観測史上最高気温



 冨岡義勇は男である。
 祖父母から雛人形を贈られるほど愛らしい幼年期を過ごそうと社会人になった今も周囲から性欲がなさそうと思われるほどの端正な容姿をしていようと好きな女には触れたいし、降りかかる災難からは守りたいし自分の傍で幸せでいてほしいと考えている、その程度には普通のごく一般的な男である。

 なのでその日――新米体育教師として日々鍛えているにも関わらず駅から彼女の住むワンルームマンションまでの徒歩十分程の距離を歩くだけで息が切れ汗が吹き出す猛暑日――、出迎えてくれた最愛の彼女の裸エプロン姿に冨岡義勇の冨岡義勇が反応したのもある意味致し方ないと言える。

「義勇さん! いらっしゃい!」

 満面の笑みを浮かべ玄関ドアを開けた彼女を見た瞬間、義勇は彼女の肩を抱きかかえるようにして部屋の中へと押し入った。自然に閉じるドアを待ちきれず背後手で閉めながら。
 義勇の名誉のために断言しておくが、飢えた狼のようにぎらついて行為に及ぼうとした訳ではもちろんない。万が一にも廊下を誰かが通りがかり、この愛らしくも扇状的な格好をした彼女を見られたら困るからだ。
 なので今すぐ押し倒したい気持ちをかろうじて堪えてスニーカーを脱いだ。いくらこれからベッドで汗だくになるとしてもさすがに今の自分は汗くさすぎる。

 驚いたように目を丸くした彼女は、
「そんなに急いで逃げ込むぐらい外暑かったですか?」
 と首まで赤くなった義勇の顔に手のひらでぱたぱたと風を送ってくるが、そうじゃない。
 いや、暑いものは暑いがこの体に一瞬で溜まった熱も腰回りが窮屈なのもお前のせいだ。

「……どうしたんだ、それは」

 交際から約一年、何度抱いたかは数えきれないがいまだに昼間は脱ぐのを躊躇い夜も豆電球しかつけさせてくれないほど恥ずかしがり屋の彼女だ。
 今年から社会人の義勇とまだ学生の彼女はこれまでのように頻繁に会えてはいないとはいえその変わり様に驚きはしたものの嫌ではない。むしろ大歓迎だ。自分と同じように待ち望んでいてくれたのかと思うと新鮮な喜びがあった。

「この間買ったんです! 一人暮らしも二年目だしもう少しお料理頑張りたいなって思って。どうですか?」

 義勇の聞きたいことの本質とはややずれた返答だが、どうですかと聞かれれば脳内を占めているのはひとつだ。非常にそそる。義勇は汗を拭うふりをして首元を隠しながら喉をごくりと鳴らした。
 今すぐ抱きたい。彼女もそのつもりでなければこんな格好で出迎えないだろう。前から弄りたい。無防備な後ろから手を差し込みたい。その姿でキッチンに立つ姿を離れて見ているのもいい。
 コンマ三秒ほどの間に様々に思いを巡らせた義勇は、けれど見せびらかすようにくるりとその場で回転してみせた彼女を見てようやく己の勘違いに気がついた。着ていた。この暑さでかなりの薄着だがエプロンの内側にはキャミソールを着、ショートパンツを履いていた。肩紐からなにからエプロンに隠れて見えていなかっただけだ。無意識の欲望が先走りすぎた。
 けれどそうとわかってはいても前から見れば裸エプロン以外の何者でもない。だが、彼女は自分がいかに肉感的な格好をしているかにはまったく気づいていないようだった。ややV字の胸元から肩に伸びた紐にはフリル、細腰を強調するように一周し前で結ばれた大きなリボン、そこから広がるスカート部分は花柄でどこかの清楚な令嬢にも見える。よほど心が浮き立つ一枚を選んだんだろう、体を揺らしては翻る裾をきらきらとした目で眺めている。

 であればこそ正直に言うのは憚られた。
 理由はつい先日の出来事にある。


 二人で大型ショッピングモールへ出かける予定だった。会うのは半月以上ぶりだった。楽しみにしていた。けれど待ち合わせたターミナル駅改札内の喫茶店から彼女を見つけた瞬間、義勇は立ち上がり今日と同じように強引に彼女の腕を引きホームへのエスカレーターを目指していた。

「帰るぞ」
「え、え、待って……、どうかしたんですか?」
「そんな格好で出歩かせられない」

 引いている腕が重くなった。なかば小走りでついてきていた彼女が歩みを止めようとしていた。

「この服、そんなに似合ってなかったですか」

 そういう服装が流行っているらしいということは生活指導で街を見回ることもあるからなんとなく知っていたが、似合う似合わないはファッションに疎い義勇にはわからない。だがそういう問題ではなかった。洗濯に失敗したのかと思うほど短い丈のTシャツは胸元に張り付き、その下には隠すつもりのない白い腹と視線を集めるようなへそが晒されている。内側に着てほんのり透けているのは下着ではないのだろうが肩や肩甲骨を這う細い紐はそうと錯覚させた。

「男がどんな目で見るかわからないのか」
「……あんまり好きじゃない……とか?」
「肌を出しすぎだと言ってる」
「え、でもちょっとだしみんな着てて可愛なって思って。足長く見えませんか?」
「みんな? 俺は着たことない」
「たしかにあんまり見かけませんけどお洒落な男の人も着るみたいですよ。義勇さんも一度着てみたらいいです。お腹引き締まっててかっこいいしおへそ可愛いし」
「いつ見たんだ」
「え? ……いつ、って……」

