4章

フォレストタウンに戻る道は、行きよりもずっと静かだった。
雪の匂いのする風が頬を撫で、遠くの木々がかすかに軋む。なのに胸の奥だけが、まだ戦場の熱を抱えたまま冷めきらない。
…けど。背中に、確かに“重さ”がある。
「…」
振り返らなくても分かる。そこにダンがいる。足音がある。呼吸がある。
それだけで、世界が少しだけ、ちゃんと回り始めた気がした。
「あら、おかえりなさい!」
「おう、ダルク。帰ってきたか」
町の入口で、ビルバさんと親父クロノスが駆け寄ってきた。
「無事に帰ってきたぜ。…ほら、ダンも一緒だ」
俺が横に視線をやると、ビルバさんは一瞬、目を見開いた。次の瞬間、両手で口元を押さえる。
「まあ…本当に…っ。よかったわね、ダルク君…」
言葉にならない声が、白い息と一緒に空へ溶けた。
「ダルク、大変だったろう。ダンは俺が担ぐ」
「頼む」
ダンを親父に託す。きっと、自分が隔離されていた部屋に運ぶつもりだろう。
ちなみにスタラは親父についていき、ラルドは船の修理に戻っていった。
その後ろで、ハーデスさんが白いスーツの襟を整えながら、いつもの落ち着いた表情を崩さずに、けれど、ほんの少しだけ安堵を滲ませた。
「除霊は成功したようだね」
「成功した。…と思う」
「うん?」
「あ、いや…ちゃんと成功したと思います」
「それならいいんだが」
俺の答えは少しだけ歯切れが悪かった。成功って言い切ってしまうのが、怖い。
とはいえ、ダンは確かに生きている。今は、それでいい。

 「スペイドさん!」
ノオが声を上げると、診療所の方からスペイドが出てきた。眠れていない目だ。
けれど俺たちを見た瞬間、視線がぱっと冴えた。
「おお、戻ったか」
短い言葉だった。でも、そこにどれだけの重みがあるかは分かった。
「あ、そうだ。スペイドさん。精霊石を見つけたんだ。ヴェルってやつが二個持ってた」
俺は懐から小さな袋を取り出す。中で、石が淡く瞬いた。
スペイドは受け取り、指先で確かめるように撫でた。まるで脈を取るみたいに。
「…この魔力は地のシャインと風のクラウディアだな。分かった。同じようにやってみよう」
「精霊の方は、スペイドさんに任せれば大丈夫だな」
「アタシ、スペイドさんと一緒に復活させるの手伝ってくる!」
マジカルが尻尾を揺らして、すぐに診療所へ駆けていく。
「よし。…俺たちはネーロのとこ行こうか」

「ネーロ? どこにいるのー?」
『ここやここ』
声だけが返ってくる。
ノアさんのいる部屋へ入ると、ノアさんとネーロが迎えてくれた。
前より戸惑った様子はない。何かを飲み込んだような、落ち着いた顔をしている。
「…てか、ノアさん。右手…」
「完全に再生できたようだ。これでようやく復帰できる」
包帯も、痛々しい痕もない。
俺は思わず息を吐いた。
「よかった…。ノアさんが一緒に来てくれれば、めちゃくちゃ頼もしいです」
『俺のおかげやー。感謝せえやー』
ネーロのいつもの調子に、ノアさんが小さく肩をすくめる。
その横で、ローザが一歩前へ出た。
そして忘れないように飴玉みたいに固まったヴェルの核を、ネーロへ差し出す。
「ネーロ。ヴェルはダルクたちが倒した。これ、受け取って」
『そか。向こうもダルクらを脅威に思っとったんやろな。けど返り討ちにできて、ほんまよかった。誇ってええで』
「やるな、ダルク」
「俺だけじゃねえよ。みんないてこそだ」
『んじゃ、早速封印するで』
触腕が伸び、核をパクリと飲み込む。
…毎回思うけど、それでいいんだよな。うん。
『ノアが完治したことで、俺も力を取り戻してきとる。もう少ししたら、ノアから離れられるようになるで』
「そうか。…もううるさい声を聞かなくて済みそうだ」
「ネーロって、どんな姿してるのかも気になるな」
「ねー。ローザも見たことないんだ」
やることは、やった。
「とりあえず今日は…ダンが帰ってきたこと、祝おうぜ」
誰が言ったのか分からない。たぶん、俺だ。
勝ったわけじゃない。終わったわけでもない。
だけど、帰ってきた。戻ってきた。
今夜くらいは、ちゃんと「おかえり」って言ってもいいはずだ。
聞いていたローザがぱっと顔を上げる。
「お祝い! いいね!」
「ええ、もちろん。帰ってくる時のために、いろんなごちそう作りますよ!」
廊下で聞いていたビルバさんが待ってましたと言わんばかりに胸を張る。
「実はアップルパイ以外にも、作り置きスイーツ作ってたんだー。ローザ、それ用意するね!」
ビルバさんとローザが食堂へ向かっていった。
その笑顔に、俺たちの肩の力が少しだけ抜ける。
束の間でもいい。この温かさを、ちゃんと噛みしめておきたかった。

