら連絡するわ」
「だから出掛けるなって言ってるんだよ」
そんな会話をして、千速を送り出した。
本当に心配性で過保護で困っちゃうけど、私がそうさせたみたいなものなのよね。
「…寝る前に洗濯機回すかな」
白いものと色付きのものを分けて、最初は白いものから洗濯をする。
ピロン
「!」
スマホが鳴る。
千速からだ。
“ちゃんと寝てるか?”
私がちゃんと寝てるかの確認だった。
「ふふ、心配性だなぁ」
私は捲った袖を下ろして、寝室へ行ってベッドで横になってから自撮りをして。
“大丈夫、ちゃんと寝てる”
と、写メ付きの返事をした。
“よろしい”
「上手く騙せたわね」
体はつらいけど、専業主婦をさせてもらってる以上やるべき家事はやらないと。
スマホを閉じ、家事に戻る。
10分後。
“ちゃんと寝てるのか?”
また千速から連絡がきた。
“もちろん”
また同じように捲った袖を下ろしてベッドに潜り、写メを撮って千速に送る。
家事に戻ってまた10分後、また千速から連絡が来る。
…私が寝てるかもしれないって思わないのかしら。
“本当に寝てるか?”
“寝てるわよ。もうちょっとで寝そうだったのにー”
と送って、ベッドにいる写メを送ったところ。
“やっぱりお前、家事をしてただろ”
と送られてきた。
「え?」
なんでわかるの?って返信しようとしたら。
“捲った袖、下ろし忘れてるぞ”
「…しくったぁ!」
何回も連絡が来るから戻し忘れた。
“家事はいいから、ちゃんと寝てろ”
きっと千速は、私が起きて家事をしてるってわかっていたから何度も連絡をしてきてたのね。
私は小さく笑って“了解しました”と送った。
それから千速からの連絡がないから、信用してくれたんだと思う。
「…ふー…」
とりあえず洗濯機は回しちゃってるし、洗濯物を干してから休もっと。
“…ここは…”
気が付けば、真っ白な空間の中にいた。
周りを見ても誰もいないし、何の音も聞こえない。
“あ、夢か。寝ちゃったんだ私”
すぐに夢だと気付いた。
“えー…洗濯物がぁ…”
せっかく洗濯機を回したのに、また洗濯し直さないといけないことに肩を落とした。
キュッ
と、右手。
何か、握られるような感触。
「?」
自然と握り返しながら、右手へと視線を落とすと。
“……湊…”
私を長い眠りから起こしてくれた湊が。
私の手を握っていた。
“また会いにきてくれたのね”
私は湊と視線を合わせるように屈んで、湊の両手を握る。
湊は小さな笑みを浮かべているだけで、言葉を発することはなく。
けれど。
“湊?”
湊が振り返ったと同時に。
「……ん」
目が覚めた。
「!冬華、起こしちゃったか?」
千速が目の前にいる。
「…ちはや…?」
「うん」
え、仕事は?
今何時?
