4章

炭鉱へ向かう道は、息が白くなるほど冷えていた。
なのに足元の地面は、じわりと熱い。
火山が近い。
そう分かるのに、立ち止まる理由にはならなかった。
(ジール…)
思考が、その名前だけに引っ張られる。
胸の奥の焦りが、足を勝手に速くする。
速い。前の自分なら、こんな走り方はできなかった。
ネーロの干渉で潜在能力が引き上げられて、魔力の流れが通りやすくなっている。
意識すれば、魔法は指先から自然に溢れた。
加えて、身体能力。
脚が軽い。視界が広い。地面を蹴るたびに、空気が後ろへ滑っていく。
少しだけ、飛べる。
ほんの一瞬、地面から距離を取って落ちる前にもう一度蹴る。
それだけでも、崩れた道を越えるには十分だった。

『おいノア!やめえ言うとるやろ!単独はアカン!』
体内から、ネーロの声が響く。
うるさい。けど、それが聞こえるうちはまだ大丈夫だと分かるのが、逆に腹立たしい。
「分かってる。…でも、行く」
『分かってへんから走っとんねん!』
止まらない。止まれない。
脳の端で「これは無茶だ」と分かっていても、足は言うことを聞かなかった。
『なんでそこまでやるんや。あの女、そんな大事か?』
ネーロの声が少しだけ落ち着く。
からかいじゃない。探る声音だ。
「…ジールは、幼馴染だ」
口に出してから、自分でも少しだけ驚いた。
言ったことのない言葉だ。言うつもりもなかった。
『幼馴染やと? ほーん』
「…昔から、あいつは無茶をする。止めるのは、俺の役目だと思ってる」
『ああそれ、“好き”ってことちゃうんか?マスターから聞いたで。恋ってもん』
一瞬、足が止まりそうになった。
胸の奥を突かれる。言い返せない。
「…うるさい」
『図星やな』
その声が少し楽しそうなのが、余計に腹立つ。
「今は、それどころじゃない」
『せや。今は命の話や。せやから止まれ言うとんねん』
止まれない。
炭鉱の入口が見えた。
黒い口みたいに開いた坑道。外より冷たい空気が流れ出していて、熱い町とは別の世界みたいだった。
(入れる…!)
そう思った瞬間、嫌なものが見えた。
坑道の内部が、あちこちで崩れている。
火山の揺れと噴火で、道が割れて、塞がって、折れている。
本来、火山へ抜けるはずのルートが“通れない”。

「…くそ」
拳を握りしめる。
焦りが喉の奥を焼いた。
『ほら見い。無茶しても意味ないやんけ』
「…分かってる。だから」
道を探す。別の坑道。別の抜け道。
けど、どれも崩落で塞がれている。

 「手伝おうか」

背後から、温度のない声が落ちてきた。
反射で身構えて振り返る。
白い影…いや、白じゃない。肌の白さが、煤けた炭鉱の闇の中で浮いて見える。
そこに立っていたのは、白い男だった。

 ブラン。

『…なんやブランか』
ネーロの声の温度が変わる。
ローザへの時の冷たさとは違う。警戒はある。でも、どこか“同類”を見るみたいな色が混ざっている。
ブランは俺を一瞥し、それから俺の中へ向けて言った。
「その声は…ネーロ。久しぶりだな」
『久しぶりやないわ。お前、ほんま面倒やな』
「面倒で結構。…それより」
ブランの視線が俺の右腕…いや、俺の“中身”を測るみたいに細くなる。
「完治したんだな。力が回っている。いい顔だ」
「何の用だ」
「決闘を再開できるな」
ブランが、嬉しそうに口角を上げた。
その笑みは冷たいのに、熱を帯びている。戦うことだけが楽しい目だ。
『今それどころちゃうやろ!』
ネーロが、珍しく強い声で遮った。
『ロッソのことやジールのこと探してんねん。お前の構っとる場合ちゃうわ』
「…ロッソ」
ブランの瞳がわずかに鋭くなる。
「…あいつには、邪魔をされた覚えがある」
『あるやろな。長年、ええとこでしゃしゃり出てきよるタイプや』
「ロッソにはケリをつける。貴様は大方ロッソへのリベンジといったところか」
「ジールが優先だが…奴がいるなら一緒に潰す覚悟だ」
ブランは短く息を吐き、崩れた坑道へ視線を投げた。
「道が塞がっているなら、開ければいい」
「…開ける?」
「俺ならできる」
言い方が、あまりに当然みたいで腹が立つ。
でも今は、その傲慢さが頼もしい。
『協定や。ここは協定でいこ』
ネーロが言った。
『終わったら決闘でも何でもせえ。せやけど今は、ジールを助けるんが先や』
「…そういうことだ。勝負は後で受け付ける」
俺は短く頷いた。
ブランは一瞬だけ笑って、炭鉱の闇へ歩き出す。
「行くぞ。時間がないんだろう?」
「…ああ」

