プリンセスにはまだなれない





『ごめん。少し遅くなる』

 定時ダッシュを決めてケーキを受け取って帰り何度か時計を見た頃スマホが鳴った。気をつけて来てね、と返信してからカレンダーアプリの今日をタップする。
『義勇くんさんの十八歳の誕生日』
 続けて昨日。
『義勇くん 本命入試』
 お祝いは落ち着いてからにしようかという提案は、当日に会いたいと却下された。それならばと家まで行くつもりが、どうしてもうちに来たいと譲らなかった。

 義勇くんがこの部屋に来るのはべつに初めてじゃない。勉強の気分転換程度で少しお茶を飲むだけのお家デートだけど何度か重ねてきたのはおばさん達も知っている。受験生なのに会ってくれるだけで嬉しかったからなんでもない顔をしていた。けれど。
 ……今日からは、いいかな。想像するくらいならしても、いいかな。

 クローゼットの下着の引き出しの奥から取り出したのは新品のベビードール。シフォン素材の太もも丈でレースの胸元の真ん中のリボンは解けたりしないし、お揃いのショーツのリボンも両脇で結ぶ、可愛いだけでいやらしくないやつ。
 まだ高校生だってわかっていても受験も終えて十八歳になった途端にうちに来たいなんて言われたらどうしたって期待が消えてくれない。

 ……義勇くんて初めてかな、経験あるのかな。唇はどんな感触なんだろう。全身にキスされたらわたしどうなるんだろう。あの大きな手で撫でられたら。でももしかしたらそういうのはすっ飛ばしていきなり……かもしれない。若いし。

 ひらひらで繊細なそれをまとった鏡の中の自分はキュートなお姫様に見えなくもないけれど、わずかな間すら待ちきれずにこんなことを考えている中身じゃちっともそぐわない。それでも。
 蔦子ちゃんになじられてもいい、わたしは義勇くんに最後の最後まで愛してほしかった。




 その時、——ぴんぽん、と鳴った音に鏡の前で飛び上がった。
 宅配便が届く予定はなかったはずだけどな、と首を傾げつつ出たインターフォンから聞こえてきた声に耳を疑う。だってメッセージが届いてからまだ十分も経っていないのに着くわけがない。
 慌てて引っ張り出した一番厚手のニットをかぶってパンツに脚を突っ込み玄関ドアを開けると、遅くなってごめん、と真っ白な息を吐いて義勇くんが立っていた。

「いいいいらっしゃいっ! えっ、は、早かったね。ついさっき遅くなるって……」
「送れてなかったから駅に着いてから再送した」

 じゃあ再送じゃなくて駅に着いたことを教えて欲しかったなと思うけれど、鼻の頭を真っ赤にしながら急いでくれた姿を見たら言えるわけなかった。ニットの下がやけに気まずい。

「……どこか悪いのか。顔が赤い」
「ぜんぜん! 暖房が強すぎるのかな!」

 ごまかしつつ部屋へ戻り――、床に落ちているものにぎゃっと振り返って後ろをついてきていた義勇くんを手を洗っておいでよとコートのまま洗面所へと押し込むまで約五秒。脱ぎ散らかした服と下着をクローゼットに放り投げバクバクしている胸元に手を当てる。かなり心許ない、けどすぐ戻ってくるだろう。ブラをつけ直す時間はない。
 
 ――と思ったのに洗面所の水音はなかなか途切れなかった。ようやく戻ってきたと思えば前髪も襟元もびしょびしょに濡らしている。

「一体なにごと? うわっ、冷たっ、お湯使わなかったのっ?」
「冷やしたんだ」
「こんなに寒いのに? やだ、震えてるっ」
「……悪かった。着替えの途中とは思わなかった」

 タオルで拭こうと髪へ手を伸ばすと、触るな、と目を背けられた。ついさっきのわたしみたいに赤くなった顔に、脱いだものを見られてたのかも、と咄嗟に胸元を両手で隠したその意味を察したのか、背けたままの目が今度はぎゅっと固く閉じていく。

