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エレボスの淵

※※※魔法陣の城



 誰もいない家の中は、しんと静まり返っており、廊下の突き当たりにある小さな窓からやわらかな西日が差し込んでいる。
「あ、そっか。今日は昼勤だっけ……」
 エリスは呟き、鞄をソファに投げると冷蔵庫に向かった。

 彼女は現在十五歳。この惑星サタナの首都ユリースにあるセントラルハイスクールの一年生である。
 栗色の髪に、可もなく不可もなくという造作だが、きらきらと輝く新緑の瞳が少女の魅力を十分に引き出していた。

 兄と共に、ひと月前からこの家に住み始めた。
 エリスの兄、ランディ・ソールンはユリースの政府病院に勤める二五歳の若き医者だった。
 妹と同じ目の色をしていたが、母親によく似た美貌を持っている。
 神様は不公平だと思わないでもないが、当の兄が自分の顔を嫌っていることを知っているので口には出せない。それに、兄はエリスのことを誰よりも大事にしてくれる。両親を亡くした二人にとっては、お互いが唯一の肉親なのだった。

 「あ、やばい。今日は見つからないように抜け出さなきゃ……」
 兄に知れたら大目玉をくらうだろう。
 心配させてしまうのは気が引けたが、それ以上に好奇心が勝った。
 今夜はちょっとした冒険をする。
 場所は企業都市のはずれ、魔女の館――つまり、隣宅である。

          ※

 発端は十日前にさかのぼる。
 クラスメイトの一人が、魔女の館の上を巨大な生物が飛んでいるのを見たというのだ。彼曰く、
「あれは絶対ドラゴンだよ! シルエットしか見えなかったけど、形からして間違いないって!」
 その後、面白半分に館を見に行った連中は、だが、館に忍び込むどころか門前にさえ辿り着けなかったらしい。この目に見えて、そちらに向かっているのに、どうしても近づけないのだと。
「そのお屋敷って、エリスのお隣よね?」
 一人の女の子が振り向いて尋ねてくる。
「え? あ、うん……」
 エリスは教室から出ていなかったことを激しく後悔したが、今更どうしようもない。曖昧に笑って頷いた。
 騒然となるクラスメイトたちの視線を浴びて、ますます彼女は逃げたくなったが、これだけは言っておかねばならない。
「でも、私は不思議なものを見たことはないわ。……いかめしい高級車が出入りするのは、時々見るけど……」
「……軍の関係者かな……? まさか、あれ本当のことなのかな……」
 横合いから一人の男子生徒が思わせぶりなことを呟く。
 クラスメイトたちの興味は一斉に彼に向き、女の子たちがわっと彼のもとへ集まった。
 エリスはクラスメイトに囲まれている黒髪の美少年をちらりと見やり、心中で舌をだした。
(あいつ、なんかキライ)
 美少年――ダリューンは集まってきた友人達に言った。
「最近、なんかやたらと不可解な事件が多いだろ? 犯人が掴まらなくてうやむやになった事件もある。父さんの話だと、重大な事件になると軍の要人が魔女の館に出向いて、事件の解決策を相談してるんだそうだ。ソールンが見たのはその車じゃない?」
 いきなり話がこちらに飛んできたので、エリスは仰天して、慌てて首をふった。
「知らないわ」
「じゃあさ、今度確かめに行かないか?!」
 ダリューンは楽しげに声をあげた。
 ――はあ?
 眉をひそめるエリスをよそに、クラスメイトたちは沸き上がる。
(バカバカしい……)
 エリスは教科書をまとめると、教室を出て行こうとした。
「待てよ、ソールン。君のうちの隣だぞ。気にならないのか?」
「……ならないわ。別にあのお屋敷に迷惑をかけられたわけじゃないもの」
 その返答に、つまらなそうに肩をすくめたダリューンを尻目に、エリスはさっさと家路についた。

 惑星サタナは、半分は学園都市と企業都市からなり、もう半分は原生林となっている。
 原生林といっても種々の研究所が設置され、研究開発とともに生態系の維持も義務付けられていた。

 企業都市中央部には惑星政府の行政ビルと首相官邸、隣接して軍の司令部があり、それを取り巻くように巨大企業各社がビルを構えている。
 その他アミューズメントパーク、ショッピングパークなどもこちらに併設されていた。
 一方、学園都市はその敷地面積のほとんどを大学・大学院から幼稚舎までの学舎で占められている。
 学園から企業都市を結ぶメインストリートを挟む区域に、大小の家屋敷や学生寮などが所狭しと建ち並んでいた。