しばらくして、食堂の方からとんでもなくいい匂いがしてきた。
鼻先をくすぐる湯気の匂い。甘い香りじゃない。
あったかい汁と、焼けた脂と、野菜の甘さが混ざった…腹に直撃する匂いだ。
「…やば。腹減ってきた」
思わず呟くと、ノオが「ふふ、かわいいですね」と優しく笑った。
俺はノオとノアさん、そしてネーロと一緒に、食堂の様子を覗いていた。
ネーロは触腕から目だけを出して、きょろきょろと落ち着きなく見回している。
『ここの町って雪ばっかなのに、野菜めちゃくちゃとれるんか?』
「フォレストタウンは雪の地方だ。だから寒さに強い野菜がよく獲れるんだよ」
俺が答えると、ノオが頷いて続ける。
「ですです。代表的なのは、スノーだいこん、樹ブロッコリー、霜降り白菜、フォレストキャベツ、そしてピリ辛とうがらしですね。退魔のにんにくもあるんですが…妖怪系の魔物を連れてる時は使わないように、って決まりなんです」
するとネーロが『え?なんでや?』と触腕を揺らした。
…ああ、そっか。ネーロは知らないのか。
ノアさんが淡々と補足する。
「魔物は大きく分類すると、妖怪、不死、悪魔、神聖に分かれる。退魔のにんにくは妖怪系にとって激臭だ。スタラや…犬っころには悪臭に感じるだろうな」
『あー、なるほどな。感じへん連中は妖怪やないってことか』
「単純に言えば、そういうことになるな」
ネーロは納得したようで、また食堂の中へ目を向けた。
ちょうど、町でよく見かける野菜がいくつか取り出されるところだった。
「あれってスノーだいこんか?」
「はい。雪の中でもすくすく成長する大根です。凍らせてから調理すると、食感が良くなるんですよ」
『なぬ、凍らせてから!?』
ネーロの目がまんまるになる。
「用途も多いんです。すりおろしたり、煮たり…実は肉料理にも相性いいですよ」
ダンは肉料理が好きだ。たぶんローストに“雪おろし”をのせるやつだろう。
俺は勝手に口の中まで想像してしまった。
『なあなあ、野菜の詳細もっと教えてーや』
「わかりました。樹ブロッコリーは、木みたいに大きく育つブロッコリーで…枝を切るみたいに収穫するんです」
『えー!木やん!?食べられる木やん!?』
 「…うるさい」
ノアさんが呆れたように言う。
でもネーロは、ここに来てから初めて見るものばかりだ。知りたい気持ちが止まらないらしい。
「霜降り白菜はみずみずしい白菜です。水分が多いから煮込みや鍋に最適なんですよ」
「そっか。だからこの町、煮込み料理が多いのも納得だな」
俺がそう言った瞬間、食堂から湯気の匂いがまた強くなった。
…あれは絶対、鍋だ。
「フォレストキャベツはこの町の名産です。みずみずしい緑色で癖がなく、食べやすい葉野菜。育てやすくてたくさん採れるので、他の町にも流れてます」
「あー、道理で。俺、サラダで食べてるけど確かにうまい」
「ピリ辛とうがらしは赤い野菜です。粉にすれば辛い調味料が作れます。食べれば当然辛いです」
「そういや師匠は、その調味料かなり好んでただろう?」
「確かに親父、辛いもの好きだからな」

