チョコバナナと猫

 ◇
 
 
「こんな賑やかなお祭り、初めて」
 
 買ったばかりのチョコバナナを手に戻ったところで腕をぐいと引き寄せられた。直後に真後ろを会話に夢中でこちらに気づいていない男子中学生グループが通り過ぎる。そのまま道路の端まで連れていかれてから、ありがとうございます、とたこ焼きを片手にしている冨岡さんに告げた。
 
「地元に祭りはなかったのか」
「ありましたけど小さい神社の盆踊りって感じのやつで出店もこんなにたくさんなかったし、それに去年は受験勉強してて行かなかったから」
 
 久しぶりのお祭りはわたしが知っているものとはまるで違っていた。今日だけ歩行者天国になった大通りを右に左に行き交う人々を眺めながらカラフルなつぶつぶのついたチョコバナナの先っぽをくわえる。およそチョコレートとは言いがたいこの味がお祭りって感じで食べちゃうんだよね。
 
「ここに住むって決めた時は、歩いていける距離でこんなに大きなお祭りをやるなんて知らなかったからラッキーです。普段は普通に住みやすい町だし」
「確かに不便だったことはないな」
「はい。……それに、冨岡さんの家も近いし」
 
 駅前からずっと続いている出店にはたこ焼きの屋台はいくつもあったけれど毎年この交差点に出る店のが一番美味しいのだそうだ。さすが地元の学生は詳しい。
 その熱々のたこ焼きをいまだに一つも食べずずっとふーふーとしていた冨岡さんは、わたしの言葉にほんの少し唇を突き出したまま目線だけこちらへ向けた。へへ、と笑いながらも『そうだな』って言ってくれないかななんて期待するけれど、案の定続きはなかった。
 
 冨岡さんは夏休み直前にできた人生初の恋人だ。たくさん遊ぶぞと意気込んでいたのに実際はわたしが実家に帰っていたりバイトだったり、冨岡さんも合宿や講義でなかなか予定が合わず思っていたより会えていない。
 それでも夏休みはまだ半月以上もあるし夏休みが終わっても大学で会える。その頃にはきっともう少しは距離も縮まって恋人らしい甘い雰囲気になっているはずだ、……と、いいんだけど。
 ちらちらと見つめているとなにか勘違いをされたのか「食べるか」と割り箸で摘んだばかりのたこ焼きを差し出され、少しやけになって一口で頬張る。
 
「……熱くないのか」
ひょっくに、ひゃめてまふとっくに、冷めてます
 
 猫舌にも程があるなと思った途端に慌ててそっぽを向きはふはふと口を大きく開ける。おすすめのたこ焼きはタコが大きくてとろとろで多分おいしい。だけど予想以上に熱くて頬の内側が火傷しそうだった。

 
 ◇

 
 駅前から神社まで2キロ弱、道の両脇にずらりと並ぶ出店をのぞいたりそこかしこに設置されているステージでイベントを見たり。
 神社や近くの広い駐車場で行われている舞や梯子乗りを見てから同じ道を戻ろうとしたけれど、夜になって増えた人出は想像以上だった。途中で道が一度細くなるせいかぎゅうぎゅう詰めで思うように進めない。
 冨岡さんの腕にしがみつきながら時折強引に割り込もうとする人にぶつかられるのに耐えていると、
「見なくていいなら裏から行くか」
 少し大きな声で言われた言葉に激しく頷いた。
 
 一本それた裏道も、今夜が稼ぎ時だとばかりに外で食べ物を売る飲食店やわたし達と同じように混雑を避けた人が多くてやっぱり賑やかだ。それでもペットボトルの水を飲んでようやく人心地がつく。
 
「どうする。どこか行くか。うちに寄るか」
「えっと……」
 
 スマホを取り出して確認すれば、そんなに遅くはないけれど今から付き合いたての恋人の実家にお邪魔するには少し気がひける時間だ。もともと晩ご飯は屋台ですませる予定だったし今日はどこへ行っても混雑してるだろう。
 
「今日は早めに帰ります。帰ってくるのを待ってると思うので」
 
 駅の反対側にある一人暮らしの狭いマンションには同居人がいる。正確には同居ニャンだ。
 入学した頃からマンションの階段下で見かける子猫の存在を知ってはいたけれど、怪我をしたのか猫風邪か目をぐしゃぐしゃにしてうずくまっているのに気づいてこの間保護した子だ。飼い主を見つけるまでの間ならということで大家さんには許可をもらっていた。バイト帰りに一度家に帰ってご飯もあげてはきたけれど、一番遊びたい盛りの子猫だろうからなるべく一緒にいてあげたいしあまりひとりにしたくない。なにより待ち受け画面にしていたのんきな寝顔を見たらわたしが会いたくなってしまった。
 

 送る、と言って歩き出した冨岡さんに並んで少しずつ大通りからななめにそれていく。人通りが減るにつれ歩きやすくはなったけれど腕にしがみつく理由もなくなってしまった。
 自分が帰ると言ったのにひっきりなしに聞こえていた祭り囃子や迷子のアナウンスが遠ざかるにつれて寂しくなってきてしまって、Tシャツから伸びる腕に指先で触れるとすぐにぎゅっと手を握ってくれた。
 