ブランは炭鉱の闇を当然みたいに歩き、崩れた坑道の前で足を止めた。
落盤した岩と、火山灰が固まった塊が道を塞いでいる。人ひとり通すだけでも、掘り返すには時間がかかりそうだった。
「…ここか」
ブランが腰の武器に手をかける。
魔力の詠唱はない。構えだけが、空気を変えた。
俺は喉を鳴らす。
(その片手剣だけで…これを?)
『見とけ。あいつは“そういう奴”や』
ネーロが小さく言った。
ブランの刃が抜ける。
白いというより、煤の闇の中で“白く見える”刃だった。
光っているわけじゃないのに、視線だけを奪う。研ぎ澄まされた線。
「下がってろ。巻き込まれる」
言い捨てて、ブランは一歩踏み込んだ。
次の瞬間、空気が鳴った。
刃が走る。
速い。鋭い。
岩に当たったはずなのに、衝撃音は鈍くない。
むしろ、乾いた“切断音”に近かった。
落盤の塊が、真っ直ぐに割れる。
火山灰が舞い、粉雪みたいに落ちる。
(…斬った?)
信じられなくて、俺は目を凝らす。
斬撃の軌跡が、一瞬だけ白く残ったように見えた。
残光。錯覚。それでも、光属性の気配がそこに滲んでいる。
ブランは息を乱さない。
二太刀、三太刀。
無駄がない。崩落した岩を“片付ける”みたいに切り分け、足で蹴り、通路を作っていく。
『魔法ちゃう。武器の技や。…けど、見え方だけは光っぽいやろ。』
ネーロがぼやく。
「できた。通れる」
ブランが振り返る。白い顔に汗はない。
俺は唾を飲み込んだ。
「…助かった」
「礼はいらない。目的が同じだけだ」
冷たい声。
だけど、その冷たさは嘘じゃない。信頼できる種類の冷たさだった。
「約束は果たす。逃げるなよ」
『俺は逃げられんわ』
やる気があるのは分かった。
それが今は、心強い。
俺たちは開いた通路へ踏み込んだ。
炭鉱の奥はさらに冷えていて、呼吸のたびに肺が痛む。
足元には黒い粉が積もり、踏むとざくりと沈む。
「…痕跡は?」
俺が問うと、ブランが顎で示した。
「足跡。新しい。…二人分だ」
確かに、足跡が続いている。一つはスニーカーのような足跡。
それに混じって、細い靴底の跡もある。ハイヒールっぽい。
ジールの足跡がそこにあるかは分からない。
でも、少なくとも“誰かがこの先へ向かった”のは確かだった。
(ジール…無事でいてくれ)
俺は拳を握り、足を速めた。
炭鉱の闇の奥で、かすかに熱い風が流れた。
火山へ続く道が、近い。
そしてその風に混じって、焦げたような“赤い気配”が鼻先を掠めた気がした。
ロッソのものか。
それとも、別の“嫌な何か”か。
俺は目を細め、暗闇へ踏み込んだ。
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