「昼休憩を利用して一度帰ってきたんだ」
お前が心配で、と。
千速は私の額にキスを落とした。
ああ。
湊は千速が帰ってきたことを教えてくれたのね。
「…そう」
あんな短い夢なのに、結構時間が経っちゃってたのね。
「大丈夫か?薬は飲んだ?」
「あー…朝に飲んだだけだから、ご飯食べてまた飲まないと」
「病院行ったほうが…」
「そこまで酷くないから大丈夫よ」
千速の頬に手を添えて、誘導してキスを一つ。
「はい移しました」
「お前の風邪が良くなるなら大いに結構」
むしろ休む口実になるから移してくれ、だって。
ふふ、本当に愛されてるなと感じる。
体を起こし、リビングへ行く。
「お昼はまだ食べてないでしょ?」
「買ってきたから作らないでいい」
テーブルにはコンビニの袋があり、中にはおにぎりとうどん、スポーツドリンクと玉子が入っていた。
「あ、玉子買ってきてくれたのね」
「あぁ。神隠しに遭う前に買ってきた。弁当は好きなやつ食っていいぞ」
神隠しに遭う前にって、もう迷子になる前提になってる…。
そんな千速に苦笑いを零す。
「じゃあ、胃に優しそうなうどんいただこうかな」
「ん、温めてくる」
千速が動いてくれて、私は座ってるだけ。
待ってる間、窓の外を見ると洗濯物が干されていた。
「あ、洗濯物干してくれたのね。ありがと」
「ん?ああ、うん。いや、礼を言われるようなことではないだろ」
「専業主婦をさせてもらってる側としたら、お礼を言うべきことなの」
「“させてもらってる”んじゃなくて、“してもらってる”んだがな、私にしたら」
だから私のほうこそありがとうだろ、と。
千速は笑った。
ああ、好きだなって思う。
こういう気遣いがすごく好きだなって。
心配性で過保護で。
今だってきっと、私が起きなかったらどうしようと思ったと思う。
目が覚めた時に目に入った千速の表情が、不安そうだったからね。
本当に、どうしたらあなたをトラウマから救ってあげられるのだろう。
「熱いから気をつけろ」
「ん、ありがと」
「あ、ふぅふぅするか?」
「自分で食べられますー!」
なんて笑い合って、お昼ご飯を食べた。
薬を飲んで、ソファーで横になる。
「ベッドで「さっきねぇ」
ベッドで寝ろって言おうとしただろう千速の言葉を遮って。
「さっき、湊の夢を見たの」
「湊の?」
「えぇ」
夢を見ているってわかったから、あれは明晰夢。
明晰夢は、夢の中の状況をある程度コントロール出来ることもある不思議な夢。
だからきっと、湊が出てくるように自分でコントロールしたのかもしれない。
出てきてくれたわけじゃなく、出させた状況だったのかもしれない。
「湊、何か言っていたか?」
私は自分の右手を見つめて。
「…んーん。でも湊が手を握ってくれたの」
その感触は夢の中でしかわからなかったけれど。
私の手を握って、笑ってくれた。
「…そうか。湊もお前を心配してるのかもしれないな」
千速は湊の肖像画を見つめ、小さく笑う。
その笑みは、どこか湊に似ていて。
やっぱり私たちの子供なんだなって改めて思った。
…いえ、まさか。
「まさか千速の隠し子とか?」
「私が浮気した、と?」
「………ゴメンナサイ」
「さすがに次は怒るからな」
眉間に皺を寄せ、私の額に自分の額を合わせた。
「…私の夢にも出てきてほしい」
「どんな夢を見たい?」
「お前と湊と私の三人で、手を繋いでる夢がいいな」
海に行ったり山に行ったり、遊園地や水族館で遊び尽くす夢よりも。
ただ三人で手を繋いで笑い合えれば。
それだけでいいと千速は言った。
子を成せない私たちには、贅沢すぎる夢かもしれないがなと続けて。
「夢に贅沢も何もないわよ」
「はは、そうだな」
千速はクスクスと笑って、時計を見る。
「っと、そろそろ戻らないと」
と言いながら、熱を測って。
「…ダメだ、健康だった」
「あは!本当に千速は可愛いわねぇ」
「…行ってくる」
「えぇ、行ってらっしゃい」
ガクッと項垂れた千速にキスをして、再び送り出した。
「明日には治ってるといいが…」
「これだけ休んだんだもの。治るわよ」
夜、ベッドの中でまだ心配してる千速が言った。
家事は千速が帰宅後にしてくれて。
夜ご飯も。
“お前ほど上手く出来なかった…”
“えー?美味しそうよ?ありがと”
不器用ながらに作ってくれた。
お風呂も一緒に入って、髪の毛を洗ってくれて。
“ちゃんと乾かさないとまたぶり返すからな”
“はーい”
ドライヤーで乾かしてくれた。
その間千速は何回も熱を測り、健康であることに肩を落とす。
“健康であることに感謝すること!”
“く…わかった…”
素直な千速に笑っちゃった。
“先に寝るわね”
早めにベッドへ行けば、千速も付いてきて。
“まだ起きててもいいわよ?”
