これが最後の恋
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すぐにネガティブモードに入るわたしにだって、大概のことでは動じない無敵モードに突入することがある。
徹夜でこなした課題が任意提出だったと知っても学生の本分は勉強だしな! と前向きになれるし、バイト先でお客さんに理不尽に怒られてもなにか嫌なことでもあったんだろうなとアルカイックスマイルで対応できるし、息を呑むほどの美人と義勇さんが二人で立ち話をしていたってやきもちを焼いたりはしない。
10号館の教室を出たところのロビーだった。たまにはいつもの学食じゃない構内のカフェに行こうと約束していて、二限がない義勇さんから『外で待ってる』とメッセージが来て急いで出たところだった。周りの人が振り返るほど綺麗な人だった。
少し距離が近いところはモヤっとするけど、前に似たようなことがあったときは勘違いだった。また同じクラスの人なのかな、と話が終わればすぐに声をかけられるよう近くのベンチに荷物を下ろす、と。
「あれ? アイツらヨリ戻ったんじゃね?」
すぐ近くで聞こえた声に振り返る。男子学生が数名、ベンチの反対側で立ち止まっていた。
「ぽいな。なんで別れたのか謎だったもんなー」
「こうしてるとマジでお似合いなんだよな。くそ、末長く爆発しろ」
「バカ違ぇって! 後ろ! 冨岡の今カノ……!」
揃って振り返った義勇さんの友人らしき人達は、わたしと目が合うなりそそくさと逃げて行った。マジ? やっべ、と慌てる様子も、冗談だからねー、という愛想笑いも本当に気まずそうで、それがわたしの無敵モードの終了だった。
義勇さんの初めての恋人がわたしじゃないことはうすうす知っていた。けれどいざその相手が実在すると突きつけられたことが、友達が見ても恋人に見えるほどの近さに今もいることが、ショックだった。
「……今カノ……」
そして、ガンガンと頭を揺らすその響きを口にすると、嫌な形で胸に突き刺さった。元カノがいて、今カノがいて、いつか“次カノ”ができると、そう言われたみたいだ。わたしが義勇さんと一緒にいられるのはほんのひとときだけだと予言された気がした。
ガラス張りの天井から差し込む陽光に包まれている二人は『マジでお似合い』で。傷つけあって別れていればいいのに、なんて、あの様子じゃありえないのにそんなひどいことを願っていた自分に気付く。
「……やだ……」
呼吸が浅い。心臓が嫌な音を立てる。嫌だ。話したりなんかしないで。その人を見ないで。
「もう、義勇ってば!」
なにを話しているのか、その人が笑いながらじゃれつくように義勇さんの腕を叩こうとした。
やめて、触らないで
まるで心の叫びが通じたかのように、その人は叩くのをやめた。すんでのところで手を止めた時、一瞬気まずそうな顔をして、すぐにごまかすようにふんわりとカールしている自分の髪を撫でた。その遠慮が、あの人にとっての特別枠に義勇さんがいるんだと教えていた。
茫然と立ち尽くすわたしに気づいたのはその人の方が先だった。小首を傾げてわたしを見た視線を追うように、義勇さんが振り返る。
「……イチカ、終わったのか」
「あ、もしかして待ち合わせだった?」
発色の良いアイシャドウに負けない大きな瞳が、わたしの全身をスキャンするように上下した。初対面ならやりがちなそんな仕草も、意外そうなその言い方も、わたしの中の何かを煽った。
「……カフェ、早く行かないと混んじゃうから、もういいですか」
自分から牽制に行くはずがやけに小さな声しか出なかった。そしてただひたすらに感じが悪い。
バッグの紐を握り締めるわたしにその人はぱちくりと瞬き、すぐに女神様みたいに柔らかく微笑んだ。
「うん、もちろんもちろん。私単位ギリギリでちょっと焦ってて、そのことで聞きたいことがあって冨岡くん引き留めちゃってただけなの」
子供みたいなやり方しかできないわたしとは対照的に『冨岡くん』と咄嗟に言い換えたその人は、
「ありがとう。じゃあ」
と、ひらひらと手を振って立ち去った。
義勇さんは返事も頷きもしなかったけど、わたしはその手をきゅっと捕まえて引き寄せた。振り返したり、できないように。
「……たくさん待ちました?」
「いや、五分くらいだ。行くか」
カフェはテラス席まで混んでいたけどギリギリで座れた。ナチュラルインテリアもランチプレートもおしゃれで構内なのにデートに出かけたみたいだ。
だけどあの場に漂っていたあの人の花のような匂いがいつまでも離れなくて気持ち悪い。
「義勇さん、あのね、こないだね……」
食事の間に次々と口から滑り出てくる話題、いつもよりも大きくて高くなる笑い声。空元気だと自分でわかっていた。
その日から何度も言い聞かせた。
昔のことは気にしない。元カノがいることなんてわかってたことじゃない。大丈夫、わたしはちゃんと好かれてる。義勇さんはいい加減な気持ちで付き合ったりしない
その信頼が余計にわたしを苦しめる。
「……義、勇」
寝息を立てる義勇さんをあの人と同じように呼んでみて、寝ぼけながら返ってくるのがわたしの名前なことに安堵して。
それでも抱き締められるたびに、優しくされるたびに、澱が溜まっていく。
あの人にもこうやって触れたの?