「その通りだ」
背後から声が落ちてきて、俺は肩を跳ねさせた。
いつの間にか親父が立っている。足音、マジでしねぇ。
その流れで、親父は退魔のにんにくの話もさらっと付け足した。
「ちなみに退魔のにんにくは、妖怪族が苦手な匂いを放つ滋養強壮の野菜だ。畑荒らし対策で育ててる農家もいる」
「なるほどねぇ」
『なんや、それだけは食べれんのか。まあ…しゃあないか』
ネーロはちょっとだけがっかりしたように触腕を垂らす。
「俺の家も自給自足だし…覚えておこう」
…そんなことを話してるうちに、匂いはもう我慢の限界まで来ていた。
「今日は隣の酒場を貸し切っている。ダンの帰還祝いだ。お前たちも早く行ってこい」
「おお、やったー!」
『聞いてるだけで楽しそうやな。ほな俺も楽しませてもらうで』
すでに酒場には何人か集まっているらしく、椅子を引く音、誰かの笑い声が漏れてくる。
生きて帰った実感が、ようやくみんなの中で形になっていく。
束の間でもいい。
今夜は、うるさいくらいがちょうどいい。

ダンは目が覚めたのか、寝ぼけまなこのままスタラに手を引かれて酒場へ入ってきた。
頬にまだ寝起きの赤みが残っていて、髪も少し跳ねている。
「ダルクー!ダンきたよ!」
スタラが嬉しそうに叫ぶ。
「おう、ダン。よかった。お前、さっきより顔色いいじゃん」
俺が声をかけると、ダンは一度、目を細めた。
「ああ…うん、だいじょうぶ」
少しずれて笑った。口調はいつも通りのはずなのに、どこか一拍遅れて届く。
「…?」
俺の間に気付いたのか、ダンが首を傾げた。
「ん? どしたダルク」
「ああ、いや。なんでもない」
自分で言いながら、胸の奥に小さな針が残ったままだった。
料理が並ぶたび、部屋の空気が明るくなっていく。
ビルバさんが鍋のふたを開ければ、ぶわっと白い湯気が立った。
霜降り白菜の甘い香りが広がり、スノーだいこんのおろしが雪みたいに皿の上で光る。
樹ブロッコリーのチーズ焼きは焼き目が香ばしくて、ピリ辛とうがらしの小皿が赤いアクセントになっていた。
ノオが皿を運び、ローザがデザートの台を誇らしげに整える。
ブラッドアップルの赤が、白い料理の中でひときわ鮮やかだった。
「はい、主役ー!ダン、座って!」
マジカルの声に、ダンが小さく笑った。
さっきと同じように、ほんの半拍遅れて口角が上がった気がした。
(…まだ疲れてるのか?)
そう言い聞かせながら、俺は席を詰めた。
「よし、乾杯しようか」
クロノスがグラスを掲げる。
みんながそれに合わせて持ち上げ、ガラスの音が一斉に鳴った。
ダンも、同じようにグラスを持ち上げる。
「…協力に、感謝する」
「え?」
俺の眉が勝手に動いた瞬間、ダンは自分でも驚いたみたいに瞬きをした。
それから慌てて笑う。
「あ、いや。ありがと。ほんと、助かったぜ」
すぐに“いつものダン”に戻る。
でも、あの一言が妙に残った。
乾杯のあと、酒場は一気に賑やかになった。
箸が動き、笑い声が弾み、鍋の湯気が窓を曇らせる。

「んまっ! 霜降り白菜、溶ける!」
「こっちの雪おろし、ローストに合うよ!」
「とうがらしは入れすぎ注意ですよー!」
声が飛び交う中で、ダンも笑い、食べ、喋っていた。
…ただ、ところどころで“普段のダンなら言わない言葉”が混じった。
「いやあ、状況の整理が必要だな」
「最適解は…」
難しい言い回しを、ぽろっと出す。
そして本人は、出したことに気付いていないみたいに箸を動かす。
ノアさんが口元を歪めて、わざとらしく言った。
「犬っころにしては、随分と難しい言葉を使うんだな」
「…」
「…?」
いつもなら「誰が犬だ!」と噛みつくところだ。
なのにダンは、そのままスルーして鍋をよそっている。
(…今の、聞こえなかったのか?)
俺の胸の針が、もう一本増えた気がした。