「ちがっ、ごめんっ、でも大丈夫っ、着替えじゃなくて試着だから中にベビー……えっと、キャミというかスリップみたいなやつ着てるからっ」
「説明されてもわからない、向こうで待ってるからちゃんとしたのを着てくれ」
「え、えっ、なんでっ、ちゃんとしたやつだよ、変なのじゃないよっ、新品だし今はまだ寒いけど部屋着にもなるくらい結構かわいくて、」
「やめろ、想像したくない」

 わずかに向けられた視線で頬が炙られたみたいに熱くなった。なにを浮かれていたんだろう。受験を終えたからって年頃の男の子だからって急にそんなこと言われて喜ぶとでも思ったんだろうか。……でも、わたしは。

「……わたしはするよ、見てほしくて買ったんだもん。別に今日ってわけじゃない、でもいつかって想像するよ、義勇くんは違うの?」
「そんなことしに来たわけじゃない」

 たしかに軽率だったかもしれない。でも好きだから触れたい、触れて欲しい気持ちはそんなことなの?
 なにそれ、と呟いたきりネイビーのコートのボタンを見つめているとくるりと背を向けられた。その拍子に届いた冬の匂いがわたしを余計にひとりぼっちにする。

「とにかく、頼む……はやく、なにか着てくれ」
「……そんな風に言わないで」

 分厚いコートの中の背中は広いけどまだどこか薄いのは夏に知った。何かに集中しているときも姿勢が良いままなのは秋に知った。ぎゆうくん、と呼んでも振り返ってくれないこんなよそよそしさは知りたくなかった。

「お願いだからこっちを向いて。……愛してるって言ってくれたじゃん。今日じゃなくていい、でもわたしのこと見て。十八歳になったんでしょう……」
「なった。だから、」

 硬い声でそう答えるとおもむろにバッグから封筒を取り出した。中の用紙を差し出され戸惑いながらも折り畳まれていたそれを広げて思わずあとじさる。
 一度、ネットで可愛いデザインのものを見たことがある。試験の答案用紙よりも簡単な記入ですむのかと不思議に思ったあのカラフルなものとは違う、素っ気ないそのA3サイズの紙。

「もう結婚できる」

『夫になる人』の欄に書かれていた『冨岡 義勇』に何を言えばいいのかまったくわからなかった。嬉しさと、困惑と羞恥と少しのむなしさと腹立たしさと。そんな感情を何周もしてから出てきたのは、結局月並みな言葉。

「ありがとう。でも大学生活はこれからでしょう。いろんな出会いも経験もきっとたくさんできる。今から決めなくていいんだよ。……それにわたしまだ二人で暮らせるくらい稼げるわけじゃないし、それに、」
「そういう話はついてる」

 ここ、と指さされた箇所に目を見張る。証人欄の片側にはおじさんの名前。ただし鉛筆書きの。

「金銭的なことはともかくお前が承諾しないと書かないと最初は言われた。でも今の俺の言葉だけだと信用されないと思ったから」
「そんなことない、けど、でも、そんなの気を使うし、そもそもまだ早いよ」
「俺にとってはようやくだ」

 その声とまなざしの切実さにぐるぐると考えがまとまらない。義勇くんはいつも突然だ。ちょっと待って落ち着いて話そうと言いかけた――時。

「本当は誰ともしたくないんだろう」

 どこも掴まれてるわけじゃない、それでも動けなかった。そんなことないよとも言えなかった。

 
 渦を巻いていた感情が凪いだ時、そこにあったのは怯えだった。……そう、わたし、したくない。

「先のことがわからないのは誰だって同じだ」

 そんなことわかってる。学生でも社会人でも、結婚した後も。でも正論なんて聞きたくないの。めでたしも永遠もないんだとそれ以上教えないで。

 だってわたしはお姫様じゃない。
 暴かれるのが怖くて、嫌われるのが怖くて、分厚いドレスを重ねただけの張りぼて。もしもどこかにめでたしがあるとしても少しも格好良くないわたしには似合わない。自分を変えたのだって義勇くんにその方がいいと言われたから。
 欲しがるばかりでいざ与えられようとすると自分から背を向け、受け取る覚悟もない口先だけのわたしは端役にもなれない。