 どこか不服気だった視線が揺れた。顔を逸らした拍子に見えた耳がほんの少し赤くなっていた。彼女とは海にもプールにも出掛けていない。上半身を彼女の前で晒したのはセックスの時だけだ。

「普段見えないところが見えると男はそういう想像をする。その腹の上、下。軽い気持ちで見せるものじゃない」
「……そんな大袈裟な……」
「大袈裟じゃない。そんなに肌を出して胸を強調してたら誘惑されてると勘違いする奴もいる。とにかくその服では出掛けられない。今日は帰るぞ」

 とはいえ再び休日の混み合う電車に乗せるのは躊躇われた。タクシーにしようと思い直しホームではなく改札へと足を向ける。

 けれど一度手を離した義勇が先に改札を出た瞬間、
「義勇さんのばかっ!」
 大きな声だけが追いかけてきた。
 彼女は改札の内側でバッグを胸元に抱え、真っ赤な顔で義勇を睨んでいた。

「そんなの義勇さんがえっちな目で見てるからですっ!」

 周囲からの視線が彼女に集まったのはそんな言葉を口走ったためか立ち止まって改札の流れを邪魔しているせいかどちらだろう。出てくればいいのに突き飛ばされるようによろけながらも改札口の端へと移動しただけで再び義勇を見据えた。

「可愛いって思って欲しかっただけだもん! なのに誘惑って……っ! そんな言い方しなくてもいいじゃないですか! ……帰るっ!」
「おいっ」

 踵を返し雑踏の中へと戻っていく彼女を追いかけたくてもあいにく改札は出口専用だ。なんとか彼女の使う路線のホームまでたどり着いた時には電車はもう駅を出た後だった。
 たしかに言い方はまずかったのかもしれない。好きな服を着ればいいし付き合っているからと言って口を出すべきじゃない。そもそも不埒な輩がいたとして彼女のほうが服装に気をつけるべきだと考えた俺がおかしい。男がおしなべてそうとも言い切れない。けれどあの日駅で彼女に視線を送る男がいたのも事実で、もし自分が傍にいない時に何かあったらと想像すると心配で仕方がないのだと、それだけはわかってほしいと後でなんとか説明すれば頷いてくれたものの、その時のしょげた肩はいまだ忘れてはいない。


「……可愛いと思う。すごく似合ってる」

 なので『えっちな目』を封印してそう伝えるとどこか安堵したように、
「良かったぁ」
 とくしゃりと笑った彼女にあの日からわだかまっていたものが溶けた気がした。
 とりあえず麦茶飲みますか、と開けた廊下兼キッチンに置かれている冷蔵庫にはエプロンと同じ柄の鍋つかみがかかっている。そんなにも気に入っているものなのか、こちらこそおかしなことを口走らず良かった。事実そそるのは誰よりも好きで可愛いからこそなのだからそれをまず伝えるべきなのだと義勇はようやく思い至った。

 ――とその時、インターフォンが鳴った。
 小さなモニターには宅配業者らしき制服の男が映り、応答した彼女に『宅配便です』と告げている。
 次の瞬間、義勇は青ざめた。まさかそのまま出るつもりでは。前から見れば裸エプロンだ。これは駄目だろう。そもそも女の一人暮らしで不用意に出るべきではない。本当に宅配業者かどうかすら怪しい。
 けれどそんな義勇をよそに彼女は「玄関前に置き配でお願いします」と告げて共同玄関のオートロックの鍵を開けた。やがてドアの外に置かれた気配がし、時間を置いてから運び入れる。届いたのはおそらく彼女の実家からの荷物だ。

「ちゃんとやってるんだな」

 胸を撫で下ろした義勇に彼女は、防犯もあるんですけど、と言いながら戻ってくると、
「可愛い格好は義勇さんだけに見てほしいから」
 とはにかんだ。

 そして自分の恋人が嬉しさに胸を締め付けられつつも下腹に再び欲望を集めているのを知ってか知らずかベッドに浅く腰掛けている義勇の正面に少し距離を置いて立つ。

「……義勇さんはもしかしたらそんなこと思ってないかもしれないけど」
「なんだ」
「さっきこれ着た時、ちょっとあれだなって思ったんです」
「……なんだ」
「ちょっと、えっちだなぁ……って」

 ごくりと音が鳴るのを今度は隠し切れなかった。
 エプロンの裾を緊張したように握りしめている小さな拳やその腕でほんの少し寄せられて出来た胸の谷間、すらりと伸びている太ももの白さから目が離せない。
 少しも見逃そうとしない義勇の視線の先、結ばれていた赤い唇が、だから、と解かれる。

「……誘惑、されてくれますか?」
 

 冨岡義勇は男である。
 やがてその生活指導ぶりにPTAから苦情が出るほど先回りした心配が度を越しがちなスパルタ体育教師となる、不器用で口下手でときに察しの悪いそんな男である。
 けれど今、彼女を引き寄せた腕にはその期待を正確に理解し最大限以上に応えるという目的しかなかった。

 数時間後、彼女の息が絶え絶えだったこともベッドが二人分の汗で湿っていたこともエアコンが必死に温度を下げようとしていたことも、この日この地域で過去最高気温を更新したこととはおそらく関係ない。







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