ガーリックサラダとキス


 

 昔からネガティブになると思い込みが激しくなる自覚がある。
 誰かの些細な言葉が気になって深読みしたり、仲間うちで笑い合っている人たちと偶然目が合うだけでもしかしてわたしのことを話しているんじゃないかって緊張したり。
 もちろん頭では99パーセント自意識過剰だってわかっているのに勝手にダメージを受けるのはたぶん自分に自信がないせいだ。

 リンゴにキウイにヨーグルト。真空パックのノルウェーサーモンとアボカドとレタス、それに卵。
 人にふるまえるような料理は作れないけれど、一人暮らし用の小さな冷蔵庫には今夜二人で食べるための食材が入っている。あとでオムライスにするごはんも炊けているし缶詰だけどデミグラスソースも温めた。
 だけどおととい言われた『作らなくていい』の意味をいくら考えても1パーセントのような気がして、ポタージュにするために手元でつぶしているかぼちゃが少しだけかわいそうだった。
 
 
 ◇
 

 義勇さんがなんだかそっけないなと最初に思ったのはひと月ほど前、大学の長い夏休みが開けてすぐの頃だった。
 構内で友達と立ち話をしているのを見かけて手を振ると、どこか慌てた様子で話をやめてしまった。あまりにもあからさまだったから邪魔をしてしまったんだろうとわかったしぎこちなく手を振り返されただけだったからそのまま通り過ぎたけれど、離れていくのを確かめるような視線も一緒にいた人たちが浮かべていたかすかな笑いも居心地悪かった。
 
 それからすぐ後のことだ。
 休講で中途半端にあいてしまった時間にふと、義勇さんがとっている一般教科の講義を覗いてみようと思いついた。半分くらい埋まっている階段状の大きな教室に入ると、窓際の後ろの席で女の子と顔を寄せ合っている姿を見つけた。
 自分が付き合っているはずなのに彼女かなと思うほどの距離で二人でひとつのスマホをのぞきこんでいた。しばらくして顔をあげた義勇さんは、最近時々わたしに見せる緊張した様子とは違うやわらいだ表情をしていた。
 
 なにより会う時間がぐっとなくなっていた。
 実家暮らしの義勇さんとわたしのマンションは同じ駅にある。大学に通うときは一緒のことが多いしお昼も時間があえば一緒に食べる。
 だけどそのあとはなんだかんだと避けられていてデートのようなことはほとんどしていなかったし、いろいろな講義や実習があって忙しいことは知っていたけれど、メッセージもなかなか既読にならない。

 それが何週間も続けば、はじめて男の人と付き合うわたしにだって予想がついた。
 振られちゃうのかもしれないって。

 
 ◇

 
「義勇さん、あさって予定ありますか?」
 
 そう切り出してみたのはおととい、待ち合わせた学食で義勇さんが定食の唐揚げを口に入れた時だ。
 
「わたし、あさって誕生日なんです」
 
 そのタイミングで話しかけたのは、答えに詰まられるのがこわかったから。だけど口にしてから本当はなにが言いたかったのか急にわからなくなった。誕生日だから一緒にいたいわけじゃない。
 食べるのとしゃべるのが一緒にできない義勇さんは案の定、少し待ってくれとでも言いたげに一度片手をあげ、唇にほんの少しだけマヨネーズをつけたまま口を動かしはじめた。その間にわたしもレモンをきゅっとつぶす。
 唐揚げにレモンじゃなくてマヨネーズをつける食べ方を義勇さんに教えてもらったけど胃がもたれてしまってそれきりだ。代わりにじゃないけれど、冷やし中華にマヨネーズを入れるとおいしいですよと伝えると、半信半疑で試した義勇さんは二度とやらないとこぼしていた。たれと分離するのが気持ちわるいらしい。
 この夏のわたしたちの違いなんかその程度だったのに、今はなんて返ってくるのかぜんぜんわからなかった。あると言われてもないと言われても泣きそうな気がした。だけど答えはどちらでもなかった。
 
「なにか欲しいものがあるのか」
「ちがいますっ!」
 
 思わずあげた声は一番混む時間帯の学食でも異質に響いて近くの学生が何人かちらりと振り返る。義勇さんは、ごめん、と言ってくれたけど頷けなかった。箸を持つわたしの手が震えている理由なんかわかってないくせに謝ってほしくない。
 だけど本当はどうなんだろう。どこも違くなんかない。欲しいもの。ねだってもらうものじゃないとわかっていても。
 