 なのに背けた顔を両手で挟み込んで初めて会った時と同じ真っ直ぐな青い目が奥まで覗き込んで裸で震えるわたしを見つける。

「永遠は誓ってやれない。でも俺は、今、本気だ」

 ――全部って、最後の最後って、なんだったっけ。わたしが本当に欲しかったものって。この人はとっくに受け入れてくれていたのに。


「……書いておくから、髪、乾かしておいでよ」

 何度も浅い呼吸を繰り返した最後に深呼吸をしてそう伝え、着替えもしてくれという念押しに苦笑しつつドライヤーの音が聞こえてきてからボールペンを手に取った。
 しばらく待っても戻ってこないので覗きに行くと、洗面台に両手をついて目を閉じている姿が鏡に映っていた。俯き気味のその頬のまだ大人でも子供でもない輪郭に、本気だと言った言葉が乗り越えただろう虚勢を見た気がした。
 だって、鉛筆書きをよしとするような人じゃないでしょう。わかるよ。義勇くんほどじゃなくてもわたしだって見てきたんだから、わかるよ。

「義勇くん、書いたよ」

 婚姻届を差し出すと緊張していた顔がさらに強張って、けれどやがて、そう言うだろうと思った、と力なく笑った。わたしの名前と一緒に書かれた日付欄、100年先の数字を見て。

「たしかにわたしも永遠は誓えない。だって昔はなんとも思ってなかった義勇くんのこと毎日好きになる。ずっと一緒にいたいしその延長なら結婚もしたい。でもまだしない」

 無理させてごめんね、は思うだけで言わない。それを呑み込んでの本気に違いなかったから。
 深く息を吐ききった義勇くんはどこかすっきりした顔をしていて、それでも少し視線を落とす。

「待っててくれるのか」
「待たないよ。だってもう幸せだもん」

 感じたことのないほど体の奥から温かく満たされていた。だから、本当だよ、とその紙を棚に置いて手を取り笑う。笑った、はずなのに。

 ――ああ、だめだ。
 そのまま胸元へと引き寄せると、結局着ていないことに気づいたのかぴくりと一瞬動いて固まった手から少しずつ伝わる熱。その内側で痛いくらいに心臓がさわいでいる。こんな自分でいいのだと言ってくれたばかりで、だからこそあとひとつだけと望まないなんてできない。

「待たない。わたし、義勇くんとえっちなことがしたい。その気になれないならなってもらえるようにがんばるから。今日になるのをずっと待ってたんだよ」
「……お前はたかが半年だろう」

 話をするまでと思ってたのになんでこんな。
 恨みがましく続けられたぼやきのような言葉で、青い瞳の奥で揺れているものにようやく気がつく。たしかに年季が違いそう、と笑った頬に移ってきてこわごわと触れ、すぐに優しく包んだ大きな手。

 ランドセルのベルトを握りしめていたあの頃の男の子はもういない。でも形を変えてちゃんとここにあった。誓えない永遠のかわりに永遠を願いたくなる瞬間を重ねていく。そのための努力の向く先は義勇くんだけより自分だけより、きっと素敵だ。

「お誕生日おめでとう」

 唇を寄せながらそういえばまだ言ってなかったなと口にしたお祝いの言葉を合図みたいに、その最初のひとつが柔らかく重なった。




 ◇




 ベッドで義勇くんは、ニットを脱いだわたしを座らせたまま撫でるでもなくずっと眺めていた。直前までの溶けそうなキスの続きを早くしたくて抱きつこうとしても、もう少し見たい、と押し戻され、待てないよと暴れるわたしの腕を掴んで、まだ我慢したい、なんて荒い息で少し笑う。
 そうして薄い布の上をただ視線がなぞるだけで息が乱れて、潤んで昂ってもうどうしようもなくて泣きそうになったころ、ようやく胸元のリボンに指が触れた。

「プレゼントみたいだ」

 そうこぼした震える声と手に我慢できず全力で押し倒したわたしは、やっぱり可愛いお姫様には程遠そうだ。



 
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