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くらかしや

 本をお預かりします。
         くらかし屋



 奇妙な貼り紙に気がついたのは、そこを往復して三度目に通りかかったときだった。
 沢渡恭一さわたりきょういちは思わず足を止め、その小さな貼り紙に見入った。
 本を預かるとは奇妙な文言である。

 くらかし……倉貸し、だろうか……?

 預けなければならないほどの蔵書があるわけでもない。
 彼は紙が貼られている壁を見上げた。
 古風な土塀が左右に長くのび、塀の向こう側に重厚な白塗りの蔵が見える。桜の大樹が枝を大きく張り、庭の広さを物語っていた。
 自分の家の近所にこんな屋敷があったとは知らなかった。

 世の中には想像を絶する金持ちがいるものだ……。

 沢渡は苦笑を洩らし、踵を返そうとした。が、ふと足を止め、もういちど貼り紙を見る。
 そして、今度こそそれに背を向け、立ち去った。



          ※



 目の前に座っている屋敷の主人は二十代半ばと見られる若い男で、シノワズリの白い絹シャツに、白いスラックスという変わったいでたちだった。

 肩まで伸びた髪をうしろで無造作に束ね、器用に紐で結んである。顔の造作は悪くない。だがこの顔を後から思い出そうとしても難しいような気がする。
 それほど印象に残りにくい男だった。
 青年は沢渡が差し出した本を受け取ると、すっと目を眇すがめた。
「……ああ、確かに……。これではお手元に置きづらいでしょう……」
 外見からは想像できないほど低音の声がぽつりと洩らされ、すっきりとした白い横顔に薄い微笑が浮かびあがる。
 青年は沢渡を促し、歩きはじめた。


 大きな屋敷のわりにひとけが無い。だが、広い庭はすっきりと手入れされ、先日外から見えた桜の大樹がどっしりと腰を据えていた。
 そのほか梅や桃、萩や松なども植えられて青々しい苔が一面に広がり、庭の隅に鎮座する大きな蔵へと続く飛び石が白く浮き上がって見える。
 縁側の傍にある池には錦鯉がゆったりとおよぎ、屋敷の静寂とあいまって何とも言いようのない感覚に襲われる。

 沢渡は、切羽詰っていたとはいえ、この屋敷に足を踏み込んでしまったことを少なからず後悔した。が、すでに遅い。
 屋敷の青年は、そんな彼の内心には気づかぬ様子で、古ぼけた大きな鍵を蔵の錠に差し込んだ。重々しい音をたてて開いた扉の向こうは真っ暗闇で、沢渡は思わずぶるりと身を震わせた。
 青年は持っていたランプに火を灯し、蔵の中に入っていく。
「沢渡様、どうぞ」
 蔵の中は灯りで薄明るくなり、白い青年の姿をぼうっと浮かび上がらせる。
 それはひどく幻想的で、まるで美しい幽霊を見ているような気分になった。うすら寒い気持ちも手伝って、沢渡はいくぶん掠れた声で、
「……本一冊を預かってもらうのに、こんなたいそうな蔵に入れたんじゃ、申し訳ないような気がするけどね……」
 言って、気恥ずかしい思いをした。
 そうであるなら、自分がここへこの本を持ってくる必要はないのである。だが、青年はそれをわらうでもなく、是非の覗えぬ表情で小さく頷いた。

 沢渡は観念したように蔵に足を踏み入れる。
 中はひんやりとして、何ともしれぬ異様な雰囲気に包まれていた。入り口の脇には古ぼけた階段が上へと続き、闇に消えていた。奥には大きな書棚がいくつか並んでいる。
 その手前は主人が使用するものか、書机が一つと棚が置かれてあった。
 ふいに、青年の低い声音が届いた。
「……古典をお読みになっていて、こんなふうに感じたことはありませんか? 永きを経て人に読み継がれてきた書物は、ただの書物ではなく、それひとつが既に生き物であると……」
「…………」
「昔から、時を経てきた器物には精霊が宿ると申しますが、沢渡様のお持ちになったこの本も、どうやらその類たぐいのようでございますね?」
 沢渡は、ランプの灯りに陰影を揺らめかせる青年の顔を見つめ、何度か唾を飲み込むと、小さく頷いたのである。
「……それは……俺の親父が生涯最後に書いたものだ……。だが、そいつのおかげで、俺たち家族は離散の憂き目にあったんだ!」