「予定がないなら大学終わったらうちに来ませんか」
「…………お前の家?」
「はい。最近来てくれないからたまにはのんびりしたいなって。嫌ならいいです」
「そんなこと言ってない。……行く。少し遅くなるかもしれないが」
 
 望みはかなったはずなのに言葉のひとつひとつがどこか痛い。わかりました、と言った後はなにも言えずひたすら箸を動かし続けた。
 
 わたし、なにかしましたか。
 それともなにかし忘れてますか。
 
 たぶん本当に言いたかったのはそれだった。

 
 ようやく口を開いたのは学食を出た時で、じゃあ、と短く告げるあっけなさに思わず義勇さんのバッグを掴んでいた。
 
「……今日、一緒に帰れますか」
「ごめん、今日は、ちょっと」
「用事なら終わるまで待ってます」
「いや、……ちょっと出かけるところがある」
「一緒に行っちゃだめなところですか?」
「……ちょっと」
 
 ああ、またあの気まずそうな緊張したような顔。そう言ったきり結ばれてしまう唇に仕方なしに手を離す。
 『ちょっと』の中身は教えてはくれないんだな。
 
「あさって、本当に来てくれますか……」
 
 もう顔を見れず俯いたわたしはどんな表情をしていたんだろう。義勇さんは首を傾けて覗きこんでくるとわたしの頭をぽんぽんと軽くたたいた。
 
「当たり前だろう。うちで待ってろ」
 
 子どもに言い聞かせるようなそれがなんだか今はやけに安心できて、こわばっていた心がようやく少しほどけていった。
 あさってちゃんと話してみよう。きっとわたしの思い過ごしだ。
 
「じゃあ晩ご飯たくさん準備して待ってますね」
「いや、作らなくていい」
 
 けれど別れ際の一言に今度は返事すらできなかった。本当に来るだけでご飯を食べたりましてや泊まったりもするつもりないんだ。誕生日って言ったのに。
 一度も振り返ってくれない背中を見送りながら、少し遅くなると言っていた義勇さんは確かあさっては二限までだったなと思い出していた。


 ◇
 

 バターを溶かした鍋につぶしたカボチャを入れて牛乳と混ぜてからデザートにする果物の皮をむき、ついでにアボカドをさいの目に切りレタスをちぎる。
 本当は、サラダはずっと食べてみたかった駅前のデリのちょっとお高いのを買おうと思ったけどよく見たらローストガーリックがたっぷり入っていたからやめた。もしかしてキスできるかもしれないと、まだ思っていたから。

『三ヶ月くらいで別れることが多いんだよね、付き合う前はわからなかったことが見えてきちゃって』
 
 そう言っていたのは高校の部活の先輩だ。溜息をついて校庭に向けていた横顔は一歳しか違わないのにずいぶんと大人に見えたっけ。
 
 夏休みの少し前に付き合い始めたから三ヶ月と少し。
 だけどわたしは今日も義勇さんのことが好きで好きでたまらない。好きですと伝えた時より何度か抱き合った夜より、ほんの少しだけ会いに来てくれるのを待つこの瞬間のほうが。
 付き合ってはじめて見えてきたのは義勇さんのこともそうだけど自分のこともおんなじだった。こんなに上手くできないなんて知らなかった。
 やっぱりなんでもないです、って言えばよかったのかもしれない。優しい人だから、あんな言い方をしたら断るはずがないのに。我慢していれば自分だけ落ち込めばすんだのに。
 だけどもし我慢していたら、上手くは言えなかったけど言わなかったら、きっとわたしはもう誰の前でも笑えなくなってた。


 五時を少し過ぎた頃、インターホンが鳴った。
 待ちきれずに卵を溶いていた菜箸を放り投げて飛びつくように覗いたモニターに映っていた義勇さんの姿に、――ぽかりと口が開いていく。
 
『開けてくれ、手がふさがってて』
 
 玄関ドアを開けて待っていると三階まで階段を上ってきたその腕には大きな紙袋がぶら下がっていて両手は荷物を慎重に抱えている。
 
 お邪魔します、と上がると玄関兼廊下兼キッチンを見て、
「作らなくていいと言ったのに」
 と持ってきたものをテーブルに置き中身を次々と取り出した。
 
「え、え、これ……、もしかして義勇さんが作ったんですか?」
「全部じゃない、買ったのもある。俺がやるから座ってろ。コンロ借りるぞ」
「はい……、あっ、コンロ全部使ってるんです!」
 