宴が終わり、酒場がお開きになっていく。
笑い声が遠のいて、片付けの音だけが残るころ、俺はノアさんに近づいた。
「なあ、ノアさん。…ダン、なんかおかしくないか?」
「…俺も同感だ。言葉の選び方が、少し違う」
そのとき、ノアさんの腕のあたりから、ネーロの気配がぬるりと動いた。
『あの…お二人とも。俺も思うことある。ちと可能性の話やけどな』
ネーロの声が、いつもより低い。
『除霊は成功した。けど“残りカス”みたいなもんが、どっかに引っかかっとる可能性はありそうや。それが悪さしとるかもしれん。』
俺は息を飲む。
『スペイドとハーデスに相談した方がええ。今のうちに手ぇ打っとかな、笑って済まんくなるで』
「…分かった」
笑い声の余韻が残る酒場で、俺の背筋だけがひやりと冷えた。 

 宴の片付けが始まるころ、俺とノアさんはそっと席を立った。
笑い声はまだ酒場に残っている。けれど胸の奥の違和感は、食べ物で誤魔化せるほど甘くなかった。
「…行こう」
「分かった。スペイドさんのところだな」
ノアさんの腕のあたりで、ネーロの気配がぬるりと動く。
『はよせえ。遅いほど厄介になんねん』

俺たちは診療所の裏手、スペイドさんが“簡易研究所”として使っている部屋へ向かった。
薬草の乾いた匂いと、金属器具の匂いが混じった、妙に落ち着かない空気が漂っている。
扉を叩くと、すぐにスペイドさんが顔を出した。
疲れ切った目の奥が、俺たちの表情を見た瞬間に警戒へ変わる。
「おや…どうしたんだい。もしかしてダン君のことか?」
「うん。ちょっと…いや、かなり気になることがありまして」
俺は息を整えて、さっきの違和感を全部話した。
半拍遅れる笑い。普段使わない言葉。いつも言われてブチ切れる発言をスルーしたこと。
そして一瞬だけ、別人みたいに落ちる声。
スペイドさんは黙って聞き終えると、顎に手を当てた。
「長く憑りつかれていたんだ。意識が混同している可能性はある」
「混同…」
「自分の言葉と、相手の“癖”が混ざることはある。時間が経てば、元に戻ることも多い」
その言い方は慰めにも聞こえた。
でも、俺の中の針は抜けないままだ。
「…本当に、それだけならいいんだけど」
ノアさんも小さく頷く。
「俺も違和感がある。言語だけじゃない」
『せやから言うてるやろ』
ネーロの声が、いつもより低く割り込んだ。
『“混同”で済むならええ。でも別の可能性もある。あの、スペイドさん、俺が前に話したやつあれの線、捨てたらあかん』
スペイドさんの眉が動く。
研究者の目だ。嫌な予感を“材料”として拾う目。
「…やはり気になるか?」
『せや。無理矢理でもええ。ちと調べてくれ』
「ちと、で済むかは分からんが…身体については私は医者じゃない。専門外だ」
「分かってる。だから、ハーデスさんにも協力頼もう」
スペイドさんは一度だけ目を閉じ、それから頷いた。
「いい。ハーデス君は私から声をかけよう。…まずは、本人をここへ連れてくるのだ」

問題は、本人だった。
俺たちはダンのいる部屋へ行って事情を話した。
だけどダンは毛布を肩に引っかけたまま、あっけらかんと笑った。
「おいおい、なんだよ。俺は平気だって」
「いや、平気そうに見えない瞬間があったんだよ」
「気のせい気のせい。寝起きで変だっただけだろ」
軽い。軽すぎる。
その軽さが、逆に怖い。
「頼む。ちょっとだけでいい。調べさせてくれ」
「だから大丈夫だって…」
『ほな、力ずくでええな』
ネーロがぬるりと触腕を出した。
…いや、出しただけじゃない。形が変わっていく。
先端が細い刃物みたいに尖り…次の瞬間、注射器みたいな針が生えた。
「おい待て待て待て!ネーロ!?」
『安心せえ。刺す場所は選んだる』
「安心できるか!!」
ノアさんが触腕を掴むが、数が多すぎて追いつかない。
俺も慌てて割って入ると、ダンがさすがに顔を引きつらせた。
「え!?ちょ、ちょっと待って!?なんだよそれ!?」
『平気言うたやろ?ほな平気や。はい、腕出しぃ』
「やめろ!脅すな!話し合いで…」
俺が触腕を押さえ込もうとした、そのとき。