 そいつのせいで……


 叫び、顔をあげたとき、彼は道端に立っていた。
「……なん……ここは……?」
 自分は蔵の中にいたのではなかったか……? 蔵屋敷の主人は……?
 あたりを見回すと、見覚えのある風景がひろがっていた。だが、自分の記憶にあるよりも、さらに古い時代のような気がする。

 チリリン、という音が後方から聞こえ、振り返ると、今ではあまり見なくなった大きなタイヤの自転車が通り過ぎて行った。行き交う人の服装も昭和の匂い色濃く、建ちならぶ家々の様相もひどく郷愁を誘う。

 まるで、夢でも見ているようだ。

 沢渡は記憶にある道を辿る。
 確か、そこの角を曲がれば、昔住んでいた家があるはず……
 歩いていくと、案の定、板塀に囲われた小さな家があらわれた。彼は足早に近づき、塀の外からそっと中を覗った。

 自分が覚えていた印象とはずいぶん違うが、それでも柚や梅の木は記憶のままの位置にたっており、家もそのままである。あの頃、 父は離れの書斎で仕事をし、縁側にはいつも母がいた。

 だが、今、縁側に座っているのは、二十代半ばとみられる若い女だった。光の加減か、女の顔はよく見えない…………若い女は塀の外からのぞく沢渡に気づいた様子もなく、楽しげに笑いながら離れの方を振り返る。
 女の白い横顔がくっきりと浮かび上がり、彼の心臓がどくん、と脈打った。

(あの女だ……!)




 「沢渡様?」
 声に、はっと顔をあげたとき、辺りは薄暗く幻影のような青年が闇の中に浮かんでみえた。
「……大丈夫ですか?」
 気遣わしげに問い掛けてくるのへ、沢渡は何度か目をしばたいて頷いた。
「あ、いや……。なんでもない……大丈夫」

 今のは一体……?

 背中に冷たい汗を感じながら一息つく。
「おや。このページ、破られてますね」
「えっ?」
 青年の言葉に沢渡は本へと目を転じる。示された本の中ほど、乱暴に引きちぎられた頁があった。
「……だれが……」
 沢渡は困惑して呟いた。あの一件以来、この本を開いたことはなかった。とにかく自分のもとから引き離したい一心で持ち出したのだ。

 そう……
 自分には、捨てられなかったから……


 蔵の扉が、開いたときと同じ重々しい音をたてて閉められた。




 狭いアパートの畳へごろりと転がった沢渡は目を閉じた。
 取り乱した母の声と必死に食い下がる若い女の声……奥から出てきた父がひどく母を叱り、女を追って雪の降りしきる表へ飛び出して行った。
 泣き崩れる母の背中――父はその夜戻っては来なかった。

 翌朝、トラックに跳ねられた若い女と、父が国道で発見された。車にはねられたのだ。名が売れ始めた作家の死は、メディアの恰好の餌になる。巷で好き勝手な憶測が飛び交い、近所では無理心中だと囁かれた。子供心にも、父は自分たちを捨てたのだと思っていた。

 あの家を引き払い数十年、母が亡くなるまで本の存在を知らなかった。知ったのは葬儀のときだ。
 なぜ、複数ある著作の中でも、すぐ絶版になったあの一冊だったのか……

 ――確かに。これではお手元に置きづらいでしょう……

 昼間会った青年の低い声がよみがえる。
 彼には何が視みえたのだろう……?
 自分の要領を得ない説明に問い返してくることもなく、あの蔵に収めてくれたあの青年は……。
 破られた頁は何が書かれていたのだろう? 
 何故、母はあの本だけを手放すことなく持っていたのだろう?
 沢渡は勢いよく起き上がり、電話に飛びついた。