 ねだるとしてくれるけど冨岡さんから触れられたことは一度もなかった。
 最初のキスも二回目のキスもそうだった。いつもわたしから。
 他のことはいつだって優しいけど、それが大事にされているからなのかただ親切なだけなのか、わたしにはわからなかった。
 早く帰りたい気持ちともう少しこうしていたい気持ちの狭間で結局なにもできないまま児童公園の前を通りかかった時、ふと冨岡さんが歩みを止めた。
 
「……猫」
「えっ、どこですか?」
 
 指さすほうをよく見れば、公園の奥のベンチの傍にサビ柄の猫が街灯に照らされて座っていた。冨岡さんに断りを入れゆっくり近づくわたしを見定めるように目を開き耳をピンと立てる。
 それでも隠れずにいるのだから人に慣れているんだろう。丸い顔に丸いお腹。片耳の先がカットされて桜の花びらのようになっている。たぶん地域猫だ。ちゃんと面倒を見てもらっているからなのか特別警戒する様子もない。
 
「こんばんは。今日は賑やかだからびっくりしたでしょう」
 
 それどころかベンチに座るとすぐに近づいてきては撫でてとでもいいたげに目の前で体をくねらせた。伸ばした手に自分から何度も体を擦り寄せてくる人懐っこさは実家にいる猫に少し似てるなと頬が緩んだ。
 
「綺麗だね。もしなにか困ったらうちにおいでね。うち、踏切の向こうのスーパーの裏の公園の角の大きい百日紅の家の隣だから。307号室ね」
 
 自分で言いながら笑ってしまった。さすがにこの子のテリトリーの外だろう。
 同じことを思ったのか黄色く光る丸い目を細めてふすーっと鼻を鳴らされ、だよねぇと額を撫でていると、
 
「うちはその角をまっすぐ行った青い車が停まっている家だ。何かあったら来るといい。俺がいなければ姉を頼れ」
 
 そう隣に座った冨岡さんに思わず目を瞬いた。やけに遠回りしながらこっちに来るからてっきり怖いのかと思っていたのに少し前のめりになって真剣に話しかけている。
 
「……冨岡さんて動物嫌いじゃありませんでしたっけ」
 
 今うちで猫を保護していると伝えた時も道でポメラニアンとすれ違った時も、冨岡さんは顔が固まっていた。
 だからこんなに家が近いのに一度も遊びに来てもらったことはなかったのだ。
 
「嫌いなわけじゃない。苦手なだけだ」
 
 平坦な声でそう言って人差し指を一本ゆっくりと猫に近づけていく。猫は鼻を小さく動かして匂いを嗅いでからその手にごつんと額をぶつけるように擦り寄った。
 
「ずいぶん慣れてますね」
「まだこれくらいしか触れない」
 
 返ってきた言葉にまた目をぱちくりとする。猫に、じゃなくて、猫が、という意味だったのに。
 
「でも触れるんですね。もう少し撫でてみませんか」
「逃げないか」
「大丈夫だと思います、撫でられるの好きみたいだから。……いいかな?」
 
 最後を猫に向けて言いながらあごのあたりを撫でると顔が上を向いてきた。目を細めて耳も横に倒れていく。
 冨岡さんはわたしがするのをしばらく観察してから真似するように撫で始める。あごの下を掻くようにすると力が強いのか少し頭ががくがくと揺れているけど、任せるように脱力しているから楽しいのかもしれない。
 
「怖いですか」
 
 緊張している横顔に聞くと小さく頷かれて苦笑した。残念は残念だけど何事も人それぞれだから仕方がない。
 
「でも気持ちよさそう……」
 
 ……いいな。
 どんな撫でられ心地なんだろう。冨岡さんの手は熱くて大きくて、でも急に動いたりしないから安心するだろうな。
 気持ちよさそうにする場所を探りながら動かしている指先を見ていると、それがふと止まった。どうしたのかと視線を上げると見開かれた目がわたしを見ていて、なんだろうと首を傾げた後で、いいな、を口に出していたことに気がつき一気に顔があつくなった。
 
「な……っ、……ん、でも、ないです……」
 
 冨岡さんはそれにも何も言わずにもう少し撫でてから、ありがとう、とゆっくりと丁寧な口調で猫に伝えて立ち上がった。

 
 公園の出入口近くの水道で手を洗うころにはさすがに心も落ち着いてきた。
 それでも多少の恥ずかしさからベンチの方を振り返ると、猫はほとんど同じ場所で全身を丁寧に舐め始めていた。
 