 腕まくりをしてキッチンに立つ義勇さんの隣で呆然としていた頭がようやく動き始める。
 やっぱり99パーセントのほうだったのかもしれないって。

 
「すごい量……、食べきれるかな」
 
 わたしが作ったフルーツヨーグルトとサーモンとアボカドのサラダとかぼちゃポタージュ、溶いてしまった卵はオムライスからオムレツになるはずが失敗してスクランブルエッグになって、それに義勇さんが持ってきたシーフードパエリアとミネストローネと買ってきたというサラダをのせると、小さなローテーブルはもういっぱいだった。
 
「ケーキはあとで出すか。丸いやつを買った」
「ええっ、あれ、ホールなんですか!」
「一度はまるごと抱えて食べたいと前に言ってたから」
 
 そう言いながら音を立てて栓を抜いたボトルを見て慌ててコップを手でふさぐ。
 
「わたしお酒は、」
「わかってる」
 
 いつも飲んでいる麦茶の代わりに注がれていく液体はワインかと思いきやよく見ればお洒落なラベルのジュースだ。手元でしゅわしゅわと立つ泡が小さく弾けるたびに甘すぎないフルーティな濃い香りがした。
 
「こんなジュースがあるんですね。本物のワインみたい」
「本物は来年だな」
 
 呟かれたその言葉に胸の奥からせりあがってきたものを飲み込んでいると、誕生日おめでとう、と近づいてきたコップが合わさり軽く音を立てた。

 
 あらかた食べ終えた後、義勇さんはおもむろにバッグを引き寄せると淡いブルーの紙袋を取り出した。中に入っていたリボンがついた小さな箱を、これ、とテーブルの上に置く。
 
「……開けてみてもいいですか」
 
 箱の中のリボンと同じ色のケースには小さな石のついた華奢なシルバーのネックレス。取り出して手のひらにのせると、俺が、と手を伸ばして受け取り背後へとまわっていった。
 邪魔にならないよう髪をかき分けたまま俯いているとうなじのあたりで短い爪と留め具が格闘する小さな音が何度も聞こえる。
 ようやくつけ終えて前に戻ってくると、似合うとも可愛いとも言わない代わりに小さく息をはき目を細めて、それがあんまり優しかったからついに涙声になってしまう。
 
「どうしよう。急に言ったのにこんなに色々してもらえるなんて思わなかった」
「……急?」
「だって誕生日教えたのおとといだから。……もしかしておととい用事があるって言ってたのって、これを買いにいってくれたんですか?」
「確かにおとといジュースは買いに行ったがお前の誕生日を知らないわけないだろう。他は先月から準備してた。プレゼントも飯も。……あ」
「え?」
 
 あ、なんて言わなければ聞き流しただろうに、ぎこちなく視線まで逸らすから意味を考えもしかしてと気づいてしまう。
 ……先月から? ネックレスはともかく……めし?
 深読みかもしれない、だけど。
 
「……どこか、連れてってくれるつもりでした……?」
 
 なんでもない、とケーキを取りに立とうとするのを引き留めしつこく聞き続けて出てきたのは、夏にオープンして話題になっているレストランの名前。いつか行ってみたいですねと話した記憶はある。でも一ヶ月くらい前から予約を受け付けていてすぐに埋まってしまうのだと聞いたことが……。
 
「先月から……、予約して……キャンセルしたんですか? おとといわたしが家で過ごしたいって言ったから……?」
「別に構わない。行きたければいつでも行ける、クリスマスでもなんでも。それとも来年の誕生日にするか。お前みたいにうまくは作れない」
 
 たしかに、フライパンごと持ってきてくれたパエリアの底は結構焦げていてミネストローネのにんじんはかたかった。レシピを見ながら作ったと言ってた。あんまり慣れてないんだ。だからきっと今日の午後はずっと頑張っていてくれて。
 再び腰をあげようとした義勇さんに、いい、と首を横に振りながら、堪えきれなくて涙がこぼれた。
 