 月が煌々と輝く庭を、蔵屋敷の青年がランプを持ち、蔵へと向かう。重々しい音を立てて開いた扉は青年を受け入れ、再び扉は閉められた。
 ――と、目を上げたさきに和服の女が二人、凛と立っていた。

「お方様。桜子様。今宵もお二方のお力をお借りいたします」

 青年は驚きもせず、彼女らに微笑みかけると丁寧に一礼する。
 女の一人、老婦人はくだんの本を一瞥すると品のいい眉を少し寄せ、言った。
「お前も酔狂なことをするねえ……こんなものを預かるなんて」
「でもおばさま、こうなってしまっては人の手では難しいでしょう」
 もう一人の女が美しいおもてに苦笑を浮かべる。それに賛同するように青年が頷いた。
「まったくお前たちときたら!」
 老婦人は扇子で口元を隠し、大袈裟にため息をついてみせた。

 「……では、まいりましょうか」
 青年は蔵の奥へと女たちを先導するように進んだ。
 古い棚にぎっしりと積まれた巻物や綴じ本――蔵の中にはそれら書物が保管されていた。奥へ進んでも蔵の壁があるだけのはず……。
 だが、書棚の一番奥、蔵の壁には小さな木戸が閂をかけられて佇んでいた。
 彼は閂をはずし、木戸を押し開く。くぐった先には数十畳はあろうかという劇場――能舞台が目前にひろがった。
 和服の女たちは舞台の袖へと入っていく。青年はひとり、特等席へと座った。


 ほどなく、どこからともなく楽が流れる。
 幽玄な調べとともに現れたのは老婦人――その舞は、静々としたものだった。
 だが、桜子が現れ、徐々に老婦人の舞に変化が生じてくる。迷い、苛立ち、逡巡と悲しみという情念の葛藤――かたや、桜子の舞は一途であった。それは、何かにのみ心をとらわれ、まるで外ほかのものが見えていないようであった。
 彼女らが交わりをみせたのはほんの一瞬。

 老婦人の舞はますますの葛藤を、桜子は衝撃と、死を――


 途端。客席で観ていた青年の手にあった本が、まるで風に煽られたようにばらばらとめくられた。
「……お静かに。まだ舞台は終わっておりませんよ」
 おごそかに告げた青年の声に反応したのか、本はぱたりと閉じる。


 主旋律の三味は淡々と調べを奏でる。だが、老婦人の舞は激しさを増し、そして三味の音が消えるとともに、石のように動かなくなってしまった。


 ぱん!


 劇場に響き渡る軽快な音が、すべての呪縛をとくように鳴り響いた。

 ぱんぱんぱん

「素晴らしかったですよ、お二人とも。 さすがです」
 青年は惜しみなく拍手と賛辞をおくる。
 舞台から降りてきた二人の女は、複雑な感情を浮かべた目で青年の手にある本を見た。
「……おまえ、それは物精ぶっしょうとは言わない。妄執だよ」
 物憂げに老婦人が呟く。
「……わかっております」
 青年は淡く、哀しげな微笑で応えた。




 沢渡はあの事件の詳しい情報を得るため、所轄の警察にアポをとり、翌日赴いた。
 当時の担当刑事はすでに退職していたが、記録を見ることができた。
 あの交通事故でトラックを運転していた運転手は捕まったが、数メートル先も見えないような吹雪の中、車道に飛び出した女を引き戻そうとした父が一緒にはねられたのだ。これでは避けようにも避けられまい。
 当時の警察も状況を見てそう判断したようだった。
 沢渡は記録を見ながら運転手に慙愧と同情を禁じえなかった。
 