「ねえ、なにやってんの?」
扉が勢いよく開いて、声が飛び込んできた。
ステラだった。息が少し上がっていて、雪の匂いをまとっている。
「…なんか物騒な声が聞こえたんだけど?」
「ち、違う!違わないけど違う!」
「えー、どっち?」
俺がわたわたしている横で、ネーロが『ちっ』と舌打ちする気配を出す。
…気配だけで伝わるのが怖い。
ノアさんが冷静に言った。
「助けたダンの様子に違和感がある。スペイドさんとハーデスに診せたいんだが、本人が拒んでいる」
「あ!ほんとだ!ダンがいる!けど…なんで無理やり?」
『脅してないで。命かかってんねん』
「それはそうだけどさ!」
ステラが腕を組み、ダンをじっと見る。
「ダン。“本当に”平気?」
「…平気だって」
「だったら行こうよー。何もなかったら、それでいいじゃん?」
ステラの言い方は軽い。
けれど、その軽さは、ダンの軽さと違っていた。
逃げ道を塞ぐ軽さだった。ダンに逃げ場はない。
 
研究所へ連れていくと決まったあと、ノアさんが扉を開け、俺が背中を押した。
「ほら。すぐ終わるって」
「…チッ。分かったよ」
渋々、ダンは立ち上がった。
ネーロの触腕は、まだ注射器の形を残したままだ。
俺はそれを、誰にも刺さらないように押さえつける。
「ネーロ、やめろって…!」
『逃げると思ってな。まあええわ。ほな、あとはあいつらに任せる』
研究所へ向かう廊下は薄暗く、薬草と金属の匂いが濃くなる。
スペイドさんの部屋の前に来たところで、ステラがノブに手をかけた。
「ほら、入って」
「…」
ダンが一歩、敷居を跨ぐ。その瞬間だった。
瞳が、すっと細くなった気がした。
色も、ほんの一瞬だけ深く沈んだような。
(…今の、なんだ?)
息を飲んだ俺の前で、ダンは何事もなかったみたいに瞬きをして、首を鳴らす。
「はいはい。早く終わらせてくれよな」
気のせいだ。そう思おうとした。けれど、胸の奥の針がまた一本増える。
「入りたまえ」
奥からスペイドさんの声がして、ハーデスさんもすでに部屋にいた。
「ここからは僕たちで診る。君たちは外で待っていてくれ」
「…お願いします」

ドアが閉まる。
金属の器具が触れ合う音がして、次に静寂が落ちた。
俺はその静けさの重さに耐えきれず、息を吐く。
「とりあえず…ダンのことは、あの二人に任せておこう」
ノアさんが頷いた。
ネーロも『せやな』と短く返す。さっきまでの物騒さは、もう引っ込めている。
…少し間が空いた。
俺はふと、隣に立つステラを見た。
「ところでさ、ステラ」
「ん?」
「今までどこ行ってたんだ?」
ステラが笑う。
だけどその笑い方は、さっきの酒場みたいな“騒ぎの笑い”じゃなかった。
寒い外気みたいに、少しだけ鋭い。
「あ、そうだ! アタイ、ダルクたちに用があって!うんとね、ジールと一緒に…あの赤いいやな女…なんて名前だっけ」
『ロッソのことか?』
ネーロがぼそっと答える。
その名前を聞いた瞬間、ノアさんの表情がわずかに硬くなった。
大けがを負わされた張本人…思い出すだけで腹が立つんだろう。
「そうそう! そいつがね…いたんだよ。バースト火山に!」
その一言で、俺の背筋が自然と伸びた。
 「バースト火山…」
俺が呟くと、ステラは勢いよく頷く。
「うん!でね、ジールがさ。あいつ、ロッソに“勝負”挑もうとしてんの」
「勝負…?」
「そう!自分でケリつけるって顔してた。止めようとしたけど、聞かなかった」
胸の奥が嫌な形で冷える。
「ジールは今、どこにいる?」
ノアさんが低い声で聞いた。
「火山の最奥部。たぶん、もう入ってる」
その言葉の直後だった。
ノアさんが、踵を返した。
「待って、ノアさん…!」
止めるより早く、ノアさんは歩き出していた。
まっすぐ、迷いなく。
「俺が行く。…ジールは、無茶をしすぎる」
「ちょ、ちょっと待って!今のノアさんには」
「時間がない」
言い切って、ノアさんはもう走り出していた。
『ノアー!!待てやこら!!俺もいるってこと忘れんな!!』
ネーロが叫ぶ。
ノアさんが遠ざかるにつれて、声が段々と小さくなる。
ネーロも一緒に連れていかれているそれが、否応なく分かった。
「あっ…!」
最悪の形で、俺の想像が繋がった。
今のネーロは、ノアさんから離れられない。
ノアさんが勝手に動けば、ネーロも勝手に動く。
「…まずいことになった」
俺が呟くと、ステラが目を丸くした。
「え?なにが?」
「ネーロも一緒だ。ノアさんの体内にいるから…」
俺が走り出そうとした、その時。