あの人とどんな風に付き合ってたの?
どうして別れたの?
どうして別れた人とそんなに仲良く話せるの?
自分でもどうしたいのか、なにをしてもらったら安心するのか、思いつくこと全部を試してもうまく息ができなかった。
◇
クラスの飲み会があるけど行ってもいいかと聞かれたのは、そんな日々が少し続いた頃だった。
図書館に行っていた義勇さんとバイト帰りに待ち合わせてラーメンを食べたから、冷たい夜風がちくちくと頬を刺しても寒くはなくて、コートのポケットの中で繋いでいる手は少し汗ばんでいるくらいだった。
「え、もちろん」
繋いでいた手を「ど、う、ぞ」のリズムで三回握る。今年で卒業だし色々な集まりがあるんだろう。
けれど、どうして聞くんですか、と何気なく尋ねて、
「女子も来るから」
返ってきた答えでその手が強張った。
耳朶がキンと冷たい。鼻の奥にあの花のような匂いがよみがえる。単位のことで相談するのは、少なくとも同じ学科の人なんじゃないだろうか。
「……何人くらい集まるんですか?」
「多分十五、六人くらいだ」
「どこに行くんですか?」
「聞いてないが大学の近くの食べ放題のとこだと思う。大体そこだから」
「……遅くなる?」
「……いや、ならない」
答える義勇さんが少しずつ訝しげになっていくのがわかった。わかったけど、「そっか」とこぼしたきり取り繕えずにいると、義勇さんはすぐにやめると言い出した。
「どうしても行きたいわけじゃない」
「えっ、あ、ごめんなさい、しつこく聞いて! 大丈夫です、楽しんできてください」
「それが大丈夫な顔か」
駅も離れたこの道はもう街灯は少なくて、マフラーに半分埋めた顔は覗き込まれてもほとんど見えないはずだった。けれど二人分の足音しか聞こえない静けさや建物の隙間の暗闇が、隠したはずの不安を浮き彫りにしようと忍び寄ってくる。
立ち止まった義勇さんにつられてわたしも足を止める。ひゅうと吹いた冷たい風がコートの裾を揺らして通り過ぎた。
「言ってくれ」
「……なにを?」
「なんでも。言いたいことがあるんだろう」
「……べつにそんなの、ないですよ……」
離そうとした手が、一瞬早く握り込まれた。力強くて温かい。今顔を見たら押し込めたものが溢れてしまいそうなくらいだ。迷いながら見上げると、こわいくらいに真剣な顔が向けられていた。
それに比べてわたしは逃げていただけだった。思いつくこと全部なんて試してなかった。溜め込んでいるだけできちんと向き合おうとしていなかった。きっと、最初にすべきだったのに。
それでも泣きたいわけじゃない。熱を持った瞼をきちんと持ち上げて、口を開いた。
「あの人も来るんですか」
「……あの人?」
「このあいだ、義勇さんと立ち話してた人……」
「いつだ」
「10号館の前で、……すごく綺麗な人、です」
なかなか思い出せないのか眉をひそめる姿に安心するわたしは意地が悪いだろうか。それともあの時の義勇さんの迂闊さを怒るべきなんだろうか。
「元カノって、人……、単位のこと話してた、って……」
ようやく合点がいったのか、ああ、と溜息のような乾いた声が聞こえた。言わなきゃよかった。それで思いつくということは本当だったんだ。
「来ないと思う。クラスが違うから」
「そう、なんだ……」
「ごめん」
義勇さんが言ったけど、わたしは謝ってほしかったんだろうか。なにか悪いことをしたのかと勘繰ってしまいそうになる。
「それは何に対してですか」
「あいつとはたまたま会っただけで困ってたみたいだから答えただけだ。普段も見かけない。でもお前を傷つけた」
「義勇さんのせいじゃないんです。本当に。わたしの経験値不足って感じで」
あはは、と笑うけどすぐに萎んでしまった。義勇さんの呼んだ「あいつ」がひどく深いところまで突き刺さっていた。じゃあなんて呼べば傷つかないのかは、わからないけど。
「他には」
「……わからないの。知りたいけど知らなきゃよかったってなったらいやなの」
「一ヶ月」
「……え?」
「あの時から一ヶ月くらい経った。ずっと気にしてるんだろう。今聞いてくれ」