 学生のほとんどは学園都市の住宅区域に住んでいる。
 しかも家族と一緒に暮らしている生徒の方が少ない。半数以上が他星系や他惑星の出身であるため、学生寮の数たるやたいへんなものだった。ましてや、企業都市から通う者など極端に少ない。
 彼女が企業都市に住んでいるのは、兄の職場――政府病院が企業都市のど真ん中にあるからだ。
 そして、ダリューンの自宅もまた企業都市の中心部に位置しているのだった。

 エリスは憤然としながら家の門に手をかけた。
(軍の要人か確かめようですって? ばっかじゃないの? 確かめてどうするっての? 見つかりでもしたら、どうなるかわかったもんじゃないわよ)
 最悪の場合、自分だけではなく兄にまで迷惑がかかるかもしれないのだ。
(冗談じゃないわよ。確かめたいなら自分たちだけで………)
 そのとき、エリスの思考は一切の動きをとめた。
 緑の目が大きく見開かれる。

 彼女の目の前。

 夕暮れに黒くうずくまる森の上を白銀の巨大なドラゴンが、塔の上にゆったりと舞い降りたのである。


 「……見たわ、ドラゴン……」
 エリスの、それが翌日の開口一番だった。
 無論、この結論に達するまで様々な葛藤があった。
 なにしろ、気に食わないダリューンに負けたようで悔しかったのだが、確かめたくとも一人では怖く、かといってこのまま放置もできず……結局、好奇心が勝ったのである。
 エリスの言葉に、教室が沸き立ったのはいうまでもない。
「じゃあ、十日後の夜だ!」
 ダリューンは嬉々としてさっそく人員の選別にかかった。
 リーダー気取りの少年のことは気に入らなかったが、これもドラゴンをもう一度見るためだと、エリスは黙って従うことにしたのである。


          ※


 兄が帰って来て一緒に夕食を取っているときも、エリスは何となくそわそわと落ち着かなかった。
「……エリス? どうした?」
 ランディは心配そうに妹を覗き込んだ。
「なっ、何でもないの! 私、今日は早く寝るね!」
 慌てたように首を振ったエリスは、せかせかと夕食をたいらげる。
 ランディは秀麗な面おもてを少し曇らせた。
「……具合が悪いのか? それとも、学校で何かあったのか?」
 内心ぎくりとして兄を見れば、妹と同じ緑の瞳に強い光が浮かんでいる。
 冷や汗が出る思いをしたが、彼女はつとめて平静を装った。
「何もないわ。ちょっと、疲れただけ……。心配しないで、兄さん」
 そう言って笑うと、兄は少し表情を和らげ、「そうか」とだけ言った。
 エリスはふと、兄の顔色が悪いのに気がついた。
「……兄さんこそ大丈夫? 顔色がよくないよ。具合が悪いんじゃない?」
「私は大丈夫だよ」
 ランディは軽い調子で笑い返したが、連日の激務からくる疲労の影は隠しようもないほどだった。
「今日は兄さんも早く寝てね」
 心配そうに言ったエリスに兄は微笑んで頷いた。

 自室のドアを閉め、深い溜息をこぼす。
 兄の顔に色濃く浮かぶ疲労の影に、彼女は今日はじめて気がついた。
 考えてみれば、この一ヶ月、兄とまともに顔をあわす時間がなかった。
 昼勤・夜勤とローテーションを組まれていても、おかまいなしに呼び出されて飛び出していくのだ。それだけなら以前の病院でも同じようなものだったが、いまはその比ではない。彼の疲労の大きな要因は、心労によるものだろう。

 招聘を受けていた大学病院を蹴って政府病院を選んだのは、何より給料が良かったからだ。それはとりもなおさず、エリスを学校へ通わせるためである。
 エリスはダリューンらと軽はずみな約束をしてしまったことを激しく悔やんだ。
(……やっぱり、今夜は断ろう……いくらなんでも忍び込むなんてことはしないでしょうし……小学生じゃあるまいし……)
 詳しいことはダリューンが決めると言って、具体的になにをするのかは聞かされていない。
 彼からは現場で伝えるとだけ言われた。