 次に向かったのは当時、父が世話になっていた出版社である。
 当時、父の担当をしていたという、定年を控えた男性編集者が対応してくれた。だが、ここではあえて息子であることは伏せ、雑誌記者の名刺を出し、企画の取材だと告げるにとどめた。
 残念ながら、編集者からめぼしい情報は得られなかったが、たった一つだけ彼が印象に残っていることがあるという。
「……先生と打合せしているときにねえ、若い女の方から編集部に電話がありましてね、血相変えて帰られてしまったんですよ。あとから先生の弟さんがアメリカで亡くなった、というのを聞きましてねえ……」


 叔父……

 そういえば、そんな話も聞いた気がする。
 父と叔父は、決して仲の悪い兄弟ではなかったという。
 父は売れっ子の作家として軌道に乗ったころ。叔父のほうは勤めていた会社の社長に気に入られ、海外への出向で飛び回っていたという。何でも、社長令嬢との結婚話も持ち上がったようだが、断ったのだとか……
(……あれ?……)


 両親と叔父が亡くなっているいま、当時の状況を知っているであろう人物は、父の姉だけである。
 連絡を取ったことはなかったが、当たって砕けろとアポもとらず行ってみることにしたが……
「あれまあ! 恭ちゃんかね! まあまあ、大きくなって!」
 老いた伯母は皺だらけの顔に驚きと喜びを浮かべ、沢渡を迎えてくれた。

 「……ああ、あの事故ね……ほんとにねえ……。もう少し、高臣たかおみがしっかりしてくれてれば……」
「高臣……叔父が、どうか……?」
 沢渡が訊くと、伯母はばつの悪そうな顔をした。
「あ、いや、なにも……」
「おばさん、教えてください! 俺は、何も教えてもらってないんです。母だけの言い分を聞いて育ってきたようなものです。……それじゃ、不公平でしょう?」
 自嘲気味に笑った沢渡を見つめ、伯母はぽつぽつと話し始めた。


 叔父の高臣には当時婚約者がいた。叔父は海外出向で業績をあげ、勤めていた社長に気に入られていた。そこで持ち出されたのが社長令嬢との結婚話であった。
 父への対抗心から一時は出世することに心が傾いていたようだが、父や祖父母の説得で思い直し、帰国後に婚約者と式をあげることになっていた。しかし、叔父は帰国することなく世を去ってしまう。
「……あんたのお父さんが亡くなってから出た本――ええと、確か私も一冊もらったんだよ――」
 伯母は話の途中で座を立ち、ほどなく奥から一冊の本を持ってきて沢渡に手渡した。
 沢渡は意を決し、本をめくった。
(――ここだ)
 蔵屋敷に持って行った本は頁が破られていた。破ったのは、おそらく母だ。
 沢渡はその頁を読み始め――そして、瞠目した。
「……伯母さん、これは……」
「この本は、高臣の……高臣と婚約者の千鶴さんのために書いたんだと言ってたよ」
「……二人のため……?」
「千鶴さんもあんたのお父さんを、本当の兄さんみたいに慕ってたからね……二人が可愛くて仕方なかったんだろうねえ……」





 淡々と綴られていたのは主人公である二人への深い愛情であった。そしてまた、彼らを取り巻いていた人間たちも不器用なほどに真っ直ぐで、愛らしかった。
 万人受けする作品では、けしてない。ある特定の人物に対して書かれたのであろうことは容易に想像がつく。
「――それで怒りの矛先を変えられてしまったんですね……。それにしても、女性の情念の強さには、ときに心胆寒からしめるものがありますね、お方様? ああ、そう……先だっては、桜子様のご子息方がご無事でようございましたね」
 ランプの明りが蔵の中に揺れる。そして佇む青年の影もゆらゆらと遊んだ。
 暗がりに白く浮かび上がる老婦人は、じろりと青年を一瞥した。
「おだまり、青二才。……死人は文句を言いやしないからね。……その代わりに」
「この本に生前の母親の念だけが凝縮してしまった、ということですね」
「そういうことだね」
 老婦人と青年のやり取りを微笑みながら聞いていた桜子が、ふと、遠くを見るような仕草をした。
「……彼が来たみたいですわね」
 柔らかな声音の直後、呼び鈴がけたたましく鳴らされた。


