春の弥生のこの佳き日
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桃の節句というのは主に女の子のイベントだと思っていたけど地域によって違うんだろうか。
大学卒業を間近にしてなにかと忙しそうな義勇さんの家に遊びに来た時、和室に飾られているひな壇を目にしてふとそんな疑問が湧いた。
「なかなかすごいでしょう。うちのおばあちゃんが贈ってくれたものなの」
そう声をかけてくれたのは洗面所で水音を立てている義勇さんではなく、お姉さんの蔦子さんだ。出掛けるところなのか慌ただしく後ろを駆け抜けてそのまま洗面所へと駆け込んでいく。
義勇ちょっと避けて、押すな溢れる、ごめん夕飯いらないから、わかった。
漏れてくる姉弟の会話を聞きながらひな壇へと視線を戻す。
なかなかどころかものすごく豪華だ。金屏風から艶やかなお道具まで揃った七段飾りはわたしの背丈ほどもある。――けどそれはともかく。
「……あの、どうして二つあるんですか?」
広い部屋とはいえ壁際を埋め尽くす様は圧巻で、でも義勇さんは蔦子さんと二人姉弟のはずだ。
首を傾げると、また蔦子さんの声がする。
「産まれた頃の義勇があんまり可愛かったんですって。両親は男の子だってちゃんと言ったらしいんだけどね。小さく産まれたから心配だったのかもしれないわね。五月まで待てない、どうか健やかに育ちますように、って」
そう笑って、行ってきますと出掛けていく蔦子さんをあっけに取られながら見送った。だとしても男の子にこんな豪華なものを贈ったり受け取ったり、心配性なのか大胆なのかよくわからないご家族だ。
「おかしいか、男に雛人形は」
だけど、桃の花の生けられた花瓶を抱えて戻ってきた義勇さんの顔を見た瞬間、なんとなく納得してしまった。色白の肌に涼しげな目元、きゅっと結ばれた赤い唇。衣装を着ればお内裏様と見紛うほど整った面立ちはどんなに可愛い赤ちゃんだったのか想像にかたくない。
畳にこぼさないようそっと花瓶を置いた義勇さんは、わたしの隣に立つとスッと三人官女の右の子を指差した。
「お前と似てる」
「できればお雛様に似てるって言ってほしかったです」
わたしにはあまり見分けはつかない。つかないからこそお内裏様の隣に並びたかった。彼女なのに、とこっそり頬を膨らませていると、片手が伸びてきてぷしゅうとつぶされる。そうされるとおちょぼ口になるのは自覚があるから「ほらその顔」としみじみと言われても反論できないのが悔しいところだ。
「驚きはしましたけどおかしくはないです。節句って元々は男女の区別はなかったって聞いたことありますし。でも毎年二つ飾るのはすごいですよね」
「飾らないと行き遅れるんだろう」
「あ……、そういう迷信とか気にするタイプなんですね」
意外です、と言うと、すまん、と苦笑が返ってくる。
「姉さんが昨日電話で話してた。『無事にお嫁に行けるのもおばあちゃんとお雛様のおかげだ』、と」
それは多分、時期的なこととおばあさんへの気遣いも含まれていたんだろう。蔦子さんは結婚を控えていてこの春にお式と引っ越しが決まっていた。だから、結婚式を模したひな人形を贈ってくれたこと、健康で過ごせた感謝、そういうものを伝えていたんだって。
「だが、飾るのも今年が多分最後だ」
続けたその言葉はきっと、人生に何度か訪れるらしい節目のひとつだ。それでも『最後』という言葉はちくりと胸を刺す。義勇さんも卒業後には教師になることが決まっていて、実家を出てここから少し離れた場所で一人暮らしを始めることになっていたから。
もちろんそれは喜ばしいことだ。それでも変化の多いこの季節はいつも薄いベールのような心細さをはらんでいて、遠くに行く人に手が届かないような焦りがわたしを簡単に包んでしまう。
「どうした」
覗き込まれ、そんな感傷を振り払うように首を横に振る。べつに会えないわけでも別れるわけでもあるまいしと明るい声を出す。
「いいんですか、もう飾らなくて? しまっちゃったら義勇さんはお嫁にいけなくなっちゃうかもしれませんよ?」
今しがたの義勇さんの言葉を借りておどけて笑うと、二、三度瞬いた青い目がふっと緩んた。
「お前はもらってくれないのか」
もらうって、おひなさまを?
――言う前に、軽く触れた手がそのまま握られた。途端に温かいものが胸に灯る。冗談に返された冗談は、けれどひっそりと未来を約束してくれている気がして。
返事の代わりに唇を強く擦り合わせる。血色のよくなるだろうそれが、おめかしをしたお雛様くらい可愛く見えていてくれたらと思いながら。
そして上を向き瞼をゆっくりと閉じる。唇が重なる寸前、甘く柔らかな春の風に包まれた気がした。