「いい。クリスマスも誕生日もうちでいい。プレゼントもこれがあるからいい」
 
 少しだけ緊張したような顔で視線がわたしの胸元に落とされる。鎖骨の真ん中におさまるネックレスの石は誕生石ではなく、この部屋のカーテンや財布と同じわたしの好きな色。あとこれも、ともうひとつくれたレースのハンカチにはわたしのイニシャルと大好きな猫柄の刺繍。
 駅前のお店のあのサラダを買ってきてくれたこともシーフードが好きなのを知っていてくれたことも、当たり前のように『来年』と言ってくれることも全部。
 
「ぜんぶ嬉しいの本当に。せっかく色々してくれたのにわがまま言ってごめんなさい。でも本当になんにもいらない」
 
 わたしのことを見ていてくれたんだなってわかるものばっかり。考えてくれたものばっかり。
 想われてるって充分すぎるくらいわかった。
 でも好きな人のことがわからないのはつらいから、わたしがそうだから、わかってほしい、わたしのこと。
 
「なんにもいらないからたくさん一緒にいたい。プレゼントを用意してくれる時間、一緒にいたいの。わたしが一番欲しいのは義勇さんなんです」
 
 やっぱり上手くできてないことはわかるのにぽろぽろとこぼれる涙の理由は自分でもよくわからない。たぶんひとつじゃないんだろう。
 確かなのは、自分で思っていたよりもずっとわたしはこの人の傍にいたいということ。

 
 手で拭うだけでは足りなくてもらったばかりのハンカチを目元に押し当てると、単発のバイト増やしてたんだ、と聞こえてきた。
 
「……なにが欲しいかとか、どうすればお前が喜ぶかとかわからなくて、でもなにをするにもあれば困らないだろうと思って。なにがいいのか彼女がいる奴に聞いたり、店も詳しくなくて手間取ってたらクラスの女子が手伝ってくれて。でも独り善がりだった」
 
 ごめん、と付け加えられて首を横に振る。こんなにしてくれたのに謝ることなんかない。
 
「ずっとわたしのこと避けてたのは、わたしに直接聞きづらかったから、ですか」
「避けてたつもりはない。ただ、……女子はサプライズが好きだと聞いてたから」
「…………さ、ぷらいず…………?」
 
 義勇さんに気を遣わせるようなところがわたしにあったのかもしれないと不安になって聞いて返ってきたその単語はあまりにも予想外すぎて。気まずそうに下がっていく眉を見ながらそれがここ一ヶ月のそっけなさとつながった瞬間、思いっきり吹き出していた。
 
「あれはなんかちがう……っ」
 
 一度笑い始めたら止まらなかった。三ヶ月経ってはじめて知った。義勇さんはサプライズが下手だ。目を丸くしているのを見たら余計におかしくてまたハンカチに顔を埋めてひとしきり肩を震わせる。
 新品のハンカチはほとんどなにも吸ってくれない。そのせいで頬を伝っていく涙の理由は今はひとつだけ。
 
「……よかった。わたし、嫌われちゃったのかなってずっと思ってて」
 
 腰を浮かせた気配に顔を上げると、義勇さんはケーキの入っている冷蔵庫には向かわずわたしのほうへ膝立ちで近づいてきて、
「なるわけない」
 と腕の中に閉じ込めた。
 
 それはどうかわからないことくらいはわかってる。それでも背中に手をまわすとさらに強く抱き締めてくる腕とか、顔を埋めている胸元からただようコンソメの匂いとか、全部全部愛しくて、不器用で一生懸命なこの人をもっと知りたいと思った。
 きっとお互いに知らないことがたくさんあるんだろう。上手くできなくても仕方がない。だってまだたったの三ヶ月だ。

 
「……ケーキはあとでもいいか」
「いいですよ。……おなか、いっぱいですか?」
 
 そうじゃないとわかったうえで見上げた頬に手のひらが触れた。
 親指でくすぐるように撫でてから近づいてくる唇を瞼を閉じずに待ち受け、——ふっと跳ね返ってきた自分の息で唐突にそれを思い出して首をのけぞらせる。
 
「やっぱりまって! にんにくっ、いまサラダのにんにく食べちゃったからっ!」
 
 すんでのところで口元を隠した手を義勇さんはちらりと見て、それから、
「そんなのすぐに気にならなくなる」
 と強引に引き剥がした。
 

 ……はじめて知ったことにもうひとつ追加。
 
 どこまでも甘く湿った声で、好きだ、なんて囁いてそのままデザートはお前だみたいな小っ恥ずかしい展開に持っていくのが、義勇さんは意外と上手い。
 
 
 
 
 
 
 
 
1/1ページ