「あれは触られたのが嫌だったのか」
「いえ、ただの毛づくろいです。撫でられて乱れちゃったから」
「それは嫌だったのとは違うのか」
「違いますよ、うちの猫も同じことやります。好きな人の匂いと自分の匂いを混ぜて安心したいんです。……まぁ、あの子は知らないわたし達に撫でられたから落ち着かないんでしょうけど、でも見るからに気持ちよさそうだったじゃないですか」
「……そうなのか」
「はい。……あの、もしかしてわたしが猫好きだから慣れようとしてくれたんじゃないですか? 怖いのにありがとうございます」
 
 お礼を言うと猫に向けられていた目がゆっくりとこちらを向いた。
 またも何も言わずにじっと見つめられ、わたしのためだなんて少し図々しかったかなと居心地悪く感じていると、
「怖いのは猫じゃない」
 と返ってきたので逸らした視線を元に戻す。
 
「慣れていないから、怖がらせてしまうかもしれないのが怖い」
「でも触らせてくれましたね。冨岡さんが優しいのがわかるんですよ。……うちにいる子も冨岡さんみたいな人にもらわれるといいなぁ」
 
 そっか、そういう人だったんだ。
 きっと動物はこういう人が好きだろう。驚かせないように必要以上に遠回りして近づいてくるような優しい人が。
 
 
 ……今日、家に上がってもいいか。
 いつか苦手じゃなくなってくれればなぁなんて考えながら手を拭いていると、ぽそりとやけに掠れた声が耳に届いた。
 それはあまりに小さかったけど気のせいかとは思わなかった。その言い方とは正反対の真っ直ぐな目がわたしを見ていたから。
 
「はい、もちろん! うちの子もかなり人懐っこいから怖がらないと思いますよ」
 
 冨岡さんは猫に、猫は人間に慣れるチャンスだ。それから初めて遊びに来てくれること、なによりもまだ一緒にいられることに声が弾んでしまう。
 お留守番もしてくれているし今日はあのご褒美用の液状スティックおやつをあげよう、とここに来るまでとは大違いの軽い足取りで帰ろうとすると、ぐいと腕を掴んで引き留められた。ゆるく首を振りながらたった今見たものよりもこわいほどに真剣な表情に急に心臓がどくんと大きく打ちはじめる。
 
「猫もそうだが、お前は」
「……え……?」
「怖くないか。俺が、……こう、しても」
 
 掴まれたまま、一歩、距離が縮まった。
 冨岡さんの吐息で前髪が揺れた。すぐ目の前で喉仏が大きく上下して、緊張したみたいに唾を飲み込んでいる。Tシャツ一枚を隔てた向こうの汗ばんだ肌の熱さの理由が、真夏の夜のせいじゃない気がして。家に上がるって、もしかして……そういう。
 何も言えずに固まっていると、ごめん急すぎた、とその手が離れ、立ち尽くしたままのわたしを置いて公園の出入り口へとひとり歩き出した。道路に出たところで振り返り、困ったように眉が下がっていく。
 
「……送るだけだから」
「うちっ、ワンルームなんですっ」
 
 それを見た瞬間、言葉をかぶせるように叫んでいた。今しがたの距離と猫を撫でていた不器用な手つきを思い出しながら。それと『怖がらせてしまうかもしれないのが怖い』を。
 
「わたしはわからないんですけど家に来た友達はみんなちょっと猫くさいって言います。猫は匂わないから多分猫のトイレのなんですけど。それに毎日掃除はしてるけどどうしても猫の毛が取りきれないんです。床とかテーブルとかベッ……、ド、とかも。それにケージとかないから部屋の中を自由にしてます」
 
 そっか、そうだ、そういう人だったんだ。これ以上ないほど大事にしてくれていたんだ。わたしももっと素直に伝えてみればよかったんだ。撫でてと擦り寄ってきたあの子みたいに。
 
「それでも来てくれますか」
 
 怖い、のかもしれない。初めてだからわからない。それでも触れてほしい。ずっとそう思っていた。今度は遠回りなんかせずに真っ直ぐに戻ってきて頭のてっぺんをくしゃくしゃと撫でるその手に。
 
「それは緊張するな」
 
 ……ああ、やっぱり気持ちがいい。でもあの子みたいな可愛い顔はとてもできそうになかった。そのまま手を引かれて歩き出しながらすでに泣きそうなんだから。

 
 ◇

 
 その夜、冨岡さんの手は思っていたよりもずっと熱いことを知った。
 
 一晩中触れられて、……いや。ほとんどじっとして繋いだまま過ごしたのだからそれはもう充分過ぎるほどに。
 
 ──そう。
 
 結局わたし達は、わたし達が期待していたようには過ごすことができなかった。
 ずっと床をうろうろとしたりローテーブルの上や枕元で見ていた子猫が、ついにというところでとんでもないボリュームで鳴きはじめたからだ。

「大丈夫、大丈夫よ! いじめられてないから! いい子ね、おいで」

 翌朝、冨岡さん――ううん、義勇さんは、寝癖のすごい髪もそのままに、全然眠れなかった、とぼやいた。

 それが二人と一匹で寝るには狭すぎたベッドのせいか、行き場のない昂りのせいか、引っ掻かれたお尻が痛んだせいなのかは教えてくれなかったけど。







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