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エレボスの淵

※※※累卵



 広い玄関ホールはひんやりとしており、ところどころに明かりが灯されているほかは何もなく、暗かった。
 正面に螺旋階段が上へと続いているが、睥睨するような威圧感があり、来訪者の足を自然と反らせてしまう。加えて、こんなに大きな館なのに使用人の一人も見かけないのも不気味に感じた。
 そんなエリスの心情などには毛ほどの斟酌も示さず、モールヴァルフはすたすたとホール横に伸びる廊下へと進み、すぐ手前にある部屋の前で止まった。
 軽くノックすると中から女の声でいらえがあり、青年は静かに扉を開いた。

 恐る恐る部屋へ足を踏み入れたエリスは、ソファにゆったりと腰かけている女の背後に、揺らめく黒い影を見た――が、それも一瞬のこと。
 部屋は玄関ホールとはうって変わって温かく、やわらかな光に包まれていた。
 調度のどれもが重厚な雰囲気を持っているが、いかめしさはない。それどころか、返って心が落ち着くような、安らいだ気持ちになる部屋だった。
 黒衣の女は入ってきた少女たちに微笑を向けた。
「こんばんは、お嬢さん方」
「こんばんは、魔女様! 今日は、あの……お約束せずに来てしまってごめんなさい」
 小さな少女は紺色のドレスをつまんで、ちょこんとお辞儀をした。
「ふふっ。さっき、シヴァから連絡があったよ。曾祖父様おじいさまにあとでこっぴどく叱られるだろうから、私は叱らないでおくよ。……おいで、ウルフ。久々だからもっと顔をよく見せて」
 女が手を差し伸べると、ウルフと呼ばれた少女はぱあっと顔を輝かせ、彼女に駆け寄った。
「半年ぶりだね。学校はどう? 楽しい?」
「はい! でも、前みたいに魔女様にお会いできないから、つまらないです」
 ウルフは頬を紅潮させたまま頷いたが、可愛らしくふくれっ面をしてみせた。
 女は、その幼い様子に笑い声を立てると少女を隣に座らせる。そして、戸口に佇むもう一人の少女にその黒い瞳を向けた。
「……昨日のお嬢さんだね? どうぞ、座って」
 魔女の瞳に浮かぶ金色のかぎろいに小さく震えたエリスは、だが、意を決して足を踏み出した。
「あのっ……昨晩は申し訳ありませんでした。今日は、あのっ……」
「お兄さんのことで来たんでしょう? それと、君のクラスメート」
 ソファの脇で深々と頭を下げた少女に、女の静かな声がかぶさる。エリスは勢いよく頭をあげ、目の前の魔女を見つめた。
「どうして知って……」
「うん。この惑星ほしの、だいたいの情報ことは入ってくるから」
「……っ! ご存じだったのなら、どうして……っ! なぜ、通報してくださらなかったんですか?!」
 女の淡々とした態度に、少女は激昂して詰め寄ろうとした。が、いきなり目の前ではじけた火花に小さな悲鳴をあげる。
「控えろ、小娘」
「ヴァル」
 冷やかな声を発した青年を制した女は、エリスに目を移すとソファに座るよう促す。
 エリスは何度か唾を飲み込み、女とその隣に座る幼い少女を見つめ、そろそろと腰をおろした。
 給仕ロボットが茶器や菓子皿を並べていくのを半ばぼんやりと眺めていると、
「とりあえず、飲みなさい。落ち着くから。そのあとで話を聞くよ。……どのみち、今日は家に帰るのは嫌でしょう?」
 魔女は静かに言って茶器を口に運ぶ。
 少女は家の惨状を思い出し、小さく身を震わせた。溢れてきそうになる涙をぐっとこらえ、おぼつかない手で茶器をとるとゆっくりと口に運んだ。
 ふわりと豊かな芳香が口中に広がり、すうっと心が落ち着いていく。
「おいしい……」
 小さく呟いた少女に、魔女は微笑む。だが、彼女は口を開かず、部屋はゆったりとした静けさに包まれ――エリスはやっと冷静に考えることができるようになったのだった。

 めちゃくちゃに荒らされた家、たくさんの泥の足跡、抵抗したあとが残る兄の部屋……あれほどに荒らされているなら、むしろ、こんな広大な城の住人よりも、別の隣人が気づくはず。
 昼日中の騒動に、近隣の誰かが警報をならしたとて不思議ではないし、それが当然だろう。だが……