「……聞いても嫌にならない?」
「必要ならなんでも答える。お前に隠すようなことはなにもない」
でも嫌な気持ちになるのは否定しないんだなと言葉を継げないわたしの手を引いて、義勇さんは歩き出した。わたしのマンションの方向だった。
こういう話をするのに自宅はなんだか違う気がして、でもそこしかなくて。鍵を開けたきり動けないわたしの代わりに義勇さんはドアを開け、明かりと暖房をつけた。それからのろのろとコートを脱いで床に座ったわたしの前にしゃがむと、腕の中に閉じ込めた。
スウェットの胸元からはほんのりとラーメンのスープといつも安心させてくれる匂いがして。でもそうしてわたしの顔を押し付けるのは、顔を見たくなかったのかなぁと卑屈なことを思った。
「……知ってたんだな」
「うん。……あの時、義勇さんのお友達が噂してたの。……あの人と、付き合ってたんですか?」
「…………ああ」
聞きたくない。知りたくない。
でも気になって仕方がない。
その矛盾した気持ちがわかるみたいに義勇さんは、わたしがもういいと言ったらすぐにやめられるようなそんなスピードで答えてくれた。いつ付き合ってたのか、いつ別れたのか。
わたしと出掛けた場所にその人とも行ったのかと聞いたときだけかなり長いこと迷ってから、
「祭りに」
と小さく言った。
義勇さんが初めてこの部屋に来て、初めて裸で抱き合ったあの日の、思い出の、夏祭りのことだった。
「……誰かと付き合うのは初めてで手探りだったから思いつくところに行った。でも同じところには行ってない」
「あの人が初めて、なの……?」
「……そうだ」
「キス、も?」
「…………ああ」
「……えっちも?」
「っ…………、…………ああ」
そっか。付き合い始めて探り探りで、どうしたら喜んでもらえるのか頑張ったんだ。優しいキスも甘いいじわるも、一緒に気持ち良くなる方法をあの人と覚えてきたんだ。
「好き、だったんですね」
聞かなきゃいいのに、答えなくていいのに、義勇さんに小さく頷かれ、込み上げたものがもう我慢できそうになかった。
胸元を押し返して立ち上がり、逃げるのかと勘違いしたのか引き止めようとしてきた手を振り払った。取りに行ったティッシュ箱から何枚も引き出して目元と鼻を押さえる。悲しいのか悔しいのか寂しいのか、よくわからなくなっていた。
「……っ、……ぅ……」
泣くなんてずるい、卑怯だ。少しも悪くないのに責めているみたいだ。なのに涙が止まらない。
背を向けて時折うめきながら必死に堪えるわたしに義勇さんはもう触れない。聞かれたくないことをほじくって、勝手に傷ついて、こんなめんどくさい奴じゃあきれられても仕方ない。
なんとか嗚咽だけでも止めようと息を吸い込んでいると、
「……好きだったし、ちゃんと好きじゃなくなった」
搾り出すような声が聞こえた。
しゃくりあげながら振り返る。自分の膝を掴んでいる大きな手に、血管がぷくりと浮いていた。
「講義が増えて、実習も本格的になって、バイトも始めて、……向こうもサークルとかで忙しそうで、そのうち連絡も来なくなった」
「……振られちゃったの?」
「わからない。ただ、そうなってもなにも感じなかった。俺も、時間を作ってまで会いたいとは思わなくなってた。気づいたら終わってたんだと思う」
「…………じゃあ、今は暇なんだ」
「……暇?」
「余裕ができたから付き合えてるんだ。わたしと」
ふいに腕を引かれ、足元にあった義勇さんのバッグにつまづいた。
よろけたところをちゃんと支えてくれたけど、そのまま背中に回された腕は力強くて、――ちょっと、思ってたよりも、かなり強くて、ふぐぅと変な声が漏れてしまう。
「……義勇さん、苦しい」
「少しだけ我慢しろ」
そう言って、ほんの少しだけ緩めても離れようとはしないから、仕方なく体から力を抜く。
そうしたら、伝わってきた。背に回されたその手は細かく震えていた。そうか、話すのが嫌なんじゃなくて義勇さんにとっても怖いことなんだ。
「ごめんなさい。今のはさすがにひどいことを言いました」