 いらっしゃいませ、と出てきた蔵屋敷の青年は、変わらず白いシノワズリの絹シャツと白いスラックスといういでたちだった。そして相変わらずの能面のような落ち着き払った顔を見ると、気勢がそがれる感じもするがそれどころではない。
「……あー、主人、夜分にすまない。その、預けた本を見たいんだが、蔵へ入れてもらえないだろうか」
 咳き込むように告げた沢渡へ、青年は柔らかな笑みを浮かべ、どうぞ、と招き入れた。

 夜の屋敷の庭は明りもなく、不気味さをいっそう増している。植木の茂みは奈落の底のような闇だ。
 いるはずもないモノの気配を感じたりするのは気のせいだろうか?

 ランプを持つ青年は慣れているのか、明りなど必要ないほどしっかりした足取りで歩いている。
 冴え冴えとした月光に照らされ、蔵はぼんやりと青く輝いているように見えた。
 青年が蔵の鍵をあけ、沢渡を促す。
「……その……面倒をかけて申し訳ない……。たぶん、もう本を手元に置いていても問題ないだろうと思う……」
 ぎこちなく言った沢渡に、青年は何を問うでもなく、小さく頷き返してきた。

 ――本は、机の上に置かれていた。
 古い、カバーはあちこち破れて、頁も黄ばんでしまっている父の本――もっと早くに自分が真実を見ようと動いていれば、こんなややこしい面倒なことにはならなかったはずだ。
 今となっては、父母も、叔父とその恋人もこの世にはいないのだが。
 ただ、母と自分だけになったとき……もっと前にそうしていればと思ってしまうだけで……。
「……母さん、わかってたんだろう? 父さんが俺たちを変わらず大事に思っていたことも、あの女性ひとが叔父の婚約者で、父さんを兄のように慕っていただけだということも……」
 沢渡は低く、亡き母に向けて呟く。
「今日はいろんな人に会ってきたよ。だれも父さんや母さんを悪く言う人はいなかったよ……最初は嫉妬して疑ったけど、あとから気がついたんだろう、そうじゃなかったって……? だから、もういいだろう? もう、だれのことも恨む必要も妬む必要もないだろう?」
 沢渡の声に、机の本がかたかたと震え始める。
「母さん。もうそれに固執する必要はないんだよ。俺も母さんも……!」
 沢渡が声を張ったとき、本を中心に竜巻のような風が巻きおこった。そして、巨大な手に突き飛ばされるように、沢渡は蔵からはじき出された。
「……母さんっ! なぜだ?! 誤解だって分かってたんだろう?! 終わったんだよ、もう全部、過ぎてしまったことなんだ!」
 蔵の外に放り出され、尻持ちついたまま沢渡は叫んだ。だが、蔵の扉はまるですべてを拒絶するかのように閉じられてしまった。
「……なんでだよ……」
 呆然と、ただただ呆然として蔵の扉を見つめる。

 原因は、ほんのささいな行き違い、思い違いである。少しの言葉、少しの心さえあれば何でもないことだったはずだ。それがなぜここまで絡まってしまったのか……。

 途方に暮れたような沢渡の頭上から、突如、女の声が降ってきた。
「――ったく、だらしがないね!」
「す、すみません……って、え?」
 いきなり横っ面をはたかれたような気がして、沢渡は思わず謝り、そちらへ顔を向ける。
 気位の高そうな和服の老女が彼を一瞥し、消えた――ように見えた。
「……あれ?」
 思わず目をこする沢渡の傍へ、屋敷の青年が歩み寄り手を差し伸べた。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ、すまない……」
 どことなく悄然とした様子の沢渡を見、それから蔵へと目を移した青年はぽつりと呟いた。
「……いつも取り残されるのは、「思い」なのですよ……」