 この十日間、エリスは何度も館のまわりを回ってみた。
 ぐるりを囲むのは高い塀。館の背後は深い原生林で足を踏み入れることはかなわない。
 上空にセキュリティボールが浮かんでいるわけでもなく、ガードマンが立っているわけでもない。
 代わりに攻撃衛星が大気圏付近にあるのかもしれない。
 だが、それ以上に強く感じるのは浸入を阻む『巨大な意志』だ。
 五角形ペンタスが招かれざる客を拒絶している。

 それをダリューンたちに説明して解ってもらえるかどうかはわからない。
 だが、あそこには足を踏み入れてはいけない。絶対に。


 午前一時。エリスは兄が自室へ入ってしばらく待ってから、部屋の窓からロープを投げ落すと、音をたてないように下りて行った。
「ソールン、こっちだ」
 ひそやかな声が彼女を呼んだ。
 魔女の城の巨大な門を通り過ぎ、最初の角をまがったところに数人のクラスメイトが立っていた。
 ものものしい装備にエリスは眉を寄せた。
「なに、その格好……? まさか忍び込もうっていうんじゃないわよね?」
「そのまさかだよ。君が来る一時間も前から僕たち門を見張っていたけど、今日は客はなさそうだからね」
 山登りにでも行くような気軽さで言ったダリューンを、エリスはきついまなざしで睨みつけた。
「……ここは空き家じゃないのよ。不法侵入だってことがわからないの?」
「そんなことは百も承知してるよ。でも、中に入らないと噂の真相がわからないじゃないか……まさか、ソールン、怖気づいたのか?」
 ダリューンの言葉にカチンときたものの、さっきから塀を伝わってくる異様な気配が彼女を首肯させた。
「そうよ。……あんたたち、一時間も前からここにいて気付かないの? さっきから塀を伝わってくるモノに……?
 言わせてもらうけど、私、あんたたちがどうするのか聞かせてくれないからこの十日間、ここを回ってみたわ。
 ここにはセキュリティボールも、警備員もいない。考えられるのは衛星軌道上に浮かぶ攻撃衛星だけだわ」
 数人の少年が慌てて上を見る。見たところで衛星がここから見えるわけもないのだが。
 あたりは不気味なほどに静まり返り、半月がぼんやりと空に浮かんでいるのみ……。企業都市のアミューズメントパークの明かりが届いてはいるが、この場所の暗さを一層浮き彫りにするようなものだった。
 エリスはさらに追い討ちをかけるように低く囁いた。
「ここを訪れているのは軍の要人かもしれないと言ったのは、あなたよね、ダリューン。
 私が見たモノが軍の機密だった場合、軍に知られたら私どうなるの?
 ここへ忍びこんで、噂の真相とやらを掴んだら、私たちはどうなるの?
 政治家の親を持つあなたと違って、私は、兄に養ってもらってるのよ。兄は、どうなるの?」
 ひどく現実的なことを告げられて、ダリューンのそばに立っていた少年たちは、そわそわとしはじめた。
 そのとき、彼らの後方を光がよぎった。
 エリスたちは息をのみ、慌てて身を隠す。
 闇の向こうから静かに走ってくるのは一台の高級車だった。
 車は城の門前で止まり、運転席から出てきた男が門柱の呼び鈴を鳴らそうと手を伸ばした。途端、巨大な門がゆっくりと内側へ開いていく。男は慌てて車に戻った。
「政府のランドカーだ……!」
 エリスの隣に身を潜めていたダリューンが驚いたように声を洩らす。
「……え……?」
 怪訝そうに振り返ったエリスの脇をすり抜け、ダリューンは門に向って走り出した。
 つられたように他の少年たちまでもがダリューンの後を追って走っていく。
「ちょ、ちょっと!」
 エリスは仰天し、追うのを躊躇したが、ゆっくりと閉まっていく門を見たとき、反射的に走り出していた。
 凄まじいほどの『拒絶』を肌に感じながら中に転がり込んだとき、巨大な門はまたぴたりと閉じられた。
 背後を振り返る少女の目には、その門は二度と開かぬように見え、そしてクラスメイトたちが走って行ったほうへ目を転じれば、城を囲む深い森が黒々と口を開け、招かれざる客をじっと観察しているようだった。



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