 そこまで考えて、エリスは冷たい汗が背を流れていくのを感じた。
 潤した喉が急激に干上がっていくのがわかる。
 エリスはもう一度お茶で喉を湿らせると、真っ直ぐに魔女を見つめた。
「……取り乱してすみませんでした……。あの……昼間、外で非常警報が鳴ったり、警備兵が来たりはしませんでしたか……? 私の家は大きな物音がしたと思うんです。……兄だって、きっと暴れたでしょう……そしたら、もっとうちに隣接している家の人が気付いたと思うんです」
 魔女はエリスを見つめ返し、頷いた。
「そう。通常なら、ね。……昼間ね、なぜかこのあたりのエネルギー供給が一時的にストップしたらしいんだよ」
「えっ?」

 昼間、この一区画だけ一時間ほどすべてのエネルギー供給が止まった。無論、暗闇になることはないが、住宅区とはいえ小企業も存在する区画だ。
 街は小さなパニックを引き起こしたのである。
 しばらくして、点在している各エネルギーの統合管理システムの異常であることがわかったのだという。
 エリスの兄は、その騒動のさなかに拉致された。
 ……これは単なる偶然なのだろうか?

 「……どうして、兄が……?」
 エリスは震える声で呟き、手を握り合わせる。
 浮かんでくるのは、家に帰ったと思ったらすぐ呼び出されて飛び出していく兄の背中。色濃く浮かび上がる疲労の影。自分とおなじ緑の瞳は昏く――
(……政府病院って、そんなに忙しい感じだったかしら……? 救急病院ならいざ知らず、そんなに毎日毎日、呼び出されるもの……? だって、兄さんだって……)

 「惑星サタナの政府病院にしようと思うんだ。給料もいいし、それに、少しはお前と過ごす時間もできると思うんだよ……」

 呼び出されて飛び出していくのは最初だからだと思っていた。
 一度、風邪を装って政府病院に行ってみたことがある。
 確かに大きな施設で患者も多いが、診察室も細分化されてそのぶん医者の数も多い。あわよくば、兄に会えるかと思ったのだが叶わなかった。
 どこかルーズな印象もあったあそこで、兄は一体どんな診察をしているのだろう?
(……っ! 私……私、兄さんを連れ去ったのは、このひとなのだとばかり思い込んでた……!)
 美貌の青年が言ったように、魔女が兄を連れ去ってどうしようというのだ。
 自分が本当に問いただすべきはここではない。
 政府病院なのだ。
 エリスは羞恥に身を縮ませながら、立ち上がると深く頭を下げた。
「私……私、ひどい勘違いをしてました! ごめんなさい! 兄の勤め先に行ってみます!」
 そうして身を翻しかけた少女を、魔女は苦笑を含んだ声音でやんわりと引き留めた。
「今から? もう病院は閉まってる時間だよ……それに……」
 魔女は言葉を切ると、窓の外を透かし見るように眼を眇め、
「……明日は、ウルフと一緒に学校へ行くといい。ブライトナーの屋敷から車が出るだろうから、一緒にね」
「え……」
 意味深な言葉にエリスは当惑したが、女の傍らで小さな少女に笑いかけられ、ぎこちなく笑みを返した。
「今日はお客用の夕食の用意ができてないからね。簡単なもので勘弁してもらわなくては」
 魔女がそう言って笑ったのと、扉が開いて給仕ロボットが料理を運んできたのとが同時だった。


 その夜、エリスとウルフは同じ客間へ通された。二人一緒なのは、エリスの不安を和らげるための気遣いなのだろう。
 シャワーを浴びて、さらりとした寝間着に包まれると、心なしかほっとした。
 ふと、隣のベッドへ腰掛けている少女を見て、礼も言ってなかったことに気がついた。
「あなた、ウルフちゃんっていうのね。私はエリス。エリス・ソールンよ」
 エリスの笑顔につられたように笑ったウルフは、小さな手で差し出された彼女の手を握り返した。
「今日は本当にありがとう、連れてきてくれて。一人だったら、きっとどうしていいかわからなかったわ……」
「ううん、いいの。……あの……、みんな魔女様を怖がるけど、とっても優しい方なのよ。そりゃ、ちょっとだけ、厳しいところもあるけど……。でも、きっと一生懸命お願いすれば、おねえちゃまに力を貸してくださると思うの! 明日、一緒にお願いしてみましょう?」
 エリスは少女を見つめ返した。
 少女の言葉はエリスにとっては不可能を意味する。だが、淡い金髪を煌めかせて、懸命に自分を励ましてくれようとする少女の手のぬくもりが嬉しく、エリスは微笑んで 「ありがとう」 と言った。

 月明かりに部屋は蒼く、静寂に包まれて虫のこえが聞こえるのみ。
 エリスとランディの小さな家は通りに面しており、真夜中でも何かしらの物音が聞こえてきていた。
 隣宅とはいえ、広大な敷地の真ん中に位置する魔女の城は、頑丈な石造りで、煩雑な音を伝えてはこない。
 激昂して女に食ってかかったが、物理的に無理なのだ。
 だが、魔女は、この惑星ほしのたいがいの情報は入ってくると言った。ならば、手を貸してくれなくとも、何か兄に関する情報を教えてはもらえないだろうか?
小さな少女が言ったように、懇請してみるべきでは?