 それから三日ほどは、まるで「本」に同調したように蔵は開かなかった。
 四日目の夜、寝ている青年の枕元に和服の女が二人現れた。
「……おや。お二方。そろって夜這いとはお珍しい」
 青年が軽口を叩くと、老婦人は扇子でぺしりと彼の頭をはたいた。
「いた! 冗談ですよ。……で、結局わたくしに後始末を押し付けるんですね」
「しょうがないだろ。あの息子にできないんだから。わかっているならさっさと支度をおし!」
 ぴしぴしと叱り付けるように言った老婦人は、既にその場から消えていた。



 女のすすり泣く声が細く、長く流れてくる。
 そこは霧が立ち込める、冷たい場所だった。青年が着ている白袴はすぐに水気を含んで重く纏わりついてくる。だが、彼はそんなことには頓着する様子もなく、まっすぐにそこへ歩いていった。

 青年はそして、足を止めた。
 うずくまるようにして泣いている女が一人――

 傍に立った青年に気づくようすもなく、何かを抱いて女は泣き続ける。
 彼は、そっと女の肩に手を置いた。
夫人様おくさま。もういいのですよ……それを手放して。もう、ご自分を赦してさしあげてください。誰も、貴女あなたを恨んでなどおりません」
 びくりと女の肩が振るえ、おそるおそる顔をあげる。年のころは五十も半ばか、心労でやせ細った顔は、頬骨が浮いていた。
『あなたは……?』
「通りすがりの者です。このたびあなたの息子さんから本をお預かりしたのです」
 青年は微笑をたたえたまま、女に告げる。女自身もすでにわかっているであろう事実を――。
 女の目が動揺にゆれた。
 だが、腕の中の【石】を思い直すように、抱え込んだ。
『でも……わたくしがあんなことを言わなければ、あのひとは……』
 青年の目に、一瞬だけ、きらめきが浮かぶ。そして、強い口調で女に言った
「いいえ! あれは不慮の事故でした。天の采配にまで、貴女が責任を負うことはないでしょう? ……だからもう、そんな冷たい石の塊は手放して……手がけば、別の……もっと大事なものを掴めるのですから」
 いくばくかの沈黙のあと、女は消え入るような声で問うた。
『私は……赦されるのでしょうか……?』
 青年は、ゆるんだ女の手から冷たい石をそっと取り上げ、囁くように告げる。
「……最初から、誰も貴女あなたを責めてはおりませんよ。貴女は、あなたご自身を責める必要はなかったんです。――いま、残されているのは、貴女が貴女自身を赦すことだけです」

 青年の足元から一斉に、風と光が舞い上がった――



 「まったく、お前は甘いのだよ!」
「いた!」
 青年は、老婦人の扇子ではたかれた額をさすった。
「……わたくしも、悔いることを知らぬ者に対して、自分を赦せ、などとは申しませんよ」
 苦笑しつつ、掌をそっと開く――そこにあったのは石ではなく破りとられた一枚の紙――本の頁だった。
「まったく! 沈黙は金と言ったところで、必要なことは言葉にしなけりゃ伝わりゃしないんだよ! それを『わかるだろう』くらいの気持ちで相手によっかかってんのぁ、ただの怠慢ていうのさ!」
 老婦人はそれを一瞥し、歯切れよい啖呵を切ると、くるりと裳裾を翻して蔵の闇に消えた。
 桜子もまた、着物の袖で口元をそっと隠し、困ったように微笑むと老婦人を追うように消えた。

 蔵屋敷の青年は、女たちが戻っていった闇に向かって深く一礼する。
「……そう、ですね……願わくば、心を尽くし言葉を尽くしていかれんことを……」
 彼は祈るように呟き、破られた一頁を本に挟み込むと、そっと蔵の扉を閉めた。


                   了
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