“いや、私も寝る”
リビングに一人で居るのが寂しいみたいで、一緒にベッドへ入った。
“玉子もあるし、明日こそお弁当作るわね”
“無理はしないでいいが、あると嬉しい”
“やっぱり可愛いなぁ千速は”
“うるさいぞ、まったく”
なんて会話をして、私たちは眠りに就いた。
そして、また。
––––– 夢を見た。
“……湊”
昼間と同じ夢を。
私は湊と視線を合わせるように屈んでいて、湊の両手を握っていた。
昼間と同じ夢であり、昼間の続きのような夢。
千速の面影を残すあなたは、本当に存在しないのかな。
どこかに居て、私たちが来るのを待ってるんじゃないのかな。
“…あなたはどこにいるの?”
問いかけても、湊は笑ってるだけ。
“ねぇ湊。私も千速もあなたにすごく会いたいの”
あなたに会って、抱き締めて。
“ありがとう”って言いたいの。
湊は立ち上がり、クイッと私の手を引いて歩き出した。
“どこへ行くの?”
私は湊と手を繋いだまま、湊について行く。
“…?”
遠くに人影が見えた。
目を凝らして見てみると。
“……ちは…や…?”
その人影が、千速だと知った。
“……冬華…?”
千速も驚くように私を見ていて。
湊が私から手を離し、千速へと駆けて行って。
“…やっと私の夢にも出てきてくれたんだな”
千速の前に立つ湊の頭を、千速が撫でた。
不思議な夢。
私はゆっくりと千速へと歩み寄って。
千速と一緒に、湊と視線を合わせるようにまた屈んだ。
その時だった。
湊は私と千速を交互に見て、私と千速の手を握って。
太陽のような笑顔で。
“もうママは大丈夫。だから安心してね、ちーちゃん”
そう言った瞬間だった。
「……ッ!」
目を覚ましたのは。
「……はぁ…」
泣きそう。
あなたに会いたすぎて。
あなたに会いたすぎて泣きそうよママは。
千速が身動いだのを感じて、千速のほうを見ると。
「…千速?」
千速は、仰向けのまま両手で顔を覆い隠していて。
手の端から、涙が伝っていた。
「どうしたの?千速」
体を起こし、千速のお腹に手を置いて。
どうして泣いているのかを聞こうとした。
怖い夢を見た?
私がまた起きない夢を見た?
どんな言葉を言ったら、あなたは安心する?
頭の中で考えていたら。
「…お前は」
千速が口を開いた。
「ん?なぁに?」
千速は両手で顔を隠したまま。
「お前は、もう大丈夫なんだな」
そう言った。
その瞬間に。
“ママはもう大丈夫。だから安心してね、ちーちゃん”
この言葉の意味を理解したと同時に。
「…あなたも…湊の夢を…?」
私が見ていた夢と、千速が見ていた夢が。
「……うん…湊が…ママは…もう大丈夫だって…」
同じであることを知って。
「……っ」
堪え切れない涙が頬を伝った。
“……ねぇ湊…どうか千速を救ってあげて…”
あなたは、私のこの言葉を。
「大丈夫、私はもう大丈夫…!」
叶えにきてくれた。
「…うん…うん…」
あなたは。
「すまなかった…冬華…ごめん…」
「いいの…!いいんだってば…っ千速…!」
千速と一緒にあなたに会いたい、あなたと千速と私の三人で手を繋ぎたいという願いを叶えにきてくれた。
きっと現代科学では証明出来ないだろう奇跡のような出来事で。
誰も信じてくれない不思議な出来事だろう。
それでも確かに私たちは。
あなたの存在を知り、あなたの手の暖かさを知って。
太陽のような笑顔に救われた。
その日から。
千速は真夜中に起きることがなくなった。
安心して眠れるようになったことで。
「そうだったのか…知らなかった…すまない…」
「んーん。言わなかったのは私だから謝らないで?」
ようやく千速に真夜中のことを話すことが出来た。
そして、あの日以来。
湊が私たちの夢に出てくることはなかった。
落ち込む私に、千速は言った。
“きっと未来に帰ってしまったのかもしれないな”
と。
そう思うと心が軽くなって。
“そうかもしれないわね”
私も笑うことが出来た。
私たちは信じてる。
いつか。
–––– 遥か遠い未来で。
女同士でも子を成せるような時代が来ると。
そこでまた。
千速と出会い、結ばれて。
そして。
あなたという存在に。
–––– 必ず出逢えることを
信じてるから ––––
END