「ダルクー!」

食堂の方から、明るい声が飛んできた。
振り向くと、ローザとスタラが皿を抱えてこっちへ来るところだった。スタラはというともぐもぐつまみ食いしている。
湯気の残る焼き菓子の匂いが、場違いなくらい優しい。
「クッキーのおすそ分け…って、え? なにその顔」
「ローザ、スタラ、今…大変なことが起きた」
俺が事情を話すと、ローザの表情がすぐ真剣になる。
スタラも耳をぴんと立てた。
「うそ、ネーロとノアが単独行動?」
「うん。ノアさんが一人で…山へ」
ローザが唇を噛む。
「まずいよ。今のネーロ、不完全なんだよ。ロッソにぶつかったら危ない。カンコンソーサイへの対抗手段はネーロしかないから、ネーロが倒れたら…もうこっちの打つ手がない」
背筋が凍った。
ダンの検査だって気が気じゃない。
でも今は、ノアさんとネーロが危ない。
「…俺、行くしかない」
俺はその場で踵を返し、走り出した。
「ノオを呼んでくる!追いかけるぞ!」
「スタラもいくー!」
「火山はアタイが案内する!まずバースト火山のふもとの町、バーストタウンまで!」
「あー、ステラねえちゃんだ!」
「や、スタラ。帰ってきてたんだけど今それどこじゃないんだよね」
  
ステラが声を張る。スタラは持ってたクッキーをステラに渡してた。
 外へ飛び出したところで、俺たちはばったり出くわしてしまう。
「おい、何してやがる」
親父だ。
その隣には、マジカルもいる。しかも、顔が妙に真剣だった。
「げ、親父…!」
「説明しろ。今の慌て方、ろくなことじゃねえな」
俺はかいつまんで事情を話した。
ジールさんの今の現状、そしてノアさんの単独行動によりネーロまで連れていかれたこと。
親父は一瞬だけ目を細め、それから短く言った。
「そうか。ダン君のことは任せろ。お前らはさっさと行け」
「…え」
「迷ってる暇はねえ。守るべき優先順位は分かるだろ」
隣でマジカルが拳を握る。
「ねえ、前のヴェルみたいに、ロッソが精霊石持ってるかもしれないよね?」
「その可能性はあるかもな」
「アタシも行く!魔法の気配ならアタシが感知できるわ!」
「マジカル…!」
「だって、いま精霊の中で動けるのアタシだけだし」
親父が頷く。
「よし。行け」
「ラルドは…」
「船の修理に夢中だ。今は置いていけ。後で声かけておく」
「…まあいっか。ラルドいなくても」
「え、ラルドの扱いひどい!」
ステラがツッコむ間もなく、俺は言った。
「まあいいんだ、ステラ。案内頼む」
「任せて!アタイについてきて!」
こうして俺たちは、フォレストタウンを飛び出した。
次の目的地はまずふもとにあるバーストタウン。
その先に、火山が待っている。
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