 エリスは小さく吐息して、寝返りをうった。
 何かずっと違和感を感じていて……喉の奥に何かが引っ掛かっているような、不快感が消えないのだ。
(なんだろう……?)
 ウルフの健やかな寝息を耳にしながら、何度か寝返りをうったエリスだったが、突然、脳裏に浮かんだものがあった。
(そうだ、通信機!)
 家に戻ってあの惨状を目にした自分は、通報しようと思ったのだ。
 だが、通信機のコードは中ほどから切られており―――。
 昼間、このへんのエネルギー供給がストップしたと言っていた。
 ために、一時的にパニックが起こったのだと。
 それは当然、通信さえできなくなったということだ。
 その騒ぎが、もし兄を拉致するためのものなら、通信機のコードなどを切る必要があっただろうか?
 兄の身柄だけが必要なら、騒動にまぎれて連れ去っただけで用は済んだはずだ。
 あの古い通信機は、ずっと、自分と兄と一緒に転々と住居をかえてきたものだったのに……。だから、登録されているナンバーも半端な数ではない。
(でも、登録されていたのは大学とか病院とかばかりだったはずだけど……)
 わからない……
 それ以上は、考えることができず、エリスはいつのまにか眠りの中に落ちていったのだった。


 エリスは朝早く、家へ戻ってみた。
 家の中は昨日のままの状態で、兄がどうしているか気が気ではないが、今の状況では身動きがとれない。
 改めて魔女に助けを求めてみようと思ってはいるが、できるだけ、自分にできることはやっておきたかった。
 あの騒ぎのあとに、誰かが侵入した形跡はないようだった。
「ずいぶん派手に荒らされてるな」
 突然、背後からかかった声に飛び上がって振り向くと、モールヴァルフが不機嫌そうな顔で立っていた。
「……どうして……」
 あえぐように言った少女に、美貌の青年は無表情で応える。
「主が見て来いというのでな」
「あ……あ、そう……」
 エリスは何となくどぎまぎしながら背を向けると、現金を保管していたはずの棚を探る。次に預金カード類をすべて手に掴む。
(鍵も掛けてなかったのに、物盗りも入ってこなかったということね……)
 振り返ると、居間にしゃがんだ青年が通信機のコードを眺めているところだった。
 ひょっとして、彼も気付いたのだろうか? 
 エリスは一瞬で心を決めた。
「……あのっ! その通信機とキャッシュカード、学校へ行ってる間、預かってもらえませんかっ!?」

 セントラルハイスクールの門前に高級車がとまった。
 次いで、黒服の男が恭しく開けたドアから出てきたのは二人の少女だった。
「いってらっしゃいませ、お嬢様がた」
 バトラーのような初老の男は、隙のない身ごなしで優雅に一礼する。
「行ってきます」
 ウルフはそれへ鷹揚に頷き、エリスを見上げた。
「おねえちゃま。今日のお帰りは何時? 私、ここで待ってるから」
「えっ!? い、いいのよ、もう。私は大丈夫だから! 今日はうちへ帰って片づけないといけないし……」
 慌てて手を振ったエリスに、ウルフはびっくりしたようにひそひそ声で言った。
「だめよ、おねえちゃま! 魔女様も言ってたでしょう? 朝だって……」
「お嬢様」
 突然割って入ったやんわりとした声に、ウルフははっと口を押さえる。バトラーは柔らかい微笑みを浮かべ、少女たちを促した。
「さ。遅れますよ。行ってらっしゃいませ。……ソールン様も」
「はあい。じゃあ、おねえちゃま、またあとでね!」
 ウルフは手を振って子ウサギのように走って行く。
 エリスはぎこちなくバトラーに頭を下げると、門をくぐったのだった。
(……朝……)
 正直いえば、あの家へ踏み込むのはまだ怖かった。だから、あの青年が来てくれて少し安心したのは確かだ。
 侵入されていた様子はなかった。けれど、ひょっとして……
(あの人、何か知って……?)
 門のほうを振り返っても、すでに車は去ったあとだった。
(……ウルフちゃんより先に行って、訊いてみよう……!)
 あんな小さな子に、これ以上心配させるようなことは聞かせたくない。
「おはよー」
「おはよう、エリス」
「おはよー」
 教室のドアを開けると、何事もなかったかのような光景が広がり、エリスは一瞬、今までのことは夢だったような錯覚をおこしかけた。
 だが。
「席に着けー。ちょっと急だが、みんなに知らせることがある――ダリューンが転校することになった」
「えっ?!」
 大騒ぎの教室の中で、どちらからともなく顔を向けたのは、エリスと、ダリューンの親友のダグラスだった。



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