卒業と就職を控えている人が暇なはずないのに。
だけど、でも、そうしてすぐにでも環境は変わってしまうから。季節は過ぎていくものだから。
「……でも、いつかわたしのこともそう思うかもしれないんだなって、思ったよ……」
「だから今話してる。お前とそうなりたくない」
覗き込んでくるのは、時々見せるどこか必死な顔。その顔を見た瞬間、理解した。
わたしの思う「もしもいつか」は義勇さんにとっては経験なんだ。わたしが抱える漠然とした不安の輪郭に触れられるほど、切実で現実的なものだったんだ。
「そっか、そうだよね……」
義勇さんがまっすぐにわたしを見るのは、わたしがどこを向いているのかを確かめるためなのかもしれない。自分と同じものを見ているのか、すれ違ってはいないか。
この恋を失うことをわたしと同じくらい怖がっている。そう思ったら、張り詰めていたものが少し緩んだ気がした。
「……話してくれてありがとう」
両頬を手のひらで包んでみても、義勇さんの瞳はどこか不安そうに揺れていた。抱き締め直してくる腕はやっぱり強くて、本当に伝わっているのかともどかしそうに指を食い込ませていた。
まるですがるような抱き締め方。青い瞳に映しているのはわたしでも、駆り立てている半分はあの人のせいだ。
――わたしの、恋人なのに。
そう思ったら、ゆるんだ心の奥で作っていた最後の壁までたわんで、ぽろりと本音が溢れてしまった。
「……でも、わたしも義勇さんの初めてが欲しかったな……」
肩に顔をうずめて言うと、義勇さんの背中が大きく膨らんだ。
なんて独占欲。しかも丸出しで恥ずかしい。だけど自分以外にも義勇さんを知っている人がいるのは悔しくて、その人にしか見せない姿があったことが悔しくて。
愛しいからこそ独り占めしたくてきつく抱き締めると、義勇さんは腕の力を少し緩めて言った。
「初めて、告白した」
「……そうなの? わたしに?」
「ああ。すごく緊張した」
「……うん。すごく、してた。……他には?」
「サプライズも、初めてした」
「ふふ、あれは、サプライズじゃなかったかな。他には?」
「他、には……」
繰り返してまた考え込んでもなかなか他には出てこないみたいだ。
でも寂しくはなかった。懸命に捻り出そうとしていることがくすぐったくて。必死になって焦る顔が嬉しくて。
怯えも不安の形もあの人が教えたものだ。けれど、その過去が今につながっていて、義勇さんが今わたしにこんなに必死になってくれるなら、ちょっとだけあの人にありがとうとも思った。義勇さんの重ねてきた時間ごと、好きになりたいと思った。
「もう、大丈夫です。ありがとう」
どこかすっきりとした気持ちで顔を上げると、同時にこちらを見た義勇さんが何かを言いかけた。一瞬、言葉を探すようにわずかな沈黙を落としてから、口が開く。
「最後、なら」
最後という単語に心臓が大きく打つ。けれど、強張ったわたしの頬を大きな手のひらがすぐに包み込んだ。
「最後なら、お前にやる。全部」
「……全部……?」
繰り返した唇を、義勇さんの親指がなぞった。
さっきまで乾燥してかさついていた唇は、今は泣いたせいで濡れていて。
「ああ。全部」
少しだけ緊張したような声音とは裏腹に、青い瞳は少しも揺らいでいなかった。何度も何度もなでる指が、これから触れるのはわたしだけなのだと、そうでありたいと願っているみたいだった。
キスだけじゃない。すれ違いも、ひどい喧嘩も仲直りも。まだしたことのない経験や知らない感情も。これからはずっとわたしと一緒だと、義勇さんが未来を望んでくれている。
それは一度きりの初めてよりも、なんて贅沢なことなんだろう。
「……へへ」
涙目で笑うと、義勇さんの目元がようやくゆるんだ。同時に腕の力も緩んだけれど、わたしは離れずそのまま胸元に顔を埋めていった。
そっと目を閉じれば耳に伝わるものが教えてくれていた。
義勇さんがここにいる。
一緒にいる今が、これからも続いていく。
その証だというように、鼓動が力強く響き続けている。